はてなキーワード: 難波とは
BAN 直之(ばん なおゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。諱は直次、尚之とも。通称は長八、後に団右衛門に改めた。一時、出家した際には鉄牛と号した。
後世、『難波戦記』などの軍記物や岩見重太郎の講談などで有名になったため、塙 団右衛門(ばん だんえもん)の名でも知られる。
出自は不詳である。尾張国の人で、同姓であるため、織田氏の家臣・塙直政の一族か縁者とする推測もあるが、遠州横須賀衆[3]で浪人となった須田次郎左衛門という人物が本人であるという話[4]や、上総国養老の里の出身で千葉氏の家来だったが、小田原北条氏家臣で「地黄八幡」の旗印で知られる北条綱成に仕えた[5]という話、相州玉縄の住人で玉縄城主となった北条左衛門大夫[6]の徒士となったという話[7]もあり、出身地や素性も定まらない。
前歴についても不詳である。猟夫より身を起して織田家臣の坂井政尚の馬卒となり、功をあげて織田信長に士分として取り立てられたが、酒を飲むと暴れ出すという悪癖のために人を殺めてしまって放逐され、浪人となって諸国放浪したという話もあれば、前述のように北条綱成の家臣であったが、小田原合戦の後に浪人となったとする話もあり、小早川隆景の家臣・瀧権右衛門に仕えて200石の知行を得ていたが、浪人となって貧窮し、豊臣秀次の家臣・木村重茲の小姓達が憐れに思い、衣類を揃えてやって加藤嘉明に口添えしたという話[8]もある。幾つかの話には浪人中は時雨左之助(しぐれ さのすけ)を名乗ったという逸話も登場する。
二年ほど前に、「母をコロナで亡くした」というエントリを投稿した者です。
https://anond.hatelabo.jp/20210504174141
あの時は、世の中に対してどうしても伝えたいことがあって、それを増田に投稿した。どんな形であれ文章で表現したことが、結果として他人の命を救うこともあるのではないか。そう信じながら、私はあの文章を投稿した。そして、それが大勢の人に読まれて、私の目論見通りに警鐘を鳴らすことに繋がったと思っている。
あれから二年。状況はどう変わっただろうか。
私の職場では、座席を隔てていたパーティションが全て撤廃され、また、時差出勤やリモートワークをする人は徐々に減りつつあるように思う。
梅田や難波などの繁華街を歩けば、以前と変わりない人の流れを目にすることができる。なにより、マスクなしで歩いている人も結構な割合で見かけるようになってきた。
また、テレビや新聞などで、コロナのことが話題になることが皆無になってきている。
ただ私にとって違うのは、母がもうこの世にはいないということだけだ。
どうして、母が犠牲にならなければいけなかったのだろう。母が倒れた時から、何度も繰り返しそう思ってきた。それが、今では「仕方がなかったんだ」とあきらめて、受け入れられるようになってきている。
肉親を亡くすという経験が初めてだった自分にとって、その事実を受け入れることができるようになるまでに、随分時間がかかってしまったように思う。人間は誰しも最後には死ぬものなのだと、頭ではわかっていても、どうしてこんなにも受け入れることが難しいことなんだろうと痛感させられた。
私もしっかりと前を向いて、生きていかなければいけない時期にきていると思う。それが、あの厄災から免れて、今も無事に生活している者に課せられた、義務みたいなものなんじゃないだろうか。