「反抗期」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 反抗期とは

2010-11-18

http://anond.hatelabo.jp/20101118114127

教師の差し金で「話し合い」をさせられて、解決すると思う?

今の教師のスキルだと無理だろうとは思うよ。

でも、コミュニケーション能力の欠如から発生している問題なんだから、コミュニケーションを取っていくしか無いだろ。

キューバ危機の際に、「ソ連と交渉をして解決すると思う?」と交渉を諦めてたら、核戦争が起きてただろうよ。

http://kd1.blog103.fc2.com/blog-entry-200.html

小学校5年生にでもこれぐらいのことは可能なんだから、6年生だって出来ると思うがね。

お前が子供の頃はそんなに大人の思い通りに動く「いい子」だったのか??

教師の手伝いで文集を一太郎に打ち込んだりとか頑張っていたぐらいには、教師に対して協力的だったと思っているが。

6年生にもなればそろそろ反抗期差し掛かるし、大人が上から押し付けた事なんて余計反発されるだけ。

精々教師の前では反省した振りをしてその場は終了、で何も変わらない、が関の山かと。

反抗期だからこそ、「子供同士」で話し合わせるんだろうが。

自意識独立性を確保するには最適じゃないか。

話し合いに教師は介入しない。

質問を求められた時だけ答える。

子供同士で話し合いさせる際の基本ルールだぜ。

2010-10-24

http://anond.hatelabo.jp/20101024112238

悪いけどそれじゃあ気心知れた間柄じゃないな…個人的にだけどね。

だって誤解されてるような間柄じゃあ、気心知れてるなんて言わない。


例えば、反抗期子供がお母さんに「死ねよ」と言っちゃっても、

本気で言ってるわけないって、気心知れた間柄なら分かるでしょ。

2010-10-18

弟が連れてきた恋人が男だった volume 2

http://anond.hatelabo.jp/20101017084726

の続き。

泣いてるっちゅうか、よっぽど俺、怖い顔してんのかな、ガクブルしてる弟を見ながら、タバコをもう何本か吸いきった。

何かしゃべったら、うっかりひどいことを言ってしまいそうだったから。

ああ、そういえばそんなことがあったなあ、てそんな時に昔のことを思い出してしまうもんだ。中学生だった俺と、姉を前にして、両親が対面に坐っていて、お袋が「実はお母さん、子供が出来ました」と言った時、ついうっかり、「誰の子?」って言ってしまって、お袋は「お父さんの子に決まってるでしょ!」と激怒したなあ。

あの時、お袋の腹の中にいた子がねえ。大きくなったというかなんというか。

家族みんなでつい甘やかしてしまったよ。俺なんか子供の時はゲームソフトとか買って貰えるのって誕生日クリスマス、しかも12月23日生まれなんでしょっちゅうイエス様と合同誕生日にされてしまって、泣いた夜さえ、笑い話になるものさ、サチコ

ゆうくん(弟、仮名)何か欲しいものない?お父さんが、お母さんが、お姉ちゃんが、兄ちゃんが買ってあげるよ、ってのはまだしも当たり前だとしても、叔父叔母の類までがさ、自分とこの子は憎らしい反抗期最中、弟は可愛い盛りだったもんで、何か買ってあげずにはいられなかったんで、弟は我が家一の物持ちだったよ。

そのわりには優しく素直に育ってくれて、人が嫌がることは絶対にしない。俺はするけどね。

あれは弟が5歳くらいだったかなあ、トランプを組み合わせてタワーを作る遊びね、あれを教えてやったら一日中もくもくとやってんの。で、「兄ちゃんできたよー」ってニコニコしながら俺をひっぱってってタワーを見せてくれたんだけど、俺がフーッって息を吹きかけたらはらはらと倒れちゃって、弟、号泣ですよ。あはは、可愛かったなあ。

「兄ちゃんのばかー、だいきらいー」

って(当然言うわな)、言ったそばから、「ゆうに嫌われた・・・」って落ち込んだ俺を見て心配そうな顔になって、「だって兄ちゃんいじわるするもん」って正当性を主張するも、「兄ちゃん、ゆうのこと大好きなのに。世界で一番好きなのに。ゆうは兄ちゃんのこと嫌いなんだ・・・」って俺が言ったら「僕も兄ちゃんしゅき」って態度をひるがえして、ふたりでダハーッと笑いあったあの日。

嫌いになんてなれないよ。

ただ、いろいろと。なんとかならんもんかと。

友情を愛情勘違いしてるとか。ないだろうなあ。

なんとかなるくらいなら、親兄弟を困惑させたり苦しめるような真似を弟がわざわざするはずがない。

もちろん、こういう問題で、困惑する方が偏見もちだってのは分かってるけど、さて、身内のことになったら、こうも困ってしまうものなのか。

そして思い出した。

何年か前、俺一人で実家に行った時、居間でこたつに入って、母と俺と弟とで、テレビを見てたのね。おすぎピーコが出ていて、面白いことを言って、俺たちもひとしきり笑った後、お袋が言ったんだ。

「でも、この人たちの親御さんもお気の毒よね。息子さんがふたりともこんな風だなんて。お母さんだったら耐えらないわ」

別におすぎピーコのファンじゃないけど、たまたま「ピーコ伝」を読んだばかりだったこともあって、カチンときたんだよ、その言い方に。

「それって、すごい失礼な言い方だよね、おすぎピーコにもそのお母さんにも。おすぎピーコ、すっごい親孝行だよ。こないだ本にそう書いてあったし」

お袋はまたこいつは、みたいな目で俺を見て、

「もう、あんたはいつも説教ばっかり。あんたに言ってないんだからいいじゃない。ゆうに言ってんの。あんた、さっさと帰りなさいよ。晩御飯、用意してあげないからね」

弟はいつものように心配そうな顔をしてたけど、あれをどんな気持ちで聞いていたのかな。

お袋、おすぎピーコのお母さんの半分の気持ちはもうすぐ味わうことになりそうだよ。

「そう簡単にはいかないぞ」

と俺は弟に言った。

年寄りはなかなか自分価値観を変えないし、変える時は相当な苦痛だと思う。それでも、打ち明ける気なんだな?」

弟はうなづいた。

「もう、浩介(弟の彼氏仮名)に嘘をつかせたくないし、それに、近いうちに俺、家を出て、浩介と暮らしたい」

えっ? それはどうかなあ。末っ子の弟が出て行って、老夫婦ふたりきり、むちゃくちゃさみしいでしょ。さみしさが浩介(もう面倒くさいんで呼び捨て)への敵意に変わってしまいそうだなあ。

「まあ、それはちょっと待て。ひとつひとつ考えてみよう。な。親父はなんとかなるかもしれん。つかなんとかなるだろう。ただお袋はな、そう簡単にはいそうですかとはいかないと思うよ」

「兄ちゃんはどうなの?」

「どうって・・・」

「俺のこと、嫌いになった?」

馬鹿だなあって思う。こんなことで嫌いになるなら最初から兄ちゃんやってないよ。でも、不安にさせたのは俺だな。

何十年かぶりに、弟をぎゅっと抱きかかえた。でも、でもな。

いろんなこと考えてしまうんだよ。俺の奥さんはなんていうかとか。俺の奥さんが(わりあい保守的な人だ)、おまえのことを蔑む感情を持ってしまったら、俺はどうしたらいいんだ?

姉ちゃんはなんていうだろう。甥っ子、姪っ子は受け入れられるだろうか。

甥っ子、姪っ子の将来の触りにおまえがなってしまうんじゃないだろうか。

そんなことを、こうしておまえをぎゅっと抱きしめていても、俺は考えてしまうんだよ。

2010-10-17

弟が連れてきた恋人が男だった

釣り無し、マジ話です。

こないだ、俺の恋人に会ってくれって、弟から電話があって、それじゃあ、お会いしましょうかって、休日に連れ立って家に来ることになったんですよ。

うちの家族スペックをざっと説明しておくと、

父、今年定年退職鉄道会社勤務。

母、父と同年齢、専業主婦

姉、バツイチ。息子と娘を抱えてシングルマザーとして奮闘中(実家近くのマンション在住)。

俺、既婚者、子無し、電力会社勤務。実家の近くのマンション在住。

弟、今年、大学卒業して県庁勤務。実家に親と同居。

こう書くとごくふつう家族みたいだが、俺と弟は年齢は12歳離れている。そこはちょっと珍しいかも(ちなみに同じ両親から生まれた100%の兄弟姉妹です)。

弟からそういう連絡があったとき、ちょっと嫌な予感はしていた。だって、彼女を紹介するなら、普通、まず実家に連れて行くじゃん。別世帯の兄に最初に会わせようとはしないでしょ。

「できればまずは兄ちゃんひとりで会って欲しい」

ということだったんで、平日にそれぞれ有給をとって、うちの奥さんがいない時にうちで会うことになった。

うちの両親は平凡な地方人で、それはつまり悪意ないまま偏見まるだしな部分があるってこと。

俺はわりあい、戦うリベラルだから、親のそういう部分にも意見してきたのね。

弟は可愛がられるばかりの末っ子で、よく考えれば反抗期もなかったような大人しい子で、親であれ誰であれ、歯向かうとか、全否定するとか、そういうことは一切しない。俺と親父やお袋が喧嘩するのをいつもはらはらした顔で心配そうに見ているだけ。

でもまあ、そういうわけで、俺はきっちりかっちり主張するタイプ人間だから、俺を介して、弟は親に何か言って欲しいことがあるんだろうなあって思っていた。たとえば彼女外国人とか。親が反対するような事情を何か持っているとか。

そうしたらさ、連れてきた子が男だった。想定外

弟の高校のときからの親友で、ずっとそういうことだったらしい。

「俺たち結婚は出来ないけど、付き合っていることを家族に認めて欲しいんだ」

もう俺は頭の中がぐるぐるよ。何を言ったらいいのか。その子は以前、俺も実家で会ったことがあって、ちょっと事情がある家庭で育っていて、高校生のときから安アパート一人暮らしをしていた。うちのお袋とかさ、母性本能刺激されまくりでさ、飯もさんざん食わせたし、いろいろと世話も焼いた。

そのお返しがこれか?

表情がね、みるみるこわばっていくのが自分でもわかるの。弟はさ、家族の中で一番俺が話せるって見込んでうちあけてくれたわけだけど、どう考えても茨の道だよ。高齢の両親がね、これを聞いたら卒倒するってこともね、どうしたらいいんだよこれ、って感じ。

よくよく考えたらさ、うちの弟は超がつくくらいイケメンで(俺とは大違い)、むちゃくちゃもててきたんだけど、浮いた話がこれまでまったく無かったのね。俺もさ、中高生の頃、付き合っていた彼女をいちいち親に紹介したりはしなかったから、俺の目に付かないだけで、それなりによろしくやってんだろうくらいに思ってたんだよ、これまでは。

兄弟で、おまえ童貞か?とか聞かないしね、普通

ああ、ってそれで分かったんだ。たぶん最初に好きになったのは弟の方。でも、やっぱり弟は責められないんだよね。身内の勝手でさ、怒りは相手の男に向けられてしまう。

うちの弟をこんなことにしてくれて、いったいてめーどうしてくれんだよ、って気分。

リビングで吸うのを奥さんに禁じられてんだけどさ、タバコを一服して、やっと搾り出した言葉は、

「ごめん、弟と話し合いたいから、君、帰ってくれない?」

だった。

弟はもう泣いちゃってたけど、恋人くんは分かりましたと言って、立ち上がった。

「でも、俺、絶対こいつのこと諦めませんから」

どこの少女マンガだよっていうくらい格好いい台詞だったけど、ふたりはいい年した野郎同士なのだった。

2010-09-25

http://anond.hatelabo.jp/20100925183940

マジレスするとはてなのサヨってファッション左翼だから。

一応左翼の定石として自衛隊はんたーいみたいなことは言うけど

戦争とか国防なんかには知識も見解もありゃしないんだよ。

彼等は日常のサベツを発見して日本的なナントカいうタグつけて美しく怒る趣味の徒。

家の中では王様気取りで口数多い反抗期中学生

突如親と親の喧嘩を見せられて語るべき言葉を持たないのと一緒。

2010-09-23

家のこと

 私は、三姉妹の長女だ。遠く離れて一人暮らしをしていたが、3か月ほど前に実家に戻ってきた。妹は、一人は最近結婚した。もう一人は、東京で、社会人として働いている。この家には、祖母、父、母、私の3人で住んでいる。

 結論として思うことは、家族なんていらないということだ。なんで、こんなどうしようもない家族という縛りにとらわれないとならないのか。みんながみんな、自分の都合で勝手に動いているのに、責任押し付けあって、何にも解決しないで、ただことを騒ぎ立てて、誰かを責め立てて、そういう生き方をしているこの家をやっと離れられたのに。やっと離れたのに。母は、愚痴と悪口と、食べろ食べろと料理をして、食べないと愚痴って。祖母のことも、私が小さいころからものすごく嫌っているし、介護なんてできるわけないし。なんでも父に告げ口のように報告して。忙しいと言って、家の掃除もちゃんとしないし。台所も汚いし、ゴミもそのまま捨てるから臭いし、何の責任もとれないし。父は、口だけで、結局解決してくれないし。祖母の介護もできないし、ひっぱたくし、ヒアリングもしないし。ただただ威張って、何にもしないし。帰ってこい帰ってこいとか言うから帰ってきたけど、これもあなたの都合でしょうし。祖母は、昔から、母と仲が悪い。親戚が来れば、噂話や悪口ばっかり言ってた。中学生だった私の反抗期にも真に受けて怒ってしまうという、この人もまた自分の都合しか考えられない人だ。80才も過ぎて、介護が必要な人だ。

 ここで問題が生じる。私だけなら、自由にどうでもよく生きられるんだけど、そうしたいんだけど。なんにもいらないから、静かに、悪口とか言わないで、毎日を送れるところで生活したいんだけど。介護という問題が生じている。私気付かなかっただけだけど、この問題は、以前から生じていたんだ。この家には、まともに介護する人がいない。親のやることは、しばしば老人虐待のようにも感じるし。それを日常で見ているのも嫌だ。より親を軽蔑する。祖母も性格がいやらしい人で、向き合うとイライラしてくるし。でも、排泄物の臭いや、虫や、洗濯、食事の世話をしなくてはならないのだ。死んでほしい。老人ホームへ入ってほしい。親は、長男でなんかわからないけど、年をとるごとに変にプライドとか世間体とかを気にしている感じで、そういうこともちゃんと検討しているのかわからない。結局、しわ寄せは、母に行くし、でも、母はやんないし、愚痴ってやってあげてるのに嫌とか言うんじゃもう知らないとか言って投げるし。だから、私を呼んだのか?私も知らないよ、こんな人。こんな家。つぶれてしまえよ、こんな家。

2010-08-09

祖母がもう嫌です

ときどきふっとやりばのない怒りが静かに湧き上がってきてどうしようもなくなることがあります。

焦点の定まらない分散した怒りで、かつ家庭内のプライベートな問題なので家族以外誰にも打ち明けられません。

文章をまとめるのが大変下手なので、非常に読みにくい長文になることをお許しください。ちょっとした短編小説くらい長いです。もちろん小説の足元にも及ばないほど読みづらくつまらないです。

最初にはっきり言っておくと、私の家族、主に祖母に対する愚痴です。読んでいて気持ちのいい文章ではありません。

ほぼ事実を書いていますが、特定されて困るようなことは変えたりぼかしたりしています。

それでもよければ、聞いてください。


私のうちは父・母・私・妹の4人家族です。

ものすごく仲が良いわけではないし、多少の家庭内事件などもありましたが、おそらく一般的な核家族家庭だと思います。

母方の祖父母と、父方の祖父はすでに他界しています。

父方の祖母は存命ですが、祖父が亡くなったのがもう15年以上前なので、それからずっと父の実家でひとりで生活していました。

父は3人兄弟の次男で、長男と三男はどちらも独身、かつ実家から離れた地域で暮らしています。

うちは父の実家から車で数十分ほど離れたところにあるので、祖父がいた頃からほぼ毎週末車で出かけるのが習慣化していました。

またほかの兄弟が遠方にいるので、墓参りや何かあった時の対処はすべてうちの父がやっていました。(祖父の葬式の際の喪主もうちの父)

幼い頃はそれを特に不思議には思っていませんでした。ただ、少なからず父に負担がかかっていることは薄々感じとっていましたが…

(母方の家族の話は関係ないので書きません)


私が高2の冬か、春になるくらいの頃だったと思います。祖母が転んで足を骨折しました。

その頃祖母はひとり暮らしなので、足を骨折した状態では日常生活に支障が出ます。治るまでうちに一緒に住むことになりました。

一時的なことですが、その間の部屋の割り当てが問題になります。

うちは一見ごく普通の2階建ての一軒家。しかし少し間取りが特殊で部屋数が少なく、ダイニングを兼ねた居間を除くと部屋と呼べるものは5部屋+1部屋しかありません。

2階が父の趣味部屋・父の寝室・母の寝室で、1階が居間と奥座敷、奥座敷と障子で仕切られたフローリングの部屋、その部屋の奥に、後から増築した離れ(物置状態)、となっています。

物置と書きましたが、離れはそれなりに広く、裏口から入るとすぐなので妹が自室として使っていました。

そして、奥座敷とフローリング合わせて12畳ほど?が実質私の居住スペースでした。

(小さい頃は2階の現父の寝室が子供部屋で現母の寝室が父母の寝室だったのだが諸事情によりこのようになってしまいました。別に父母の不和によるものではないはず…)

子供部屋ではベッドを使用していましたが、部屋と一緒に父のものと化してしまったので、私は普段座敷に布団を敷いて寝ていました。

しかし、誰かが泊まる場合は奥座敷がゲストルームになります。

祖母が座敷を使うことになるので、その間私は座敷ではなくフローリングの方で寝ることにしました。

薄情だと思われるかもしれませんが、私は祖母と本当にそりが合わないので一緒の部屋に寝ることなど考えられませんでした。

障子で仕切られただけの物音も明かりもダダ漏れ空間に一緒にいることすら嫌でした。

しかも奥の離れや座敷へ行くために通らなくてはならないところなので、部屋というよりは広い廊下のような空間です。プライベートなどとてもじゃないですがありません。

しかし何か月間かの辛抱だと思い我慢することにしました。


前置きが長くなってしまいましたが本題に入ります。

先にも書いたとおり、祖母が骨折したのは私が「高2の冬~春頃」の話です。

祖母はおよそ1年弱うちに滞在しました。

私が高3の冬までです。

高3の冬と言えば一番大事な時期。いくらマイペースな私といえど焦りには勝てず、根を詰めて勉強していました。

何もなくても、受験が近づいてくるだけでストレスが溜まる不安定な時期です。

そんなとき、先述の理由のために、私が自分ひとりだけになれる空間は家にはありませんでした。

妹が離れに行くたびに私の部屋を通ります。

座敷に行くために祖母が私の部屋を通ります。

私に用があるわけではないから、ノックなんてしません。

それは仕方ないのだと思おうとしました。

しかし、私にとって一番ストレスになっていたことは、祖母の存在それ自体でした。

祖母を邪険に思うなんて最低な人間だと思う方が多いと思います。

でも私は我慢できなかったんです。

夜中にぶつぶつと独り言のようにいろいろなこと(後述)を私に話しかけ続け、私が「もう寝たいから静かにして」と頼んでもやめてくれません。

むしゃくしゃすること(たいてい母との確執)があると、奇声を発し、ものにあたる(ベルトで何かを叩いたり)。

私に対し、母を鬼嫁と言い、またものを盗まれた、この家はとんでもない家だ、早く帰りたい、などとまくし立てます。(後述)

あまりの言い草に、私も少々かっとなりやすいところがあるので勢いで言い返してしまうと、

 ・あんなに『かわいがってやった』のに恩をあだで返すつもりか

 ・あの鬼嫁に似たのか。情けない。

 ・さては何か言われたのか。だから私にそんな口をきくのか。

しまいには

 ・孫にこんなことを言われるなんて、もう死んでしまいたい

こうです。

私も言い過ぎたなと思うことはありましたが、祖母の方が明らかに暴言を吐いているのです。

聴きたくないから黙ってほしいだけなのに、そう言うと「なぜ被害者の私が黙らなければならないのか」「言いたいことを言って何が悪い」と、聴く側の私の気持ちなど考えてくれません。

ちなみに、母の悪口は私が小学生のころからずっと愚痴られ続けてきました。

また、祖母が私に言ってくることは、母の悪口以外だと大体

 ・東京大学になど行くものではない。地元大学に進学して家から通うのが一番 ←私の意見(行きたい学部など)は考えていない

 ・私の就職について(公務員銀行員、もしくは祖母御用達デパートでなければ認めない) ←私が希望する職業など無視

 ・父が就職する際、祖父が反対して、採用されていたのに泣く泣く違う職についたという話 ←父をかわいそうだったという割には私をコントロールしようとしている。矛盾しないの?

 ・学生の男に引っかかってはいけない。働くようになってから結婚できる男を探せ。 ←話はわかるがまだ未成年なのにそんなに生々しいことを言われて気持ち悪い(19まで男女交際経験なしでした)

 ・お隣の国(お察しください)の悪口 ←昔(戦時中?)一緒に働いていたときよくない人が多かったらしい

 ・ご近所さんの悪口(わたしの家と、父の実家ご近所さんの悪口。庭の花を盗まれた、服を盗まれた、など)

でした。

私は人の悪口などを言うのも聞かされるのも好きではないので、このようなことを延々と話しかけてこられて精神的になかば参ってしまい、祖母が本当に嫌いになってしまいました。

言い返すと祖母が逆上するだけなので、無視をして布団にもぐりこんでも、布団を剥がしてまで話しかけ、それでも無言で抵抗していると孫にこんな風に扱われるとはなんてひどいあんまりだ、私は死にたくなった、の無限ループです。

しかも高3の冬です。ほぼ毎日それが続いたので、今思うとノイローゼになりかけていた気がします。

私は再三、祖母と隣の部屋で寝るのはいやだと言ったのですが、家族と言えど(母ですら)わかってくれる人はおらず、部屋はそのままでした。

年が明けると足が治っていた祖母はとりあえず家に戻っていったので、祖母が原因かはわかりませんが、センター試験の日に私は謎の胃腸炎を発症し、毎休憩のたびににお手洗いに駆け込んで戻しながらも(汚い話ですみません受験はしましたが結果は散々でした。

幸いなことに、志望は私立だったのでなんとかなりました。

それにしてもよく発狂しなかったと自分をほめてやりたいくらいです。


しかし、祖母との関係が、今の私の厭世的な性格を作り上げた原因となっていることは間違いありません。


すみません。まだ終わりじゃないんです。

長い飽きたという方はこれ以上お読みにならなくて結構です。


祖母についてもう少し詳しく書きます。重複してしまうところもありますがご容赦下さい。

先に、私が祖母を嫌いになったと述べましたが、受験前のこのできごとが原因で嫌いになったわけではありません。

これも先述しましたが、私が小学生の時から、母の悪口や近所の方の悪口を聞かされ続け、また親切の押し売りをされたためです。

祖母は私の母ともそりが合わず、お互いに毛嫌いしていました。

父と母はお見合い結婚、しかも晩婚です。家庭環境が違いすぎたこともありますが、祖母は母を育ちの悪い、性格の悪い鬼嫁と見下している節がありました。

母が結婚後も家庭に入らなかったことも原因の一つかもしれません。専業主婦だった祖母からしてみれば、父よりも帰りが遅く、夕飯を父に作らせている(実際には父は喜んで料理しています)母には不満がたくさんあったのでしょう。

(祖母は料理裁縫など名人級です。片づけ能力はありませんが)

一方の母も、いい大人の父をいつまでも子供のように過剰にかまう祖母の愚痴をいつも言っていました。

私から見ても少し異常なほど祖母は息子たちに過保護なのです。(40、50の大人に対してです…。)

それで、お互い相手のことをよく思っていないことは明白なのですが、表だっては言い合わず、二人とも私に対して互いの愚痴を言ってくるのです。

おそらく妹も同じだったはずです。しかし妹は要領がいいのか、淡白なところがあるためか、性格がいいのか、あしらい方がうまいのです。

私であればつい言い返してしまうところを、実にうまく受け流していました。

なんというか、正義漢ぶるつもりはないのですが、性格がきついとか、私自身を悪く言われるだけならばまだ抑えようもあるのですが、そんなときは必ず母のことも悪く言うのです。

祖母は痴呆とまではいかないのですが、結構昔から忘れっぽいというか、すぐにものをなくしたりしていました。

大体祖母が自分で置いた場所を忘れるからなのですが、祖母はそれを母のせいにするのです。

母が盗んだと言うのです。

私はマザコンではありませんしむしろ反抗期は母によくつっかかっていましたが、こればかりは母側に同情してしまいます。


これが母に対する集中攻撃であれば(実質そうなのは変わりありませんが)まだ問題は小さい範囲で済んでいたかもしれませんが。

祖母は祖母の家の近所の人との関係も最悪なものにしてしまっていたのです。

かなり前から、近所の誰々さんに何々を盗まれたとか、あげく留守中に家に入られてお気に入りの服を盗まれたとか言っていました。

そして、あまりうるさいので父は祖母の家の玄関と勝手口に監視カメラをつけました。

泥棒が映ったことはありません。

祖母は、私たち家族(というのも嫌ですが)に対してそう喚くだけではなく、夜中に窓を開けて泥棒ー!と叫んで警察沙汰になったり、近所の方の家へ行って、おたくの息子は泥棒だ、というようなことを言っていたらしいのです。

実は私はよく知らないのですが、他にもその地域にいられなくなるようなことをしたそうです。

いろいろなことが積み重なり、骨折が治ってまた一人で暮らしていた祖母は、再びうちにくることになりました。

今度は、前とは違います。半永久的にいることになります。

そしてあいかわらず以前と同じように母(酷い時にはついに父まで)を盗人扱いし、近所の人の悪口をわざと外で言ったりしているそうです。

私はすでに進学した時点で家を出ましたが、そのおかげで帰省するのが大嫌いになってしまいました。

帰ればまたあの悪夢時間が待っているからです。


『親切の押し売り』についてですが、

両親が共働きなため、手がかからなくなってくると私と妹は割とほったらかされて育ちました。

もっとも、幼い頃は祖母が毎日うちに来て面倒を見てくれており、それは感謝しているのですが、とにかく祖母は異常に過保護というか、かまってくるのです。

小さい頃から、なにか行事のたびに服を買ってきてはそれを着せてくれたり(それ以外の選択肢はない)していたのですが、物心つくようになってくると私は自分で選んだものしか着たくないと思うようになりました。

しかし祖母が(こう言っては悪いですが)勝手に購入してきた服を、このような言い方はしたくありませんが押し付けてくるのです。

祖母からしてみれば親切というか孫をかまいたいだけなのかもしれませんが、はっきりいって迷惑です。

祖母は買い物依存症といってもよく、服だけではなくバッグと帽子、それに靴は数えきれないほど持っていました。

祖父がそれなりに地位のある人間だったため、祖父が亡くなってからも年金があるので高級品も簡単に買えるらしいのです。

そして、何を勘違いしているのか、自分が着ようと思って買った服などを、自分には派手だから、などという理由で私に着させようとしたりします。

ミセス用の服を着られるわけはありませんし、着たくもありません。ですがいらないと言うと「なんで」なのです。

それ以上にひどいことに、洗ってはありますが明らかに着用後の下着類を送ってきたりするのです。

自分が何歳だと思っているのでしょうか。自分が着用した下着を、孫ならば身に着けると思っているのでしょうか。


また祖母は買い付けの百貨店以外は「安物だからよくない」と決めつけ、私に服を買ってやるというときはそこでしか買いません。

年2回ほど、セール?のようなものがあって、そのときに必ず私や妹に「服を買ってやる」というのです。

それはとてもありがたいのですが、いつも大量に購入した服を送りつけてくるのです。

服って自分のセンスと、サイズってものがあるじゃないですか…。合わなかったら着たくないですよね?

それが昔からずっとなのです。さすがに毎年口をすっぱくして言い続けてきたので、最近では「一緒に行って買ってやる」に変わったのですが…

それでもその時期に帰省できるとは限りませんし、まず大体にして一緒にいるのが苦痛です。

祖母は店員の前で簡単に「安物」「品が悪い」などと言うのです。(ちなみに少し話がそれますが、祖母は今まで自分が買ったものの値段をほぼすべて覚えており、このバッグはいつどこで○万円で買った、このスカートはいくら…というようにいちいち教えてきます。私はそれが本当に不気味です。私が安物のコートなんかを着ていると、ものすごい目で見られるんです。)

祖母に、いらない、と言うと、なんでと言われ逆上されます。

なぜと言われても、服くらい自分で自由に選びたいのだといっても通じません。

そしていい加減に頭にきて私が切れると、また「あんなに可愛がってやったのに」です。

そんな風に恩を着せられるような、そんな愛はいりません。

すぐに「私はお前のためを思って」「私は世界で一番お前を大事に思ってるからこう言うんだ、だから言うことを聞け」と言います。

もう頭がおかしくなりそうです。

今までずっと冗談くさくしか言えませんでしたが、この際父にはっきり言ってやりたいです。

あなたの母親は頭がおかしい。と。

いくら痴呆が進んでいるからといって、自分母親だからといって、自分の家に引き取って面倒を見ようと思えるのでしょうか。

ある意味尊敬しますが、母や私が受けてきた精神的苦痛は、祖母が家にいる限りずっと続くのです。

父の兄弟はたまに様子を見に来たりしますが、祖母を引き取ろうとはしません。

父はこんなに近くで、こんなに祖母に尽くしているのに、祖母はそんな父を(いつもではありませんが)「親不孝者」呼ばわりしたことさえありますし、たまにきてはまとまったお金を置いていくだけの、父の兄弟の方がかわいいようです。

何年も何年もうちと祖母の家を車で往復し続けてきた父よりもです。

私はそんな父のこともひどく哀れでなりません。


友人がいないわけではありませんが、友人にこんなことは言えません。

自分の祖母の悪口を言うなんて嫌な人間だとしか思われないと思います。

でもまだ実際ここに書いていない(書けない)ことがまだ山のようにあります。

私は故郷が好きなので、帰りたくないわけではないんです。

でも、家には祖母がいると思うと…

そんな風にみんなが苦痛を負いながら、むりしてうちで面倒を見る意味ってあるのでしょうか。

入院させてしまった方がいいんじゃない、という言葉が、何度私の口から出かかったことか。

でも父にそんなことをとても言えませんでした。


もしかしてこんな家庭はよくあるんでしょうか。

私のような思いをしている方は実はたくさんいるんでしょうか。


今はとにかく、帰省するのに気分が重いです…。


このような長文&駄文をもしもここまで読んでくださった方がいましたら、お礼を申し上げます。

ご気分を害された方がいましたらお詫びします。

これだけ書くのに、気づけば3時間も経っていました。

疲れましたが、ほんの少しだけ何か気が楽になったような気もします。ありがとうございました。

2010-07-19

生まれて初めて父の死因を知った。

 なんか色々と混乱してて何から整理していいのかわからないから、書き出してみることにした。

私は1992年生まれの17歳(大学受験生)で、父が死んだのが1996年で3歳の時。今は2010年だから、14年経ってる。

父に関する記憶は、ほとんど無い。あるとしても、棺が焼却炉に入っていく場面しかもう覚えていない。

17年間生きてきて、母から父については何も教えてくれなかった。「3歳の時に事故で死んだ」くらい。

だから私は周囲の人が「父はこういう人だったんだよ」と言ってくれるのを頼りに、自分なりの父親像を描いていた。

きっと父がいたら、こうしているだろうな、とか。父さえいれば、とか思ってた。

 そんなこんなで今日2010年7月、私が家の掃除をしていたら、いつも閉まっているはずの金庫が開いていた。

母が書類を持ってどこかへ急ぎ足へ行ったことから、急いでいて鍵を閉めるのを忘れていたんだと思う。

私は興味本位でその金庫を覗いた。するとそこには、家の契約書?とか保険?の書類とか、そういうのがいっぱいあった。

なんだつまんないと思いながら見ていくと、埃がかぶっている分厚い真っ黒のファイルを見つけた。

すると、父に関する書類がたくさん出てきた。遺産相続和解契約書、戸籍新聞の切り抜き、資格の何か免許書?、献血賞状、弔辞…

見るのが怖いと思いつつ、開けちゃったから見ちゃおうという好奇心から、全部読んだ。

それが間違いだったのかもしれないと今思ってる。

 父は××運輸で働いていたらしい。色々な資格証明書があった。どんだけだよ。

父の昔の写真も出てきた。女装とかどんだけだよ。

父は献血が好きだったようだった。表彰状があった。126回ってどんだけだよ。

父は学生時代から行動派だったようだ。毎週キャンプとかどんだけだよ。

そこには私が教えてもらった父と、知らない父とがいて、とても面白かった。

生きていればよかったのにって思った。

 父の死因が明確に記載されていた書類を見つけた。

平成8年×月×日、××町にて、ブームを倒して駐車中の40tクローラークレーンオペレーターが、10tトラックで入荷してきた止水矢板を卸すため、ブームを約33度に上げたうえで、40tクローラークレーンを約7m前進し停車したところ、その反動で主巻ボットブロックフットピン部に固定してあった台付ワイヤーが切断し、ボットブロックが前方にふられて、荷姿の写真撮影中の故 父の名前 氏に当たり、同氏は午前8時10分頃死亡した。」

はっきり言って、これの意味が全く理解できなかった。でも、次の新聞記事で少し理解した。

「作業を始める前に、クレーンの重さ約三百五十㌔のフックが、近くにいた父の後頭部を直撃、父は脳挫傷即死した。警察の調べによると、クレーンの運転手が、フックを固定していたワイヤを外さずにアームを上げようとしたため、ワイヤが切れ、反動でフックが振り子のように動いて、約五㍍離れたところで作業報告用の写真撮影をしていた父に当たった。父はヘルメットを着用していたが、フックがぶつかった際、はね飛ばされたという。」

この時昔の記憶が一気に戻ってきた。そういえば小さい頃おばさんが、

病院に運ばれたけど、目が開いたままで植物状態だったんだって。もう植物状態でもいいから生きてほしいってあの時は思ったよ。朝の5時に出勤して8時に死んだんだって、気の毒にね。」

みたいなことを私に話してくれたのを思い出した。

なんかもう、今まで父のことをそんなに考えていなかったのに、これ読んだ瞬間涙が止まらなかった。よくわからない感情が頭の中を動き回ってた。

少しだけ、クレーンの運転手を憎んだ。あんたさえいなければ父は生きていたのにって、その時は思った。今は思わないようにしてるけど。

 戸籍を見つけた。父のものだった。私の名前、母の名前が載っていた。でもそれとは別に、違う人の名前も載っていた。

戸籍によれば、父はバツイチだった。しかも私の5歳年上の長男もいるようだ。

私が想像している父と違って、本当すごくがっかりした。

自業自得自分勝手だと言われれば否定はできないけれど、小さいころから信じていたものが一気に崩れていった気がした。

しかも、年金手帳を見ると、母の名字も今と旧姓とは異なるものが書かれてあった。母の戸籍はなかったけれど、母もバツイチなのかもしれない。

遺産相続の書類には、私の名前と母の名前、長男の名前とその母の名前、そして住所が書かれてあった。

父が働いていた会社のお偉いさんの名前も沢山書いてあった。住所も。

 金庫の隅にA4の黄色い紙が、綺麗に折られてた。開いてみたら、赤いペンで絵が描いてあった。

私はすぐにわかった。これは3歳だった私が、人から「父は頭を怪我して死んだんだよ」と伝えられた言葉を頼りに描いた父の絵だった。

あの頃の私は、何を思ってこれを描いたんだろう。

頭から血が流れている父の姿は、どうやって想像したのだろう。

 なんかもう、よくわからなくなった。

何をしていいのかわからなくなった。

何をすればいいのかわからなくなった。

私はこれから、どうすればいいですか。


7月21日トラバ

 この記事を書いた増田です。

いきなりですが長文すみません

 この間吐き出すだけ吐き出してからずっと椅子に座って、ぼーっとしてました。

ブクマ見たら凄いことなってて驚きました。ありがとうございます

色々なことを考えました。殺した相手を復讐するか、血のつながる兄に会いにいくか、もっとたくさんの情報を仕入れるか、

家族とは何か、父とは何か、一番良い死に方とは何か、片親であることは悪いことか、などなど。

自分の中で答えが見えないものを、ただひたすら探し回ってました。答えなんか出る訳なく、殆ど眠らぬまま今を迎えました。

でもブコメを見て考えていくうちに、ほんの少しだけ理解できるようになりました。

一方的に受け取るのは申し訳ないと思ったので、少しですが答えさせて下さい。

■何で増田に書いたのか■

 恋人や友達にいきなりこんな話したってどうしていいのかわからなくなるだろうし、

母や親族に直接聞ける話題でも無いし、そうなると人間で話を聞いてくれる人は私の周囲にいません。

Twitterだと連投は嫌がられるし、元々そのようなツールではないし、ブログなんて持ってないし、mixiやってないし、

一番の理由は、身元を知られずに誰かに聞いてほしかったからです。匿名性があるから、私が誰かわからないと思います、多分。

■「普通に」生きればいい■

 逆に普通って何ですか?

だってごく一般的な、両親が揃った家庭を普通とするならば、私は3歳から異常なわけで、

異常な私がすることって普通とは言い難いのではないかと思います。

今回の件を水に流して忘れて生きるというのが普通ならば、そもそも水に流そうと思っている時点で人とは違います。

普通に生きることって簡単なようですごく難しいです、今の私にはさっぱりわからない。

多分、世の中から父の存在を消せば、普通になるのかもしれませんが、それは無理なので一生普通には生きられません。

■何故父に不満を持つのかわからない■

 私は小さい頃から父の人柄や評判を積み上げてきました。

それはみんないいことばかりだったので、私にとって完璧な父が頭の中にいました。

だから今回離婚歴があると知って、ショックでした。

私の思っていた父とは違う、と思いました。まあ、私が勝手妄想していただけの自業自得ですが。

 そして、家族についても考えました。家族って何だろうと。

街中で父母子が手を繋いで歩いているのを見て、ああいうのが本来の家族であって、父さえいれば私もああだったと思ったこともありました。

でも今回の件で気づいたことは、愛が移動することで、笑顔の場所が変わるということです。

だって離婚する前は、違う人たちにその笑顔を振りまいていた訳です。

そう考えると、なんか、納得いかないというか、すみません上手く表現できないです。

母親相談するor仲良くすべき■

 母とはあまり話しません。性格が180度違うのに自己主張が強い為、話す度にぶつかり合います。

私が遅れてきた反抗期というのも少し関係しているかもしれませんが。母の口から父の話を聞いたことはありません。

母は父が死んでから高血圧になり、ちょっとしたことで倒れるようになったそうです。

だからもし私が父の話をしたら、母は具合を悪くするかもしれません。

もうこの話題はタブーなのかなと思って、父に関することは他の人に聞くようになりました。

これ以上仲良くしようとも思わないし、仲悪くしようとも思いません。

■また悩んだら増田に書けばよい■

 もう増田に書きません。なぜならここは悩み相談をする場所では無いからです。

なので今回私が一方的に思ったことを吐き出したことに罪悪感を感じています。

不快に感じられた方もいるようで、本当にごめんなさい。

ですがブコメを読んでいくにあたり、少しずつ整理していこうと思うようになりました。

おそらく多くの人はこれを見ないと思いますが、私はどうしてもお礼を伝えたかったのです。

こんな風にしか伝えられませんがお許し下さい。

 本当にありがとうございました

2010-07-09

大人になる過程だよ

http://anond.hatelabo.jp/20100709031829

今頃反抗期かあ。大変だね。本当は中学生くらいのときに、みーんな、そんなことがわかってくる。「親殺し」って言って、親を殺す夢を見て飛び起きたり、親に殴りかかる夢をみたりね。

親離れするための、ごくごく普通感情だから心配ない。

元増田の親は、ちょっと元増田とくっつきすぎていそうだから、離れるのは苦しいだろうけど。必ず離れられるからあきらめずに忘れよう。

そう、自分人生自分責任を取るんだ。

だから、自分の舵は自分で取ろう。

他の奴には、たとえ親でも取らせるな。がんば。

2010-07-07

東大の入学手続きの日、教養学部教員エッセイ集を購入した。載っていたエッセイの内容はほとんど忘れてしまったが、その中で妙に心に残っていた言葉がある。多分柴田元幸先生エッセイだったと思うのだが

東大生」という自意識からはできるだけ早く脱却することをお勧めする。

多分こんな感じの言葉だった。それから一年東大生という自意識からも、教養学部の巨大さの中での孤独感からも抜け出せなかった僕は徐々に鬱々としていった。本郷にはなんとか進学できたものの、その直後に休学。十数年経った今でも鬱々とした気分は付いて回っている。

今でも時々考えることがあるが、あれは必要な回り道だったのだろうか。自分の生活を律することもできず、学校にもなかなか行けなかった僕は、学生時代をほとんど棒に振ってしまったようなものだった。特に教養学部前期課程という、その気になればなんぼでも学ぶことができたはずの一年半を棒に振ってしまったのは今でも悔しい。可能なら今からでも入り直して駒場で学びたい気分だ。

そのかわり、高校の頃にはほとんど見ないようにしてきた自分内面と向き合う時間は得ることができた。(とは言っても一人悶々と発散する先のない遅すぎる反抗期に苦しんでいるだけだったのだけれど。)高校時代はほとんど「文系」の本などは読まなかった僕が、心理学の本をきっかけとして哲学や禅の本などに挑戦することもできた。(未だに自分内面との折り合いはついていないが。)本郷では、学校に行けなかったが単位は必要だったので、教科書を死ぬ思いで読破した。ひょっとしたらこれが初めて本当に自分勉強をした経験だったのかもしれない。(未だに文章を勝手読みしてはしょうもない勘違いをしたりするが。)

何が言いたいのか自分でもよく分からなくなってきた。なんでこんな話を書きたくなったのかもよく分からない。

2010-07-06

 友達。小学校の低学年くらいまではいた気がするんだけど、高学年くらいから十数年、友達いた気がしない。なんというか、友達と言えば友達なんだけど、2人きりになったらなんだか居心地が悪い。もちろんあんまり仲良くない人といると居心地悪いんだけど、それとは違って、誰に対してもなんだかやりづらい。というか、生きづらい。この圧迫感はなんなんだろう。

 会話が苦手だから、人見知りだから、消極的だからこういうことになるのかと思ってたけど、たぶん違うと最近気付いた。

 自分で生きたいように生きることを、自分で禁じていたからだ。声を出して笑わない、会話の中で一人称を使わない、本当に些細なことまで禁じていた。これは自然体じゃないから、いつもぎこちない。自分を偽っていて、自分を出せないから、他人は僕をどことなく警戒する。僕も他人を警戒する。壁ができる。いくら愛想がよくても、他人は僕を信用しない。仲良くなれない。

 それで、なんで僕はもう少し自由に生きられないのかと考えたら、わかってはいたけど親との関係が問題なんだ。俗に言う「いい子」で今までやってきた。子供の僕はそうしなければいけなかった。でも、「いい子」を演じるなんてどこの子供でもすることだと思う。問題なのは、大人になって「いい子」を演じる必要がなくなったのに、「いい子」であろうとすることだ。親と殴りあって勝負すればもう勝てるだろうし、お金だって稼いで自分で生きていける。もう「いい子」である必要はない。だから自分で「自立」しなきゃいけない。

 よくあるパターンで、「いい子」の僕には自立の始まりである反抗期がなかった。だからといって今から反抗期する必要はなくて、ただ小さなことからやりたいようにやって、ありたいようにあって、言いたいように言えばいい。例えば、僕は親の前で携帯をいじることを禁じていた。それは悪いことのように感じた。でも普通に考えたらどこに禁じる必要があるのかわからない。だから堂々といじることにした。親の機嫌が悪いとなんだかすごく不安になるけど、そんなことで不安になる必要はなくて、だから普通にしてることにした。そんな些細なこと。

 こういうことに気付いたら、なんだか体が軽くなったような気がしないでもない。たぶんこういう自分を出すことの延長に、人づきあいがあるんだと思う。これが根っこの部分。根っこをどうにかしないと、コミュ力なんてつかないと思う。彼女できない友達できないの解決策として語られるようなことに違和感があったので書いてみた。僕はそもそも非モテ非コミュですらなくて、子供だったんだ。あと何年かしたら、もう少しいい人生になってたらいいな。

2010-06-18

マナーが悪いのはジジイ

異論は認める。

混雑した電車の中や人混みの中で無言で体当たりかましてきたり鞄をフルスイングでぶつけた来たり

ドアの前を降りる多数の人たちをさえぎって踏んばったり。

大体そういうKYで迷惑な行動をするのは70代ぐらいと思わしきジジイが多い。

店員にやたらと上から目線俺様的な、かつトンチンカンな言動を連発して周りから苦笑されているのも大体ジジイ

一昔前に流行った「オバタリアン」が有名ではあるが、それにはまだ笑える要素があるが、

クソジジイどもの場合は彼らが必死すぎてテンパっていて、上から目線な分遭遇しても笑えない。

今の70代って終戦直後は今で言う小学校中学校反抗期バリバリの時期だったから頭がオカシイ人達が多いのかもね。

2010-05-16

そこだよなあ

http://anond.hatelabo.jp/20100516040812

弟曰く彼女は、うちの母親みたいに何もなくたって二人で子育て出来る!ってのを知らないそうで

その辺を彼女と会った時に母親から話して欲しいんだとは言ってた。

彼女の、子育ては父母のみでは不可能で祖父母の協力必須という考えを変えさせたいと。

小姑とかいうけど今だ彼女名前覚えてない程興味ないから問題ないとは思う。

ヒキ体質、出来れば人と係わりたくないんで親戚付き合いとか勘弁・・・気を使わないでスルーして欲しい。

私は子育てするってのは「一人前の社会人として育てること」と思っているので、私的には元増田のお母さんの育て方は失敗ってことになる。回りの人間に頼らないから、子供が他人慣れしなくてヒキ体質になるんだよなあと思う。うちの親戚にもいるよ。息子は引きこもりまっしぐら。しかも、似たような環境の子が集まる私立に入れたから、立ち居振る舞いはお上品だけど、親戚の集まりとかあると、ほかの人間が立ち働いているときに座って茶飲んでたりして、自分以外はみーんな「お手伝いさん」かなんかだと思ってるみたいなカンジ。まあ、元増田はそんなことしないんだろうけど。

(※家族とはどちらかのサイドの影響下の元に居るべきではなく、どちらの影響下にもない場所で独立してあるべき派。

うちの両親駆け落ちで子育て二人でやってきたから母親は、彼女の家の側でという気持ちが分からん模様。

でも彼女地元で職持ちだしね・・・)

世間一般常識的には、子育てってのは、世間様のたくさんの影響下の元で行われ、親に出来ることって言ったら、情報量の多さとでたらめさに子供が惑わされないよう、一定の指針を与えておくくらいのこと。それだって、本人が中学生くらいになったら「反抗期」って言って、親の価値観全面否定する時期があり、親子の考えが合わずにぎゃんぎゃん言い合うことになる。

駆け落ちしておいて、弟さんの結婚式に出席してくれる親戚が10人もいるのなら、元増田のご両親も自分たちで言うほど親戚づきあいしてこなかったわけじゃないと思うしね。

親が無くても子は育つ。

でも、見守ってくれる大人が、まったくいなかったら、死んでしまう。24時間子供に張りつくわけじゃなし、他人に預ければ他人の影響をうける。いろんな人のいろんな考え方を知って、スケールの大きい人間に育って欲しいと、私なら思うけど。

どう、子育てするのか、弟さんと奥さんになる人は、よくよく話し合ったほうがいいし、結論が、元増田の家のやり方とかけ離れていても(逆になったら、奥さんの家のやり方とかけ離れるわけだし)、弟さんの選択を支持してあげればいいんじゃないかなと思うよ。お姉ちゃん

2010-04-08

http://anond.hatelabo.jp/20100408102253

よく自己分析できてるね。

小学校で教えられた「方便」からいつまでも抜け出せないかんじ。

思春期にこういう矛盾に対して苛立ちを覚えた記憶はおれにもある。

でも大抵のやつは反抗期とかを経て教育詭弁に気付くと同時に、

真実を語ることのナンセンスにも気付いて、

すべて納得して大人になってくもんだど思ってたが、

上手く消化できないやつもいるんだな。

いつの時代も変わり身の下手なやつが損をする。

本人たちが一番よく解っていることだから説教するだけ無駄

2010-03-22

ttp://twitter.com/conisshow/status/10322692812

反抗期がなかったと言う若者が増えている。でも、子ども仕事は親に反抗し、親に左右されない自我を作ること。親の仕事は旧世代の社会を代表する仮想敵として、子どもの反抗を誘発すること。双方が友達親子を自認してたら墓守娘(息子)になる。親離れ=自立は、親がいなくも生きられる自分を作ること

里帰りした

3連休に里帰りした。

母親とは1年ぶりだ(この10年間で5回目くらいだが。)。

母方のおじいちゃん、おばあちゃんとは15年ぶりだった。

嫁さんの弟とは10年ぶりだった。

嫁さんの弟の嫁さんと子供とは初対面だった。

嫁さんのおかあさんも初対面だった。

子供が出来て以来、僕の長い長い反抗期は終わったんかな。

それとも少しばかり自分人生をほんのちょっと認められるまで達したんかね(いや、まだまだ認められへんけど)。

高校中退以来、2年ひきこもって家を飛び出してから

あれこれ人生あったけどやっとなんとか世間一般並みの「普通の里帰り」ができたわ。

オカンはいっぱいいっぱい子供に触ってあやしてくれたな。

写真館に行ってみんなで写真とれてよかった。

1枚3千円もする写真を8枚くらい選んで買ったな、買い過ぎやろ。

でも大事に額に飾っといてやー。また帰るからなー。


写真撮った後はオカンの実家に行った。

何となくもう行ってもいいかなと思ったから行った。

おばあちゃん会うなり「うれしくてうれしくて」って泣いてたな。

そりゃ15年ぶりに孫がやってきて、しかも子供まで連れてたら嬉しくないはずやわな

今まで顔出さんで申し訳なかったけど、それなりにこれから里帰りするから

また今度待っててね。

おじいちゃんはかなり老いたかとおもってたけど昔のまんま頭キレてたな。

20年間上場企業取締役をやってたんやもんな、全然ぼけてへんかったわ。

一緒にコーヒー作ってた時

「おまえはよーがんばったな。よーがんばった」と言ってくれた。

僕は涙こらえるのに必死やったよ、まだまだ僕はこれからやのにね。

「今たぶんお前は肩に力入りすぎてる状態や。肩の力抜けよ。肩の力抜けよ。」

僕の心を見透かすようにアドバイスくれてありがとう。

毎日が闘いやと思って会社行ってる僕には心に染みたよ、肩の力は抜くわけには

いかないけど、まあなんとかやっていくわ、ありがとう。



嫁さんの弟はひさしぶりやったな。

会ったときは弟くんが17のときやもんな。

大阪来たいゆーから、嫁さんと同棲してた部屋にとめてあげたっけ。

金髪ドレッドの弟くんが坊主ヒゲ生やしててびっくりしたけど

かわいい嫁さんと子役モデルみたいな端正な顔立ちした息子がおって

ほんま幸せそうやった。これからも遊びに行くからよろしくね。



嫁さんのおかあさんはほんまやったら10年前くらいに同棲してたときから

挨拶に行かなあかんかったんやけど、そんなこと気使わせないそぶりで

僕に応対してくれてありがとうございました。

初めて会って初めて話したけど気さくなかんじについ甘えそうになります。

これから年に1回は家に寄りたいと思うので宜しく御願いします。



今日東京に帰ってきて今ひとり。

嫁さんと子供はしばらく田舎で過ごすようです。

寂しいけどうちの嫁さんもゆっくり実家で休んだらえーよ。

ゆっくりしーや、子供の世話もよろしく。

僕今一人で弁当買ってきてビール飲んでまーす。

世間一般並みの幸せをこの3連休に初めて味わった。

失った時間は取り戻せないけど

これから精一杯のことはしていくつもり。

とりあえず僕の幸せ記憶をここ増田に閉じ込めておきます。

2010-02-22

私と同じ名前の老猫

今、私の部屋には一匹の猫がいる。

雑種の年老いたこの猫はついこの間まで実家の母が飼っていた。

けれど母は突然あっけなく死んでしまって、だから私が引き取る事になった。

この猫の名前は私の名前と同じだ。

だから未だに呼ぶときに少し不思議きもちになる。

父はもう随分昔に死んでいたし私には兄弟姉妹はひとりもいない。親戚の類もいない。祖父母も当然いない、文字通り天涯孤独になった。

私と同じ名前の老猫だけを残し、母は死んだ。

母がどうしてこの猫に私と同じ名前を付けたのか、終ぞ聞くこと無く死んでしまったから真意は分からない。

母は愛情深い人だったけれど、その愛情はもしかしたら少しずれていたのではないか、そんな事を大人になってから感じていた。

彼女の我が子に対する愛情ペットへのそれととても良く似ていた。

素直で良い子、成績優秀、いつでも従順、そんな子を望み、その結果を私が出せば大いに喜び褒めたたえた。

けれど少しでもそれから外れようものならば、反抗する間も無く酷くぶたれた。時には足や物でも蹴られたし、それに対し泣きわめけば口を塞がれた。

反抗期は私には無かった。ただ無気力だっただけかもしれない。

それでも私は母を愛していた。

母は私が家を出た後、道端に捨てられていた猫を拾った。それが今、この部屋にいるこの猫だ。

私と同じ名前を付け、日がな一日撫でて抱いて溺愛していた。けれど自分の意のままにならない時、母は猫をぱちんと叩いた。

それが続くうち、猫は決して反抗をしなくなった。

されるがまま抱かれ撫でられ母が眠る時にはその布団に自ら潜り込んで喉を鳴らした。

この猫もやっぱり、きっと母を愛していたのだと思う。

母の亡骸を部屋に運び寝かせてから通夜を終えて運び出すまで、猫はずっと母の体にぺたりとくっつき丸まり離れなかった。

思えば、この猫は私の身代わりだったのだろう。

そして今、母に溺愛されていた私と猫だけが残った。

私たちはまるで双子のようだ。人の動きをじっと伺い顔色を見て行動する、とても良く似ていて滑稽。

もしかしたら私たちはうまくやっていけるかもしれない。

そんな事を思いつつ、ふと猫に目をやれば彼女は微かに首を傾げてにゃあと鳴いた。

2010-01-10

希望について

 世の中のことを考える。希望うなじを眺めながら、世の中のことを考える。希望こころとからだは、どのくらいまで苛めぬいたら、死んでしまうのだろう。希望植物人間になったり、ボケたりするのだろうか。希望のエサには、何をどのくらい与えればいいのか。ワサビや砂糖は苦手じゃないか。希望は犬派、それとも猫派? 希望はいま何歳? はじめて見た景色は? 反抗期はどうだった? 家族は何人だろう、親戚もみんな希望なの? 希望はそんなに頼りないのか。希望はそんなに強いのか。

 世の中で育つ希望のために、ひとつのことにずっと関わりつづけて、生活や人生の過半を費やす人がいる。その意味を注意深く見きわめながら、僕はそういう人を敬愛し、そうさせる何かを自分ももちたいと思うことがある。鍛えられた善意正義はよく働くのだ。

 この世でとくべつ力を湧きたたせるもの、それは自分の放った言葉だと思う。言葉いのちをつなぐ水だ。

 人は錯覚する生き物だ。「彼女左利きだ」と事実のみを言う。「でも彼女は器用だ」と返す人がいる。「だから彼女は器用だ」と返す人がいる。言葉を使うとき、錯覚のクセが現れる。悲しい錯覚はやめたのだ。錯覚が次の事実を作り出すのだから、素晴らしく美しい事実につながる錯覚を習慣づけるのだ。信念や人生信条というものも、錯覚という同じ機能を善用したものである。

何かを買うとき、「ありがとう」と声をかける習慣を作った。これは気持ちがいい。次は、「いただいます」「ごちそうさま」の習慣を、しないと気持ちが落ち着かないくらいに習慣化させたい。

2009-12-17

鏡に色はありません

私は多分鏡のような人間なのだと思います。

役割は人を写しその真似をし相手を一喜一憂させると言うことだけです。

時には相手を喜ばせ、時には叱咤激励し、時には気付かずそっとそこに立つ。

ただそれだけ。それ以上でもそれ以下でも無く与えられたその仕事を休まず続ける。

そんな生活が物心付いた時分から始まっていて、成長期、反抗期思春期、いろいろ少しずつ拒絶をしてはみたけれどやっぱりその枠からは飛び出せないまま今日まで来ました。

相手が送った目線の先に私も視線を送ります。

相手が挙げたその腕を逃がさないよう私も腕を掲げます。

私はその人を多分完全にコピーできてしまう。口ぶりも癖も歩く速さも食べ方も泣き方もなんでもかんでもコピーしてしまう。

それは決してそうしようとしているわけではなく、ただ宿命のように私の体は吸収し抗うこと無く他者になるのです。

君といると気を使わなくて済むと度々言われる事があります。

それを聞き、私は目の前にいるその人物にとても良く似た笑みを湛えるのです。

2009-12-08

米、同盟協議「延期」を鳩山政権に通告

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091208-00000777-yom-pol

反抗期中学生がお母さんに暴言吐いて「俺って大人だな」とか調子こいてみたもののマジギレされてあえなく泣いて謝るしかなくなった、って感じだな。

2009-10-25

http://anond.hatelabo.jp/20091025011722

日本の歴史上、そういう親で

子どもが幼い頃、なるべく家にいて一緒に遊んでやっているか?

子ども思春期反抗期になったとき、「誰に食わせて貰っているんだ!」って言ってないか?

子ども教育を奥さんに任せっきりになって無関心になってないか?

みたいなチェックポイントがあってな、どれだけ悲劇が生まれたか、なんて…増田は知らないんだろうな。

金属バット殺人事件の両親はリア充になるんじゃないかなぁ。

2009-10-18

http://anond.hatelabo.jp/20091018111330

マザコン育成中?息子ラブ母の傾向と対策」

ttp://allabout.co.jp/children/ikujinow/closeup/CU20060808A/

>かく言うガイドも、「女の子」育ての後に「男の子」育てを経験することになって、思いがけず息子溺愛にどっぷりハマった。

>息子溺愛ぶりを恥ずかしげもなくあちこちで垂れ流し、とうとう「息子に口(くち)チュー、いつまでOK?」なる記事まで書いてしまった。すると同じ息子ラブ母たちから「私も息子に口チューしまくってます!」旨の投書をどっさり頂き、「息子ラブ」に共感してくれる母の多さと、その情熱にびっくりしちゃったのである。

>『ヤバいよママ、目を覚まさなきゃ!』

だが、前述の「息子に口チュー、いつまでOK?」には、「おいおい」というツッコミの投書もまた、多かったのだ。

「そういう母がマザコン男を育てて、結局その妻が苦労することになる。目を覚まして!」

「そんな『口チュー』母にベタベタに甘やかされて育った息子には、自分の娘を嫁がせたくない。何をされるかと思うと、恐ろしい」

……などなど。なるほど、ごもっとも!

>『息子ラブ母たちの性格的共通点とは?』

子どもが生まれるまではむしろ夫(彼氏)に対して尽くしたり、アドバイスしたりするのが好きだった人が、子どもが生まれると、対象を変えてその保護的性質を思う存分に発揮することになります。子ども愛情を注ぎ、保護することは、社会的価値観の中でも良しとされることなので、この性格的傾向が加速されてしまうこともあるわけです。

自分を必要とし、愛してくれていて、甘えてくれる。子どもと言えども男性として見た場合、母性が強い女性が男性に望む全てがかなえられた、「理想の男性」となってしまうのです。

>しかしそうやって溺愛した結果、「マザコン男」が出来上がってしまうことは、私たちもなんとなく経験的に知っていることですよね……。

>特に男の子思春期以降、母子密着はどうしても弊害を招く恐れがあります。お母さんの理性的な対応と、心理的距離を離す努力が必要となってくる時期ですが、経験から言って、この時期になっても息子を手放せないお母さんには、家庭内にある特徴があります。

>残念なことですが、問題と思えるような母子密着を示すお母さんたちには、夫に家庭参加を期待していない、または実は夫とうまく行っていないという人が多いのです。うまく行っていないのにそれを直視していない、そういう場合もあります。

>身体的な変化から精神的に不安定になってしまった妻の悩みを、夫が受け止めず、より一層息子へと全てを注いでしまうわけですね。ちょっと話を聞いて欲しい、甘えたいという妻の気持ちの持って行き場が息子以外にないと。

>ですから、そこで息子が反抗期に入ってしまったりすると、たちまち不安定になってしまうお母さんが沢山います。反抗期のない息子というのは、実は『お母さんを不安定にしたくない』という気持ちが働いている場合もあるんですよ。

>そして、「息子に依存する母」と、「ママ第一のマザコン男」が出来上がってしまうんですね……。

>反抗というのは、自分は親と違うという自己主張。自己確立するのに必要なプロセスなのです。思春期の息子溺愛は、結果的に男の子の正常な発達を妨げてしまいます。屈折した問題行動を起こす場合に、その原因としてよく見られます。

エディプス・コンプレックスとは、お父さんからお母さんを奪いたいと思うのに奪えないという葛藤のこと。この葛藤を通して、男の子は一人前の男として力をつけ成長すると、精神分析学の一派では考えられています。ですから、そのような葛藤こそが男の子を育てるのであって、お母さんと息子が無条件に密着していたら、その葛藤がなくなってしまうのですよ。言い換えるなら、お母さんがその子の成長する機会を奪ってしまっているのです。

>一部には、女性との付き合いは全般的にOKでも、男社会に適合できず、自分よりも目上の男性、例えば先輩や上司との関係構築が苦手で不適応を起こす子もいます。また、ママの言うなりになって自分考える力や難所を乗り越える力が薄れる子もいます。

※「子どもと言えども男性として見た場合」

自分らの年代から見たら、「息子を男として見てる…オゲエェェ」という感覚だが、海千山千のオカンの側としては、それを指摘しても「息子を男として何が悪い!?息子は永遠恋人で、私の物だから!」と全く開き直ってしまってるんだろうなあ。それも、「私だって大変!その私の心を支えてくれる人間を作って何が悪い?」という理由づけによって強化されていると思われる。

“息子には夫役は荷が重い”という事実は受け入れないんだろうなあ。

※母と息子の依存関係にばかり目が行きがちだが、息子と差をつけられて育った娘の方もそれの被害者かも。

以前見たブログで、「息子LOVEのお母さんに差別されて育ったお姉ちゃん」の記事があり、そこについたコメント

『娘が可哀想』という意見と、

母親本能的に息子を可愛がるもんなんだよ(だからカーチャンが俺ばかり可愛がるのもおkwww)』

という意見まっぷたつに分かれていて興味深かった。

2009-09-13

http://anond.hatelabo.jp/20090912180954

http://anond.hatelabo.jp/20090912180954

を書いた増田です。

上記の日記では、

「公立中学に行かせるべきじゃない。理由は、リア充DQN化したときに、子供反抗期では済まないレベルになってしまうからだ。俺が住む地域のみかもしれないけど」

のような事をかきました。

ブクマトラバで、いろいろなご意見を頂いたので、返信したいと思います。

「それはリア充じゃなく、ヤンキーだ。」という意見の方へ

http://anond.hatelabo.jp/20090912180954

id:white_rose

id:aozora21

中学入学当初、リア充ヤンキーの見分けは、つかなかった。

中学卒業前には、明らかなヤンキーもいたが、俺が話してるリア充グループは、そうではない奴がほとんど(リア充グループリーダーはそうだった)。俺が話してるリア充グループは、「野球サッカーバスケ部のエースや部長で、文化祭体育祭では、張り切ってしまう」、そんな典型的リア充だった。友達思いのいい奴らも多かったと思う。しかし、それが仇になったのだろう。

彼らは、中学卒業しても、中学時代の人間関係を断ち切れなかったのだ。 id:ppp22 が言うように、本格的にヤンキーになり犯罪を手に染めるようになるのは中学卒業後だ。しかし、中学時代の人間関係がかなり関係していたように思える。

中学時代の人間関係のために、俺が巻き込まれた、体験談を書く。

これは、

id:white_rose

「あとやばそうな人とは高校で別になるし、子供がしっかりしてたら巻き込まれないのでは?」

と考えている人に読んでほしい。なぜなら、20代後半になる今の俺でも、あのときどう対処したらよかったのか、わからないからだ。子供がしっかりしるレベルじゃ、防げないと思う。

カーストの低いグループの一員として、中学卒業した俺は、同地域普通偏差値55くらい)の公立高校に通っていた。その時期、ちょうどPHSポケベルが全盛期だった。そのため、中学の友人とも連絡をとり、月に一度くらいは会っていた。ある時、グループリーダー的存在であり、上位のリア充グループとも付き合いがあるAに、呼び出された。

「Bから、○○会のパーティー券が回ってきた」と言われた。

同世代なら知っていると思うが、知らない人もいると思うのでパーティー券の説明をする。パーティー券とは、かつあげのためのツールである。(大抵の場合、開催すらされない)パーティーの入場券を買わせることで、かつあげをする。このシステムは、友人がやるコピーバンドライブチケットを買うのとシステムが似ているため、検挙され難かった。

Bとは、中学時代のリア充グループの一人で、○○会とは地元で最強の暴走族だ。○○会は、現役の高校生だけが暴走行為を楽しんでいる暴走族ではなく、少なくてもチンピラと、おそらくヤクザとも関係をもっている暴走族だ。Bは、○○会と関係するようになっていたのは噂で知っていた。そして、○○会の先輩に俺達のグループパーティー券を回すように言われたらしい(これはおそらく嘘)。

券の枚数は忘れたが、一人当たり2千円ほどの負担で済む額だった。そして、俺達はそのパーティー券を買った。これはかなり危険な選択だった。一度買ってしまえば、また買わされる可能性が高いからだ。しかし、幸運にもそれ以降なにもなかった。

この時、さらに券が回ってきた時にどうしたらよかったのだろうか?

親、学校警察に相談する。もちろんそれも考えた。親、学校に言えば、警察に相談することになるだろう。しかし、暗黙の脅しで、警察が積極的に動くはずがない。せいぜい、そんなもの買わないように注意され、何かされたら通報されるようにと言われるだけだろう。そもそも、○○会は、毎週土曜日同じ時間の同じ場所で暴走行為をしていたのに、警察は取り締まってなかった。

次の選択としては、俺が、Aとその周りのすべての人間と縁を切ることだ*。だが、Aの立場では難しかったと思う。Aは、族関係者のBに、直接関わってるため、何かされるリスクが高いからだ。

中学時代の人間関係のため、こんなブラックな悩みを、普通の15歳の少年であった俺は持っていた。今でも、こんな状況がきたらどうしたらいいかわからない。

「良い大学に行くのは、良い人間関係ができるから」と言う人がいる。それと、まったく逆のことが、地元の公立中学ではおきていた。子供がしっかりしていれば、防げるレベルではないと思う。

逆にいえば、中学時代の人間関係を使えば、すぐに○○会の一員になれただろう。もし、暴走族暴力団に入りたい人には、ほしい人間関係なのかもしれない。

上記は、十年ちょっと前に東京23区東部で起きていた実際の話。俺だけでなく、俺が通っていた普通(だと思ってた)高校でも、この手の話はよく聞いた。うちの子は性格も良いし、しっかりしてるから大丈夫と思ってる親御さんは、上記の件を読んで考えて欲しい。子供がしっかりしてるレベル対処できることじゃないし、友達を大切にする性格が良い奴ほど、ヤンキー化した友達との関係を切れない。


性格が悪い俺は、この事件の三年後、別件でAとA周辺の人間関係を絶ちました。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん