はてなキーワード: 疑惑の目とは
仮に例えば、喉や舌を負傷したとしよう。
すると、何も、言葉を発せない。
あるいは、顔の皮膚に火傷を負ったとしよう、すると、表情に表すことも出来ない。
身体に、負傷をしたとしよう、すると、身体を震わせること自体が、痛みになるので、
ジッと耐えることが、痛みを和らげる最良の方法となる。
傷つきすぎた野生動物のように、傷を負いすぎていて、人が信じられなくなっていて。
心の問題は、結構、複雑だから、こんな例えでは、言いようがないのかもしれない。
しかし、痛みが、深すぎると、痛いという言葉を発することも出来ない、という点では、身体の痛みと似ている部分は、あるように思う。
自分でも、傷ついている状態が当たり前になっているので、感覚が麻痺しているのかもしれない。
助けを求めることも、楽ではない。
面倒くさい顔をされても、助けを求める。
「人は一人では生きてはいけない」
「人は助け合って生きるものだ」
ただ、もがきながらも、諦めない。
私は納豆にキムチを入れるのが好きだ。だから、タレもカラシも使わない。
捨てるのはもったいないから、なんとなく取っておく事にした。タレなら煮物とかに使えるんじゃないかくらいの気持ちで。ショップの紙袋にぽんぽん入れていた。
やがて、納豆キムチのマイブームが去り、納豆も余り食べなくなった。紙袋の存在も忘れていった。
ある日、職場に出勤すると、職場のおばちゃんが「聞いてよ〜」と言ってきた。
職場に、大量の納豆のタレとカラシが入った紙袋があり、中で何か腐っていたのだという。納豆じゃないの、とおばちゃんが笑っていた。
私は混乱した。おばちゃんは私の表情をみて、微妙に疑惑の目になったのを悟り、「意味わかんないですね」と笑いながら答え、トイレに行くふりをして席を立った。
私が納豆のタレを職場に持っていく可能性について考えてみた。料理を振る舞おうと思って?みんなにおすそ分け?お弁当の調味料に?捨てようと思った?何かの紙袋と間違えた?いや、どれもありえない。恥ずかしいから見られたくない、まず。捨てる気はなかった。紙袋は強度がないから、荷物を入れて運んだりしない。かといって、私以外の誰がするだろう。紙袋、タレとカラシの混在、この条件を満たす現象は滅多にないように思われた。
もう捨ててしまったらしいので、確認することはできない。じゃあ、私の家で見つかれば良いのだ。と思って探したが、見つからないのである。
たぶん「新型うつ」って言葉が出来たころからおかしくなり始めたんだだろうな。
サボりたい一部の人間と、儲けたい一部の精神科医たちの利害が一致した結果、
結果として、本当のうつ病患者には「怠け病だろう」という疑惑の目が向けられ、
この構図は痴漢冤罪と同じ構図だ。
本当の痴漢被害者と冤罪によって社会的に多大なダメージを受けた被害者は救われない。
痴漢の証拠がほとんど残らないのと、うつ病の証拠がほとんどないのもそっくりだ。
痴漢は物証を取るようになったり、うつ病も血液で判定しようとしたり、客観的な証拠を求めるようにはなってきたが、どちらもまだまだ主流じゃない。