はてなキーワード: マーケティングとは
人間だから失敗はする。失敗を許すことができるのもまた人間だが。
失敗しても取り返しがつくようなレベルであれば、許す事で成長を促すという手段を使える。そのような環境は、未成年とか、成人でも下っ端従業員や陣笠代議士の間であり、まかり間違っても、幹部や大臣といった、それなりの地位になってしまったら、失敗を取り繕う側であり、失敗を許す側であって、許される側ではないとなる。
そういう地位にある者が失敗したら、面目を失したとして蟄居謹慎し、復帰の際には、その人の能力で勤まるであろう格下の地位で、失敗を許す側が居ない程に高い地位にある者ならば、切腹してケジメをつけるというのが筋であるのだが、このような進退をやれる人間は、めったに居ない。また、そのようなゆとりのある企業等の民間組織も、もはや日本には存在しないと言って良いだろう。
そういったゆとりある組織は、行政と政党だけになってしまったようである。
行政においては、一度上がった給与を引き下げることは出来ないから、自主返納で済ませ、返納の期間が終わったら、給与の額に相当する仕事をしてもらわなければならないから、それほど難しくは無いが肩書きと給与だけは高いという仕事を作り、移動させるという事をやる。すると、無意味なポストが増え、人員が増加し、さらに、仕事は楽で給与は高い方が良いという心根が広がり、組織が腐り始める。行き着く先は、失敗を揉み消し、かばいあう事が常態となる。そのような組織では、無能は罪ではなくなる。むしろ、無能がたくさん居る事が、自分の地位を安定させるとなり、より、無能な人を増やそうというインセンティブが働く事になる。
建前として、失敗をした人には懲戒や解雇といった処分が下されるが、それらの処分は下っ端だけに課せられ、幹部は、失敗を許す側になる。下っ端は、休まず遅れず働かずの三ず主義になり、ありとあらゆる手段をつかって責任を回避し、書類を作るだけしかしなくなる。それらを無理やり働かそうとするならば、待遇を良くし、おだてて働かせるという手段しかなくなっていく。職階や俸給の階級を増やし、出世や昇給という飴玉で釣らなければならなくなる。
一時期民間で流行った職能給という制度は、職能が上がらなければ賃金も上がらないという制度で、利益を上げない仕事は、幾らやっても賃金の上昇には繋がらないという結果を招いた。現場の技能での昇給は頭打ちになり、経営職だけが青天井の職能給を手に入れられるという制度となり、現場軽視を招いた。職能を持つ現場の人々は、自分達の能力が正当に評価され、宣伝やマーケティングといった利益に貢献しない後方部門との格差が更正されると期待したが、その期待は、真っ先に裏切られたのである。
現在では、職能給という制度は成果給という制度に変わっているが、本質は変わっていない。職能給では職能を認定する人が、一番高い職能を持つとされ、管理職の高給だけが正当化された。それに対し、成果給は、成果が評価の対象であり、成果を認定する人の能力とは関係ないとされたが、実際には、管理職が成果に対する報奨の大部分を取っていき、現場には雀の涙という結果にしかならなかった。現場で働く人々には、都市近郊の工場を潰して土地を売って利益を上げる時に、リストラの対象となるか、地方の工業団地や海外工場の管理職になるかという選択肢が与えられたが、地方の工業団地でも海外の工場でも、派遣や請け負いの労働者だけが部下となり、工場の現場で伝わってきた徒弟制度に近い技能の継承は断ち切られている。
失敗が許されるのは、その失敗をフォローできた時に、フォローした人が、もう一度チャンスを与えようという事で失敗した人を許すのである。日本の工業がぼろぼろになっている失敗は、フォローできていない。家族制度や雇用が不安定になっているのも、フォローできていない。失敗の原因となった変化は、変化に対応する補完的制度改革とセットになっていた筈なのに、一方だけが実行され、制度的補完がなされない為に、失敗という結果になっているとも言える。有権者の、結果的には失敗になってしまっている片手落ちの改革をさんざん行ってきた"古い自民党"をぶっ壊して欲しいという一票を投じても、その願いは通じなかった。通じなかったどころか、麻生内閣は財政赤字を増加させた小渕内閣時代にまで逆戻りしてしまっている。民意を汲めないならば、民意を汲めない人々を外さなければならない。
麻生首相は、自民党と公明党が過半数をとったら続投すると言ったらしい。民主党が自爆敗退しそうなので、自民と公明で過半数というのは実現するかもしれないが、議員を落選していれば首相にはなれない。民間人の首相就任は、さすがにありえない。福岡8区の376382人だけが、事実上の首相公選権を行使できるというのは、現状の制度の問題点の一つであろう。
こんなのを発見。どんな話するんだろ?
『子育てハッピーアドバイス』シリーズ290万部突破!!のノウハウを語る ―
■日時 2009年8月27日(木) 午後6時~午後8時30分
■会費 5,000円
TEL(03)3234-7623 / FAX(03)3238-9420
平成17年12月に発刊した『子育てハッピーアドバイス』はロングセラーとなり、99万部に達しました。 シリーズも8巻に増え、総出荷数は290万部を突破。
なかでも最新刊『子育てハッピーアドバイス 知っててよかった 小児科の巻』は、5月末発売から1ヵ月で20万部を突破し、これまでで最も速いスピードで部数を伸ばしています。
子育て本としては異例のベストセラーとなったシリーズの誕生から、ロングセラーになるまでをご紹介します。
◎内容
1.読者の望む本づくり
書店さんからも、「小児科の本は、そんなに売れない」と言われていた。
それが、読者の目線に立って企画し直すことによって、大変わりした。
2.著者との信頼関係を築く
著者の先生に、書きたいように書いてもらうと、どうしても難しい本になりがち。
医師が患者に伝えたいことと、患者が医師から聞きたいことには、大きなギャップがある。読者が知りたいことをうまくキャッチし、著者の先生にいかに伝えるかが、非常に重要なポイントになる。
3.編集面の工夫
マンガ、イラストは、飾りではなく、あくまで原稿の一部として入れる。
その声を著者へ伝えて、何度も原稿を修正してもらう。
シリーズ続編の企画も、読者の感触をつかんでから進める。
読者の声をどのように活かすか。
6.1万年堂新聞の発行
読者の声で、本の内容をアピールする。
結婚したくらいでDVDすら買えなくなるって、いったいどんな貧民層なんだ?
実際、映画館まで観に来てくれている層を無視なんてマーケティング的にはあり得ないだろう。
マーケティング的に正解でも世間的に見て正しくなかったら、
へ?世間的?
購買層の外の人(元増田もそうだし、極端な話ホームレスとか犬とか猫とか宇宙人とか)に、何をどう思われようと関係ないということでしょう?
たとえば元増田がポッドキャストでそれを聞いて「ムフー」とかなってもDVDのセールスには何も影響しないよね?もともと購買層としては期待してないんだから。
何というか、元増田は自分中心の視点が強すぎるんじゃないかと思う。
「誰かが常にボクに気をかけてくれる」という前提のようだが、「自分を歯牙にもかけない人たちが世の中に存在する」っていうことをもうちょっと認識したほうがよい。
荒れているのでこの辺まで巻き戻すか
ブランクが空くと悲惨ってのは、女性が働きやすいといわれてて、また女性の登用も進んでる企画マーケティング広報あたりの職種を想定してた。
何を言いたいのかいまいちわかんないから、とりあえず君の「ミーハー」の定義を述べて、
マーケティングがそれに合致しないケースがどれだけ多いのか説明してみてくれ。
そう言う企業って社長や営業がマーケを事実上やって企画部はただのパシリだったり
営業とローテで、企画部でのキャリアだけでは上に上がれ無くない?
ホッテントリ読んでいたら、昔2chに投稿した駄文のことを思い出した。ググってサルベージしたので、ちょっと修正してここに書く。ちなみに、内容についてあまり突っ込むな。いろいろな意味で。
昔オーディオの新しい波に乗り切れなかったシュレーディンガーは、 コペンハーゲンのオーディオマニアに向けてこういうことを言った。
完全防音の部屋の中にオーディオセットがある。外から鍵をかけて密室にした後、目覚まし時計によってオーディオセットが演奏をはじめる。このとき、コペンハーゲン派の立場だとつぎのようになるぞ。
すなわち:
これは明らかにおかしい。
オーディオシステムの音のよさは試聴とは無関係にあらかじめ決まっているはずだだから、コペンハーゲン派のオーディオ解釈は誤っている
しかし、ニールス・ボーアは直感に反してオーディオシステムの音は聞いてみるまでわからないだけでなく、聞いてみるまで性能すら定まらないのだとあらためて主張した(聞くまで無調整と言う意味ではない)。
これが有名なシュレーディンガーのオーディオシステムというパラドックスだ。
昔、音のよさには絶対的な基準があるという説がもっぱら主流だった。だが、こうすると音のよさが見かけの上で無限大になる場合があるという計算結果がでてパニックになった。困ったことに、絶対基準があると仮定して行ったブラインドテストがこれを否定した(マイケルソン=モーレーの実験)
その後、1905年にアインシュタインが音のよさには相対的な基準しかなく、かつ上限が決まっていると仮定した理論展開を行う論文を書いた。これが特殊相対性理論だ。この衝撃的な論文のあと、加速する車の中のカーオーディオについても適用できる音響理論をうちたてたのが有名な一般相対性理論だ。相対性理論からは、「一生懸命作ったオーディオなのに友達のシステムの方がよく聞こえる」ことが理論的に導き出される。これは日本古来の経験則、「隣の芝生は青い」ともよく一致する。
数学者だったクルト・ゲーデルはオーディオマニアだったことでも有名だ。
彼はよい音を求めていつもパーツ屋に通っては怪しい部品だのケーブルだのを買い求めていた。友人はそれを揶揄して笑ったが、完璧主義者だったゲーデルは自分が買った高級オーディオケーブルが実はやくたいもない屑ケーブルであることを認めず、必死で言い訳を織り上げた。しかし、優れた数学者だった彼は自分の言い訳にほつれがあることに気づいた。次の二つを両立する言い訳が成り立たないのだ。
すなわち:「完全かつ無矛盾な小売系は存在しない」これは真に偉大な発見で彼の名声を高めた。しかし、後に音の滑らかさを追い求める連続体仮説に思いをめぐらすうちに、カントールと同じく狂気の闇へと落ちていくことになる。
日本経済が絶頂期にあった80年代初頭、一部のオーディオメーカーは将来市場が頭打ちになりかねないことを予見して体系的な市場アプローチ、すなわちマーケティングを導入し、市場の行方を占うことにした。
このとき問題になったのはオーディオマニア層だ。口うるさいくせに雑誌で発言力のあるマニアは市場としては小さいが無視できない。そこで、マニアがどのような振る舞いを行うか、その統計的な側面が研究された。
もっとも有名なのは「二人以上のマニアが同じ意見を持つことはない」という仮定に基づいて行われた研究だ。これは人の話は聞かないくせに、同意もしないというマニアの実に嫌らしい振る舞いを見事に反映したモデルだった。
このモデルに基づく市場動向の予測は、研究者の名前を取って、フェルミ・ディラック統計と呼ばれる。この統計は各社が採用して市場予測に使い、大きな成果をあげた。
なお、マニアも興奮してくると見かけの意見らしきものをつなぐことができなくなり、オーディオ好きの高校生と同じになる。この場合は古典的な統計が適用可能になる。すなわち、マニアも興奮すると大衆程度の振る舞いになり、ガウス分布に従うようになる。そのため、オーディオフェアなど興奮しがちな場所では古典統計が使われる。
同じころ、排他的でないマニアを冷静にすると、全員がひとつの意見をもつようになるというボーズ・アインシュタイン統計も発表された(アインシュタインは先の相対性音響論を発表したのと同一人物)。しかし、企業の企画担当者が「排他的でなく冷静な」マニアを想像できなかったことからこの統計は採用されず、一部研究者がその実現性を予想しただけだった。
転機は90年代半ばに訪れた。自分の意見より人の顔色を尊重する日本人に対して行われた一連の実験から、ボース・アインシュタイン統計が適用可能な場合が示された。一群のオーディオマニアを集め、彼らを数日にわたって否定することで体力と自意識を削り取ることにより、極度の低興奮状態に置く。この状態では部屋の中のすべてのオーディオマニアが尊師の言うとおり提示された オーディオセットはすばらしいと一様に誉めた。この歴史的な成功以来、同様の実験が都内各所の道場で行われたが、その後この実験は危険であるとして禁止されている。
やたらテンションの低いオーディオマニアが全員同じ意見を述べるようなキモイ状態は、ボース・アインシュタイン凝縮と呼ばれている。
そういう類の人らに優しく接する必要なんてないのにな。
ちょっと話違うけど私も似たような経験があって、エスカレーターの出口でティッシュ配りをしてる人らに無性に腹が立ったことがある。
ただでだえ通勤ラッシュ時に路上にいるだけで人の流れが変わって迷惑なのに、エスカレーターの出口で「効率のよい迷惑」をしていることにイラだった。
おまけに「こんな人件費がかかってティッシュを求めてない人に迷惑がかかる時代錯誤なマーケティングを未だにやってる間抜けな会社め」と余計なことも考えるようになる。
階段幅は人2か3人分で設計されてるからああいうのがいると超迷惑。
まあ相手はずーっと同じ宣伝文句をリピートしてる機械のようなもんなんだから、彼らに「中には快く思ってない人もいるんだと」警告しただけ私は増田を評価。
○大衆化・一般化の結果。みんながやってるならいいや。という天の邪鬼な購買拒否が発生しづらくなり、自分が長く早く楽しめること
○大衆化・一般化することで発生する、そのサービスや物の享受における物理的な不都合(待たなきゃ入れない店など)を回避できる。
○こんな良いサービスや物は自分しか知らない。と実物の満足感に加えた優越感を感じられる。
特に情報の囲い込みが鍵になると思います。というのも、欲しいとさえ思ってしまったら、今のご時世入手困難な物などほとんどないからです。では、どのように情報の規制をするのかという話になりますが・・・、これ以降は詳しくはわかりません^^;; マスコミや、口コミなど、情報が人にどのような過程で流れていくのかのモデルを、勉強したうえで各段階へ対応というところでしょうか。マーケティング、PR、広告とかそういったあたりで載ってそうですかね。。。
大衆化のどのようなところが悪いのか。手垢がついたものは、どういうところが悪いのか。
たとえば新房作品が古人の糟粕嘗めまくりで陳腐である、と正岡子規ばりの批判を展開するとして、
我々の感じる作品の陳腐さ(洗練度合い)のうまい指標はあるか、と考えると、エンディングテーマに
カバー曲を使っているか否かというのは有力な候補に思えるし、ましてエンディングテーマをカラオケ
大会にするとかいうのはそれこそ糟粕の糟粕の糟粕ばかりに御座候、と切り捨てることができる。
たとえば「ぱにょデジ」はでじこ本編よりも陳腐さが高い、という判断ができる。
作品のテーマが陳腐、とか、ドラマツルギーが安易である、というのは古今を否、万葉を是とする立場から
すれば問題とはならないのであって、同工異曲といわれても新規に書き起こし意識的に何か固有の著者を
もつ作品からの引用を行っていないことが重要となる。最悪、誰か他人の作品を丸コピーしたとしても
そこに原著者のクレジットが一切なければこれは万葉型の表現ということになる。
マーケティングの結果最終的に選ばれる表現が万葉型になるのか古今型になるのか、というのは
主に対象年齢層と作業(典拠の確認や権利処理等)のコスト、企画者のリスク回避度によって
決まってくる(おっさんにウケる作品すべてが必ずしもおっさんホイホイではないけれども、
リスク回避的な企画者は当然おっさんホイホイを選好する)。ただ、「ゆとりに伝統を教えてやる」と
いうことで意図的に古今型の表現が選択される事例も多い。これはアーカイブの権利者に近いほど
やりたくなる戦略でもある。
いや、とくに結論というのがあるわけではなく。
追記:ええ、一連の「歌よみに与ふる書」をちゃんと読んでいませんが、日本酒の醸造工程の
アナロジーで、現代でいうところの「劣化コピー」に相当する語であることは理解しています。
楽曲の再利用のさらに再利用をしているわけではないので確かにあまり的確な表現ではないのですが。
追記:たとえば『トレインスポッティング』でキルケゴールが言及されている(記憶によれば)
自分の場合、二浪した挙句、三流大学の夜間学部を一留してようやく卒業。
研究室の教授のコネクションで数社、面接を受けるも、極度に低いコミュ力により
結局、ネットで知り合った女性が立ち上げるというIT系の零細会社へ入社した。
メーカーのSE(ネットワーク系)に二次請けで入って3年間働く。
この間、年収360万据え置き。
数ヶ月間、無職を経験するも資金が尽きたため、バイトとして某IT系企業に入る。年収320万にダウン。サーバ系のエンジニアとして数ヶ月働いたのち、社員にならないかと誘われる。業務内容的に自分の希望とはかけ離れていたため固辞。
3年前に、一部上場しているIT系企業にログ解析要員として、紹介予定派遣で入社。
周囲を見渡すと、一流と呼ばれる大学を卒業した同年代の人たちが、自分よりも安い給料で働いていたりする。単に社内政治に強い上司に恵まれたおかげで、昇給し続けることができたというだけなのだが。
世間は厳しいが、「運」があれば、何とかなることもあるようだ。
運を掴むには、致命的な失敗をした後に、何らかのきっかけで、これまで気づけなかった何かに気づいたりする必要があったりはするんだと思う。
自分の場合、3年前に「結婚を決意した」ことによって、自分に齎してくれた成長が非常に大きかったように思う。さもなければ、今頃派遣切りにあって、路頭に迷っているだろう。。
人との出会いって偉大だ。
嫁さん、ありがとう。
そうじゃなくて、こうやって細分化されたカテゴリーに押し込むことによって、声優さんの仕事の幅が狭まっているんじゃねーの?という気がしているんだよね。
別に一般アニメメインの声優さんと契約形態が異なるとかいうわけでもないんだし、単に「声優」でいいじゃん。
っつーかこの問題はエロゲに限らなくて、「吹き替え声優」みたいな言い方もどうかと思うんだよなあ。
映画吹き替えっていつまでも同じようなメンバーで回していて、これどうなんだろうなあ、と。
上手い人の数は限られてるから、固まってくるのも仕方ないのかもしれないけど、それにしても固定されすぎな気が……。
マーケティング的な視点から棲み分けが出来てしまうのは仕方ないのかもしれないが、それぞれの業界がもっと流動的な採用をするように頑張ってほしいところ。
ITに未来が無いか?と言えばそうとも言えない。
「ユニバーサルデザイン」とよく聞くけども、左手で使えるデジカメが売ってない。
右半身が麻痺すれば、既存のツールは役立たずになってしまう。
http://anond.hatelabo.jp/20090706025508
ユーザーが金落とすにはなんといってもまずはユニークユーザー数の獲得だよな。
それってSNSもそうだしポータルサイトもそうだし、結局はウェブマーケティングの基本だしmixiなんてある意味MMOに近いもんだわさ。mixi層に合わせたニュース出してるもんな。あ、アメーバニュースもか。
まあそれはいいとして、長時間遊ばせる=鍵という構造自体を取っ払おうって事なのね。
俺からすればこの暇人を最強とする仕組みはとーっても開発者の怠慢に思えちゃいます。
今現実起きてる問題は、5000時間使ったプレーヤーと2時間遊んだプレーヤーとでは、例え2時間が頭の回転速かろうが操作系が得意だろうが、5000時間のクリック1つには全く歯が立たない。でもあんまりにも「時間をかけました的要素」を省いてしまうと、もうRPGじゃなくなってしまう。
やったらやっただけ恩恵がありつつも、センスによっちゃレベル低くても強くなれるというこのバランスが重要なのだと思うのよ。
例えばーマウスクリックで魔法が出ちゃう戦闘シーンを工夫してシューティングゲームさながらの銃系武器だったり、タイピングスキルがないと呪文が唱えられない魔法使いだったり、音感やリズム感が無いと敵を倒せない詩人だったり、
が3:7くらいなのが望ましい。
そうすればギルドマスターさん達は何かしら実世界でもスキルをもってるギルドマスターさんなわけで、暇人マスターなんて思われずに誇っていいでしょう。どうよこれ。