の4要素を訴える運動のことと書いてありましたが、そこに非宗教を唱える方も現れてきている、ということなのでしょうか。
いずれにしても、これらはすべて、個人の尊厳を取り戻すために、これまで社会の(暗黙的ないし強制的)要請によって様々な形で抑圧され虐げられてきた方々の悲痛な叫びとして表れた動きだと受け止めています。
古今東西、あらゆる宗教が女性差別的思想の醸成に一役買ってきた歴史があることは私も理解しています。
日本においては、神社神道は現代でも女性差別的な側面は変わっていませんし、伝統仏教の各宗派も長きにわたって女性差別を繰り返してきました。各所各山で自浄・改善の動きが少しずつ見受けられるようになったとは言え、理想にはまだまだ程遠いのが現実です。大変に嘆かわしいことです。
お尋ねの件についてですが、信仰の自由は守られて然るべきですから、私は彼女たちの願いそれ自体は悲しみと共にうなずきます。やはりそこには、宗教を否定・拒絶するだけの動機があるのです。おそらく宗教によって何らかの理不尽や痛苦を味わわされた経験が根底にはあるはずです。
しかし、何事も行き過ぎるとかえってよくない結果をもたらします。極端な行動で解決するということは、往々にしてないのです。お釈迦さまが右でも左でもなく中道を歩めと仰せになったのも、こうした話にも通じると思います。
彼女たちが「宗教に属さない」、「自分のことは自分で決める」、と決意することは素晴らしいことです。自分の尊厳を守るための大切な選択だと思います。ただし、その思いが行き過ぎた場合、彼女たちが次に取る行動は、
ということです。自分たちの在り方が正しいと信じれば、そうではない人間が正しくないと信じるのが私たちです(これは僧侶にも言える難しい問題です)。そうすれば、差別され苦しめられてきた側の人間が、また別の人間の新たな苦しみを生み出すことにもなりかねません。それだけは互いに避けねばならないでしょう。
あの人は信じてる、自分は信じない、でも仲良し。そういう、違いを乗り越えて出会える道を、女性も男性も性的マイノリティも関係なく共に探ってゆかなければ、そこにはただの断絶と分断、怒りと憎しみしか待ち受けていません。そもそも、彼女たちがこうした運動を起こさざるを得なくなるような社会通念を生み出した不特定多数を変えない限り、問題はそうそう容易くは解決しないと思います。
このことは誰もが、ゆめゆめ肝に銘じなければならないでしょう。
現代の人々にとって、「宗教」という言葉の持つ意味合いがあまりに変容してしまったことを第一に考えねばならないのではないかと、日頃から感じております。
私がこうした事象について何よりも訴えたいのは、
すべての宗教は、その時その時の時代背景・社会構造の中でたびたび利用されてきました。そのために大切な教えまで歪められることさえありました。日本においてもイスラムにおいても、家父長制とうまく融合させて、男性優位の支配構造を作ってきたのです。これは宗教が求める人間の姿ではありません。宗教という、ある種神秘の領域を振りかざすことで、精神の内外から強烈な規範となって人々(特に女性)を抑え付けてきたのです。それを行ってきたのは“人間”(特に男性)です。
この“人間”をどうにかしない限り、私たちは未来永劫救われることはないという教えを私は信順しています。見渡せば、その通りとしか思えない世界が広がっているからです。
いささか乱雑な論述になってしまいましたが、これが私の思うところです。
合掌
でも宗教って嘘ですよね。
浄土真宗の僧侶増田です。 こんにちは。この間と同じ方ですね。 こちらはすでに読まれましたか。 https://anond.hatelabo.jp/20210118132127
浄土真宗の僧侶増田です。 こんにちは。この間と同じ方ですね。 こちらはすでに読まれましたか。 https://anond.hatelabo.jp/20210118132127
でも宗教って嘘の物語じゃん
横だけど、仏の教えを信じろよ。なんと言っているか?我らの仏は。仏の教を信じてみろよ。