はてなキーワード: 字音とは
中国の地名・人名は「相互主義」の考え方から「漢字表記・日本字音読み」を原則としている。「相互主義」とは,同じ漢字を使用する国が,それぞれの国の読みに合わせて相手の国の地名・人名を表記したり読んだりすることである。つまり,日本で,中国の地名・人名を日本の漢字で表記し,日本での読みをあてるのと同様に,日本の地名や人名も中国では,中国の漢字で表記し,中国読みをするのである。国家間の交渉でもこうした運用になっている。昭和47(1972)年に日本と中国の国交が正常化した後も,この慣用が続いている。
世界の言語はいろいろな文字で記されるが,行政上は文字表記がよりどころになる。中国語にも方言があり,同じ中国語でもまったく違う発音になる場合がある。しかし,表記は統一されている。どう読まれているかよりも,表記が重要なのである。
https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/kotoba/yougo/pdf/037.pdf
へー
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1162964
小生と旧仮名遣いには近付かないようにしてる
旧かな使ひは見かけたら二つ向こうの山まで逃げる案件
確かに「正かなクラスタ」とその周辺はいっつも論争してて、巻き込まれたら面倒臭いから近寄りがたいイメージがある。
もし本気で歴史的仮名遣(旧かな、正かな)を布教したいのなら、そんな印象を撒き散らし続けてる時点で戦略的には失敗だよなあ、と前から思ってる。
個人的には、歴史的仮名遣は現代仮名遣いより技術的にまともだと思ってるから尚更。
「正かなクラスタのことは嫌ひでも、歴史的仮名遣は嫌ひにならないでください!」とでも言っとけば良いのかな。
「本物の旧仮名遣い」って何なんだろ? 山岡士郎さんに頼んだら見せてくれるのかな?
冗談はさておき、字音仮名遣を守ってなくても和語の仮名遣がきちんとしてるなら、広義の歴史的仮名遣に入れてあげてほしい。字音仮名遣も「春」は「シユン」か「スヰン」か、「共」は「キヤウ」か「クヰヤウ」か、なんて具合に何が本物か追求しだしたらキリが無いし、いろんな流儀に寛容になっとく方がみんな気楽。
http://b.hatena.ne.jp/entry/qiita.com/tadsan/items/fb496e450fc27c8c4494
歴史的仮名遣へのヘイトスピーチが人気コメントの2位・3位。これはひどい。そして悲しい。
多分、著者のtadsanは一々コメントを返したりしないので、この場で勝手にツッコミを入れてみる。
bottomzlife なぜ意味不明な歴史的仮名遣いがまじってるんだ。気持ち悪いからやめてほしい。プログラマなら日本語のコーディングガイドラインも守れ
「まじって」なんかない。全文が単なる歴史的仮名遣でしかない。(これは逆に、「現代仮名遣い」との差が少ない証拠になってる)
あと「日本語のコーディングガイドライン」が「現代仮名遣い」を指すなら、そのガイドラインの方が意味不明でクソ。まだ歴史的仮名遣の方が論理的で、プログラマ的にも腑に落ちる。その辺は http://web.archive.org/web/20020612101011/http://hb9.seikyou.ne.jp/home/kyuri/nihongo/kana-hikaku.html でも見れば、小学生でも解る。
「歴史的仮名遣い風」ではなく、正真正銘の歴史的仮名遣。(字音仮名遣? 知らない子ですね…)
それでも信用しないのなら、個人の勝手だが、そんな差別をする奴は信用ならない。
snobbishinsomniac 「ヘッダ」「メソッド」ではなくて「ヘツダ」「メソツド」だろうし、「レガシー」「モジュール」じゃなくて「レガシイ」「モジユウル」ではないのかな。
外来語の長音記号とか大書き・小書きとかはどっちでもええんやで。
ちなみに「モジュール」は「module」でダ行だから「モヂュール」と書く人も居る。
慣れの問題。いや本当に。
時間を掛けてまで歴史的仮名遣の読み書きを習得する価値は、個人的にはある。似た感覚としては、全然論理的でないHTML3.2を捨てて4.01とか5.0に移行するのと同じ程度に有用。
個人的なことだが、自分は俳句を作るのをちょっとした趣味にしてた
新聞とかに俳句を投稿して、自分の作品が載るのが嬉しかったのだ
だが今はしてない
どうしてかと言うと、大分前に、自分で傑作だ!と思った作品が一つ出来た
自分としてはなかなかの出来なので、すぐには投稿せず、ちょっと一人で眺めていて、一人でニヤニヤしていたのだ
気持ち悪いと思うかもしれないが、とにかくその句を独占して眺めるのがとにかく楽しかったのだ
そんなおり、ある有名の方の句集が出たというので、いつものようにそれをを買って読んでたら、思わず目が止まった
まったく同じではないが、一部の語が同じで使い方も同じ、非常に良く似ていたのである
もちろん、有名な方が私の句をパクったわけではない
そもそも、作った時期だって違うだろうし、有名な方が私の俳句を知る機会なぞまずない
https://ja.wikipedia.org/wiki/正岡子規
俳句の前途より
日本の和歌・俳句の如きは、一首の字音僅(わずか)に二、三十に過ぎざれば、(中略)その数に限りあるを知るべきなり。語を換へて之(これ)をいはば、和歌(重に短歌をいふ)・俳句は早晩その限りに達して、最早この上に一首の新しきものだに作り得べからざるに至るべしと
子規は、この後、明治で俳句は出尽くし終わるみたいなことを言ってる
私が俳句を作るのをやめたのは、この子規の話を急に思い出してしまったからだった
私が傑作と思って作った例の俳句は、どこかへ投稿すればきっと、パクリと言われるに違いない
そのことをどんな抗弁しても、きっと酷く中傷されるだろう
でもそれが嫌で、俳句を辞めたわけではない
私の中で、俳句と言う芸術が、もう限界なのではないかと思った瞬間、ふっとあれほどあった情熱が冷めてしまった
消えてしまった
アマチュアの私は、簡単に逃げられるが、プロの方はどうなんだろうなと時々思う
まだ新しいものを生み出せるとロマンティックに信じているのか、それとも惰性か
佐野研二郎さんはどう思っているのだろうか
話を聞いてみたいものだ