2016-09-23

母たちのジハード

出勤を認証し、息を弾ませて自分デスクにたどり着いた本條たま子は祈っていた。

10分前、最寄り駅で満員の電車を降りる際に確認していた携帯電話、それをバッグから滑るように取り出し再度確認する。まだ着信がない。

まり、少なくとも、職場につくまでは無事だったということだ。

おはようございます

おはようございます!」

他の職員はすでに出勤していた。

さなついたてで仕切られた右隣の20代半ばの女性は、ゆるく巻いた長い髪から爪の先までつやつやしく、コンビニで買ってきた野菜ジュースをちゅうっと吸いながら業務メールのチェックにいそしんでいた。

10歳下の若い子に比べ、あまりに余裕のない自分笑顔がこわばっているのを自覚して、たま子はぎこちなさを自覚しながら椅子を引き、パソコンの電源を入れる。

胸にずしりとした重いものを抱えたまま、急いで一日の予定を確認した。今朝の会議資料は仕上がっている。午後に総務のAに渡す書類もできている。明日必要ものもあらかためどがついていたが、明後日期限でまだ半ばのものがある。数時間かかるルーティンワークを最悪誰にお願いできるか……。

ルーティンワークで、なるべく入力できるもの入力する作業に取り掛かり始めたとき、バッグの中でヴヴ、ヴヴ、とバイブレーション継続的にうなった。

たま子の心臓が跳ね上がった。着信だ。

室でたま子の他に子持ちには佐藤がいたが、子供の所用で有休をとっている。たま子はそのことをよく知っていた。

今日かかってきてしまたか

確認すると画面には案の定こう表示されている。

『あったか保育園

たま子は携帯には出ずに、保育園から電話が内線にかかってくるに任せた。

1分ほど間があった。自分で出るつもりだったが、電話に一番近い女性の反応が早かった。

「本條さん、本條さん宛てに保育園から電話が入っています

部屋に声が響いた。ぎくり、と室長工藤の肩が動いたのが見えた。ベテラン佐藤は不在で、他部署から移って半年はいえ、かなりの作業量を受け持つたま子が抜けると、派遣若い子だけでは今日業務は回らない。

社内監査の日程が近く、室にはピリピリした雰囲気が漂っていた。

室長工藤の広い額には朝からもう脂汗が光っていた。工藤だけでなく室の全員に申し訳ない気持ちを抱えながら、たま子は手を動かしながら答えた。

「今、外していると言ってもらってもいいですか。かけ直すと伝えてください」

子供は昨日の夜までは元気だったが、今朝体温は6度9分か7度ちょうどで、ぐずってもいた。解熱用座薬使用も頭をよぎったが、発熱していない2歳にもならない子には使えなかった。

電話に出なかったのは、園の看護師に、8度以上熱があればすぐ帰れと言われるからだ。室長と事後策を話し合ってからにしたい気持ちが働いていた。

朝ぐずって足にまとわりつく子供を無理に引きはがして保育士に手渡し教室に置いてきた。その面影に胸をふさがれる思いだった。

室長子供が具合悪い可能性が高いです。あと20分あれば、ここまでは目途がつきますので、それから保育園に状況を確認したいのですが、いいですか」

「そうですか、すぐに電話しなくていいの?」

「こんな言い方はよくないのですが、ひどい緊急事態だったらまたかかってくると思われます

大急ぎでできる作業を進めていると、隣の綺麗な巻き毛の佐々木が、不安そうにちらちらたま子を見、小さい声で言った。

「私、今日ピラティス入ってるんですよね‥。月謝、自分で払ってて、すごく高くて‥」

「ごめんね‥、まだ具合悪いって確定してないから‥」

たま子は身を縮めて謝るよりほかない。

まり引き延ばすわけにもいかず、たま子は工藤室長に断って携帯保育園電話を掛けた。熱発で7度後半、機嫌もやや悪く、朝に園で出された牛乳は吐いてしまったらしい。本来すぐ迎えに行かねばならないが、無理を言って昼ごろ受け取りに行くことにした。

保育園看護師は困るを連発した。また吐いたり8度に上がったら預かれないか電話すると言っていったん話は終わった。

たま子に最低限午前中の猶予ができたことで、室の仕事は何とか救われた。

休みに食い込んだが、残っている室長と、隣の若い佐々木に引継ぎした。

「どうしようもなかったら仕方ないけど、明日は出勤してほしいな‥。今日も帰られるのは痛いねえ」

室長は汗を拭きながら言った。本当に顔が青ざめていた。

佐々木さん、今日は残れるかな?」

習い事があります!」

「うーん、何時に出れば間に合いますか?」

「‥18時半に出れば間に合います

残業つけてください、30分頼みます優先順位確認しましょう。今日やらなくていい案件は、本條さんに復帰してから振ってください。あとは僕が頑張ります

胃薬を栄養ドリンクで飲む室長に罪悪感でいっぱいになりながら、佐々木の不満げな視線に頭を下げながら、たま子は部屋を辞し、駅まで走って電車に飛び乗った。

遅くなったから、さぞ保育園で怒られるに違いなかった。電車でたま子は扉にもたれかかって暗くなる視界に目を閉じた。

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