2011-09-19

http://anond.hatelabo.jp/20110911044626

そういう風に理解する、ということに考えさせられた。横入りだけど。

(1)「他人を試みることは失礼だ」

(2)なぜなら「(私の)不信によって相手が傷つくだろうから

(3)「それは自意識過剰

この(2)に対する(3)のリアクションについて。

確かに、「自分の為した行為等によって相手が傷つく可能性を考えて行為しない」という行動様式の帰結として、一般的にいって「肥大した自己意識」があり、そのため本来なら行うべきであった社会的に必要な行為すら行えなくなるとしたら、それは確かに病的な「自意識の過剰」であると言える可能性は否定しない。ちまたで見かける自意識の過剰を羅列すれば、

 「みんながオレのこと監視して笑ってるような気がしてむかつく」

 「頭の悪いオレが一票を投じても間違ってる可能性が高いか投票しない」

 「すれ違うたびに気持ち悪がられてるだろうからもう外出しない」

とか、まあそういう感じ。

確かに、どんな「行為とそれに対する他者のリアクション」の場面においても、他者の心の内でどのような感情が渦巻いているかは外からしか見ることができない。そのため、その反応を基に、自己意識の外延としてしか他者の心を思いはかることはができないため、あらゆる「配慮」は原則的に自意識産物足らざるを得ないし、そればかりでなく、常にそれが他者からみて(それが健全社会関係を阻害するレベルに至るか否かは別として)不足であったり過剰であったりする可能性は免れ得ない。つまり、どんな「配慮」行為においても「自意識過剰」という批判は常に投げかけ得るマジックワードとなる、ということだ。


ただ、健全社会性を保つためには、この「配慮」が過剰であっても、そして過『少』であっても、よろしくないことは理解されると思う。そこで、配慮を一定規範とする考えが登場する。マナー作法あるいは「礼」というのがそれである。ただ、これらのマナー作法や礼というのは、決して「形式的にそれを満たしておれば、誰からも問題とされない」という許可を与える法律のようなものではなく、それらのマナー作法や礼が要請するところの「基の感情」で内面が満たされていることが他者から見ても分かることが、社会的に必要な要件とされることが多い。

頭を下げるのは「礼」だが、ニヤニヤしながら頭を下げていれば不真面目だと言われる。テーブルマナーを形式的に身につけることは大事だが、頑なにそこから逸脱しないことが重要なのではなく根底にある「みんなが食事を楽しめるように、不快なことをしない」を満たすことが需要なのであるから、たとえばマナーを知らない人と食卓を囲む際にマナー知らずであることをもってその人を笑いものにしたりする人は、むしろ重大なマナー違反を犯していると考えるべきだ。

このことを前提として最初に戻ると、

(1)他者を試みることは失礼である

これは理解できる。聖書にも「汝、神を試みるなかれ」とあるが、試されるようなことをすれば、神様だって怒るのである。怒る理由は「信じていないから」であって、一般的に「試す」のは「確信がもてないときであることは言うまでもないから、「試す」ことが「確信をもっていない」というメッセージになりうることは、事実であると言える(これは、たとえば「私はそんな風に受け取ったりしない」という個人的主張を否定するものではない。たとえば「てめえぶっ殺してやる」を愛情メッセージと受け取る人も世の中にはいるだろうから範馬勇次郎とか)。)

次に、

(2)なぜならその含意するメッセージによって相手は傷つくだろうから

という説明も問題はない。(1)が、メッセージの含意する「不信感の表明」という事態避けようとする意図から生まれた規範であることをベースに考えれば、その意図するところが(2)のような理由であると推測することに飛躍はないからだ。相手を傷つけることが、健全社会関係を維持する上で不利であると考えるのは、理にかなっている。

そこで問題は(3)だ。(3)の発言者(以下、(3)の人と呼ぶ。)は、なぜかように考えたのであろうか。本当は、特に考えていたわけではなくて、単にマジックワードを振りかざして、ちょっと反社会的でカッコよさげなことを言ってみて悦に入りたいだけなのだろうか? それにしては中途半端な発言なので、一応そうではないと仮定すると、この文脈でこういう発言が登場するからには、(3)の人は「試すことは悪いことではない=私は試したい」と思っているのであろう。(2)の発言者に「相手を傷つける可能性」を指摘されてなおかつ(3)の人は、それを否定するために「自意識過剰」というワードを持ち出したわけで、そうすると、(3)の人の中では「相手を傷つけること」よりも「自分の願望を抑えること」の方を(あるいは、前者をしないために後者をすることを)悪とみなしているということになるからだ。

これはとても不思議感性である。「自分の個人的な不信や疑念を払うこと」を重視する一方で、「他者を傷つける可能性」を低く見積もっているのみならず、その「他者を顧みない」行動により「自分が他者から不信や疑念を抱かれる可能性」を全く考慮していないからだ。この(3)の人にとって、他者とは、自分に決してコミットしない、窓の外の存在であるかのようだ。

肥大する自意識に脅えながら、同時に他者を窓の外に放り出して顧みない。彼は一体何と戦っているのだろうか?


「平気で嘘をつく人たち」ではないが、このような「平気で人を試す人たち」から見えてくるものは、確かに一つの時代、世界風景である。それを、「核の時代」のうすら寒さと共通している、と言ってみると、飛躍して聞こえるだろうか。しかし「核抑止論」とは、「私の不安を解消するためなら、核武装するのが一番だ。みんなが核武装すれば、平和からだ」という言明ではなかろうか。そう考えれば、これはそれほど突飛な比較ではないだろう。そして、核抑止論が、現代世界において一定コンセンサスを得ていることも事実として認めておこう。「私の不安核武装」が隣国の不安核武装を呼び、それがまた次なる核武装を……と連鎖が続くという事実を眼前にしながらも、今のところ人類は、理性と対話というか細い支えで対抗しつつ、民族文化の壁を越えることには必ずしも成功していない。「中の安心」が一番大事で「外との対話」は二の次なのだ。「外との関係」が「中の安心」を生む…というアイデアは、そこでは顧みられない。私たちの生きる「国際社会」は、残念ながら依然そのレベルにとどまっている。

(3)のつぶやきが示すことは、もはや個人と個人の間ですら大国間のように理解と協調を求めることが難しい時代だということであり、その中で、恐怖心のシェルターに閉じこもる人々が(3)のように振る舞うことは、もはや不可避のことなのかもしれない、ということである。異文化間における理解と対話のためのメソッド確立することは、我々にとって真の意味で喫緊の課題である

記事への反応 -
  • 1年前のブコメにレスポンス tomo-moon どうでもいいけど事業に失敗したと言う男にそれでもいいと告げて 『嘘だよ、事業は至って順調。君は心が美しい女だ今すぐ結婚しよう』とか...

    • てか、どうして人を試すような事をしたら駄目なんだ? 相手に対して一抹の不安があれば、試しても良いだろ。 後から騙されるリスクを考えりゃ、当然の事だ。

      • 「人を試したい」「人を操りたい」みたいな欲望が 無礼である、醜悪である、という根本的なことすら了解してない人が増えた。 元増田の例のまんまですねw こういう人にとって...

    • 被害者づらなんだな。自分が可愛い可愛そうで頭が一杯。 個人的にいい視点だと思った。 でも、最近の○○は論の臭いも感じてしまう。 試す主体が神の類で、散々人に罠かけといて...

    • 社会学者のM先生ががニコ生の恋愛講座で、「パートナーを選ぶときは試すべき。なんでみんな試さないでいられるのか理解出来ない」みたいなこと言ってたYO

    • それじゃどのエントリに付いたブコメなのか分からん。ちゃんとURLくらい書いてくれ。 と言う訳でぐぐる先生に聞いて来たら http://anond.hatelabo.jp/20101017000028 http://b.hatena.ne.jp/tomo-moon/20101018#...

    • 切りたい時に使う手口だから

    • http://anond.hatelabo.jp/20110910161603 これと似た話なのに反応が異なる。 しかし、なんでいまホッテントリに?

    • お金持ちに大量に触れて気づいた8の共通点 http://anond.hatelabo.jp/20110825105018 3317users 生活・人生 2011/08/25 --------------------- 自分でWEBサービスを作りたいと思っている人へ http://anond.hatelabo.jp/201...

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