2010-07-06

 友達。小学校の低学年くらいまではいた気がするんだけど、高学年くらいから十数年、友達いた気がしない。なんというか、友達と言えば友達なんだけど、2人きりになったらなんだか居心地が悪い。もちろんあんまり仲良くない人といると居心地悪いんだけど、それとは違って、誰に対してもなんだかやりづらい。というか、生きづらい。この圧迫感はなんなんだろう。

 会話が苦手だから、人見知りだから、消極的だからこういうことになるのかと思ってたけど、たぶん違うと最近気付いた。

 自分で生きたいように生きることを、自分で禁じていたからだ。声を出して笑わない、会話の中で一人称を使わない、本当に些細なことまで禁じていた。これは自然体じゃないから、いつもぎこちない。自分を偽っていて、自分を出せないから、他人は僕をどことなく警戒する。僕も他人を警戒する。壁ができる。いくら愛想がよくても、他人は僕を信用しない。仲良くなれない。

 それで、なんで僕はもう少し自由に生きられないのかと考えたら、わかってはいたけど親との関係が問題なんだ。俗に言う「いい子」で今までやってきた。子供の僕はそうしなければいけなかった。でも、「いい子」を演じるなんてどこの子供でもすることだと思う。問題なのは、大人になって「いい子」を演じる必要がなくなったのに、「いい子」であろうとすることだ。親と殴りあって勝負すればもう勝てるだろうし、お金だって稼いで自分で生きていける。もう「いい子」である必要はない。だから自分で「自立」しなきゃいけない。

 よくあるパターンで、「いい子」の僕には自立の始まりである反抗期がなかった。だからといって今から反抗期する必要はなくて、ただ小さなことからやりたいようにやって、ありたいようにあって、言いたいように言えばいい。例えば、僕は親の前で携帯をいじることを禁じていた。それは悪いことのように感じた。でも普通に考えたらどこに禁じる必要があるのかわからない。だから堂々といじることにした。親の機嫌が悪いとなんだかすごく不安になるけど、そんなことで不安になる必要はなくて、だから普通にしてることにした。そんな些細なこと。

 こういうことに気付いたら、なんだか体が軽くなったような気がしないでもない。たぶんこういう自分を出すことの延長に、人づきあいがあるんだと思う。これが根っこの部分。根っこをどうにかしないと、コミュ力なんてつかないと思う。彼女できない友達できないの解決策として語られるようなことに違和感があったので書いてみた。僕はそもそも非モテ非コミュですらなくて、子供だったんだ。あと何年かしたら、もう少しいい人生になってたらいいな。

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