はてなキーワード: 梅佳代とは
出張から帰ってきたらカメラ談義で手斧飛び交いまくってたことを知ってとても悔しい気分だよ!
被写体への愛とか、アマチュアは一眼レフ捨てろとか、手っ取り早く撮影できるコツを教えろとか、ひとまずみんな正しいよね。
だけど、写真を撮る上で本当に本当に根幹にある部分について誰もまだ言及してないことがあるよ。
それはね、写真に映る世界は撮り手が見てる世界でしかないってことだよ。
だって、カメラは透明人間ではないから、その空間には必ず撮り手がいるはずなんだ。
だから、写真には必ず撮影者と被写体の関係性が映るはずなんだよね。
その関係性っていうのが、人が写真を通してみたいものの一つでもあるんだ。
例えば被写体とのダイレクトな関係性を写す写真かといえば梅佳代ちゃんだよね。
そもそも逆立ちできないし、でももしかしたらそんな惨めな姿を眼の前にしている人との意外な関係性が写せるかもしれないね!
被写体との関係性を高い次元で成功させているのはアンリ・カルティエ・ブレッソンだよね。
彼は決定的瞬間を発明した人間として有名だけど、それよりもすごいのは膨大な数のストリートスナップだと僕は思っているよ。
どうしてそんな瞬間に居合わせたんだろうっていう写真もあれば、写ってる人に見つかったら大変なことになりそうなドキドキを感じる写真もあるよね。
被写体に愛があることは大事だけど、被写体に愛がないというのも関係性なんだ。
商用であることを前提にしないなら、そんなことを気にする必要なんてないんだ。
それよりも何よりも愚かなことは、自らの関係性に目を背けて他人の関係性を真似しようとしかしないことだ。
当然関係性というのは人に対してだけじゃなくてものに対しても生まれるよ。
被写体に対してどういう想いがあったかによって見え方だって変わってくるし、感じたままを写そうとすれば撮り方だって変わってくるよね。
そんな他人でも作れる写真をいくら量産したって、自分にとって何の意味も持たない。
これだけは断言してもいいよ。
次に機材の話。
だって、自分の目から見える世界とカメラに写る写真とは同じはずがないからね。
だから、自分の見た世界にどれだけ近づけることができるかを考えて、機材を選ぶんだ。
高ければいい写真が撮れるなら、みんな高い機材使うよね。
違うよね。
君が機材との相性が合わなかったり合ったりを感じるのは、君が見てる世界との違和感を感じているからだよ。
だからアマチュアだって一眼レフを使ってもいいし、使わなくてもいい。
どちらでもいいけど、自分が追い求めるべきは、自分の見てる世界の表現だと割りきったほうが、余計な機材を買わなくて済むよね。
それはね、自分と自分以外の関係性に恐れず一歩踏み込むことだよ。
もしそれが自分と周囲との関係性を表現してたなら、それをつまらないと言われたら腹が立つのは当然のことだよ。
僕だって、人の中に交わるより遠くから冷静に眺めてる事のほうが好きだ。
もしその奥さんが自分と周囲との関係性を汲みとって写真に撮ってと言ってたとしたなら、そしたら話は早いよね。
僕は奥さんのことを知らないからなんとも言えないけど、例えば僕が奥さんと一緒にいる時は、奥さんと子供が楽しそうにしている雰囲気を奥さん目線で撮ったり子供目線で撮ったりするよ。
この人に限って言えば、デジカメじゃなくてチェキを使って撮ったら面白いかなって思った。
暗い部屋の中ならフラッシュが届く距離も限られてくるし、すぐに写真を渡せるから相手のリアクションを楽しみながらコツをつかめるんじゃないかな?
最後に、もし写真を楽しみたいならハイスペックな防犯カメラになるのだけは止めよう。
その風景はあなたがいて初めて出来上がった風景なんだから、それをしっかり写真に収めていこうよ!
そうしたら、きっとカメラの役割が記録から記憶に変わっていくと思うんだ!
みんな偉そうなことを言ってる割には、こんな基本的なことも忘れてんじゃない?
梅佳代という女性写真家が、「じいちゃんさま」という写真集を出している。
彼女の祖父を撮影したものなのだけど、それに関するインタビューを思い出した。
「あたし、小学生の頃からじいちゃんとばあちゃんと寝とって、ふたりが死ぬときのことをいろんなパターンで勝手に空想しとったら、本気で怖くなって哀しくなって勝手に泣いたりしとって。だから、遺影っぽい写真になるのは絶対嫌やなって。でも、じいちゃんたちのほうは自分の死を完全に普通に受け入れてて、それがすごすぎですよ」
老いて死が近づいてると恐れは無くなってくるのかなと思う。自分はまだ老いること自体が怖いけれど。