はてなキーワード: 多種多様とは
あなたの言う質の高さって、メディア側の作ったプロモーションの情報そのままを鵜呑みにして、上辺だけで判断してるようにしか見えないんですが。
>理由の1つ目は、消費者が他のCDを買う金がなくなってしまうこと、また他の音楽への興味を失ってしまうことだ。人が娯楽に使えるお金には限度がある。初音ミクのCDを>買えば、もしかして初音ミクより好きになるような良いCDが近くにあったかもしれないのに、それには目もくれず帰ってしまうことになる。そして、CDが売れずアーティス>トの収入にならなければ、音楽を止めるか、少なくとも活動を縮小せざるを得ない。1日中音楽のことを考えるのと、会社から帰宅した後のみでは、どうしたって音楽の質>に差が出てしまう。
こんな馬鹿馬鹿しい文を重ねてまで初音ミクを買わせたくないんですか? こういうのを世間では競争っていうんですよ?
何回言ってもわからんみたいだから何度でも言うよ
ものの価格は需給で決まる。これは車でもサービスでも音楽でもゲームでも同じ。
ただ、音楽やゲームはコピー可能だし誰かが消費しても消滅しないので何度でも使えるという性質がある。
そのため、慢性的に供給が需要を上回る状態が続く。これは避けようのないこと。
結果的に価格はゼロに近くなり、場合によってはマイナスになることもある。
こんだけ。
各コンテンツが独立的な市場を持っている状態になれば、供給と需要の乖離を縮小できる可能性がある。
その場合の間仕切りになりえるのが、それぞれのコンテンツが持っている文脈。文化みたいなもの。
ニコニコ動画は多種多様なコンテンツを平面的に並べてしまうので
でも、初音ミクの場合、ニコニコ動画そのものが場として文化の醸成に寄与した。
だから、売れる。
わからないところはとことんわかるまで調べ考えるのがスタイルだし、そうでなければ納得できずイライラするだけだ。
しかし、この資格はそこまで突っ込んだ勉強をしなくても暗記とパターン学習で合格できるものだ。合格が目的なら、突き詰めて納得することは脇に置くのが最適になる。理解できなくとも、それが試験範囲のほんの数%くらいならば、はっきり言ってわからなくてもいい。他のところで力をつけた方がよほど合格の確率を高められるからだ。
だが、そもそも勉強するのは実力をつけるのが目的ではなかったか。試験に合格するのに特化した薄っぺらな勉強ではなく、わからないところは調べ、納得し、関連箇所とともに体系的に理解し、問題も多種多様とき、身に付いた実力の結果として合格する。これが理想であろう。
※※※
この資格の合格は上から求められている。やはりその限りでは合格という結果に気持ちが傾く。合格を最優先の目的とするか、理解と基礎からの実力アップを目的とするかで迷う。求められているとは言え、2度3度のチャンスと猶予はあたえられている。実際に勉強を進めている感覚で言うと、わからないところを敢えて飛ばすのは私の性格的に非常にストレスフルである。そのイライラのおかげでその後の勉強に身が入らないこともしばしばだ。飛ばした箇所が気になるのである。全て完璧にわかっていたいという欲求が強いのだと思う。この性向があるかぎりは、2つのやり方どちらをとっても、あまり生産性は上がらない気がする。一所にこだわって時間がかかるか、または、飛ばした箇所が気になって集中力が下がるかである。
どちらも効率よくないのなら、現在はまだ上からの圧力も強くないことだし、自分の性格にあったほうでやっていこうか。勉強がストレスだと、そもそも勉強すること自体を放棄してしまいかねないからだ。それよりは非効率でも実行するのがよい。それに何より気持ちがいい。
どれ?と言われても、多種多様なロリコンを十把一絡げに説明するのは不可能な気がする。
あえて私見をぐだぐだ書くんだけども、
精神的に子どもな奴がロリコン、という発想は、どうだろうなぁ。俺も小学生の時は普通に小学生とおつきあいしていたが、ロリコンが幼女を見る目ってのはちょっと違う気がする。むしろ先輩が後輩を見る目の方が近いような、つまり上から下っていう目線のような。
2の「優位」っていう発想なのかはわからんけども、上から目線の感情ってのは俺には説得力がある。
まぁ、幼女に嬲られたいっていう嗜好の人もいるけど、それもたぶん、自分より下であるはずの存在に虐げられることが、普通の女性に虐げられるよりもより刺激的だからかもしれん。
か弱い物を愛でる感情と性的感情が結合すればロリコンになるかもしれない。ラブラブ系のだるま萌えと同じ方向?そういや俺、鬼畜系のだるまは苦手だしなぁ。
3の「純粋さ」と「単純さ」は違うものの気がする。「単純さ」は掌で転がせる感じで上から度が高いけど、純粋さを求めるのは方向が違う気がする。純粋を汚したい人もいれば純粋なまま愛でたい人もいるから、その辺もどうしたものか。
「単純さ」は反抗的な相手の方が実感しやすいので、単純さを求める人は中学生に、逆に、中学生くらいだと「純粋さ」は損なわれてるのでより低年齢に行くかもしれない。
4物理的に小さい、うーん。まぁ小さいのは前提か。自分より大きな幼女とニャンニャンするって嗜好は聞いたこと無いからなぁ。エロマンガとかだと「キツキツだ」とか男に言わせてたりするけど、それが必要か、というとまたよくわからん。
小さいもの・か弱いものを愛でる感情が性欲と結合すれば、ロリコンになるかもしれない。愛と性欲は無関係じゃないから、その結合が人より強いのかもしれない。
でも破壊衝動と性欲が結合したロリコンもいるかもしれない。支配欲と性欲は無関係じゃないから、その結合が人より強いのかもしれない。
他のパターンもいるかもしれないしよく解らん。
ま、俺ロリコンじゃないし。
手塚治虫『人間関係が希薄な人は漫画は描けない。漫画とは読者との会話だからだ』
宮崎駿『ロクに人生経験も無いオタクを雇うつもりはない。火を表現するには火に触れないと駄目だ』
庵野秀明『アニメ・漫画に依存するのは止めて外に出て欲しい。あれはただの絵だ』
富野由悠季『オタクは日常会話が出来ない。アニメ作るならアニメ見るな』
藤子・F・不二雄『よく「漫画家になりたいなら漫画以外の遊びや恋愛に興じろ」だとか
「人並の人生経験に乏しい人は物書きには向いていない」だとか言われますが、
私の持っている漫画観は全く逆です。
人はゼロからストーリーを作ろうとする時に「思い出の冷蔵庫」を開けてしまう。
自分が人生で経験して、「冷蔵保存」しているものを漫画として消化しようとするのです。
それを由(よし)とする人もいますが、私はそれを創造行為の終着駅だと考えています。
家の冷蔵庫を開けてご覧なさい。ロブスターがありますか?多種多様なハーブ類がありますか?
どの家の冷蔵庫も然して変わりません。
「でも、折角あるんだし勿体無い・・・」とそれらの食材で賄おうします。
思い出を引っ張り出して出来上がった料理は大抵がありふれた学校生活を舞台にした料理です。
人生経験自体が希薄で記憶を掘り出してもネタが無い。思い出の冷蔵庫に何も入ってない。
全てはそこから始まる。
その気になればロブスターどころじゃなく、世界各国を回って食材を仕入れる事も出来る。
つまり、漫画を体験ではなく緻密な取材に基づいて描こうとする。
上は藤子絶賛コピペですが、手塚宮崎庵野の言葉をオタクへの攻撃としか受け取れないなら生産者側に回るのは絶対に無理です。そのまま消費するオタクにとどまっていて下さい。
藤子が支持したいと言っているのは、あくまで食材収集能力に長けた人であって、かわいそぶって空腹を嘆いている人ではありません。
手塚宮崎庵野の言葉で憤るのは、まさに空腹であるにもかかわらず食材が無いなら他所から仕入れて来ようという発想が出来ないことの証明です。
そうだなあ。情報量が少ないのでうまく言えないんだが、少しだけ補足しておく。
まず一番引っかかるのはこの部分。これは夢を諦めたって事で良いのかな?
そうだとすると、諦めた理由が大事になってくるかな。金銭面か合わないことが分かったか人間関係か健康上の理由かその他か。
やむにやまれない理由だってあるからね。
あとは自分が書いたことへの補足。親の言うことが信用できないなら尚のことだけど、今後の自分の進む道を考える際に金銭面での援助が得られにくいんじゃないかなと思ったから、親とは話をした方が良いって書いた。(場合によって歩み寄ることが出来たときに金銭的な援助が期待できる。)でもそのためには少なくとも自分自身の希望をはっきりさせておかないとまずいし、意見が食い違ったときにどうするかも考えておいた方が良いかも。
次に、人の意見を聞きすぎて人の意見を聞けなくなったのは、それはそれで一つの成長なんじゃない?人の意見は十人十色。全てを聞こうと思ったら矛盾だらけになるし、取捨選択するのは自分しかいないんだから、多種多様な意見を聞いた上で良さそうなものを、「俺はこれを選ぼう」って自分で決めればいい。そう考えられる一つ前の段階に来たんだと考えられないだろうか。
友だちがいないのも、いらないと思っていていないのと欲しいと思っているけどいないのでは全然違う。いらないと思っているのなら、それはそれで君の価値観だから私がどうこう言えるものではないし。
欲しいけどいないのなら、仮にどんなとこでもいいから「学校」に進めるのならば、これからつくるチャンスはいくらでもある。
あとは君のおかれている環境によるけど、私の周りには社会人になってから大学に入り直した人もいるし、2浪以上している人だっている。
君の学力も分からないから当てずっぽうなアドバイスになっているかも知れないが。社会人になるときの世の中の景気によって人生いろんな方向に転がる人間が大勢いるんだから、まずどうしたらいいかってじっくり落ち着いて考えることでしょ。
もはや何年も前から言われてることだが、「2ちゃんねらー」でひとくくりにする人が未だに後を絶たない。
それは「VIPPER」なのか「ニュー速民」なのか「プラス民」なのか「毒男住人」なのか。
各板で全然特色が違うし、住人も多種多様すぎる。
うちの教授もコテハン持ってるし、BNFだって2ちゃんねらー(だった?)わけだし。
まぁ、「これだから韓国人は」とか「アメリカ人は」とか一くくりにしたがるのは昔から変わってないから仕方ないかもしれないが
まともな議論をしていると思っている人が「2ちゃんねらーは」とか言ってるのをみると「やれやれ」と思ってしまう。
もっとひどいのは「2chスレまとめサイト」を指さして「あいつらは」という人。
そのブログに付けられたコメントを指して「痛ニューに集まる奴らは」というのならまだしも
スレ番号飛びまくりのブログ主の好み出まくりの2chスレを見て
「これだから2ちゃんねらーは」とか言われるとどこから突っ込んでいいやら。
痛いニュースを見て「これはひどい」とか思って現行スレを覗いてみたら割とまともだったなんてのはしょっちゅうあること。
2ch見たことない人間がまとめスレ見て批判するとか、勘弁していただきたい。
中学生に向かって言うのならまだいいのだが、割と大人な人の主張に対してこういう言葉を使う人はもうちょっと考えた方が良いかと。
ほとんどの場合は「上からの視点」なんてなくて、それはただの「横からの視点」なわけで。
見方を変えただけで上から見た気になって
「お前らの意見はまだまだ」
と議論放棄する人が割と多い。
「そんな風に考えていた時期が俺にもありました」
の一言で片づけて終わり。
同じように「多角的な視点で議論しよう」という感じで「広くが全て」という人も多い。
もちろん、広い視野も大事ではあるのだが、「深さ」も重要だと分かっている人が少ない。
どれだけ深く洞察したかを加味せず、自分より下の視点(狭い視野)だと判断すると議論放棄する人をたまに見かけるが
もう少し相手を敬ってもいいんじゃないだろうか、と思う。
相手もそれなりの洞察を経て、その意見にたどり着いているのだから。
人の意見に感銘を受けて、それを他者に話すというのはよくあること。
実は人の意見なんてそれがすべてかもしれない。
ところが、その2ホップ後の意見を聞いて、それを批判して、元の1次ソースに対して「たいしたことねーな」と言ってしまう人が多い。
割と有名なAという人に感銘を受けたBという人が、CさんにAさんの言ってることを鸚鵡返しのごとく話したところ
Cさんはそれに対して反論して、Bさんがそれにこたえられなかったときに
「Aは大したことねーな」
という人のこと。正しくは
「俺にはよくわからなかった」
割と2chに偏ったけれどこんなところかなぁ。
http://d.hatena.ne.jp/tokigawa/20081215/p3
こう思う人がとても多いのだろうなと素直に賛同できました。
超ライトオタクは誕生していない。ぬるオタが歴史から抹消されている
http://anond.hatelabo.jp/20081222122907
興味深かったです。
たぶん私と年齢が近いのでしょう、「そうそう、そうだよね-」 と過去を思い返す事柄が多く書かれており、フムフムとなりました。
まず、オタク文化をライトに消費する「オサレ」な層がいきなり現れたかというのは間違っている。急に出現したかのように感じるのは錯覚だ。 このように横断的に消費していく層というのはずっと以前からいる。急に出現したかのように感じるのはやっとそのような層の声がインターネットなどによってオタクにも届くようになっただけであり、または可視化しただけだ。これは「オタクはやめることができない」という勘違いにも言えることだが、今までオタクの歴史を紡いできたのがガチなオタクだけだったために、ライトに見える横断的な層というのが無視されてきたのだ。それによって近年、急に現れたかのように見える。だけど、ずっとずっと前からいたのだ。 例えば、クラブ系イベントを消費する層がオタク文化に流入してきたという風に書かれているが、テクノというのはかねてからオタク文化と親和性が高かった。
たぶん日本で1番の集客・規模・トップアーティストの数だと思われるテクノのお祭り 「WIRE」 ですが、今でこそおしゃれな若者・クラブで遊んでいるような若者・若くはないがおしゃれな人・個性的でかっこよい人、などでフロアが埋め尽くされているように見えますが、私が見てきた範疇での観察ですと、2002年ぐらいまではお客さんのほとんどが、地味な、いわゆる「テクノヲタ」と呼ばれていた人達だったように思えます。
それは、同じように大規模なダンスミュージックイベント 「メタモルフォーゼ」 でも同様でした。
いわゆる「テクノヲタ」と呼ばれるような人は、私から見たら、まぁ、コミケにいるような人達と似たような外見だなぁと。
細かく観察すればけっこう違うんですけど、パッと見、同じ。
地味でおしゃれには興味がなさそうな外見の。
いわゆる「クラバー」とは、外見が全く違いました。
クラブでもテクノはかかっていましたが、「その場を楽しむ」クラバーと、アーティストや楽曲にこだわりを持つテクノヲタは、同じ場所で遊んでいるものの、全く違う人種のように見えました。
まぁ実際、何の業界でもそうなのですが、人間て多種多様なので、簡単にいくつかにカテゴリ分けなんてできないのですけども。
実際にそのような外見の方とフロアで話をした事が当時の私には経験がなかった事なのでわかりませんが、彼ら彼女らは「WIRE」にも「コミケ」にも行っていたのかもしれませんね。
いや、きっとそうに違いない!と思いたい。
当時の私はと思い出すと、エヴァンゲリオンを欠かさず見てビデオにも録画し、プラモを作り、雑誌などでコスプレの女子を見て「キモーい!」とかおしゃれなサブカルな仲間と言いつつもコミケに憧れていたり、93年ぐらいから急に世の中に広まったように見える、電気グルーヴから知った、ジャンルでいえばテクノを聞きつつも、裏原宿系が流行っていた頃でしたので、初期エイプやらバウンティハンターなどそのような服を並んでまでも買い身にまとい、そしてそのようなファッションと密接にリンクしていたメロコアなどのパンクのバンドのライブやイベントに足しげく通うとゆう、まさにおしゃれとオタクを行き来する、「超ライトオタク」 だったのかもしれません。
そうゆう若者は当時多かったと思いますね。
確かに、「超ライトオタク」は今いきなり出現したのではないような気がします。
そして、「DENPA!!!」。
1度行っただけなのですが、まぁ、「クラブイベント」と呼んでしまうのは私はちょっと首をひねる感じでしたよ。
(クラブ)とゆう場所で (DJ)(アーティスト)が (曲を途切れることなくつないでいく)
基本は同じなのに、どうしてこうも、私が長いこと遊んできた(クラブ)とは全く違うノリと人種なのだろう、と。
私はバンド(ロック・パンク)のライブにも100回や200回じゃ足りないであろうってぐらい足を運んでいますが、DENPA!!!はそれともまた違うノリだったのですが、どちらかといえばこちらのライブのノリに近かったのです。
そしてメインフロアとサブフロアをつなぐ階段には、コスプレな方たち(美人・イケメソ多し、たぶん私服はおしゃれさん)が交流をはかっておりました。
このへんはクラブでの、初対面でも(目があったらニコッ→軽い会話を交わすものの特に深い意味はない→2度目に会ったら「こないだ会ったね!」と顔見知りになる→何回か会ううちに本当の友達になる)こんな感じのノリの図式があてはまっているのだろうなぁ、ここの部分はクラブノリか、と感じました。
ところがこれが DENPA!!!以外の 同人音楽イベントではあまり見られないように感じます。
(まぁ、私が行った事のある同人音楽なイベントとゆうのもいくつかしかないのでその中での判断になりますが)
外見がまさに「オタク」イメージそのまんまなオタクな人達はそうゆう交流が苦手なようですね。
DENPA!!!と同じように (クラブ)とゆう場所で (DJ・アーティスト)が 曲を流しているのに。
だけど、どんな人でも話してみないと、どの程度ののめりこみかたでオタク文化を消費してるのかわからないので、「超ライトオタク」「ガチ」「ぬる」の度合いってわからないですよねー
やはり第一印象外見で判断されてしまうのって 避けられないのだな、と
外見が 「オタク」 な 若い子たちは、もう少しファッションに力をいれてほしい!と せっかくの若さもだいなし!と 東浩紀さんと同い年の私は思うのでした。
まず第一に「アスペルガーは一般的な自閉症とは別である」と考えていただきたい。
症候群の名が指し示すとおり、
明確な症状の傾向があるわけではなく、
その症状は個人によって実にバラバラなものです。
環境や周囲の対応、1次的な症状の組み合わせで多種多様な様相を見せることから「症候群(症例が多岐にわたる)」とされています。
次に、その特徴ですが、、「愛着(こだわり)」「想像力」「コミュニケーション」という点に問題を抱える発達障害というものです。
知的障害は併発せず、知的程度は常人と同程度であると考えてもらえればいいかと思います。
よく「アスペルガーは天才」などと言って、アスペルガーを自称し、特別視したがる人もいますが、
これは愛着(こだわり)が一方向に固定されやすいために一部分が特化してしまう事が多いのです。
サヴァン症とよく混同される方が多いですが、注意を。
具体的には、
・物事に強いこだわりを持ち、特にルールや規則を厳密に守ろうとする傾向が強い
・行間や非言語的なコミュニケーションを読み取れず、言葉を額面どおりに受け取る
・自分の興味ある作業には驚異的な集中を見せるが、それ以外のことへは我慢ならないといった特徴
・自分の主張(本人は完全に正しいと信じている)を否定されるとパニックになったりする
といった傾向があります。
しかし、一方で、プログラム作業(一定のルールに従う)や絵画・芸術(こだわり)といったものに特性を発揮する人もいますし、
特性を理解していれば良好な人間関係を築けます。
最後にこれだけを言っておきたいのですが、
あくまで原因は器質的な要因(脳機能の問題)であると研究がなされています。
また、アスペルガーを犯罪と結びつけるような報道が目に付きますが、
腫れ物に触るような発達障害への無理解を広めるようなことにならないよう願っています。
http://anond.hatelabo.jp/20081122005902
体罰を受けて自分の為になったか?という質問に私が答えるなら「どちらでもない」と答えることになるでしょう。
私(21男)の小学校の6年間、色々な先生が居ました。その中に体罰と思えるような事をした先生が2人居ました。
1年生時の担任の先生と6年生時の担任の先生。仮に前者をA先生、後者をB先生としておきます。
1年生の時、私は小学校に入学したという喜びで浮かれていて授業中も静かにせず、挙句は隣の子にちょっかいをかける始末。
今考えると我ながら何をしていたんだろうと思います。
その時の担任のA先生(50-60代の女性)はそんな私を手に余らせたのか、始めに私を隣の席から離して壁際にしました。
しばらくすると、A先生から入っても良いという声がかかり、中に入ることが許され何が悪かったのかを説明して、この後ちゃんと聞いていられるように注意しました。
夏休みの宿題をやってこなかった私に手を上げることもありましたが、期日を設定しそれまでにやってこいと言われました。
6年生になって今までと同じように過ごして居たのですが、当時の担任のB先生(40代男性。恰幅がよい)にはたびたび(というか頻繁に)叱られました。
1週間に一度以上は叱られていたように感じます。
宿題を忘れて、授業に少し遅れて、給食を食べきれずに、掃除を真面目にやらずに、授業中に勝手に発言したり……
思い出せばきりがないですが、大体私に原因があります。(中にはとばっちりや私に原因のないものもありますが)
その中で特に覚えている2つ。
ひとつは、当時放送委員会に所属していた私が給食時の放送で、放送が聞こえたり聞こえなかったりした時にB先生が「放送室に行ってきて、聞こえないと言って来い」と言い、給食の途中だった私に放送室(教室は3F、放送室は1Fの奥)まで行かせました。
給食の途中ですし、その日の放送当番はあまり会いたくない相手だったので気乗りせずに階段を下りていきました。
階段を下りていく途中、放送がちゃんと聞こえるようになったので「これはしめた!」と思い、教室に戻って給食を再び食べ始めました。
そしたら、また放送が聞こえなくなったのです。その時にB先生は「おい増田(仮名・私)。ちゃんと放送室で聞こえないって言ってきたのか!?」と私に問いました。
私も私でバカ正直なので「すみません。途中で聞こえてきたのでもう良いかと思いました。」と答えたのだが。
(B先生は児童に敬語を強要してた。タメ口で話すと「先生は君の友達じゃない」と言ってた。まあ、この頃から敬語を話せるようになれば後々役に立つので、その点に関しては私は賛同する。)
何が気に触らなかったのか、私を自分の元まで呼びつけ怒鳴りつけました。更には私の首根を掴み若干私が浮くぐらい持ち上げて怒鳴りつけました。
元々恰幅の良いB先生がそんな事をしたら小学生は萎縮してしまいます。
叱られている間に給食の時間は終わり、放送も中途半端な状態のまま終了しました。
給食の時間の後の掃除の時間が始まり、やっと解放され周りが掃除をしている中、後ろに下げられた机で給食を食べることを許可されました。
確かに私が言われたことを実行しなかったことも悪いのですが、何故そこまでの仕打ちを受けなければならないのか不服でした。
もうひとつは、夏休みの宿題を忘れた時。2週間ばかり出さずに私を含む数名だけが宿題をやっていない状況でした。
その時、忘れた者に対しB先生は各人を自分の元に呼び「この宿題はいつ出す?」とそれぞれの宿題の提出可能時期を聞いていました。
私に対しても聞いてきたのですが、私はその時に全然(夏休みの友以外の)宿題に手をつけておらず一切宿題提出時期のめどが立っていない状況でしたので、
バカ正直にほとんど全ての宿題に対して「いつ出せるかわかりません」と答えました。
すると、その返答にキれたのかB先生は私の首根を掴み、教室から連れ出して階上にある音楽室まで引き摺りました。
その上、音楽室にある個人用のオルガン机に私を押し付け、上から首根を押さえ、その状態で叱りつけました。(私は ┐←このような状態で仰向け状態でした。)
その状態でB先生は「いつ出すんだ!?」と問い続け、私は泣きながら謝っていましたが、やっぱり私はバカ正直なのでいつ出せるかわからずに「わかりません」を繰り返していました。
その状態が5分くらい続いたでしょうか?B先生は私の返答に痺れを切らし、体勢を変え、今度は私を壁に押し付けました。
音楽室の壁は音響のためか/\/\←このような山状になっておりその谷間に私を押し付けました。勢いが強く、私は咳き込むほどでした。
やはりその時もB先生の恰幅のよさのためか大変怖かったと記憶しています。
そして、またB先生の「いつだす!?」の質問です。もうバカの一つ覚えかの如く同じ質問しかしません。
また、私もバカなので「わかりません」の回答しか出来ません。
最終的にB先生は「○日までにやって来い!いいな!」と言い、職員室へ戻って行きました。
当時、どっちかって言うといじめられていた方なのであまり他のクラスメイトは心配してこなかったのですが、この時ばかりは、教員の親を持つ友達から「教育委員会に言った方がいいんじゃない?」と言われました。
と、2人の先生のエピソードを書きましたが、
今思い返せば、A先生の時の体罰は役に立ったし、A先生に感謝したいくらいです。(ベテランの方なので慣れていたんだと思う)
逆に、B先生は当時も時間のたった今でさえ忌々しく思い、今でも恨んでいます。
A先生の場合、叱った後に何故それがいけないのか、どうしたら良いのかを私に諭してくれました。
が、B先生の場合は叱るといっても同じ言葉の繰り返しが多く、だからどうすればよいという事を私に言わず、「だからお前は」的な言葉が多かったです。
なので無意味に時間のみが経っていく様に感じました。(子どものような叱り方)
この2人の先生を見ていて、一概に体罰が役に立たないと言えないのでは?と思います。
叱るのが上手い先生、下手な先生多種多様なので体罰がいけないとは答えられません。
B先生の場合、私がいけないと思う点も有りますが、相手は小学生なのですからそのあたりも「大人」としてその児童に合った叱り方をすべきだと思います。
他にも小学校6年間で良い先生、嫌な先生は居ましたが、体罰を振るうことはありませんでした。(うちの親曰く通知表に書いた内容が「言葉の暴力」だという40代女性の先生は居ましたが。)
今思えばいじめを含み、よく不登校にならなかったものだと自分でも思います。メンタルが弱い子なら多分不登校になっていたことでしょう。
多分、祖母から戦前の教育を聞いていたから「それよりはマシだ」と思っていたからだと思います。(常に竹刀を持ち歩き、常に眉間にしわを寄せて、少しでも悪いところがあったら竹刀で叩くというもの)
長々と失礼しましたが、世の中色々な先生が居てその先生のスタンスも多種多様で何事もひとくくりには出来ないものだと思います。
中学時代、マッカーサーと呼ばれたロマンスグレーの美術教師は言った。
「本当にすばらしい芸術とは、万人にわかるものか、それとも一部の人にしかわからないものか」
生徒たちは沈黙する。
教室をサングラスの裏からひとねめした後、とくにもったいぶるそぶりも見せずマッカーサーは続けた。
「答えは、一部の人にしかわからないもの、だ」
ざわ・・・ざわ・・・(※誇張)
「真に優れた芸術とは、それが真に優れたものだとわかる能力のある者が見て初めて良さがわかるものである。万人に良さがわかるものは真に優れたものではない」
はりつめた空気を揺り動かすかのように鳴り出すチャイムの音に合わせて振り向くと、
「覚えておくように」
看守の残すそれに似た靴音を響かせマッカーサーは教室を去っていった。
覚えておくようにと言われたその言葉を聞いて以来、わたしはずっとその理由を疑問として抱えながら生きてきました。
しかし、未だにその答えは見出せていません(マッカーサーには怖くて聞けていません)。
「真に優れたものだとわかる能力のある者」とそうでない者の差が、本当の意味で存在するのかどうかの、すっきりとした納得がいかないからです。
もっと言えば、「”真に”優れたものだとわかる能力」って何ですか?ってことです。それが「真に優れたものだとわかる能力」だってことを、保証してくれるのは誰なの? わかると思っている人の自己満足ではないの? それとも限られた「真に優れたものだとわかる能力」のある者同士? もしくは「『真に優れたものだとわかる能力』だとわかる能力」のある者なんてのがまたいるの? いずれにしても一部の人にしかわからない良さ、それってその一部の人たちの嗜好とどう違うの?ってことです。
嗜好であるにしても、それがその限られた人たちの豊富な知識や経験に裏うちされたものだってことはわかるのです。ですが、その豊富な知識や経験を有する人だけが「良い」とわかるものが、そうでない人も含めてより多くの人が「良い」と感じるものより上である理由がわからないのです。逆に言えば、多くの人が「良い」と感じるものを、わざわざ「いやそれは本当は優れてないんだよ」ということにできる意味がわからないということです。
それこそ、より優れた芸術作品とは、この多種多様な嗜好をもつ知的生命たちのより多くの固体に、「良い」と認識されるものではないのでしょうか。
ごく一部の者にとっての「良い」ものは、所詮その一部の者たちにとって優れたものでしかない、というわけではない理由はあるのでしょうか。
例えば私は漫画を描きますが、いくら私が技巧を凝らして、「これはすばらしいものだ」と思えるものができたとしても、見てもらった人々に「つまらない」「面白くない」と言われたら意味がありません。
「いや、このコマがこうなっている理由は、これこれこうだから。そしてここに歴史あるあの物語から換骨奪胎した暗喩を印象的に配し、それがまたここの斬新な伏線とのシナジー効果で・・・」等と説明すればできますし、そういう意匠に気付く人にだけ「おー、面白いね」と思ってもらえること、それ自体に意義が無いとは言いません。ただ、気付かないような万人でも「面白い」と思えるものよりそういうものが上だとはとても思えない、思える理由がないのです。
多くの人たちの支持を得ているものは、それだけで価値があると思うのです。
小室哲也の音楽は、大衆支持されこそすれ、一部では曲の軽薄さを馬鹿にされていたりもします。
「小室の音楽ってのは、薄っぺらいというか全部こんな感じで、こういう風にすれば全部小室の曲っぽくできる」
っていうのを実践してもらって、
「ほんとだー」
と感心したことがあります。
しかし、私は小室の曲は耳に心地よいと思う”大衆”の1人でした。そして、他ならぬ私が心地よいものは私にとって心地よいものに他ならず、内情を知ったからと言って耳に心地よくなくなるものではありません。私の「良い」は、私以外誰にも覆せないわけですし、それは誰にとっても同じことです。
そもそも「良い」と言っている人が感じているその良さが、真なる良さなのかそうではない低レベルな良さなのかなど、誰がどのようにして決めることができるのでしょう。決められないのだとすれば、その作品を「良い」とする者すべてが、その作品に対しては「優れたものだとわかる能力のある者」であり、「優れたものだとわかる能力のある者」を多く生み出せる作品ほど、真に良い作品なのではないでしょうか。
もしそうではないのだとしたら、誰かマッカーサー先生の残した言葉に説明を加え、どうか私にもわかるように教えてください。
そして小室哲也は、どんな曲が”多くの”人に「良い」と思われるかに気付いて、その良いものを、「良い」と思われる時期に、できうる限り提供しておこうとした、才能と熱意のあった人物ではないでしょうか。
<<注>> いまも才能があるかはわかりません。そしていくら才能があっても人に迷惑を掛けることは宜しくありません。私が評価しているのは、あくまで彼のかつての音楽に関してのことです。
あと学問という話では?暗号理論を学問としてやるのなら数学は必須だろう。
あと情報科学でやってるのは情報伝送(情報理論・符号理論)だけでなく,離散数学,言語情報解析,数値解析,情報セキュリティ,数値シュミレーション,アルゴリズム,人工知能,情報解析,計算機言語,ビジュアル系,離散数学,生命情報,データベース,金融工学など多種多様なので一概には語れない。
画像認識の分野しかあんまよくわかってないが少なくともこの分野では,相関法,オプティカルフロー,エッジ検出,特徴点抽出,正弦波パラメータ推定,逆問題などがあるので微積確率統計応用解析信号処理は最低限必須。使える程度に数値解析などはわかる。データベースや言語解析の人たちだとマッピングなどがあるので幾何数学は必須。数値解析とかやる人たちは凸解析法とか真剣に考えてるよね。
学部のころはとりあえず代数幾何解析確率統計情報理論信号処理論制御論コンピューターアーキテクチャあたりは一通りやったよ。複素解析とかめんどくさかったなぁ。ルベーグ積分とか面白いよね。
マジメにレスすると、一概に非モテ男子といえどもその集団の個々の中身は多種多様だから。
今はモテなくてもどうにか自分を変えてモテようと思って努力を厭わない、ポジティブ非モテ(早く人間になりたい系)。
今までモテてこなかったしこの先も自分がどうしたって幸せになる想像なんて今更できない、ネガティブ非モテ(自称だめ連系)。
モテないしモテてもどうせロクな事ないんだから(ソースは電波男)、今の自分は決して好きじゃないけど
世間の人間はもっと醜いからそれなら今の自分を守って一生一人で二次元の彼女と生きていく引きこもり非モテ(オタクの穴熊系)。
俺がモテないのは世間がおかしいからであり、世間の女は俺が男で控えめで優しくて博学なのを
もっと認めて、女の方から俺に慎ましく告白なんかしてきて言い寄ってくるべきであるという夢見る非モテ(それなのに電波ミソジニー系)。
今まで割と普通に、ちょっとオタクに生きてきた位だけど全然持てた経験がないし、ぶっちゃけ顔も服装も決して良くはないけど
メチャクチャ悪いわけでもないし、ぶっちゃけ自分のどこがダメなのか自分でもよく判らないはてな非モテ(文字通りはてなに多い系)。
自分がモテないのは自分が生まれつき顔面障害者であり性格も恋愛障害者だから仕方ないのである、っていうメンヘル非モテ(逃げ逃げ系)。
モテないけど正直もうそんな気にしてないし、それよりも恋愛は諦めておいどんは男の道を行くゴワス系(タモリ倶楽部系)。
etcetc。
そんな人達にひとつの方向から「非モテに告ぐ」的なエントリを送っても、上手いことひとつの方向にはヒットしてもあとの方向には響かない。
そんで「俺たちのことを全然判ってないじゃないか」って言われるだけ。なんだと思うよ。
ううむ、もうちょっと頑張って人文学を肯定して欲しかった……。
なお人文科学はそれ自身が人間を研究テーマにおいており、表現する際に用いる言語が数学(数式)ではないため、
文学の一番良くないところだと俺は思う。
「まあ曖昧だけどここはこう読むべきなんだよ。根拠? フィーリング!」とか
「なんか曖昧で俺には良く分からないけど、
とりあえず偉い人の書いた文章だから凄いんじゃね?」
という不健全な態度に繋がる。
むしろ文学は正確さを目指すべきだし、本当に凄い文学作品はかえって正確で、
これしかない! というふうに感じられる気がする。
それで、文学が正確に表現しようとしているものって何?
と聞かれれば増田がさんざん言っているように感情や人間性だと俺も思うのだが、
じゃあ感情とか人間性って何よ?
なんで(増田の主張によれば)自然科学(還元論)だとうまく扱えないわけ?
という突込みが当然入る。
感情とは何かって、もちろん楽しかったり悲しかったりすることだ。
でも単に楽しかったり悲しかったりするだけなら、難解な文学表現なんて不要で、
単に「楽しい」「悲しい」とか書けば済む。
「悲哀計」みたいな道具があって感情が量れれば、
「俺悲しすぎて今朝360mmHgもあったよ」という正確な表現もできるだろう。
が、もちろん感情はそんな単純に扱えない。
なぜなら、それぞれの感情は全部独自の今だけココだけあなただけのもので、
コンテキストから切り離して(還元して)扱うことが本来はできないからだ。
例えば、
非モテの三十路越え男性が初めて女性に告白されたときの喜びと、
モテ20代前半男性が何人もの女性を乗り越えた末に理想の相手と巡り合ったときの喜びは、
それぞれまったく違う。
で、文学が伝えたいのってそういう《ある感情(人間・情緒)が他とどう違うのか》ということだと俺は思う。
その違いを表現するために、
小説みたいにコンテキスト(人物の過去とか考え方とか)と一緒にしてみたり、
言い方を色々変えてみたりする。
文学は違いを明らかにするものだ、と俺は思う。
で、翻って自然科学を見ると、目指すところがちょうど逆。
自然科学はむしろ、違うように見えるものの間に一般法則を探す、という考え方だ。
多種多様な現実世界をより少ない(しかし十分な)情報量で表現できれば勝ち。
自然科学は同じところを探す。
で、文学も自然科学も、方向は正反対だけど、同じくらいマジになって人間を探求していると思うわけだ。
それぞれ相反しているということも無いと思う。
自然科学が極まって、あらゆる人間の行動が予測できるようになったとしても、
ぶっちゃけ小説だって最後まで決まった筋しかなくて、それでも感動できるんだし。
コンテキスト同士をぶつけてその人だけの読解を作る。
創作物だから、文学作品のように良し悪しを評価することはできる。
良い読みなら多くの人に共感されるだろうし、悪い読みなら否定される。
でも、だからといってテストのような方法で評価するのは多分間違い。
図画工作の授業で、先生と同じような絵を描いた人ほど高得点、という評価をするようなものだから。
本当は読書会のように、それぞれどんな風に読んだか・なぜそう読んだか、を話し合えれば良いんだろうけど、
大の大人でもなかなか難しいことだからなあ……。
実際は自然界をはるかに超越していて、現実世界に応用できるのはたまたま偶然。そこが数学の凄いところ。
(物理学の要請に従って数学が進歩した例はあるけど、それでも自然界から独立した体裁を取り繕うハズ)
196883次元の空間で回転する球が……とかいう話をどこかで聞いて萌えた。
連日の長文スマソ。
二年先輩の増田になるな。
二年先しか生きてないから、えらそーな事は言えないけど、現役っていう意味では聞いて損はないと思う。
というのも、俺が高校生活で良かったことと、後悔したことだ。
自分を振り返るためにも書かせてもらう。
まずは勉強だ。自分は自分なりながらも結構やってきたつもりだから後悔はない。
あたえられた課題はしっかりこなすこと。増田は賢いだろうから大丈夫だと思うけど。
あとはほかの勉強だ。増田が過去のことを引きずるのはわかるが、自分は現在生きているわけで、これからも生きるんだから、気持ちとしてプラスになることを考えよう。そいつらを見返す。いいと思う。でも、それとは別に自分が成長できることを、できる限り多種多様に考えてほしい。
そういえば、タメになったのがあったから貼っとく。http://practical-scheme.net/trans/hs-j.html
これらに含まれるけど、やっぱり友達は大事だな。大切にしたい。
書き殴ってしまったけど、少しでも増田のためになればと思う。お互いがんばろう。
英国では "John Smith",
プログラミング言語では「メタ構文変数」と呼ばれ hoge とか foo とか bar とか名付けられる変数であり、
ドメインではたびたび example.com (※RFC2606で規定されている) と書かれる、こういった名前。
それでは、この日記の著者として頻繁に登場する「増田さん」もその一種?
いいえ。似ているとしたら、星新一の小説に出てくる「エヌ氏」のほうでしょう。
彼らが、時には科学者、時にはサラリーマン、時には「ただの青年」として星新一ワールドを彩るのと同じように、私たちも「増田」という名前だけを借りて、それぞれが苦悩や幸福を抱えて多種多様な人生を送り、その断片の集合が、ここ「はてな匿名ダイアリー」をかたちづくっているのです。
女友達とお酒飲んでじゃれあってるうちにちょっと本気モードになってきて体をまさぐりあったりなめあったあげくアレを入れることがあったんだけど、結局1分ほどして途中だけどやっぱやめようってことになって最後は手や口でお互い満足させて終わった。以前にも同じことが一度あった。これってまだ体の関係ではないと思うのだがどうだろうか?
まず定義の一端である既遂について考えてみる。既遂というのは両者がいくことで成立する。男が逝くだけで既遂というのはおかしい、これは男性側の身勝手な見解だ。女は男の道具ではない。女性の人格を認め、女性自身の主体的なアンガージュマンがなされない限り両者の共同行為とはいえない。というわけで女も逝かないなら既遂とは言えない。もし、いかないとしてもお互い十分楽しめないと既遂とは言えない。以上、既遂の定義終わり。
では別なケースとしてなにかを入れただけの場合を考える。入れるといっても指だって道具だってある。たとえば本気モードでキュウリ入れたとしても既遂とは言えないだろう。指だってそうだ。たとえ女性が逝ったとしても、当然ながら指もキュウリも正規ではないので男性は介助したに過ぎない。よって既遂とは言えない。
以上の考察を整理していくうちに私は新たな事実に気づいた。アレを入れるとき私はゴムを装着する。女性を刺激するのはゴムであり私の肉体ではない。私の肉体はゴムをふくらませゴムの内圧を支持する介助を行っているに過ぎない。つまり女性と接しているのはゴムであり、私が接しているのではない。つまり間接的に関わっているに過ぎないのである。ゴムを外さない場合はたとえ達した場合でも不貞行為とは呼べない。
次に、私の場合ではあり得ないのだが、生の場合を考える。この場合、直に接触はしている。しかし、ここにもいくつかの疑問点が存在している。結論から言うと不貞行為とは呼べない。または大幅に責任を減殺されるべきである。
この考察に異議を唱える人もいるかもしれない、「動作が問題だ。そうはいっても動いているのはおまえではないか」、と。確かに私は膝を支えにして前後に動かす、これは認めよう。しかし、考えてみてほしい。私が体を動かせるのは膝や腕で寝具に体重を預けているからである。寝具がなければそのような行動はとれないし、そもそも寝具の下に床がなければいけない。さらに言うと地面がない限りそのような行動を起こすことはない。つまり悪いのは地球である。作用・反作用を考えると地球は不貞行為の共同正犯である。
さらに異議を唱える人もいるかもしれない。「おまえは相手を上にのせているときもあるじゃないか」、と。この異議には同様に反論できる。違う、その行動は重力なしには完遂しえない、と。つまりまたしても地球は不貞行為の共同正犯であると言えることになる。
繰り返す、悪いのは地球である。人類が新生代第四紀の更新世に誕生して以来、地球は人類の不貞行為に手を貸してきた。さらに原始地球は多種多様の高分子を生みだし、生命を生みだし、十億年以上前に問題の原点となる有性生殖を生み出してしまった。そう、「原罪」とは地球の歴史である。
もうすぐ後期授業が始まるわけだ。
4年の残り半分。順調に単位を取得し、内定もGETした俺はこれで大学生活を終えるわけだが、
サークル内だけでなく、学科を越え、男女を問わず多種多様な友人が出来た。
専攻においても非常に身になることを多く学べたと思う。
そんな俺がたぶん唯一経験できてないのが恋愛だ。
だが、さして必要を感じないのだからこれが不思議だ。
女友達はそこそこ多いが、特定の個人に熱をあげたことはないし、
言い寄られたこともない。
ルックスは至って並だ。
飲み会の席などで言われるには
「ずーっと友達でいられるタイプだよねー」とか
「最後の最後に頼れる人」とかいうものだ。
大学に入れば普通に好きな人が出来、失敗も多いだろうが彼女も出来る、恋愛が起こると漠然と考えていたが、どうもそういうわけでもないようだ。
周りの友人は恋愛しろと言ってくるが、やはり問題なのだろうなぁ。
とかいうことをふと思い至り、悶々と悩んでおります。
同人誌ってさ、その言葉のとおり、同じような趣味、同じような感覚、
同じような価値観を持った人が集まって閉じた世界の中でしか成立しないんだよな。
同人文化ってのもそう。
でも、もうどう考えたって閉じた世界じゃないでしょ?
書店に並び、通販・オークションで買えて画像検索すりゃいくらでも同人画像が出てくる。
閉じた世界での文化圏だったら「お金儲けじゃない」ってのも通じたかもしれないが、
オープンになった世界で、委託販売やら通販販売したり、脱税まで起こして人が現れてるのに
「お金儲けじゃない」なんて笑い話でしかないんだよ。
テレビのニュースで「オタクの祭りです!」ってな感じで紹介され
50万人以上の人を集めるイベントになりゃ、そこにくるのは
買い手だろうが売り手だろうが多種多様な価値観を持った人だろうさ。
もうそろそろ認めたらどうだろうか。
現在、日本発のオタク文化が世界的な連動を見せて受け入れられているのは自明である。
アニメ、漫画、ゲームなどが世界的な市場を狙える優れた想像力であることが証明されており、マトリックスのウォシャウスキー兄弟を例に挙げるまでもなく、オタク文化の影響下にあるクリエイターがあらゆるところで登場してきている。そのような人間はこれからも増え続けるだろう。
しかし、このような世界的な盛り上がりが逆に日本のクリエイター達に陰りを見せる切欠になるのではないだろうか。
例えば、日本製アニメは放送を終えるや否や、そのコンテンツは一瞬にしてウェブを通じたグローバルな共有を見せるが、逆は全く存在しない。だが、今日本のオタク文化の影響下にある作品が、あらゆる国から生まれている。そして、それは英語という言語の特性から、あらゆる国の人間が触れることが可能だ。ただし、日本人を除いては。
このような状態が日本語と英語の間に吸収の格差が起こる。英語を使用する人間は多種多様なオタク的な作品に触れられ、日本人は自国のオタク文化にしか触れないとなると、その後、現れてくるクリエイター達にも差が出てくるんじゃないだろうか。多種多様で無国籍な作品を吸収してきた海外のクリエイターは、世界的に受ける高水準なクオリティの作品を提供するようになる。日本の作品しか吸収していない日本のクリエイターは水準の及ばない作品しか提供できないようになる。
そして、やがてオタク文化では日本は後進国となってしまう。いや、もうなっているかもしれない。日本は再びアニメや漫画が注目される前の状態に戻っていくのだ。
プログラミング言語論争を車に置き換えるとおもしろいかもしれない。
一台の車にしか乗ってない奴はドライバーではない。
多種多様な車に乗って、それぞれのいいところやダメなところを見つけて、
それでいて「自動車」というものの本質を体感し、汎用的なドライビングテクニックを身につけたものが「ドライバー」といえる。
うん、俺はドライバーなんかにならなくていいや。
「自動車」はあくまでも目的地にたどり着くための手段なわけで、
その道中がそれなりに楽しければそれで満足だわ。
目的地に着いた後でその人から
「お前のその道中はなってない」
とか言われても、「はぁ、そうですか」としか思わないわけで。
「お前、社用車にトヨタなんか使ってるのかよwwwwうちはホンダだぜwww」
「最近の流行りは軽だろ。町中走行は最強だし、最近のだと遠出もできるぜ」
うわー。痛いなー。