はてなキーワード: 反抗期とは
私の姉は精神病を患っている。詳しいことは知らない。統合失調症とか、うつ病だとか、分裂症だとか、まあそこらへんだと思う。よく分からない。ちょっと前までは多重人格のようなことを口走っていたけれど、最近は聞いていない。
症状は、荒れに荒れた中学時分の反抗期が終わったぐらいから何年も続いていて、最近は落ち居ているけれど、少し前まではかなり大変なことになっていた。
夜。何かといちゃもんをつけては外へ飛び出す。自分は要らないのだ。ゴミなのだ。存在することが誰かの迷惑になるのだと両親にぶつけて、両親は決死の思いでそうじゃないと繰り返すのだけれど、一度主張しだしたが最後、頑固な姉は過去のことを穿り出して来て、最終的に深夜に家を飛び出しいた。心配して起きて待っている両親をよそに、コンビニなどへ行って、二時三時に帰ってくることがたくさんあった。
私の姉(一概に姉といってももうひとりいるので、以降は長女とする)は、わがままな頑固者で、人とのコミュニケーションの距離感覚が異常なまでに近い上に正義感が強く、するりするりと繰言を繰り返しては、結局最初に述べた理論を押し通すような人間だ。
一通りの中二病的精神状態を経てからは、どうやら一定レベルの精神年齢で思考を停止することを覚えたらしく、言動が幼くなり、五十歳も目前に迫っていた両親に肥満の巨体でじゃれ付いては、大変そうな表情を見つけて、居なくなった方がいいのだと言い募っていた。
まったく面倒くさい奴である。正直、私は長女のことが苦手である。一時は本気で嫌いだと思っていた。死にたいならさっさと死ねばいいと、家を出て行きたいのならばさっさと出て行けばいいと思った。まあ、その思いは、基本的なところで今も変わらないのだけれど。私も大概ひどい奴である。
さて、以下にそんな私の姉を中心とした私の家族を列ねてみる。個人的に、我が家はそれなりにどこにでもある家庭で、それなりにみんなが問題を持っている家族集団だと思っている。普遍的な家庭ってことだ。
最初は母だ。
基本的に短気な人である。長女との喧嘩でよくよく言わなくていいことを言ってしまうし、無視しあしらってしまえばいいような場面でも全力で受け答えをしてしまう。もう何度も経験して、その言い方をすればどんな結果に辿り着くのか傍目から見ても明らかなのに、同じ道筋を辿ってしまうのだ。学習能力がないと、家族からからかわれている可哀想なお茶目さんだ。
そして、寡黙なのを押し通して、最後の最後まで手を出さないよう、あるいは最後には俺しか居ないのだと構えている父。
母と長女が諍いをしているのをじっと黙ったまま見ていて、最終的に立ち上がってみるのだが諭すことに失敗する。成功例もいくつかあるように思うけれど、失敗した時は姉が飛び出た後で母を責めていたような気がする。いや、あんたにも責任はあるだろうとは度々思ったものだ。個人的に煙草の煙が大嫌いなので止めて欲しい。
祖母は、要らないところで口を挟むKYな人物だった。
聞いていてはらはらするのだ。基本的に関知しないことを潔しとしていた祖母だけれど、感極まって口を出すことがあった。それで口喧嘩になる。長女には敵うわけがないのだから、結局は無駄なのだからやめたらよかったのに。未だにバリバリと働く元気なお祖母ちゃんである。
次は次女だ。
私と同じで、基本的に部外者だったのだけれど、私に比べて彼女は家族思いだった。離れていても母親とメールのやりとりをしたり、いろいろ話も聞いていたんだって。更には、一度飛び出した長女の頬を張ったこともあったらしい。その後、ごめんと謝って、叩いていいよと返した次女は結構恰好いい女だと思う。うん、本当に。
そして、私である。
厨房の頃は耳を塞ぎ、高校生の頃はどうにかできるのだと、私が何とかするのだと義務感に燃えていた無謀な馬鹿である。頭の中で何度も長女とのやりとりにおける対策を考えては、両親や祖母の向かい方を小馬鹿にして、私ならこうするとシミュレーションを繰り返していた。
でも、実践では惨敗。自分が要らない人間だと言う姉との会話の中で、お前は嫌いだと言われ、更には冒頭で死ねばいいとか思っていながらも、もう飛び降りると川に身を乗り出した姉の身体を抱き止めたこともあった。一貫していない阿呆である。そして、あの時手を離していたらどうなっていたのだろうと、最近考えてみたりしている。詮無いことだけれど。
まあ、結局私は無力だったのだ。若気の至り。世間知らずもここまで来ると可愛らしく思えてくるのではないか。黒塗りの消しゴムでぐちゃぐちゃに消し去ってしまいほどに。
さて、そんな我が家には犬が一匹居るのだが、これまた可愛いのだけれどもとっても可哀想な犬となっている。以上に上げたような人物たちなので、かなり怒られてばかりなのだ。また、長女は基本的に独占欲の強い人なので、愛情の示し方が自分のモノとして支配下に入れることで成り立ってしまっている。
つまりは、尻尾を力を込めて踏んだり、皮を力一杯抓ったり、頭に思いっきり噛み付いたりすることがあるのだ。きゃんきゃんと喚く愛犬の姿は、見てみてはっきり言って気持ちのいいものでない。要らない場面で要らない命令(ご褒美も上げないのに、お手とかジャンプとかをさせる)を出すのも気分が悪くなる。
が、それでも、長女は我が家の犬を愛しているのだ。餌をやるのは自分の仕事だと自負していて、先に他の誰かにやられてしまうと拗ねやがるのだ。今年、たぶん25歳ぐらいになるのに(恥ずかしいことに、私は家族全員の誕生日はおろか、正確な年齢すら把握していない)。大きな幼児が居たものである。
ただ、そんな長女だけれど、少しずつ症状が和らいできているように思える。依然として過去のことに拘り、うだうだと五月蝿いことはあるのだが、それでも入院した後は積極的にバイトに行くようになったし、ネットで知り合ったらしい友達の輪も増えたように思える。
母も、まだ気苦労は耐えないだろうが、気長に付き合っていくことを覚悟しているようである。
父は、問題は両親と長女だけの間で解決するのだと気負っているし、祖母も、最近ではあまり空気の読めない発言をすることがなくなった。
次女は、実は一度家族(主に長女に対して)に抱いている暗い感情を気の知れた人物に吐き出したことがあったそうだ。掛け替えのない家族なのに、邪魔だとか面倒くさいとか居なくなってしまえばいいのだとかひどいことを考えてしまうのだと、泣きながら吐露したのだという。
素晴らしいではないか! 私には到底できない芸当である。次女を筆頭に私は家族のことを(もちろん長女も含めて)結構尊敬していると思う。
さて、最後に一番ひどい奴だ。何だかんだ書きながらも、必ずどこかしらで家族のことを見限っている私だ。こんな詰まらん分析もどきをしてみたり、どうでもいいようなことを考えている私である。社会になど馴染めないと、すでに諦め腐っている。
しかしながら、だ。私は私のことがそれほど嫌いではない。かと言って好きでもないのだけれど、まあいいかなと思っている。だから、本心から自分のことをひどい奴だとか思って悔やんでいるわけではない。そう言う人間なのだと受け入れているのだ。
おそらく、人とのコミュニケーションの距離が近すぎたために大変な目に合った長女。
短絡的ながらも、結構いろいろ考えていて悩み苦しみながらも家族のことを思っている母。
憮然と外部から見守って、ちゃんとみんなを支えてくれている父。
できる仕事をしながら、ちゃんと家族として邪魔にならないよう居場所を作っている祖母。
遠くから人と接しながらも、根は優しくて、最近仕事に疲れきっているニコ厨の次女。
私は彼らのことを受け入れて認めている。愛しているなんて言わないけどさ。
でも、家族ってそう言うもんだと思う。愛すことができなくても、憎たらしくて殺したくて死んでほしくなったとしても、それでも認め受け入れざるを得ないものなのだと思う。
そりゃあ、過去に何かがあったかもしれない。親にひどいことを言われたりとか、逆に子供から言われたりとか。
でも、そんなものを全部飲み込んで包んでしまうのが家族なんじゃないのだろうか。完璧な親が居ないように、完璧な子供が居ないように、完璧な家族だって存在しないのだから。温かいだけじゃなくて、生臭くて、汚くて、苛々して、泣きたくなって――
まあ、それでも耐えられなかったり、辛い人もいるだろうし、家族って何ぞ? って思うような孤児の方も居るかもしれないけれどもさ。
要は、家族って面倒くさいんだよ。滅茶苦茶面倒なんだよ。飽き飽きするし、嫌いになるし、憎んで、殺意を抱いたり、でもそれでも感謝することもあったり、いい意味でも悪い意味でも時々励まされるものなんだ。
だから、結局何なんですかって話になるのだけれどね。
私にも分からん。そして終わり方も分からないから、こんな中途半端で一区切りつけることにする。
うーん、これじゃあブクマは増えそうにないな。難しい。
不評だったから冒頭消しました。
ブクマ云々は冗談のつもりだったのだけれど、無意味以上に性質の悪いつかみになってしまったみたいだ。
常々、私は冗談が巧くないと自認していたけれど、ここまでひどいと楽しくなってくる。
もういやだ。チクショウめ。
これはこの人に言うわけではなくきっかけとして思いついただけなんだけど、
往々にして親子関係というのは、「子にとってショックだった親の台詞・出来事」だけ抽出して並び立てると
普通の人でもわりかしこんな感じの文章が出来上がる……出来上がることができる。
と思う。
私はごく普通、寧ろやや恵まれ気味の家庭に育ったと思うのだが、それでも、やはり親というのは当たり前だが「完璧」ではないので、絶対ミスはする。「あっちゃー」な台詞も、時に吐く。
自分はまだ結婚してないし子供もいないから分かってたまるかと言われりゃそれまでなのだが、
本やネット上の、育児関連の読み物、親の苦悩などを読みながら、自分が親になったらどうするかということを想像してみると、正直「子に対して一つもミスを犯さない」自信などないし、そんなことは一人の人間が背負えるキャパを超えている気がするのだ
こういうエントリがあれば、「親は決して、子の〇〇を否定してはいけない」とか、そういう育児ルールみたいなものが出てくるけど、そんなことは分かっていても絶対に遵守できるかといえばそれは…
子のトラウマになるような事をしてはいけない、言ってはいけない、否定してはいけない、叱るときはこういうふうで、こうではいけない、反抗してくることがあってもそれは反抗期だから、こうこうこういう風に見守るべきで、感情的になってはいけない、子が何かしてもまず受け入れることが大事で云々……
ってそれを「子」の立場から言うのはカンタンだが。
はたして逆転して自分が親になった場合そんな事を言われて対応できるだろうかと考えると、
もう親に対して色々いえなくなった。
慣れない育児に仕事にバタバタしつつ、私という子はなんか、小学校でうんこもらしたからもういきたくないとかウザい事言ってるし、またこの子、あれだけ言ったのに体操服を置き忘れてきてるし、みたいな、そういう日々が積み重なるとそりゃピキッとくるわけで……
そこを「子」として、「子」の立場を最大限利用して、「それでも感情的にならないのが親の務め」みたいなことを、自分で言わないがまでも、増田に同情してもらえそうな感じで親のことを書いて、はてブで代弁してもらうこともできる(増田がそうだと言ってるわけではない)。できるけどそれでいいのか。
確かにとりあえず嘘でないならば、親がその時「いいとは到底言えないこと」をしたのは事実であっても、「完璧な親理想像」から、減点方式で点をつけるような真似をするのはどうなのか。
親に対して「なんでそういうこというのか」「全然話が通じない」「なぜわざわざそういうやる気失くすようなこというんだ」と反発を抱くこともあったのだが
育児に関する本などを読んで逆に
「ああ、今親は、私という子に対してあの育児書にあった〇〇という対応ができてない」などと考えると、あまり腹も立たなくなった。親は絶対じゃなくて、ミスするのだと、当たり前なのに、普段「違う!違う!」とか言ってるくせに、どこか親は完璧なのが当然だと思い込んでいた節があったことに気付いた。親も感情的になるし、子にたいして、「理想とされている」対応ができないときもあるのだ。
たとえば母は、私に対して魔女狩り的な質問を(つまりどっちに転んでも結局ダメと言われる的な)することがあったし
「あんたはそうやってるからダメなんだ」と否定されたこともあったし、
「なんでお母さんの言うことをきかないの」「全部お母さんの言う通りにしないといけないの?」「屁理屈ばかり、うるさい!」みたいなやりとりも結構あったものだが、
その一方で、高校受験時「もうだめぽ。どうせ合格しない。人生終わった」とか受験のプレッシャーに負けてしょげてたら「またそういうこという!!」とは言わず「合格しなくてもいいんだよ。嫌だったらいいんだよ」と言ってくれて夜食作ってくれたりしたし
高校のときひきこもりかけたとき、「心の病(笑)」なんていわず「精神科いってみる?」といってくれたりしたし(軽い鬱みたいなのになってたらしいけど、通院することにより?結局また通い始めた)
小学生一年生のとき体操服と上靴と給食袋と筆箱を全て忘れるという、ど失態を犯し、小学生ながらに「終わった…」となきわめいていたときも、自転車飛ばして全部届けてくれたりもしたわけで、(やべぇ書いてて泣けてきた…)
そういうのをひっくるめて結局親は(当然ながら)人間なのだと近頃ようやく分かってきた気がする。
といっても、この人はそういうわけではなく、本当に親が心底ダメな人だったのかもしれないし(虐待とかやってたら、もうこんな事言ってるレべルではないわけだし、そういうところが難しいけど)、そこんとこは分からないから、この人個人については言及できない。でも「子の視点における親dis」エントリがあがるたび、それだけをみて「なんてダメな親だ」となるのはなんか違うんじゃないかとずっと思っていた。どの道、ネット上ではこれ以上突っ込む事は無理なのだから、敢えて信じ込むしかないのかもしれないけども。
「完璧な視点」から親批判をすると、ケチのつかない親など多分いないのだと思う。
親とかいっても所詮(あえて所詮という)一人の人間なんだよな。
http://www.yomiuri.co.jp/iryou/news/iryou_news/20090618-OYT8T00349.htm
僕の父は、心臓病を長く患って、十年前に死んだ。父の晩年に、難病の少女が海外で臓器移植を受けたというニュースがたまたまテレビで流れたとき、ポロリと母が「お父さんも臓器移植手術ができたらいいのにね」といった。それに対して、当時反抗期まっさかりだった僕は、「そこまでしたい? たしかに不自由はあるかもしれないけど、今のままでも親父は生きてはいられるわけだしさ」みたいな言葉を返した。当然、母は激怒。父親の反応は「現実にありえない話で喧嘩すんな」みたいに冷静だったけど、内心は悲しかっただろうな、と今なら思える。当時の自分の無神経さは、思い出すと今でも腹が立つ。
……とはいえ、やっぱり、社会の側がどれだけ「生きたい」「生きていて欲しい」という個人の気持ちを許容するべきなのかはわからない、と今でも思ってしまう僕もいる。
うまく意見や疑問としてまとまらないけど、ちょっと吐露したかったので書いてみた。
http://anond.hatelabo.jp/20090413004828
加藤諦三の本なんか読んで癒されるのがいいですね。
制作秘話を書いた富野由悠季の「∀の癒し」と一緒にお読みください。
真に受けないでくださいよ。
あっと、もう、ちょっと話を聞いてください。
世の中には「落ち武者狩り」あるいは雅に申し上げますと「落穂拾い」などといいまして、
恋愛して遊ばれるぐらいなら、どーでもいいんですが、
気が付いたら新興宗教から抜けられなくなっていたりや
世の中には落とし穴や地雷が意外にたくさんあるのです。
まあ、どちらかというと、騙されても「勉強になったわ」などと
強がる女性のほうが魅力的であります。
閑話休題。
ところで、ちょっと前に内田樹がこう書きました。
どのような相手と結婚しても、「それなりに幸福になれる」という高い適応能力は、生物的に言っても、社会的に言っても生き延びる上で必須の資質である。
それを涵養せねばならない。
これを妻に見せたら、「は?結婚するのは一人でしょ?」と言われました。
ボストンにいる女性の友人も、似たようなことを言っていました。
「はずれを引かない能力よりも、あたりを引く能力の方が大事じゃないの?」と。
はは~ん、と思ったのです。
女性からすれば
というのは
どのような相手とでも寝られる
という意味と同義であり、
無意識のうちに強烈な反発があるわけです。
これはもう情動レベルの問題だから、理屈うんぬんじゃないわけですよ。
「私は私が認めたオンリーワンか、TOP3以外は絶対にイヤ!」
と。
話を戻しましょうか。
まあ、20歳を越えてから、
たいへんです。
最後に、NHK教育の木曜夜9時半から再放送している「Style UP」は、すごくいい番組ですよ。
http://anond.hatelabo.jp/20090328162842
今18歳なんでしょ? 生まれたときは360度、どこにでも拡がっていた将来が、歳とともに、「音楽家はなし」「画家はなし」「技術屋はなし」みたいに、どんどん狭くなっていくから、なんだか窮屈に感じるんだろうけど。
まだまだ、将来の可能性はあちらこちらに拡がってるよ。働きながら大学に行くってのが受け入れられないってのは、何? 選択する余裕があるんなら、まだまだ恵まれてるじゃん。夫は15歳で父親亡くして、工場勤めしながら夜間高校出たよ。それって根性あるってことでしょ? なんでバカにされないといけないかなー。気分わるー。
夫が亡くなっちゃったから、息子、あなたと同じ歳で、進学やめて働くとか言い出したけど、それは止めた。奨学金と貯金はたいて大学だけは出すつもり。夫の夢だったからね。自分の息子が高学歴になるの。
親に反発するのは、「自立心の現れ」で誰でも経験する普通のこと。反抗期って奴だなー。フツー中学生くらいなんだけど、ちょっと遅いねー。あなたの親はちゃんと更生した立派な人たちじゃん。いろいろ苦しいだろうに、子供大学にやろうとしているんでしょ? ちっとは苦労わかってあげなよ。
で、「ダメ」とはっきり言わない限りは、経済的に甘えて大丈夫だよ。無理だったら「無理」って言うよ。出したお金分の見返りが欲しいだけだよ。あなたが喜ぶとかさ。
まー、よーく、考えてみよう。きっと道はある。
少子化だ、晩婚化だ、というふうに騒がれてはいますが、それでも新しく親になる人たちがまったくいないわけではありませんし、僕より若いお父さんもたくさんいるようです。
僕自身、そろそろ父が「僕の親」になった年ごろに近づきつつありますが、その事実がどうにも信じがたく思えます。いまだに父を亡くした十代なかばのままのような気分で、高校球児が同輩か、時には年嵩に見えるというか。自分がひとの親になるなどとは、どうしても考えられません(相手がいないということはさておき)。
おおかたのご家族は色々事情はあっても、できれば親に長生きして欲しいと願うものなんじゃないかなぁ。
(中略)
寿命も事情もあるから、みんながみんな理想通りには行かないと思う。そんな時に、亡くしてしまったけどまだ終わりじゃないと言いたいなぁ。
「子供が一人前になるまでは死ねない」と、おそらく世の父親はみな思っていることでしょう。僕に言われるまでもなく。どんジレさんが「みんながみんな理想通りに行かない」とおっしゃるのはまったくその通りです。
とはいえ、(他の「父」がどんなものかはわかりませんが)僕の父は、Life in the fast laneというような生き方だったので、「おいちょっと待て、反抗期もまだだったのに」とは思ってしまいますけどね。
泣き虫だった僕は、あの日から人前で泣くということがなくなりました。でも、まだよく泣いています。そして泣きながら、それは父を失った自分を憐れむ涙ではないか、というような皮肉を自分に投げかけるのです。
僕はあの日変わり、そして、それ以来そのまま変われないでいます。
そのことを、まだ父親を失っていない人や、かつての僕の年頃(より年下)の子供を持った父親——とくに僕と同世代の父親に伝えたかったのです。
●幼児的万能感
「万能感(Feeling of omnipotence)」でジークムンド・フロイトが「思考の全能」として示したもの。その後1913年にシャーンドル・フィレンフィによって発表された論文で深められた概念を指している。
母親という魔法の杖をつかう魔法使いとして喩えられる。幼児期にはだれにでもあるものだが、1から3歳で第一次反抗期が始まり、通常は消えていく。母親からの精神的に自立して外の世界に興味を持つようになれる。母親以外の人に安心感と信頼感を向けられる人物の助けが必要で、一般的には父親の役割が重要である。
社会で働くことができないので、気分がうつになる若者がもつ自信過多を幼児的万能感という。失敗を他人のせいにして自分には能力が十分あるが今はやらないというモラトリアムをひきずる状態で表われる。近年のニートはその典型である。また、妻に「私はあなたのお母さんじゃないのよ」といわれる夫もその一例である。
結婚という視点では、社会に適応した男性をパートナーに選ぶことが、大切である。
自分の結婚生活だけでなく、自分の子供の教育、精神的な支えなど男性の役割は大きい。女性が男性を見極めるときのキーワードが幼児的万能感でない男ということになるだろう。いつまでも幼児性を引きずっていない男性に早くなりたいと思った。
http://blog.goo.ne.jp/inoueyosui/e/da5c5d2b3d63ce419877995d552c7fed
お前たち非モテはこういうことを思っていない?
最近、遊んでくれなくなったというその子どもに、コンドームの付け方を教えたとか。
なんでも、中学生になると反抗期を迎えるから、今のうちにということらしい。
そういうのってさ、親から教えるものなの?
俺、教えられてないけどなんとかなったよ?
普通に生でしようとか考えたこともないよ?
みんなどうなの?
http://www.sony.jp/products/Consumer/handycam/camwithme/
こんな娘になれなかったので反射的に「こんなやついるかあ!」と思った。後ろめたさと共に。
カメラに映る自分も自分の声も嫌いだったので逃げてまわってた。
中学になると反抗期のため、家族旅行も嫌でしょうがなく、父親は弟を撮影していた。兄弟が多くて、反抗期の私ははやく一人で行動できるようになりたい
とそればかり考えていた。
このサイトに出てくるような素直ほがらかな、26で嫁に行く女になれなかったので、
サイトを見ていてしょっぱい気分。
まーさ、ちょっと前に彼氏にふられたんだだけど、その彼氏が今付き合ってて、結婚しようと思ってるのがこのサイトに出てくるような女の子なんだよ。
こんな感じだったもん。
まーいんだけどさ。こういうのが女子の正しいあり方なんでしょう。
とは言っても、遅れてきた反抗期じゃないよ。
反抗期に持ってた「あいつはわがままでアホだ」という完全な敵対心とは違う。
なるべく客観的に客観的にと意識して考えるんだけど、
(父親として?人間として?)ポジティブな面があまりにも少なく、ネガティブな面があまりに多い。
ポジティブな面ってのはマジメに仕事に行って、危ないながらも頑張ってる事なんだけど
それを盾にしてワガママ放題当たり放題なんだ。いっつも家族の誰かとトラブってる。
「好きでもない仕事をお前らのために続けてやってる」
「会社やばくなったけどリストラされないほうに滑り込んだぞ偉いだろ」って意識があるんだろうからタチが悪い。口には出さないけど
だから
「好きじゃない仕事しか選べなかったのも、
滑り込んだ結果周りは能力上の人に囲まれて形見が狭いのも自分のせいで威張ることじゃねえだろjk」とは絶対に口には出さないよ俺も
俺はまぁいいんだけど、
一番被害被ってる母親とこれから難しい年ごろの弟が心配で仕方ない。
母親と弟も基本は良好なんだが、俺が間に入らないと無意味に争ってるし
自意識過剰かなとも思うけど来年俺が家を出たらどうなることやら・・・(意外となんともなかったらそれが一番いいよ)
母親は俺達に金がかからなくなったら離婚でもしちまうんじゃないだろかとも思う。
というかしたいならしてくれて構わないんだが、自由にできない理由が俺達にかかる金なのが悲しいよ。
うまくまとめられないから追記
「納得できる就職じゃなかったけど結婚もして子供も産まれて転職とかそういう余裕はなかったのでずっと嫌々続けてる」
ってのは威張れることなのかな?俺は感謝すべきこと?
俺としては「ずっと働いて養ってくれてる」ことは素直に感謝できるんだけど、
自分が納得できない仕事だといって感謝の度合いが上がることはないし、それを盾にして威張られ当たられると素直に感謝できないよ・・・。
むかーしむかしあるところに、ユウコちゃんという女の子がおったそうな。ユウコちゃんは今で言うと、中学生くらいの女の子で、ちょっと反抗期に入った年頃の娘じゃったそうな。そんなユウコちゃんはある日お母さんとケンカしてしまって、家を飛び出してしまったそうな。
お母さんはたいそう驚いて慌てふたいてのお。ブログでユウコちゃんの情報をかき集めようとしたんじゃ。メールアドレスを公開して娘の情報を探しています、このブログにリンクを貼って下さい、とブログに書いたんじゃ。そしたら、気の良いブロガーたちはどんどんリンクを貼ってくれてのお、その頃ブログで人探しする人があまりいなかったことも相まって、ものすごい数でブログへのアクセス数は増えたんじゃ。人々の善意というのはありがたいのお。
ところがじゃ、お母さんはあまりにアクセスが多くなって恐ろしくなったんじゃな、どこからアクセスが来てるのか気になってリンク元に行ってみた。すると、行った先は2chじゃった。
2chではお祭り騒ぎじゃった。誰かがお母さんのメールアドレスをググりよったんじゃな。すると、あるホームページに公開してあるメールアドレスがヒットしたんじゃそうな。Google大明神のお力で明らかになったんじゃが、お母さんは、今でこそ珍しくもなくなったんじゃが、いわゆるやおい系ホームページの管理人じゃったんじゃな。お母さん自身も力のこもったBLの二次創作を書いておったりして、お母さんのやおい系ホームページのけいじばんは、それはそれはこんがり炎上してお祭り騒ぎだったそうな。
結局、ユウコちゃんは、ネットではなく、テレビで自分がとんでもなくおおがかりに捜索されている事を知って、無事に家に帰ったそうな。
お母さんがもしあの時フリーのメールアドレスを公開しとったら、祭りにはならんかったかもしれんのお。そこらへんのばけもんよりもよっぽど怖いもんじゃ、ネットというもんは。
ユウコちゃんはその後、お母さんと和解して、仲良く暮らしとるそうな。
「お母さん、やっぱりメガネ受けだよね」
めでたし、めでたし。
在るどころか物凄く強い。東大に入れなかったあの時から正直人生が止まっている。
ほとんどの人はそれを愚かだと思うことも分かっている。
学歴が全てじゃないとか、社会に出てからは学歴なんてたいした意味を持たないとか、そういうことが問題なのではない。
社会に出てからは学歴なんて関係ないという言葉が、嘘だろうが、本当だろうが、それはあまり俺のコンプレックスとは関係がない。東大生本人の「東大はいっても別に何もないっすよ」という言葉も関係ない。
なんとなく幼少時から東大に入るんだと思ってきた。別に親の教育がスパルタだったわけじゃなくて、単によくある地元でちょっと賢い奴だったから。中学で何の勉強もしてないのに一位ばかり取っていて、県の模試でも一位になった、教師からは賢い賢いと褒められた、たったその程度の事で図に乗ったってだけ。
ただ図に乗ったといっても、自身が天才じゃないこともよくわかってた。でも東大はいれるほどの秀才ではあるんじゃないか、と思ってた。傲慢さすらセコい。
要するに俺には何も無かった。中学時代。特に顔がいいわけでも人気があるわけでも面白いわけでも運動神経がいいわけでもなかった。あの時俺のアイデンティティになってたのが「賢さ」だった。皆からも賢い奴だ、あいつは凄いやつだ、って言われてそれこそが自分なのだと、当時は自覚してなかったけど今になって思うとそこに縋っていた。そこをアイデンティティにしていた。それがなければ自分には何もないことをうっすら分かっていたからこそそこにしがみ付いた。東大なら誰でも知ってるところだからそこへ入ればより自身のアイデンティティが固定化されるだろうと思った(勿論当時はここまで明確に考えていたわけではないが)。
東大へ入っても、そこには同じ入試問題を勝ち抜いてきた、頭のイイ奴ばかりがいるんだから挫折してしまうよという考えもよく聞くけど、俺の場合東大に入りさえすれば(つまりアイデンティティを確保さえすれば)別にそこで俺以上に頭のいい奴がいてもそれはたいして気になることではなかった。そもそも、小さい頃に、自身が天才ではないことに気付いてしまったためにそういう事はもうどうでもいいのだった。別に東大はいったからと言って賢さが保証されるわけでもないことも分かっていた。本当に頭のいい奴だったらそんな所にはいらなくったって、他のところで活躍してその賢さを見せ付けることもできるんじゃないかと言う人もあった(俺への言葉じゃないが)。でもそうじゃない。「本当に頭のいい奴」(曖昧な物言いだが許して欲しい)ではないことを悟っていたから、より東大に入りたかったんだ。賢いことをアイデンティティにしていたけど、同時にその賢さは実は脆いこと、天才なんかではないしそれどころか実はそうたいした奴でもない事に多分うっすら気がついていた。だからこそ求めた。そのアイデンティティはどうしても守らないといけなかった。そのアイデンティティがあるから特に反抗期もなく何もなく平穏に生きてきた。それが壊れると園通り自身の存在意義が揺らいでしまう。そんなに大事なアイデンティティの割に東大に入ったくらいで満たされる(と思う)のが、スケールが小さいが。
で結局落ちた。つーか高校入ってから、堕落したんだが。勉強するのが怖くなっていた。多分「頑張って出来なかったらどうすればいいんだ?」という恐怖が、勉強を遠ざけた。もし頑張ってダメだったらどうすればいいのかという恐怖で勉強から、努力から逃げた。小さい時から特に何の努力もせずにいたから挫折の経験もなかった。弱かった。徹底的に弱かった。挫折を想像するだけで逃げるのだからとんでもない弱さだった。
それで授業に出るのも怖くテストを受けるのも怖くて学校自体いけなくなった。それでもしなきゃいけないと思いなおし、教科書を読もうとしても恐怖心と焦りで何度読んでも文字が滑る。何が何なのか分からなくなる。今まではそんなことはなかったけど、これから「何をやっても理解できない」なんて状況が、もし自分の身に起きたらどうすればいいんだと、それに打ち震えた。
テストを受けて、問題を見るも、何が書かれているのかさっぱり理解できないという恐怖の夢を見ては起きた。夜に眠れなくなった。
不登校気味になって、心配してくれた親が精神科へ連れて行った。一応鬱と判定されたが俺自身は正直疑っている。多分単に弱かっただけ。それでも鬱という診断をもらってほっとしている自分もいた。鬱という医者の言葉を親が信じ、病院に通わせてくれるのをいいことにその状況に甘えた。鬱じゃないのだと思いつつ鬱だということにして「何もしなくていいのだ、病気だから」という免罪符で甘え続けた。
それでも出席状況がヤバくなり、何とかギリギリで出た(大体「出席状況やばいぞ」と言われて「じゃあでます」とすんなり出るあたりからして鬱じゃないと思うのだ)。それからも遅刻や欠席を繰り返しつつなんとか授業に出た。
結局勉強が怖くてずっと目を背けた。ボロボロの成績だった。成績が悪い自分ということで周囲に引け目を感じ、友達も作らなくなった。寄ってきてくれる人はいたが、なんだか「こんな成績の悪い俺と友達なんて、悪いよ」というような引け目をどうしても感じてしまい、自ら遠ざかってしまっていた。
そうして受験の年となり、恐々努力をし始めた。笑ってしまうような話だが、勉強中に何度も泣いていた。泣きながら勉強していた。精神がわけのわからない圧迫感と焦りと、もう終わりなのだという絶望感でごちゃごちゃになっていた。それでもやらなきゃいけないという板ばさみにあって泣きながら勉強という訳の分からない構図が生まれた。更にそんな自分に対してまたもコンプレックスを感じた。楽しく勉強をしているような自分があくまで理想像だった。受験に落ちたら終わりだと思った。自分が勝手に作り出したプレッシャーでぐちゃぐちゃだった。だからもう、いっそのこと、東大に入れなかったら死のう、と思って、それを思う事でいくらか精神が安定した。そうすれば失敗しても死ぬだけだから、成功した道しかないから大丈夫だと本気で思ってた。でも薄々「とはいっても俺が本当に自殺できるのか」という疑いもあって、それだけじゃ精神が安定しなくなった。それで親に「東大入れなかったら死ぬ」などと漏らしてまたも心配させた。誰かに言えば後戻りできなくなるから安心だと思っていた。「何言ってるの」という親に「お願いだから入れなかったら死なせてくれ、その死が保証されないと怖くて何もできない」というような事を語っていた。またも精神科へ通った。
で、受けて、落ちた。
じわじわと悲しみが満ちて一晩泣いた後、どこか諦念みたいなものが漂っていた。
「やっぱり薄々感じてたけど俺ってクズだったんだな」
という感情がじわーっと下から染みてきた。
何もなくなっていた。通行人Aのような気持ち。
何も目指すものもない。やりたいこともない。好きなものもない。買いたいものもない。そういえば気付けば全くモテていなかったけど、そんなことにも今気がついた。非モテだと自嘲する元気もない。別にモテようがモテなかろうがどうでもよかった。
何もなくなった。
ただコンプレックスだけ今も残っている。
東大に関連したものを見ると反射的に胸が痛む。羨ましいとか、畜生とかじゃなく、ただ単に痛む。
今も振り切れないまま、何の目標もないまま、「死ぬのが怖いから」生きている。
こういうこと言う人見る度に思うけど、例えば、ニュースになっている轢き逃げやひったくりなんかの事件は、「ニュースになるは氷山の一角で、実際はもっと起きてるんだろうな」と普通に思えるのに、ニュースになっている児童虐待して殺すような親のことは、なぜ「氷山の一角」と思えないんだろうか。児童虐待して殺す親がニュースになっているってことは、実際はもっともっと虐待する親がいるってことだ。殺されない程度に虐待を受けている子供や、精神的な虐待を受けている子供がもっともっといるわけだ。
轢き逃げやひったくりに遭った人が犯人を屑認定するのは肯定されているのに、なぜ虐待に遭った子供が親を屑認定することは否定されているのだろう。轢き逃げやひったくりに遭った人に対して「相手の人だって、本当はそんなことしたくなかったはずよ」なんて言う人はまずいないのに、なぜ虐待の体験を語る子供に対しては「あなたの親御さんだって、本当はそんなことしたくなかったはずよ」などと言えるんだろう。虐待に遭った子供に対して「親を悪く言うな。親に感謝しろ。親を大事にしろ。」などと言うのはセカンドレイプものですよ。悲しいかな、親に感謝したくてもできない子供も沢山いるわけで、親を見限ったほうが良い人生を歩める子供も沢山いるわけで。
そして…毒になる親に限って、子供に向かって「親に感謝しろ!親を大事にしろ!」と叫びまくるものらしい。まあ虐待する親っていうのは、自分が子供に与えるよりもむしろ他人に与えてもらうことばかり考えていて、それを子供にも求める親らしいので、そういう親ならまあこういうこと言うだろうなーと思う。ちゃんと子供を愛して育てている親はこういうことを叫びまくる必要はない。そういう親なら、もう既に子供から感謝されているからね。
そもそも子供って、親がちゃんと子供を愛していれば自然と感謝するもんなんだよ。そういう親なら、たとえ反抗期で無愛想な態度取ってても、心の底では感謝してるもんだ。素直に感謝できる親が自分の親だったのは、当たり前のことじゃなくて幸せなことなんだよ。
はてなブックマーク - 知的障害者ねらい暴行、恐喝…少年グループ逮捕 - MSN産経ニュース
ブクマの反応に目が点になってしまった。
少年の、
これって、「障害者はいたわるべき」っていう社会的な合意やモラルを前提にして、あえてそれに反抗してみせるって思春期・反抗期の心理の典型的な反応じゃん。
少年事件があると、普通の中高生に感想を聞くメディアもあるが、中に必ず「なんで人を殺しちゃいけないんですか?」なんていう奴もいる。これも、大人に歯向かってやろう、困らせてやろうとして言ってるんだろうけど、まさかこれを本気で「今の少年たちは人を殺してもいいと思ってる」なんて戦慄する人はいないだろう(90年代後半には大の大人が、こんな発言を受けて真剣に論争を繰り広げていた。滑稽だ)
こういう行動からも、彼らの「幼さ」がわかる。
だから、「こんな奴でも更生するのか?」なんて危惧してる人も多いようだけど、こういう奴だからこそ、ちゃんとした教育をへて、「大人」になっていくんだと思うぞ。
丁寧なお答えありがとう&お疲れ様。
なんとなく世界観がわかってきた。
この世・人類は慈悲により存在している。皆は知らないだけ。だから教えなければ。そして神の側に来てもらおう。ただ悪魔の側に付く自由もある。それは妨げない。悪魔の側には不干渉を貫く。
よそ者の私としては、こんな理解でよろしいでしょうか?
一番大きな問題点は、教義に従うか一切の関わりを絶つかの二者択一を迫るところかな。
私流に言うと、自我と対になった、自我を取り巻く「世界観」じゃないかと思う。宗教は、その世界観を共有するための仕組みじゃないかと。
本来、思春期・反抗期を経て、自分で消化しながら少しずつ構築していくはずの、自分を取り巻く世界観が、幼少から与えられてしまうと、消化しきれずにこじらせるのかもしれない。
ところで、無宗教を名乗る人も、個人個人、自分のOSたる世界観=個人宗教を持ってると思うんだよね。
みんなどんな世界観を持ってるんだろう?誰か語ってくれないかな。
そこで「反抗期か」と言ってほしかったなー。
ドラゴンボール例えなんて、ダサダサですが(^^;;
エントリーを読んでいると、だんなさんは相当優秀みたいで、
あなたも相当優秀(意識してませんか?)まあ相当劣等な僕
られていそうです。それは狙ってませんよね?そうですよね。
ている。
でもそこは切り換えていくべきではないですか?
て行くでしょう。しかし、家庭では協力してこれから子育てだ
ものなら、たとえ優秀なだんなさんだろうと簡単に対処できる
あろうと、いきなり聞き分けのいい分別のある大人になるわけ
じゃないですから。
否が応でもこれから仕事と家庭をしっかりと分けていかなければ、
「私悔しいぃぃ」
と泣いている余裕なんてなくなるんじゃないですか?
「自分の方を向かないで、ずっと父親の後を追いかけて成長しよ
うとしている母親」というのもまあ魅力的なのかもしれませんが。