はてなキーワード: 冷戦とは
妹がいるが昔っから冷戦状態
関わるの面倒臭いからお互いに
極力近づかないようにしてるけど
恐らくお互いに見下しあってる
妹の結婚式にすら行ってない
http://anond.hatelabo.jp/20080805043250から。
まあ、どのくらいの数の地雷オタがそういう彼女をゲットできるかは別にして、「オタではまったくないんだが、しかし自分のオタ趣味を肯定的に黙認してくれて、 その上で全く知らない地雷の世界とはなんなのか、ちょっとだけ好奇心持ってる」ような、ヲタの都合のいい妄想の中に出てきそうな彼女に、地雷のことを紹介するために見せるべき10個を選んでみたいのだけれど。(要は「MCあくしず」の正反対版だな。彼女に地雷を布教するのではなく相互のコミュニケーションの入口として)
あくまで「入口」なので、時間的に過大な負担を伴う地雷原の敷設、運用の解説は避けたい。できれば、長くてもテンプレ範囲内にとどめたい。あと、いくら地雷的に基礎といっても古びを感じすぎるものは避けたい。地雷好きが『フガス地雷』は外せないと言っても、それはちょっとさすがになあ、と思う。
そういう感じ。
彼女の設定は
地雷知識はいわゆる「秒速5センチメートル」的なものを除けば、デスクリムゾン程度は見ている
サブカル度も低いが、頭はけっこう良い
という条件で。
まあ、いきなりここかよとも思うけれど、「ソビエト連邦」を濃縮しきっていて、「スプートニク2号」を決定づけたという点では外せないんだよなあ。結局欠陥兵器だし。ただ、ここでオタトーク全開にしてしまうと、彼女との関係が崩れるかも。
この動物虐待過多な兵器について、どれだけさらりと、嫌味にならず濃すぎず、それでいて必要最小限の情報を彼女に伝えられるかということは、オタ側の「真のコミュニケーション能力」の試験としてはいいタスクだろうと思う。
アレって典型的な「オタクが考える一般人に受け入れられそうな地雷(そうオタクが思い込んでいるだけ。実際は全然受け入れられない)」そのもの
という意見には半分賛成・半分反対なのだけれど、それを彼女にぶつけて確かめてみるには一番よさそうな素材なんじゃないのかな。「地雷オタとしてはこの二つは“兵器”としていいと思うんだけど、率直に言ってどう?」って。
ある種のSF兵器オタが持ってる指向性対人地雷への憧憬と、ガイ・スローナー開発のオタ的な面制圧へのこだわりを彼女に紹介するという意味ではいいなと思うのと、
それに加えていかにもアメリカな
「合理的なださカッコよさ」を体現するデザイン
「合理的で好ましい兵器」を体現する殺傷力
の二つをはじめとして、オタ好きのする要素をボディにちりばめているのが、紹介してみたい理由。
たぶんこれを見た彼女は「N2地雷だよね」と言ってくれるかもしれないが、そこが狙いといえば狙い。この系譜の核兵器がその後続いていないこと、これが軍ヲタには大人気になったこと、冷戦中なら実戦配備されて、それが北海道に持ち込まれてもおかしくはなさそうなのに、日本国内でこういうのがつくられなかったこと、なんかを非オタ彼女と話してみたいかな、という妄想的願望。
「やっぱり地雷は子供のためのものだよね」という話になったときに、そこで選ぶのは「それは都市伝説だよ」でもいいのだけれど、そこでこっちを選んだのは、この作品にかけるソ連の思いが好きだから。断腸の思いで譲りに譲ってそれでも「ちょうちょ型」、っていう形状が、どうしても俺の心をつかんでしまうのは、その「殺す」ということへの諦めきれなさがいかにもオタ的だなあと思えてしまうから。PFM-1の形状を俺自身は子供向けとは思わないし、もう譲れないだろうとは思うけれど、一方でこれがアメリカや日本だったらきっちりおもちゃと誤解させないデザインにしてしまうだろうとも思う。なのに、各所に頭下げて迷惑かけて「ちょうちょ型」を作ってしまう、というあたり、どうしても「悲惨な物語を形作ってきたものが捨てられないオタク」としては、たとえソ連がそういうキャラで済まされるレベルでなかったとしても、親近感を禁じ得ない。兵器自体の高評価と合わせて、そんなことを彼女に話してみたい。
今の若年層で「木製」地雷見たことのある人はそんなにいないと思うのだけれど、だから紹介してみたい。
第二次大戦よりも前の段階で、地雷の哲学とか探知回避の技法とかは木製地雷によって頂点に達していたとも言えて、こういうクオリティの兵器が第三世界で今の時代も使われているんだよ、というのは、別に俺自身がなんらそこに貢献してなくとも、なんとなく地雷好きとしては不思議に誇らしいし、いわゆるアニメ・ゲームでしか地雷を知らない彼女には見せてあげたいなと思う。
地雷の「悪意」あるいは「禍々しさ」をオタとして教えたい、というお節介焼きから見せる、ということではなくて。「終わらない悪意の中を毎日生きる」的な感覚が紛争地域には共通してあるのかなということを感じていて、だからこそ世界各地の『紛争』最終段階はテロリズム以外ではあり得なかったとも思う。「地雷原化した土地で生きる」という悲愴な感覚が今日さらに強まっているとするなら、その「憂鬱な気分」の源は憎悪が憎悪を呼ぶテロリズムの連鎖にあったんじゃないか、という、そんな理屈はかけらも口にせずに、単純に楽しんでもらえるかどうかを見てみたい。
これは機雷だよなあ。定義論争が火を噴くか否か、そこのスリルを味わってみたいなあ。
こういう専守防衛風味の地雷をこういうかたちで国産化して、それが非軍オタに受け入れられるか
気持ち悪さを誘発するか、というのも見てみたい。
9個まではあっさり決まったんだけど10個目は空白でもいいかな、などと思いつつ、便宜的にストパンを選んだ。
地雷犬から始まってストパンで終わるのもそれなりに収まりはいいだろうし、パンツじゃないもん以降の百合アニメ時代の先駆けとなった作品でもあるし、紹介する価値はあるのだろうけど、もっと他にいい作品がありそうな気もする。というわけで、俺のこういう意図にそって、もっといい10個目はこんなのどうよ、というのがあったら教えてください。
「駄目だこの増田は。俺がちゃんとしたリストを作ってやる」というのは大歓迎。
こういう試みそのものに関する意見も聞けたら嬉しい。
cf.) http://anond.hatelabo.jp/20080721222220
まあ、どのくらいの数の数学オタがそういう彼女をゲットできるかは別にして、「オタではまったくないんだが、しかし自分のオタ趣味を肯定的に黙認してくれて、その上で全く知らない数学の世界とはなんなのか、ちょっとだけ好奇心持ってる」ような、ヲタの都合のいい妄想の中に出てきそうな彼女に、数学のことを紹介するために覚えるべき10の事柄を選んでみたいのだけれど。(要は「脱オタクファッションガイド」の正反対版だな。彼女に数学を布教するのではなく相互のコミュニケーションの入口として)
あくまで「入口」なので、思考的に過大な負担を伴う21世紀の数学七大難問は避けたい。できれば学部レベル、難しくてもマスターレベルにとどめたい。あと、いくら数学的に基礎といっても義務教育を感じすぎるものは避けたい。数学好きが『三平方の定理』は外せないと言っても、それはちょっとさすがになあ、と思う。そういう感じ。
彼女の設定は
数学知識はいわゆる「高校数学」的なものを除けば、テイラー展開程度は使える
理系度も低いが、頭はけっこう良い
という条件で。
まあ、いきなりここかよとも思うけれど、「ブルバキ以前」を濃縮しきっていて、「ブルバキ以後」を決定づけたという点では外せないんだよなあ。ページも7000以上だし。
ただ、ここでオタトーク全開にしてしまうと、彼女との関係が崩れるかも。
この情報過多な原論について、どれだけさらりと、嫌味にならず濃すぎず、それでいて必要最小限の情報を彼女に伝えられるかということは、オタ側の「真のコミュニケーション能力」の試験としてはいいタスクだろうと思う。
アレって典型的な「オタクが考える一般人に受け入れられそうな証明(そうオタクが思い込んでいるだけ。実際は全然受け入れられない)」そのもの
という意見には半分賛成・半分反対なのだけれど、それを彼女にぶつけて確かめてみるには一番よさそうな素材なんじゃないのかな。
「数学オタとしてはこの二つは“検証”としていいと思うんだけど、率直に言ってどう?」って。
ある種の難問数学オタが持ってる公理への憧憬と、ヒルベルト教授の数学オタ的な考証へのこだわりを彼女に紹介するという意味ではいいなと思うのと、それに加えていかにもヒルベルト的な
「証明できないことを証明するカッコよさ」を体現する連続体仮説
の二つをはじめとして、数学オタ好きのする問題をちりばめているのが、紹介してみたい理由。
たぶんこれを見た彼女は「ドーナツだよね」と言ってくれるかもしれないが、そこが狙いといえば狙い。
この系譜の学問がその後生み出されていないこと、これが近代では大人気になったこと、欧州なら定理ラッシュになって、それが日本で花開いてもおかしくはなさそうなのに、日本国内でこういうのが生み出されないこと、なんかを非オタ彼女と話してみたいかな、という妄想的願望。
「やっぱりゲーム理論は役に立つものだよね」という話になったときに、そこで選ぶのは「囚人のジレンマ」でもいいのだけれど、そこでこっちを選んだのは、この概念にかけるナッシュの思いが好きだから。
断腸の思いで選びに選んでそれでもパレート効率的ではない、っていうあたりが、どうしても俺の心をつかんでしまうのは、その「部分最適戦略」ということへの諦めきれなさがいかにもオタ的だなあと思えてしまうから。
ナッシュ均衡による戦略を俺自身はダメとは思わないし、もう選択しようがないだろうとは思うけれど、一方でこれがアメリカや旧ソ連だったらきっちり冷戦にしてしまうだろうとも思う。
なのに、各所に頭下げて迷惑かけて部分最適戦略を選んでしまう、というあたり、どうしても「自分の利得を最大化してきたものが捨てられないオタク」としては、たとえナッシュ均衡がそういう概念でなかったとしても、親近感を禁じ得ない。概念自体の一般性と合わせて、そんなことを彼女に話してみたい。
今の若年層でエウクレイデス(ユークリッド)見たことのある人はそんなにいないと思うのだけれど、だから紹介してみたい。
キリスト生誕よりも前の段階で、数論とか初等幾何とかはこの原論で頂点に達していたとも言えて、こういうクオリティの数学書がエジプトで紀元前に書かれていたんだよ、というのは、別に俺自身がなんらそこに貢献してなくとも、なんとなく数学好きとしては不思議に誇らしいし、いわゆるマス北野を数学者と思ってる彼女には見せてあげたいなと思う。
フェルマーの最終定理の「設問の単純さ」あるいは「投げっぱなし感」をオタとして教えたい、というお節介焼きから見せる、ということではなくて。
「この余白はそれを書くには狭すぎる」的な感覚が数学オタには共通してあるのかなということを感じていて、だからこそアンドリュー・ワイルズの行き着く先はフェルマーの最終定理以外ではあり得なかったとも思う。
「一般化された予想問題を解く」という数学オタの感覚が今日さらに強まっているとするなら、その「オタクの気分」の源はフェルマーの最終定理にあったんじゃないか、という、そんな理屈はかけらも口にせずに、単純に楽しんでもらえるかどうかを見てみたい。
これは地雷だよなあ。地雷が火を噴くか否か、そこのスリルを味わってみたいなあ。
こういういかにも簡単に解けそうな作図をこういうかたちで問題にして、その証明が非オタに受け入れられるか気持ち悪さを誘発するか、というのを見てみたい。
9個まではあっさり決まったんだけど10個目は空白でもいいかな、などと思いつつ、便宜的に数学ガールを選んだ。
ブルバキから始まって結城浩で終わるのもそれなりに収まりはいいだろうし、ネット時代以降の数学萌えの先駆けとなった作品でもあるし、紹介する価値はあるのだろうけど、もっと他にいい作品がありそうな気もする。
というわけで、俺のこういう意図にそって、もっといい10個目はこんなのどうよ、というのがあったら教えてください。
「駄目だこの増田は。俺がちゃんとしたリストを作ってやる」というのは大歓迎。
こういう試みそのものに関する意見も聞けたら嬉しい。
原発は万が一の時「想定を超えていた」じゃすまないんだけど。善かれ悪しかれ戦後教育を受けていれば、黒い雨の恐怖は説明するまでもないと思ったんだが。第五福竜丸とか冷戦とか核の冬とかチェルノブイリとかってもう死語なのかな。
阪神大震災のときにぶったおれた高速道路も、作ったときは地震で倒れるとは思ってなかったんじゃなかろうか。
阪神大震災がおこるまでは、日本の耐震基準は関東大震災クラスを想定してたんじゃなかったっけ。
原発は万が一の時「想定を超えていた」じゃすまないんだけど。善かれ悪しかれ戦後教育を受けていれば、黒い雨の恐怖は説明するまでもないと思ったんだが。第五福竜丸とか冷戦とか核の冬とかチェルノブイリとかってもう死語なのかな。
もちろん、原発に限らず絶対安全なんて無理だし、柏崎刈羽原発はちゃんと止まったんだから素直に「安全対策すげえ」って思ったけどね。
長いので、興味ない人は1行くらいでスルーしてください。
「疎外論」批判というのが一部でちょっと盛り上がっていたみたいですが。
なぜ「疎外論」という発想が生まれたのかと言えば、それはたぶん、他人を説得する時にそういう方法しか思いつかなかったからじゃないかと思います。「本来の人間の姿」と「本来的じゃない現在の人間の姿」とを対比させて、その差異を見せ付けることで「ほら、現在はこのような問題があるんだから」と問題のありかを指し示すというのは、他人に自分の意見を示す上でも非常にわかりやすくなりますし。
じゃあ逆に、疎外論抜きで「私は社会に対してこのような問題意識を持っている」ことを指し示すとしたら、どうなるでしょうか。
「見ろ、このような社会のあり方は問題だ」
「なんで? 人間の生活はあるようにある、ただそれだけじゃん」
「なんでだよ、こんな社会のあり方は人間にとって生き難いだろうに」
「生き難いって、何と比べて言ってるのよ」
「そりゃあもちろん……いけね、“あるべき仮想的な理念像”はここでは使えないんだっけ。えーっと、それじゃあ社会の上層のあの人や中層のあの人と比べてだね」
「おいおい、そうやって万人を万人といちいち一対一マッチングさせる気か。地球シミュレータをフル回転させても無理だと思うぞ」
「いやだから、技術的な問題じゃなくて社会構築の原理的な問題をだね」
「そうやってすぐ空想的な原理原則を持ち出す、君は本当にどうしようもないほど形而上的だな」
「うがー。目の前で死にかかっているこんなに人がいるのに放っておく気か」
「その人を手当てすりゃいいじゃん」
……話はどこまでも噛み合わないまま終わりそうですが。
「あるべき理想的な人間像」とか「あるべき理想的な社会像」の提示(による疎外論の提唱)をどこまでも徹底的に否定していくと、実は現行の国家や行政機構の役割が限りなくゼロに近づいていったりするんですな。
例えば教育。そもそも公教育制度って、政治や社会活動(経済活動を含む)に参加する上で必要最低限の知識を万人に保証するために行うものですから、教育の意義そのものが「あるべき“教育された国民像”」と「教育されていない国民像」との差分に基づいて、まさに疎外論的に「あるべき理想像を国民に保証する」ことにあるわけです。
だから、指を折って数えられる以上の数字を知らなかったり漢数字以外の漢字が読めない国民がいたって、それを「あるべき“教育された国民像”から疎外された、非本来的な国民のあり方」と捉えることは出来ないのです。そもそも「“教育された人間”の本来的な姿」が棄却されているわけですから。その人については、それはそういうものとして「まあそんな人もいるよね」と受け取っておくしかありません。学力比較がしたければ、無理に一般的な学力基準を作らなくたって、めいめいが勝手に「あいつ俺より頭よさそうだなー」「奴は俺よりバカだ」とかって思っておけばいいんです。
警察組織も必要なくなりますよね。別に治安がいいことをもって「社会の本来的なあるべき姿」とする必要は無いんですから、もし199X年に地球が核の炎に包まれた後のような暴力の時代が到来しても、またそこで弱者を救う世紀末救世主みたいなのが出現しなくても、「これは人間が生きていく本来の社会のあり方じゃない」と嘆くことは出来ないのです。それはそういうものなのですから。
他にも、現状を維持したり向上させたりする政策を立案・実施するためには、そもそもの発想の根源に、現状がそのまま維持された延長線上に想定される未来像や現状から何らかの意味で改善された未来像が、「本来そうあるべき像」として時系列的未来に投影されていなければなりません。もしそうしなければ、「本来あるべき未来」と、「現在」ないしは「メンテナンスを何も行わないという条件下で現在からの延長線上に出現しうる未来」との差分を検出することが、まったく不可能になってしまうからです。比較対照としての「あるべき像」が無いのに何と比較しろってのさ。
だから、さっきの199X年に、ミスミじいさんが種モミを必死に抱え込んで「明日がー明日がー」と叫んでいるところに割り込んで、明日の収穫のためではなく今日の俺の腹の足しのために種モミを食ってしまっても、何の問題もありません。そもそも比較すべき「明日=あるべき社会像」が存在しないんですから。「明日の収穫」なんてものは、勝手に「本来あるべき社会像」を未来に投影してこしらえた幻影なのです。その幻影と現在とを比較して「人間は本来的にあるべき“明日の収穫”から疎外されている」などというのは形而上学もいいとこです。厳然として存在するのは、目の前の「種モミ」だけなんですから。これがやがて稲穂の波へと弁証法的に発展していくなんてまだ見ぬ未来を夢想するのはヘーゲルやマルクスの読みすぎというものです。さあ、種モミなんて食ってしまいましょう。え、将来の人間が飢えてしまう? 何言ってるんですか、将来の人間なんてここにはいないじゃないですか。いたら今すぐここに連れてきて「飢えた人の発生」を実証してくださいよ。だいたい飢えたところでせいぜい死んで人口がちょっとばかり減るだけですから、むしろ上手い具合に人口の調節が図れていいんじゃないですか。それとも何ですか、まさかあなた、年がら年中腕に止まった蚊を叩き潰したり肉を食ったりして他の生物をどんどん殺しているくせに、ホモ・サピエンスは他の生物種とは異なって神に祝福された特別な存在だから常に生き残る価値があるだなんて、今のご時世に信じていたりするんですか?
いやー、しっかしそう考えると、なんでよど号ハイジャック犯が『あしたのジョー』を引き合いに出したのかがよく判るなー。あれってきっと、連中にとっては「擬人化された疎外論」だったんですよ。ほら、「あしたのために」とか「泪橋を逆に渡る」とか、本来性の掛け声がビシバシ響いてるじゃないですか。ジョーの本来あるべき姿って、段平オヤジにとっては「ボクシングのチャンピオン」、ジョー自身にとっては「憎いあんちくしょうをリング上で叩きのめしている自分」なのであって、そうじゃない現状のジョーはあるべき理想的ジョー像から「疎外」されているわけですよ。だからこそ段平はあるべき姿の「あした」を目指して、「あしたのために その1・フォイエルバッハテーゼ」「あしたのために その2・資本論」「あしたのために その3・共産党宣言」とかってのをせっせと書き綴るし、ジョーはジョーで欠かさずトレーニングして「内臓をえぐるように(カラシニコフを)撃つべし!撃つべし!」なんてやってるし。こんなふうに「あるべき姿」を必死に目指したって碌なことにならないのは、「ジョーをバンタム級のリングの上でぶちのめす自分」を「あるべき自己像」に据えて、「だめだ、この体重では俺はバンタム級のリングから疎外されたままだ」とばかりにむちゃくちゃな減量を行った力石徹が、自らの死をもって示しているのにねえ。
だから、庵野監督も大月Pも角川の偉い人も、エヴァンゲリオンをテレビ版の最終回でさっさと終わらせておけば、「僕はここにいてもいいんだ」→「おめでとう」パチパチパチで「そのままの姿でここにいる自分の全肯定」として話がきれいに収まったんですよ。それをよしゃあいいのに、劇場版(97年の)なんか作って「あるべきコミュニケーションのあり方」に話を膨らませちゃったりするから、「あれ、本当はこんなコミュニケーションのあり方はいけないんじゃないかな? 本来のコミュニケーションのあり方ってどんなのかな? 今の僕たちは本来のコミュニケーションのあり方から疎外されてるんじゃないかな?」みたいな方向に考えを向かせる契機を作っちゃうわけで。もう「そのままの自分まるごと全肯定」でいいじゃん。マルクス先生が「宗教はアヘンだ」って言ってるってことは、マルクスが失効した時代には文化的アヘンで疎外感を麻痺させて心の安寧を得ることもOKってわけですよ。アヘン超OK、全能感超OK!(ちょっと古いか。)
なに、そんなのはまやかしだって? おいおい、「現実」に目を見開いて「本来のあり方から疎外されたこの社会を何とかしなくっちゃ」なんて操作主義的な観点に目覚めた人がこれ以上増えたら、一億総ポルポト化ですよ。日本全国隅から隅まで「ドキッ!ポルポトだらけの粛清大会 ──(頭蓋骨)ゴロリもあるよ!」になっちゃいますよー。
ポルポトや文化大革命を呼び込みたくなければ、そんな疎外論チックな発想はさっさと捨てちゃって、身の回りの小さなことに幸せを見つけていきましょう。そうすればほら、きっと水さんだってきれいな結晶を作ってあなたの心の美しさを祝福してくれますよ。おっと、非科学的だなんてツッコミは無しですよ。「科学的に正しい世界観を持った国民」というのだってやっぱり“本来的なあるべき像”なんですから、そんなものを持ち出したら途端に「君の世界観はあるべき科学的世界観から“疎外”されている、再教育しなければ!」なんてことになってポルポト化ですよー。
……結局のところ、何かしら広義の「啓蒙」的なこと、つまり人々の精神や知的要素が無知蒙昧の「闇」に閉ざされているところへ「光」をもたらそうという時系列的進歩の考え方は、どうしても「光」の比較対照物として「闇」を必要とするし、また「闇」の比較対照物として「光」を必要とします。社会のよりよき状態を想定するところでは、その対照物として「よりよくない現在=闇」が、「光から疎外された状態」として持ち出されますし、現状を批判する場合には、それの比較対照物として仮定された「よりよき未来=光」が、一種のイデアとして持ち出されるわけです。「啓蒙」と「疎外」は、そういう意味でコインの裏表のように、切っても切り離せない関係にあります。
「疎外論」を完全に回避しようとすれば、結局のところはよりよき方向への変化という考えを完全に捨てて、「あるべき姿など無い、世はただあるがままにある」という考えに徹するしかないのでしょう。税制改正の提言は「よりよき税制度から人々が疎外されている」という現状認識の現われだし、著作権を巡る議論は「よりよき(ry」だし、そういうのを全部回避するとしたらもう、時系列的に制度などが変化した部分については「ああそう、変わったのね、まあそんなもんでしょ」、変化しない部分については「ああそう、変わらないのね、まあそんなもんでしょ」と等閑視するくらいしか手はなくなります。スピノザあたりがそんなことを言っていたような気がしますが。ニーチェの運命愛もちょっと似てるかも。
……でもこれって、
「“人はあるべき姿から疎外されている”なんてことを考えて現実を直視しようとしない連中の世界観は、人が本来的に持つべき物の見方から疎外されている!」
という主張にはならないのかな? それとも、「“あるべき姿”の主張がマルクスの論点に基づいていればそれは疎外論でありポルポトだが、マルクスに基づいていなければ疎外論やポルポトではない」という前提でもあるのかな。もしそうだとしたら、悪の大魔王マルクスの「悪のカリスマ」性の長命ぶりには驚くべきものがありますな。それとも、冷戦終結によって魔王バラモス(=マルクス)が死んだと思ったら、その背後で真の黒幕である大魔王ゾーマ(=真・マルクス)はしっかり生きていたという、ドラクエ3型のオチなのかしら。早乙女のジジイ!
例えば、
「やい臨獣殿! “強い者が世界を統べることこそ本来の姿、その本来の姿から疎外されたこの世界を変えてやる”なんて言って人々を苦しめるなんて、このゾワゾワのポロポロ野郎!」
「なーに言ってるのよ、あんたたちこそ“本来の獣拳は正義の拳、いまはそこから疎外されている状態だから臨獣殿を倒してあるべき姿に戻す”なんて言って、力ずくで正義を押し通すポルポトじゃないの。文句があるなら実力であたしたちをねじ伏せてみなさい、このカクシターズ!」
とか、
「おばあちゃんが言っていた、俺は天の道を往き総てを司るってな」
「天の道という“本来あるべき道”のイデアを前提して、万人をそこから疎外された者として見下すとは、君も愚かな男だな。社会においてもっとも重要なこと、それはパーフェクトハーモニー……完全調和だ」
「そう言いながら俺をつけ狙うのも、おまえの言う中和だか調和だかのうちか」
「ライダーは二人も要らない」
「一人のライダーに率いられた組織の完全調和……そこからはみ出した俺は疎外された存在ということか。おばあちゃん、いやポルポトは言っていた、そういう存在は完全調和のイデア世界には不要だとな」
「貴様、俺を疎外論者に仕立て上げるつもりか……だが俺は貴様を倒す。そうしなければ、俺が俺でなくなってしまう!」
「やはり“本来の俺”か……おまえは天の道を外れた」
「!……待ってくれザビーゼクター、戻れ、戻れ……戻れぇーーーー!」
(半年後)
とか。
あのなぁ、83年生まれってのはなあ、
バブル絶頂期に幼少期を過ごし、
しかし自足歩行が板につくころにはバブルがはじけ、
ゆとり教育云々のニュースを尻目に古式ゆかしい受験戦争を戦って、
やっと入った大学では先輩たちの「昔はこうじゃなかった」という言葉を耳にたこができるほど聴き、
実際は氷河期ほどじゃなかったけどコミュニケーションがどうのこうのとか新奇な指標を持ち出されて閉口し、
やっと入った会社では団塊の世代を目の敵にしてたおっさん(今や大量退職で天下握って調子に乗ってる)にこき使われてる、
っていうまじで悲しい世代なんだよ。ちなみにいじましく過した青年期は通称「失われた10年」とか呼ばれる期間な。
わかるか?
おれたちはバブルは知ってるけどバブルの楽しさは知らないんだよ(ここら辺の世代の感覚がわからない。初期の村上春樹にぴんとこない。
社会を意識しだしたときにはもうすでにソ連は崩壊してたんだよ(冷戦とか共産とか資本主義とか、知ってるけどリアリティーはない。
おにゃんこクラブなんて見たことないんだよ(終わった直後だよ女性を意識しだしたのは。よくわからんわー。
八時だよ全員集合も見たことない(ギリギリ記憶にないね。パロディーからオリジナルを知ったよ。
モー娘に冷めるんだよ(個人的にね。でももうちょっと早く始まってれば、熱狂できたのに。
初めて見るものがすべて「懐かしい」って言われてたんだよ(ガンダムも仮面ライダーもウルトラマンも、続編や再放送やレンタルビデオで見たよ。で、それが「なつかしの」なんてお題で特集されるの。わかる?この感覚)
「ゆとり」じゃないんだよ。(確か1つか2つ下の人たちからだよね)。
なんかねー、「あ、人生始まった」って時期に限って、何かが終わっていくの。冷戦も、バブルも、冷戦後の短い平和も、いろんな文化も。
で、そういうのを、団塊の世代とか団塊ジュニアの世代とか新人類世代とかシラケ世代とかバブル世代とか氷河期世代とかの人が、昔はあのころはそういえば、って嘆いたり言祝いだりしていた(る)の。
で、もう流石にもう世代とか言う言葉は使わねーだろ鬱陶しいしーなんて思ってたら、「ゆとり世代」の登場ね。
旧来のよろしくない教育を改め新たなよろしい教育を。なんてことを、その時期まさに旧来の教育を受けていた人たちはちゃんと聞いていたわけだけど、まあこれは逆恨みになるから詳しくは言わないことにする。まあ、ちょっと白けたねー、とは、言っておく。
色んな「世代」があるけど、なんかどの「世代」にもはまらないなー、って世代。それが83年あたりの世代だと思う。もしかしたらこの先「サカキバラ世代」と言われる様になるかもしれないけど、「世代って言われてもなぁ…」って感覚で聞き流すと思うな、自分は。
まあこんな感じで。何も言いたいことはないけど、「83年」に釣られて書きなぐってみた。
元MSの井上氏に難癖つけて撃沈、その後該当エントリおよび魚拓も消去して逃亡を図る駄目オタクの醜態
http://kojii.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_f1b7.html#more
肝心な点も何も、私とは赤の他人である JSF 氏が書いている「週刊オブイェクト」の記事について、なんで私が申し開きしないといけないのかと。 「戦争を欲していない」と書いたのは「週刊オブイェクト」であって、「Kojii.net」でも「Kojii.net ココログ別館」でもないんですよ。無視も何も、他人が書いたものについて申し開きする意味も理由もありませんって。 そんでもってこの人、「戦争を欲していない」というタイトルから「軍事産業は平和産業に転じたわけではない」と脳内展開した上で、「だから当該記事は間違っている」という論を展開していたんですが、そもそも私、「防衛産業が平和産業に転じた」あるいは「転じようとしている」なんてことは、一言も書いていません。 それどころか、「産油国に大人買いしてもらう方が儲かる」「冷戦がもっとも有利な状況である」なんてことまで書いてます。だから、「平和産業に転じて云々」なんて言い出した時点で、すでに存在しない論に対して論陣を張る、典型的なシャドーボクシングになっちゃってるわけですが。
>>さて。「対話の技術を持たない」のはどっちでしょうね。
井上さん、d:id:nankadoごとき厨房に対話の技術をもとめちゃいけませんぜ。
■団塊世代がいいとは思えないこれだけの理由
これもかなり嘘くさい。
<低学歴から高学歴まで学歴に関係なく幸せを勝ち取ることが出来た>
雇用も限定的で、よっぽど学歴に縛られてましたよ。六大学とか、関関同立というブランドは昔からあるわけですし。今、社長になっている人は高学歴の人ばかりですよね。で、こうした人は団塊世代なわけですよ。この世代が企業のトップクラスについている。
(略)
元の理由自体が変なのは同意。
学歴の影響が強かったのも同意。
だから、その下の世代ではより学歴が強調された。
けど、低学歴でも出世できた機会が今と昔のどちらに、あったかといえば、経済が拡大傾向にある時の方がチャンスは多いに決まっている。
逆に言えば転職できなかったのです。転職という選択肢がない、それを許す時代背景がない。安い給料でも我慢して働くしかない。そういう限られた選択肢の社会だったのですよ。
すごい勘違い。
終身雇用がよいのではなく、終身雇用が保障され会社にいる限り、必ずベースアップがあった。横並びだけどね。
頭抜けて良い給料が難しいという難点はあっても、ぎりぎりの最底辺の給与でずっといるという状況もないのが素晴らしいのに。
<女が男を支えた>
元の理由は気に入らない。
けど、共働きでないと暮らせないのと、共働きでなくもて暮らせるなら、後者の方がましなのは明らか。
<転職しても職で困ることはなかった>
いやぁ、その言葉が出来た頃に第一線だったのが、団塊世代じゃないの?
30年で世代は交代するよ。
当時の転職は最終的に不利なケースが多かったけどね。
<年金支払いがあてに出来た>
結果的にあてにならなかったわけで。しかもそれを団塊世代を直撃しているわけでしてね。それこそ消えた年金記録もろもろで。
あてにして裏切られる方が、あらかじめあてにしないよりきつくない? 少なくても団塊の世代はこれまで払ってきた。払った分を期待するのが当然。あてにして当たり前。それが政府に裏切られようとしている。このショックは大きいぞ。
団塊の世代は、払ったよりももらえるよ。
払ったのよりもかなり多めにもらえる予想だったのが目減りしているけど、それでも多い。
下の世代は、払った額より少ない額しかもらえないのが予想できるんだよ。
これって寄付金?
<将来に明るい展望があった>
どれだけありましたかねえ。それこそ団塊世代は全共闘とかの世代でして。日本赤軍とかのテロがあったり。また冷戦の時代でしたねえ。米ソが対立していた。国際的に明るいとは言えませんねえ。今よりはるかに軍事的脅威があった時代なんで。ベトナム戦争なんかもあったしさ。
国内的にもどうだか。公害なんかもひどかったし、そんな暮らし向きは良くなかった。オイルショックなんかがあって、トイレットペーパーを奪い合って買うような時代ですよ。今より良いとは思えんねえ。気の持ちようだと思いますよ。
いまだって、アフガン、イラク、チベット、脅威はいくらでもある。
今は、インフラは整ったけど、これ以上の向上は見込めない。
逆に整えるための借金をどう返済するかで悩んでいるじゃん。後退するかも知れない。
オイルショックは一時の狂乱。常時そんな状況だった訳じゃない。
<25年の住宅ローンを安心して組めた>
そもそも25年の長期ローンを組んでまで、何で家を買わねばならんのかと。なんで賃貸で我慢せんのか不思議でなりませぬ。
引用はしないが、3000万で住める家は、賃貸で月10万で住めるだろうかという部分がない。
あと、終身雇用がローンの安心感につながる部分の視点が抜けている。
<満額の退職金又は割り増しの早期退職金で死ぬまでの人生プランを立てられる>
これだって実は既に危ういわけで。で、その危うさに直面しているのが団塊世代でありまして。年金同様、これをあてにして生きてきたのに、これがもらえない可能性が出てきている。こっちの不安の方がはるかに大きいと思うぞ。最初からあてにしてない世代に比べてさ。
さっきも書いたけど、あてにするしないは別でさ。
彼らは現役よりも多くもらえるわけだ。
たとえ、当てにしていた額よりは目減りしても。
もらえない人間よりもらえる人間の方がよいのは当たり前でしょ。
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他の項目はあまり文句はない。
ないとはいいきれんだろう。
外交は複雑なので絶対は無い。平時の外交は権益の奪い合いよりも、存在感の提示のしあいになる。なのでどの国も心の底では他所の国の少数民族迫害なんかどうでもいいと思っていても、「人道に基づいて」干渉を行う。内政不干渉が原理原則だけどね。
で、アメリカなんかはそろそろ「中国でかい顔しすぎ」ってところがあって、揺さぶるカードがあれば切る事だってあるだろ。ただ、いきなりボイコットなんて話が出ると思ったら、それは違う。
なんて話から(もう始まってるが)始まって、
「ボイコットまで視点にいれた、人道的圧力」
なんて婉曲表現が出てくる。あとはここからボイコットまでのどこに話を落とすか。この場合ボイコットを言う国もされる国も
「俺の顔を立てやがれ」
とテレパシーを送っているわけで、両者の顔がそこそこ立つと合意できるところに話が落ちる。ソ連のアフガニスタン侵攻時には冷戦構造化での敵国へのプレッシャーと国威高揚の意味でアメリカは楽々とボイコットを宣言できた。
ボイコットはともかく相当な圧力があちこちからかかると思うよ。単に中国の顔をつぶす、自国の存在感を誇示するって意味で。
あと、
「黙っててやるけど、中国は俺の国に何をしてくれるわけ?」
という腹芸外交もある。
自己流だけど。ライフハック(笑)みたいなもんだと思ってくれ。
八つをそれぞれ「都市」のようなものだと捉える。それぞれの「都市」が興亡を繰り返し、勢力を競い合っているイメージ。世界史の年表地図みたいなものを思い浮かべて欲しい。自分の場合は一日単位で大体中近代ヨーロッパの100年分ほど勢力図が変わる感じ。別に西欧史でなくても古代中国史でも何かの漫画のとかでもいい。八つの都市の勢力図がなるべく流動的に変化するよう自分の意思でコントロールする。
「夜」は自分の意思ではコントロールできない。その時の出来事や、悩みごと、社会情勢なんかに応じて否応なくどれかの「夜」がやってくる。自分には荷が重すぎる状況に陥った時は特に激しい情緒の渦が襲ってくることが多い。そういう「夜」に飲まれてしまうと、精神のバランスや体調を崩したり、躁鬱が激しくなって冷静な判断ができなくなったりしてしまう。
例えば上司との軋轢からどうしようもない「悲哀」の感情に襲われたとする。
その時、都市勢力図で「差異」が強かったとすると、
等々を考える。
もし都市勢力図で「真偽」が強かったとすると
なんかを考える。
この思考方法の利点は二つ。
1、自分には荷が重すぎる状況を順列組み合わせの中に落とし込むことで、考えが煮詰まることを防ぎ、視野の片寄りを防ぐ。
2、コントロール不可能な「情緒の渦」を、パターン化された「思考形態」と組み合わせることでコントロール可能な領域に引きずり込む。
ようするに考え方をあえて限定することで、問題に対処する範囲を狭めるのだ。こうすることでオーバーフローを防ぎ、問題を自分の意志でコントロールできているのだという意識を持つようにする。
そういう女子の少ない学校に入ったから貴重な青春が……とかいうやついるけどさ、そういうやつは共学でも夢見ているような青春は送れないんだよ。中学を思い出せよお前、といつも思う。
高専は学校としてみればいいよ。自由の代わりに、ある程度は自分で判断してけつを決めなきゃずるずると落ちる場所だし、合う合わないが激しいから合わなかった場合悲惨だけど。合えば楽しいところ。まあ進学増加中でどうかとも思うけど、大学と高専で給料の差をつけられたら(仕事同じで)そら皆大学いくわ、て感じ。仕事に関しても、高専だとよっぽどでなければ開発・研究にはいけないし、それらを志すなら進学しなきゃならない。でも研究の一端に触れて自分の進路を考えられるというのはとてもいいよ。成績よくても「研究は合ってない。極めようと思わない」と就職する人もいるし。廃止論もあるようだけど、中学卒業の時点で分岐するルートがあってもいいと思う。大体学費安いし(うちだと年間25万+教科書代他)、卒業すればそれなりのところには就職できるし。設計する分には大学との差なんて感じないし。有利なところもいくつかあるし。実際に工作機械を使って部品を製作してロボットを作ったことがある、というのはなかなか設計する上では役に立つ経験になる(これはまあ機械科の話だけど)。自分でしたことというのはなかなか忘れない。
ネックは英語が弱くなることと、古典をほとんどやらないこと、あと世界史とか日本史とかの知識は欠けるかな。大学受験を潜り抜けた人間は受験で叩き込まれた知識がうっすらと教養として残ってるから。まあ真ん中より上に限る話だけど。一年かけてペリー来航から大政奉還までしかやらないような趣味に走った歴史の授業では太刀打ちできん。楽しい授業だったからまあいいが。
英語はさっぱりだけど、まあ使う職業に就かないなら問題ない。就職して英語バリバリな人間も、「意外に専門用語だけで通じるから英語の知識は必要なかった(あるに越したことはないが)」という。
先生は放任気味だけどやりたいことを見つけてきちんと計画を立てて相談にいけば、おかしなくらい親身になって助けてくれる。高専嫌いな先生と高専大好きな先生の冷戦を眺めるのもなかなか楽しい。
大学に入るとまず真っ先に酒を覚えるように、高専に入った学生が最初に覚えるのも酒の味だ。これは間違いない。でも大学生に比べれば大人しい飲みだ。他大学の体育会と交流会した時に痛感した。大学生(体育会系に限るかもしらんが)の飲みは異常。常に一気コール回ってて、何じゃこらって思った。学校も酒には甘い(これは概ねどこも一緒かと)。煙草には厳しいが。
ちなみに4年ないし5年の男子が1年ないし2年の女子と付き合うと、そいつはロリコンと呼ばれる。これは半永久的に間違いない。別れても呼ばれ続ける。後輩にまで「ロリコン先輩」だとか「ロリさん」とか呼ばれることになる。これはうちの学校の、しかも局所的な慣習かも。
夏休みは普通の高校と同じくらい(ずらして9月から夏期休暇の高専もあると聞く)。冬休みも右に同じ。春休みが一番はっぴーな長期休暇で、年度によっては夏よりも長い。大体2月半ばから4月過ぎまで。課題がないので遊び放題。5年生の場合は最後のモラトリアム。
授業はうちの場合90分x4がフル。水曜日は90x3で固定。あとは科によって何年かによって違う。ひどい年は水曜以外全てフルだったりする。実験だとか製図だとか実習は終わる時間があってなきが如し。間違いなく定刻に終わるように、なんて配慮はなく内容が決められている。ひどい話だ。
うちの高専には体育祭もマラソン大会もなかったので、体育は非常にぬるかった。基本選択制(テニスーとかサッカーとかを適当に選択)で、あとは適当に遊んでいるだけ。まあリクリエーションの時間みたいなもの。何故か水泳だけは結構ハードで、90分で1200m以上泳がないとA評価を貰えなかった。歩きだったり着衣だと500m(なぜか着衣水泳用の服が標準装備だった)。
懐かしい思い出だ。最初書きたかったこととは全然かけ離れたが面白かったので残しておく。
//追記
あと大事なことを忘れてた。うちの高専には体育祭もマラソン大会もスキー合宿もそういう行事的なことは一年の時の野外活動(親睦を兼ねて)と修学旅行くらいしかないわけなんだけど、その代わり春の遠足/秋の遠足というものがあった。遠足かよwwwって感じだが、内容もまさに遠足。基本は現地集合現地解散。市内オリエンテーションとかいってぶっちゃけ授業なのに全部自由行動(朝の点呼と昼の点呼のみ)で、結局いつものメンバーでカラオケいってましたwwみたいなこともあったし、20前の若者でぞろぞろと動物園とか行ったこともある。周りが全部幼稚園の遠足とかで、幼稚園の先生の不審そうな視線を浴びる浴びる。行ってみれば動物園も結構楽しいんだけど。あとは水族館とか、これを言ったら特定されそうだが出来たばかりの頃だったのでUSJにも行った。団体入場券なのに遅刻するやつがいるんだこれが。先生が携帯に電話したら、「今起きました!」みたいな。ダッシュで入場していく家族連れとか見ながらゲートの前で待ちぼうけ。懐かしい。結局2x5で10回も遠足にいったわけだが、どれもなかなか興味深い。福井の原発に見学に行ったのが一番楽しかったかもしれん(一応こういう社会見学的なのもあったのさ)。片道三時間半かけて行って、二時間見学して、また三時間半かけて帰ってくるわけで、本番はバスの中だった。ライダーゲーム(「1号!」「2号」「へんしん!」とやるせんだみつおゲームの変形)を延々やり続けたのなんか、何が面白かったのか分らないが死ぬほど面白かった。
またああいうバカなことがしたいなぁ。
> どんどんエスカレートしたらどうなると思う?それを実践しちゃったのが冷戦だ。
ネガティブな意味で言ってるつもりなんだろうけど、パワーバランスが崩れて「熱戦」が起きるよりはマシだと思うんですが。とりわけ中国なんか、隙あらば台湾に軍事侵攻する気満々じゃないですか。日本にしてもそう。
どうにも一方的な視点だね。信念を持つのも大事だけど、広く視点を持ってみるのも忘れないようにね。
お互い様なんだよ。日本にしてみれば周辺諸国を警戒して防備を固めるんだけど、その周辺諸国は日本(や他の諸国)の動向を警戒して防備を固める。
どんどんエスカレートしたらどうなると思う?それを実践しちゃったのが冷戦だ。
まあ多分「だって奴等が先にやってるから」って話になるんだと思うけど、どっちかが先に退かなきゃ終わらない争いなら、それが日本の側であってはならない理由はある?
少なくとも環境については、中国と敵対したって解決しないよね?むしろ積極的に技術供与した方が被害は抑えられる。
著作権については中国製品のクオリティを上げて貰って、中国の著作物が世界に出回るようになる方が変わり易いんじゃないかな。コピーが自国の損になると思えばちゃんと批准する気にもなるよきっと。
領土問題は直接接してないから、主に領海だね。中国にしてみれば侵害の意図があるというよりは当然の権利としか思ってないかも。海岸線長にせよ国土面積にせよ中国の方が優位だから、仲良く分け合って貰えるように立ち回った方が日本にとっては得じゃないかな。
こんなこと言うときっと売国奴とか言われるんだろうけど、「売国奴」って言葉は要するに「非国民」と同じで、反対するものは敵と見做すという危険な側面を持ってることは自覚しようね。
それはそうと
>http://anond.hatelabo.jp/20070529114117
左翼が見下した態度、右翼が丁寧に教えると受け取っている時点で既に右寄りなんじゃないかな。
左寄りな僕にしてみたら右翼はそれこそ人を見下して罵倒するばかりに見える。まあ左翼をみて丁寧に教えてるとは思わないけど……むしろ誤解を防ごうとするあまり難解な言い回しになり過ぎて却って誤解を招く感じ?