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読んだ。以下ポエム。
頭をかすめたのは『最高の人生の見つけ方』と『ろりともだち』。そのふたつを同列に並べるなよ、という意見はあるだろうが、人生にどん詰まったふたりの男が旅の果てで互いに救い救われるという点で共通する。前者は家族との和解によって、後者はホモソーシャル的な友情によって。これらの作品を補助線に本作を見るならオチから考えて『ろりともだち』の対極に置くと座りがいい。
ナオキはロスジェネ世代として社会から脱落している。そして他方、ホモソーシャルからも脱落している。いじめられていた過去や痴女アバターから逃げ回る姿は、彼がホモソーシャルに迎合できない人間だということを表している。
何にも救われてこなかったロスジェネ中年おじさんがホモソーシャルにも救われないとしたら何が彼を救い得るのか。それはやはり少女によって、ということになるんだろう。
「ナオキにとって、女性は「ファンタジー」です。自身が男である以上どうしたって惹かれてしまう」。うん、だよな。でも実際に女性が、少女がおじさんを救ってくれることはない。おじさんの苦しみはおじさんが処理しろという社会の要請もあるだろうし、そもそも少女がおじさんを救ってくれるなんてまったくもって信じられない。1ピコも現実感がない。おじさんを救い得るのはおじさんしかいない。それでも少女に救われたい。だからおじさんが互いに少女のアバターをかぶった百合になる。
ホナミは強者で「結局強者が弱者を救う話」だと作者は言う。本人がそう言う以上、そう意図したんだろうけど、ちょっと首をかしげる。単純にホナミがそう見える描写に欠けていたのもあるんだけど、死に臨むにあたって寄り添ってくれる存在の不在はとても強者のそれに見えない。彼もまた弱者だったのではないか。ホナミもまた、人生の終わりに「尊敬し尊重に値する存在」をよすがにしたかったのではないか。やはり救い救われるお話だったのではないか。
とはいえ、割合でいうといくらかホナミが「救う側」だったのは疑いようがない。ナオキが女性経験皆無でそれをプレゼントしようという意識があったのは、つまり「女性」を演じようとして実際そうしたことは、直に逢ったときの恥ずかしがりようからもわかる(逆に、ナオキは常に素を出していたので恥ずかしがったりしない。丁寧な感情描写だ)。
「この作品はなんなんだろう」とも作者は言った。読み手の世代や人生によって受け取り方は様々だろうけど、少なくとも私には「ナオキにとってのクラスの女子」を目指した作品のように思われる。
世界の全てに希望が持てないとしても。どうかこの作品が一時のよすがとなって、あなたの中の絶望に、あなたが殺されませんように。
「あの結末は仮想の敗北であり現実の追認だと感じる」とか「VRおじさんも結局現実に会いにいっちゃったじゃん」といったブコメを見たけどそれはさすがに無体な読みだろう。まあ確かに、アバターは宇宙の果てで心中して、中身は現実で生きてるように見えなくもない。『ろりともだち』しつつ『レディ・プレイヤー1』してるように見えなくもない。でもナオキは、ホナミと過ごした日々を人生の糧にしなかったし、できなかった。ロスジェネ世代のどん詰まり方は、それに対する絶望は、そんなことぐらいでどうにか出来るほど生易しいもんじゃない。VRおじさんが恋をしようが99%閉じてしまった人生はひっくり返らない。「レディ・プレイヤーワンはロスジェネを救えない」。みんなもう諦めてしまっている。できるのは一瞬でも夢を見て、現実から目をそらして、痛みを忘れることくらい。その繰り返し。だってキラキラした未来なんて人生のどこをひっくり返しても出てきやしないんだもん。しょうがないさ、それで。
この作品も読み捨てられ、忘れられ、ネットの海に沈む。きっとそんなもんだろう、現実ってのはさ。まあ、それでも生きてる。急速に閉じていく現実に希望を失いながら、何とか目をそらしながら、今日も壁の前で右往左往する。いつかこの心臓が止まるまで。