はてなキーワード: トリアージとは
少なくとも、Romanceは今年の3月の時点で、実践的活動をしてることは公言して
いやー、1時間足らずで反論が出てくるとは、どなた様でしょうねえ?w
本を読んでちょっとばっかし現場に首つっこんでフィールドワークした気になってた奴は昔からいるんだけど、その手の手合いが誰のためにもならないことが多いという批判は聞いたことがないんだろうねえ。でなきゃ、そんなにナイーブに「実践的活動をしてる!」なんて免罪符のごとく言えるわけがない。
またネトウヨ君がアカウントも明かさずに増田で卑劣な中傷を繰り返そうというのかな?d:id:Sokalianみたいなみっともない真似はするなよ。
お前らネトウヨたちがやったことは、まさにデマを流して「全体最適はナチ」などこちらが言ったようなこともないようなことを言ったように悪宣伝をくり広方ことだ。
よっぽどSokalianが嫌いなんだな?かわいそうに、そんなに痛いところを突かれたんだねw
今回、専門用語の意味を確かめもせずにあやふやな印象だけでイナゴ化してたのは君らなのに、批判する側を「ネトウヨ」なんてよくもまあ言えたもんだね。だいたい、稲葉先生とかそのあたりの専門家がトリアージ批判派を一刀両断してる時点でどちらがトンデモかというのは明らかなんだが。Sokalianがネトウヨなのではなく、君らが「ネトサヨ」なのだよ、いい加減に「デマを流して」「悪宣伝」をするのはやめなさいってw
嫌いな奴に人権があることは嫌いですかwどう見てもスターリニストです、本当にありがとうございました。
結論:お前ら、最悪。
結論にも何にもなってないことを持ち出して「結論:○○は最悪」とか書く人は1名しかいないよねえ?ww
捨身成仁日記 炎と激情の豆知識ブログ!(http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/)で何回かに分けて書かれている「俺が見たトリアージ論争」のまとめ。現在も続いているので、今のところある分だけ。
俺が見たトリアージ論争 (http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/20080828/p1)
俺が見たトリアージ論争 その2 (http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/20080829/p1)
俺が見たトリアージ論争 その3 (http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/20080830/p1)
俺が見たトリアージ論争 その4 (http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/20080907/p1)
俺が見たトリアージ論争 その5 (http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/20080924/p1)
多少バイアスがあるような気もしますが、それは最初のエントリーにも書かれている通りです。だからd:id:fuku33に対する批判が多くみえてもしょうがないのかな。でも、あらかじめバイアスがあると書いておくのはうまいなと思います。これをなるべく中立の立場からとかすると、少しでも変なところがあると批判を受けてしまいますが、最初から偏りがあると書いておくと何か言われてもその通りですんでしまいます。しかも、あらかじめ告白しておくことで正直だという印象を与えることもできるからです。
なんかもう流れ無視して新規参入する人とか多すぎなので、とりあえず俺が見た論争の流れをまとめとく。俺が見た流れなので、基本的には俺がどう関わったのかという視点が中心となる。この議論の結果から、基本的に俺は福耳先生にはあまり好意を持っていないのでバイアス注意。ちょっと流れ勘違いしているとか、そういうことがあればブクマとか※とかで指摘してもらえればと。
そういえば「ホームレス騒動」と「トリアージ騒動」は構造が似ているな。同じようなメンバーが関わっているのも、そう考えると納得がいく。
ホームレスの問題でも、経済学的にリソースの問題として考えることもできる。だからこその無条件での図書館開放の是非という意見も出てくる。
一般に開放されていないから、ホームレスも締め出してかまわないというのは、ある種のトリアージとして考えることもできたりして。
現在あるリソースをどのように配分すれば最適な結果、最大多数の最大幸福が得られるのかというのは、かなり難しい問題。頭の良い人にとってもなお難しい。
好意的に考えれば、支援活動に入れ込むあまり、他者に対する想像力がちょっと機能不全に陥ってるんだろうね。
熱意を持って敬遠されがちなボランティア活動に励むんだから、その程度の行き過ぎ、独善的な思い上がりは
むしろ好ましい資質かも知れない。まあ、議論の趨勢には何の影響も与えないし、境遇を理解はしても共感はできないけど。
行き過ぎと言えば、生存権という言葉も鷹揚に使われすぎだと思う。
誰もが命を奪われない権利を持つのは、消極的自由の意味において自明だとしても、
積極的自由としては色々と制限がつくのもやはり自明なんだよね。
現に憲法上で生存権が保障され、法で定められた生活保護や各種福祉を享受する権利を持っているとしても、
「迷惑利用者に図書館を無条件で明け渡すべきだ」などという個別具体的な権利要求は、
少なくとも生存権を根拠にする場合、プログラム規定説によって却下されてしまう事は自明。
もちろん、コップの中の嵐を巻き起こしているとは言え、今の所新聞記事になった図書館はホームレスを追い出しては
いないんだけど、もしその能力の限度を超えた場合には、排除と思われるような行為に出てもまず咎められないはず。
というか、図書館に生存権保障の機能を与えるのが効率的とは普通考えないだろうから、立法措置や行政の裁量が
仮に発動されるとしても、図書館批判派の想像とは全く違ったものになる事もやはり自明だろうしね。
立憲主義の矩を超えて国家が私人の生活に干渉するのは、個人の尊厳を守りその自由を保障する為なんだから、
保障されるべき自由が「迷惑行為を掛けても免罪される自由」か「迷惑行為を掛けずに済む自由」かのどちらだと
問われれば、恐らく後者だと考えるのが普通の感覚・・・という表現に過敏症を発症しちゃうかわいそう人も
いるようだから言い換えると、ともかく個人的な感覚としては妥当に思われるんだよね。
そして言うまでもなく、憲法というのは国家機関を制限するもので、いくら生存権規定があろうと、
思想信条の自由として私人がその拘束を免れうるのは自明。この辺りも雑に議論されているような気がする。
人権を否定するなんてハードな表現じゃなくて、誰それの無限定かつ無条件な生存権の保障よりも、
児童福祉や高齢者福祉、救命救急医療にリソースをわけてくれと考えるのは、現に立法府や行政府が
そうした姿勢であるように、自明な現実でもあるわけだから。むしろここで言われているような
「健全な良識や良心、他者への共感」に目覚めた人は、同時に生存権がまるで自明なんかじゃない世の中にも
気づくはずで、そこからどう他者を説得しようかと葛藤したりするのが自然な流れのはず。
で、もし私人が生存権を保障する義務を負うと本気で主張するなら、啓蒙臭にウンザリした多くの人が反発しているように、
「まずお前が自分の家でかくまってやればどうなんだ」という当然の指摘が来るのは避けられない。
図書館が開いてる時間帯だけ他人に開放する程度なら、家主の生存権にかかわる事態にはまずならないだろうから、
たとえば「不快感で弱者をトリアージするのか」なんていう、理解に苦しむ言い掛かりや魔女狩りを被る可能性も出てきてしまう。
加えてこの場合は、本質的には個人の勝手気ままな善意に依存するボランティア活動も全然不十分なものとなる。
権利に基づいた正当な要求に対する義務として、対応しているわけでは全然ないからね。
本気の本気で世の中を考えるんであれば、もう少しカッチリした議論を見せてほしいなと思う(まあ関連エントリ・レスを
全部見てるわけじゃないんだけどね)。「健全な良識や良心、他者への共感」を大事にするからこそ、もう少し葛藤なり
http://anond.hatelabo.jp/20080916195956ほど直接的でなくても、他のことについて書かれたことを適用することで面白くなる場合もある。
「本当の本当に大切なことには、理由があってはいけない - 過ぎ去ろうとしない過去」(http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080916/p1)はホームレス論争に関してのエントリーのようだけれども、これをホロコースト論争にあてはめてみるとd:id:HALTANの意見を援護しているようにも読めてしまう。
d:id:HALTANの批判は、よくわからないというのを多用していることからもわかるように、論理的に緻密に組み立てられた意見だとはおせじにも言えない。けれども、本当に大切なことには理由があってはいけないという考え方を適用すると、論理的な理由によって批判するのではなく良くないと感じるから良くないとでもいうような意見に正当性を与えることになってしまうとも考えられる。
とは言っても、このd:id:hokusyuの意見が皆に受け入れられているかというと残念ながらそうでも無い。頭の良いd:id:hokusyuの緻密な意見でもあまり受け入れられないのだから、d:id:HALTANがそれよりも前に同じようなことを言っていてもそれほど受け入れられなかったのにそれほどの不思議も無いのかも。
ところが、同じことは「君らはちゃんと詭弁論理学を読むべき - 捨身成仁日記 炎と激情の豆知識ブログ!」(http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/20080917/p1)でも述べられているのがこれまた興味深い。
もうなんというか詭弁論理学をちゃんと嫁!ってことですよ。健全な良識や良心、他者への共感とかが、論理とか科学とか小理屈の前に、全ての前提にあるものなのだ。誤謬論と「詭弁のガイドライン」 - 捨身成仁日記 炎と激情の豆知識ブログ!とかトリアージ論争の俺的まとめ中でも紹介した部分なので、もう何度目かの引用になるがしつこく引用する。
いかに力強い言葉で説得されようと、
というのが結論であれば、断然はねつけるだけの理性は残されなければならない。
「あなたの考え方には、ついていけません」
反論はこれで十分である。
これもホームレス論争について書かれたもののよう。でもトリアージ論争に関しても適用できるとある。しかしトリアージ論争の一部としてホロコースト論争もあるわけ。そうするとこれまたd:id:HALTANの、あまり緻密で無い意見に対する援護みたいに読める。論理がどうであろうと、結論が納得で聞ければ断然はねつけるべきということだからである。
「あなたの考え方には、ついていけません」というのを「あなたの考え方は、理解できません」とすると、どこかで読んだようなものになってしまうのがなんとも。逆に考えると「あなたの考え方には、ついていけません」ときっぱりと反論した場合にも、相手によっては粘着してくることもありそう。
だからといってd:id:HALTANの結論が正しいかどうかというと、それも自明とは言えない。何が正しいかとか、何が良くて何が悪いかといったことの理由をどんどんつきつめていくと、行き止まりになるか循環論法になるしかないのだけど、その場合になにをもって正しさの担保とするのかはかなり難しい問題。正しさに理由があってはいけないのであれば、なにが正しさを規定すると考えればいいのか。今さら石に刻まれているからと信仰することも出来ないだろう。
「ベタがベタでなくなったとき kom’s log」(http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20080917#p1)に書かれている自然科学に関する「真理の追究」については、難しいことは難しくても論理によって解明可能な問題。しかし、倫理や道徳といった人文科学に関する「真理の追究」はそれよりもずっと難しい問題。
理解するつもりは無いと言われたd:id:Apemanと理解できないと言ったd:id:HALTANの間のやり取りが面白い。
なにごとかを批判する際に「ホロコースト」を参照することが許せないらしい id:HALTANとか id:Sokalian のような潔癖な方々(しかしその割には「ポル・ポト呼ばわり」はスルーするんだよね)には、日銀や大阪府下の市町村教委と関東軍の間にどれほどの接点があるものなのか、ぜひともご高説をうかがいたいところだ。
これに対してd:id:HALTANは「汚いぞ(怒) - HALTANの日記」(http://d.hatena.ne.jp/HALTAN/20080915/p2)で怒っているみたいですが、怒るところがコミニュケーションの不成立なのか。確かに皮肉めいた部分は多分にあるとしても、関東軍呼ばわりについての意見を聞きたいというのは、それに対する批判的な意見を良しとしている、少なくとも悪いとは思っていないと判断できる。これはポルポト呼ばわりについても同じ。
それを「ホロコースト」の参照にも適用すれば、これもまた批判を期待しているということ。実際には批判はすでになされているので、批判を認めるというように解釈できる。
だから、これをもってホロコースト批判を正当な物として暗黙に認めたとも解釈可能。
とするのは詭弁がすぎるかもしれないけれど、これはもともとが詭弁だから。「詭弁倫理学」に書かれている「相殺法」で、さらに細かく言えば「公平の原則」というもの。具体的な例を出せば、悪いことをして怒られた子供が「自分だけじゃない」と言ったり、交通違反で捕まったドライバーが「他にも違反している人がいる」と弁解するようなこと。自分の行動や主張が正しいということを言いたいのならば、それを言えばいい。他を持ち出してのいいわけは、自分の非を認めていることになるのは自明なんだけれども気がつかない人は多そう。
自分が『「声高に」「連呼」して悲劇を「見世物」にしているああ恐ろしい……』のような非難をされたから、他の人もそうされるべきというようなことを書くのは、率直に言って良くないこと。皮肉として言ってるとしても、たとえでは無いと主張されているものと、たとえとして使われているものではまったく別だとかd:id:HALTANに言われたら困るんじゃ。
ホロコーストの参照が、ポルポトや関東軍呼ばわりと違うのが「たとえ」であるかどうかという点。後者はたとえとして使われているもの。別の言い方をすれば比喩やアナロジー。ホロコーストに関してが「たとえ」ではないというのは、そういった主張が本人によってなされているから。それがたとえの意味としてはおかしいという批判が一部にあるにしろ、本人の主張は尊重すべき。
d:id:hokusyuはアナロジーとしてのたとえでは少なくとも無い、と限定した意味で使用していることを説明しているのがさすがに頭が良いところ。とはいっても、○○では無いということは言っても、それでな「何である」のかについては書かないのが不親切。まあこれも頭の良い行動ではあるんだけど。
d:id:Apemanの「ポルポト呼ばわり」や「関東軍というたとえ」の是非に関する意見や、それらと関連した「ホロコーストの参照」の、それぞれの類似点や相違点についてまとめて書かれた物を読んでみたいと思うけど、あまり期待はできないかな。
それよりは「捨身成仁日記 炎と激情の豆知識ブログ!」(http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/)の「俺が見たトリアージ論争」の続きでホロコースト論争についても言及されることや、「ARTIFACT@ハテナ系」(http://d.hatena.ne.jp/kanose/)で意外と知られていない有用なエントリーが紹介される方が可能性が高そう。
それ以外の人だとd:id:sk-44あたりがもし「ポルポト」や「関東軍」のたとえと、「ホロコースト」の参照に関することを書いたら興味深い内容になるのではと勝手に期待。
(追記)
d:id:Sokalianはhttp://d.hatena.ne.jp/Apeman/20080915/p2のコメント欄で「知るか。」と書いているから、関東軍とポルポトとホロコーストについては書いてくれないかな。でも、d:id:Sokalianの立場なら全部良くないと言っても整合性がとれてしまうのが面白くない。ホロコーストの使用に肯定的で、ポルポトと関東軍のどちらかにでも否定的な意見の人の見解の方が興味深い。
1 個人情報を一切記載していない、何か問題がおきても自分の社会生活に火の粉が降りかかってこないアカウントを作る
2 適当に議論が盛り上がっている話題を探す(例「トリアージ」「非モテ」「ニコニコ動画」)
3 議論をちょっと見守ったあとで、その話題に対する体を張った過激なエントリを書く(例「ホームレスなんか死んでいいよ」「新宿駅で待ってるからホームレス同然の俺を殴りに来い」)
4 炎上ムードが高まってきたら、ブクマコメとコメント欄をめいっぱい使って大暴れ
このサイクルをしばらく繰り返すとあら不思議。あなたも平均30ブクマ以上集められる、中堅はてなーの仲間入り。
しかしブログ更新の息切れにはご注意くださいまし。話題はループしても問題ありませんから続けることが肝心。ネタがループしても、49日もすれば村民の皆さんは以前の積み重ねを忘れてくださいます。はてな村はあなたが思うよりも広大ですから、以前は話題が届いていなかった住民の方がブクマしてくださる場合もございますし。
ちなみに、実名を出しつつこれをやると、ブクマ数90以上が狙えます。一躍アルファブロガーの仲間入りです。ただし、社会的信用や、下手を打つと身の安全まで大きく損なう恐れのある諸刃の剣なのでご注意を。深刻なトラウマをはじめとする実害が発生してからでは手遅れです。
できるものならば、こうしたはてなの村社会っぽさに寄りかかることなく、自分の専門・関心領域についての実直なエントリで、自然とホッテントリ入りを果たして欲しいものです。さらにいえば、これを読んだあなた様が悔い改められ、はてなー活動においてホッテントリ入りを目的としないようになっていただければなお良しです。ブログサービスが安易な承認ツールと化すことはもはや不可避の流れであるとはいえ、消してインターネットの未来のために良い流れではないのですから。
でもさ、広い意味の威力を以て脅かされ・・・たとえば徒党を組んだイナゴの集中砲火的な
人格否定的発言に晒されたりね・・・たら、日和る人もいるんじゃないかなと思うんだけどなあ。
ま、あなたはマッチョ大好きな価値観の人で、そういう変節をする軟弱で「打たれ弱い」、
事態の帰結も予測出来ない「ナイーブ」な人間の存在が許せないのかもしれないけどさ。
そこは価値観の違いかもしれないよ。まあ具体例がどうなのか知らないで言ってるんだけどね。
ただ一点言っておくと、トリアージ論争において指摘済みの倫理の取り下げは、単に論者の態度の
問題で終わるんじゃなくて、論争そのもの(のある部分)が終わってしまう事を意味してるわけ。
「脳の失敗」タグには呆れた
http://anond.hatelabo.jp/20080823075056
上のエントリを読んで一番気になったのは出だしの
という部分である。つい最近のトリアージ論争でも似たような例があった→ http://anond.hatelabo.jp/20080813012003
またブログのコメント欄を眺めているとステハンによる「今まで尊敬していたのに…」みたいな書き込みをちょくちょく見かけた方も多いと思う
旧知の人物に言われたならともかく、見ず知らずの人に「今まで尊敬していたのに…」とかいきなり言われても
はぁそうですか、としか書かれた方は言いようがないのではと思うが、それはともかくとして私が見たこの手の書き込みは基本的に
高(もしくは好)評価 → 本論 → 低評価 (本論がすっ飛ばされる場合もあり)
という構成でなされていて、「元々こいつは気に入らなかったんだがいい機会なので叩いておこうw」みたいな出だしで始まる書き込みは
あまり見た記憶がない
ただどちらにしても不思議なのは、ある人物の言説を問題にする際に書き手の対象人物への評価を入れる必要が何故あるのか、ということである
第三者の読み手からすれば書き手が対象者をどう思っているかなんてそもそもどうでもいいことであり、その書き込みはノイズでしかない
にもかかわらずこの手の書き込みが多いのは、書き手の主観的評価の変化を強調することで読み手にも相手のひどさをより強調できる、
という考えが広く浸透してるからなんだろうか
それにしても既存メディアの論説に書き手の主観らしきものが見えると「お前の意見はいらねぇ、事実だけを書け」みたいな論難がされるが
この様子だとネットが既存メディアと置き換わったとしてもやっぱり書き手の主観あふれる言説ばかり読まされることになりそうだが
皆さんそれでいいんだろうか
トリアージ論争で「他者性がない」というお題目を執拗にあげつらっていた連中が、
実は一番その辺の資質に欠けていたんだという、呆れるかえるばかりのオチかな。
「こいつむかつくから何したっていいんだぜ」的な感覚で暴れて、窘められたら
「そんな事だとは思わなかった」「おいおい、まさか本気だと思ってたわけ?」
「言葉狩りだろ」「あいつもやってる」「露悪趣味ですが何か」等々のエクスキューズで
なかった事にできると考える。相手が自分たちの思いも寄らない他者かも知れない、
ちょっとした振る舞いが相手の人格を否定してしまうかも知れない、そういうリスクについて、
(勿論HALTANさん、Sokalianさんその他関係者が実際にどう受け止めたのかは問題じゃないよ)
実は何も真面目に考えていなかった証拠だと思うね。公開の場で内輪で馴れ合ってズリセンこいてただけ。
そういう自己矛盾した連中の押しつける倫理など一顧だにする価値はない、と感じるのは
普通の反応だろうから、今回の騒動に関係した連中のうち心当たりのある人は、他のタグも
含めてもう一度洗い直した方がいいんじゃないかな。何事もまず隗より始めよ、だ。
字数制限で文章ぶった切られたので。
http://anond.hatelabo.jp/20080817193348
●論点7
むしろ平時に「かわいそう」の論理を追求する方が、長期的には「かわいそう」な人を増やすのではないか。
共産主義崩壊なんて大袈裟な話は必要なくて、たとえば近代医療の誕生によって駆逐された呪術医療の扱いとか、
ラッダイト運動の時点で生産性が止まっていたらとか、新興産業や技術革新が誕生した時に「かわいそう」だからと
既存の業者を温存していたら、介護産業志望者にとってその助力を必要とする要介護者は、その年齢・状態に達する
までもなく死亡し、社会問題・産業となるほどの数までは至らなかったんじゃなかろーか。要するに最初からお役ご免。
幼少時はもちろん青年期壮年期でさえ生きるのがとても困難な、「かわいそう」な人々の時代で止まっていたかも知れない。
そもそも「かわいそう」に感じる主体は誰なのか、「かわいそう」な相手は本当に「かわいそう」なのかを
考えてもいいはず。企業自身は例とされた百貨店を含め、いずれも利潤を上げる事を目的に活動している。
その意味では競合企業を「かわいそう」な目に遭わせる事を辞さないわけで、あくまで対等な競争の結果
「かわいそう」な状況に陥ったまで。そして企業自身の経営学上の実践としては、潔く市場から退出するか、
経営努力によって「かわいそう」でなくなる(≒相手を「かわいそう」にする)事を目指すかのいずれかとなる。
要するに、「かわいそう」に感じる主体(=個人)の思惑とは別に企業は活動している。百貨店なんて典型的な寡占業種。
では「かわいそう」に感じた主体が、どうしてもその感情の処理をしたい場合はどうか。すぐ思いつくのは「かわいそう」な
企業の顧客となる事だけれど、売れ残るような商品を自腹切って買うのは何となく馬鹿らしいし、仲間集めをしても実質蟷螂の斧。
よって可能であれば行政の働きに期待する事も選択肢として浮上する。けどこの場合、長期的には「かわいそう」な人を
社会全体でもっと増やしてしまう。理屈としては既出だけどもう少し、かつての銀行の護送船団方式を例にしてみる。
護送船団方式は最も弱い金融機関が維持可能なように、金利やサービスなどを行政が細かく規制する事で達成されてきた。
実はそれは同時に最も競争力のある金融機関=強者が、競争を免れ仕事ぶりに比して高い超過利潤を得る事も可能にした。
で、その超過利潤って、結局サービスの受益者である預金者や融資先の企業・家計の負担の事なんだよね。
この場合「かわいそう」の論理は「かわいそう」を他に転嫁しているだけで、弱者でも何でもない連中に援助の手をさしのべただけ。
そして社会全体のリソースの量は(経営革新・合理化が停滞する分)そうでなかった場合よりも下がる。
やがては再分配として割くべき財源も底を突くかもしれない。
他に農林水産業も同様。実際フリーターでもした方がもっと楽に儲かるかも知れないのに、規制を掛け、補助金を注ぎ、
非常に高率な関税を掛ける事で無理矢理維持している。特に穀類なんかはそう。結果、消費者レベルでは非常に高額な
(国際的な食料価格高騰でもまだ輸入した方が安い、しかもそれらは補助金で安くした価格)負担を強いられて、
エンゲル係数の高い層は「かわいそう」な状態に追い込まれている。こうした政策は消費者はもちろん、生産者個人に
とっても長期的には為にならない結果をもたらしている。食糧安保の為と言う人もいるが、異論もあるしここでは議論しない。
また敢えて「大袈裟な話」をすれば、クメール・ルージュが君臨したカンボジアがその代表例と言えるよね。
ブルジョワやインテリ、エンジニアなど高い金融・物的・人的資本を誇る階層を「搾取」の根源として「排除」または転向させ、
近代的な制度や設備を次々に廃棄、他国との交易や援助も拒否し、ほぼ全人民が農民という「理想社会」を建設した。
そこでは全員が平等に生産性が低いから、勝ち負けや格差があるという意味での「かわいそう」な人間はほぼ消失。
しかし結果的には、凄まじい生産性の低下によって餓死者が続出し、またそれを少しでも埋め合わせる為に強制的かつ過重な
労働が営まれ、それが更なる犠牲者増加を招いた。政治的粛清の10倍以上、百万単位の人間が誤った経済観の犠牲者となっている。
無知のヴェールからも到底正当化出来ない、地獄のような社会であった事は間違いない。最近じゃジンバブエも似たようなもん?
シンプルに考えると「かわいそう」の論理は、利益追求が本業でいくらでも換えの利く企業等の事業者ではなく、
本来個人に対して適用すべき話のはず。経済上の競争では敗者は消え去るわけではなく、労働力という資源としてきちんと
再利用できるように、その生活や就業機会をある程度保障・支援する必要がある。しかし(完全な)人権享有主体ではなく、
もちろん資源そのものでもなく、効率本位の存在ながらその意義を否定された衰退産業・企業は、資源の浪費を生み、
社会が利用可能なリソースを減らすという観点から、長期的には退場して、その所有・利用する資源を市場に開放するのが好ましい。
有限な資源は、それをより有効に扱えると考えられる勝ち組企業に集中させるべし。
大雑把に言えば個人さえ救済出来れば何の問題もない。個人への再分配こそ行政の目指すべき使命で、企業にはあくまで競争。
以上から「かわいそう」の論理を経営学講義において差し挟む事は論外として、それを(たとえば経済学上の実験として)
企業間の競争に適用し、行政の使命としてその論理を貫徹させる事は、社会全体はもちろん当人らにも長期的には好ましくないと言える。
あとノロウイルスなんかが蔓延した場合に「かわいそう」だから隔離は止め、なんて事になったらかなり悲惨になりそうだしね。
実際、発生当初何が何だかわからないまま被害が拡大しちゃった所が沢山あったようだけど、それがもっと酷くなる。
そもそも要介護認定という制度がある以上、あるいは医師や他のコメディカルではなく介護労働者にケアさせている時点で、
介護産業自体が大前提として「トリアージ」的論理を含んだ物と言える。専門家がいれば必ずノロの被害が抑えられたって
事もないんだろうけど、その辺の出来る事、出来ない事の区別は重要だと思う。医師ですら時にそうなるんだから、
「燃え尽き」ない為には、全能感をなるべく遠ざけておく方がいいかも知れない。
●論点8?
・・・で、倫理を批判応酬の基準に置いている以上、論争当事者の人間性について何か書いてもいいんだけど、
そういうのは本人の認識より第三者の素の反応の方が重要だと思うんで、不要な面倒を呼び込む恐れもあってパス。
他にも何か書きたい論点があるような気はするけど、面倒なので止め。
増田では概ね有意義な反応が尽きたようなので、戦闘的でも粘っこくもなさそうな方に試しにトラバ。
http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20080814/1218670547
さて不謹慎な表現など多々あるかと思うけど、以下に私的な疑問・論点をまとめます。
時間掛けて経営学や医学や倫理学や歴史学を学んでたら、軽くクリアーできる論点・誤解もあるかも知れないけど、その他も含めてご容赦を。
●論点1 トリアージを「極限状態」と呼んで忌避するが、何を以て「極限」と呼ぶのかが恣意的だと思う。
●論点2 「極限状態」という一種のフィクションを前提としなければ、ナチスはホロコーストを行わなかったのだろうか?
●論点3 「資源の有限性を前提にするな」と言うけれど、実はこの世界ではあらゆる物が有限だったりする。
●論点4 経営学はそもそも社会全体について語る学問なんだろうか?
●論点5 トリアージに関連して「他者性がない」選択と言うけど、その「他者」の扱いも恣意性を含んでいるのでは?
●論点6 トリアージを「全体主義的な決定」「悪しき決断」と言うけど、平等な個人の自由な契約という所からも基礎付けられないだろーか。
●論点7 むしろ平時に「かわいそう」の論理を追求する方が、長期的には「かわいそう」な人を増やすのではないか。
●論点1
トリアージを「極限状態」と呼んで忌避するが、何を以て「極限」と呼ぶのかが恣意的だと思う。
たとえば、短い時間で選択を迫られるという意味でなら、(汚い例で恐縮だけど)映画館で上映開始数分前に便意を催し、
そこで素早くトイレを済ませるか、そのまま2時間前後我慢するかなど分単位で決断を迫られたりとか、
あるいは語源となる(らしい)コーヒーの選別作業など秒単位で決断を迫られる行為が、実は日常でもよくある。
もちろん時間以外の資源をモノサシにする場合も同様に議論を進められるはず。
つまり、時間等の量的な制約をその条件とするのであれば、いわゆるトリアージ以上に「極限状態」とみなせる
選択はいくらでも存在することになり、なぜトリアージだけを取り上げて「極限状態」と呼ぶのかがわからない。
そして呼ぶだけならいいとして、そこに殊更特別な意味を見いだそうとする行為には恣意性が入って来ないか?
明確な基準がなくはっきりしないせいで、そうした疑問が浮かんでしまう。
もし資源制約等々を最初から全部取っ払って、人の命を「切り捨て」るプロセスを指し「極限」と呼ぶのであれば、
蘇生行為の中断や、人工呼吸器の取り外し、あるいは脳死判定?など、(当事者にとっては非日常ではあるものの)
平時の医療行為の中にもそれらは存在する。これらはいずれも倫理学的検討に値する問題ではあるんだろうけど、
今回の問題意識とはずれているのではないかという気がする。なぜなら、経営学講義中の「資源制約下の選択」
というトピックで取り上げる事は難しいと思えるから。よってこれも不適。
ここからはさらに妄想。そこで「資源」の意味をもう少し拡張し、技術水準まで含めるとしたら?
現代医療で人工呼吸や蘇生や脳死判定が要請される重態の患者でも、実は簡単に救えるほどの医療技術が
遠い将来いずれ誕生する事を想定すれば、それらの現場を「極限状態」と呼ぶ事も可能かも知れない。
けれど何事も有限なこの世界で、資源の有無は所詮相対的な問題でしかないから、逆に心臓マッサージも知らない
ような時代まで遡れば、現代医療は「極限」でも何でもなく、相対的にかなり恵まれた状態だとさえ言えるかも知れない。
だからこの妄想理論も、当然すぎるほど当然ながら、使えないよね多分。
●論点2
「極限状態」という一種のフィクションを前提としなければ、ナチスはホロコーストを行わなかったのだろうか?
トリアージの現場では、住所氏名年齢性別人種思想信条宗教経済状態等ではなく、たとえばSTART法に
代表されるように、あくまで症例とその喫緊性を判断材料にして、医療資源の配分が決定されて行く。
そこでの個人は、生存者の最大化という観点から、同じ人間同士限りなく対等に扱われると見ていいはず。
他方、ナチスはアーリア人種なんかにとって、異民族共産主義知的身体的障害者等の存在が有害だと
訴えてたわけで、その排除は平時であると有事であると問わず、進行していたんじゃなかろーか。
不謹慎な言い方をすれば、対等ならざる「異分子」の排除は、保健所の動物駆除のように、
生存権や私有財産権その他の人権を持たざる者と扱った上で、粛々と進められたんじゃないかなと。
また日本や北欧等でも障害者・社会的弱者の断種手術が進められたけれど、これらも特に有事であるからと
行われていたわけではないはず。社会ダーウィニズムや通俗的な理解によって「市場原理主義」など(あるいは
「原理主義的資本主義」?)と呼ばれる淘汰のプロセスは、ある緊急時の必要に応じて進む(進められる)
と言うよりは、むしろ長期的に徐々に着実に進行していくモデルだと考えるのが妥当だと思う。
そして比喩としての「極限」的危機のアピール自体は、かつてのワイマール共和国を含む(民主主義・非民主主義問わず)
あらゆる国家で行われる、支持者獲得の為の常套戦略で、たとえば、核戦争や原発メルトダウンの恐怖を時に過剰に煽るのも、
類似の行為と言えるのでは?ナチスに特徴的な行動として取り上げるのは些か困難じゃないかと感じる。
以上の点から、トリアージを差別的な(どころか相手を人間扱いしていない)ホロコーストとなぞらえるのは
間違いであるし、また仮にトリアージが「極限状態」の選択であると仮定しても、ナチズムやホロコーストとの
同質性を認定するのは恣意的だと考える。トリアージの普及推進や例示がホロコーストと地続きである、または
そうした考えを広げるというのは、不謹慎である事を除いても有益な議論とは言い難いはず。
そもそもホロコーストの最たる物である絶滅収容所等におけるユダヤ人殺害は、ナチスドイツの
敗色が濃厚になった戦争後半期にかえって加速していたようで、一般的な意味で言う有事への対応や
資源の最適な配分という意図からは、どうも外れた感が強い。元々戦場の論理とは別物なのでは。
●論点3
「資源の有限性を前提にするな」と言うけれど、実はこの世界ではあらゆる物が有限だったりする。
トリアージの現場においては人員物資設備等の制約がボトルネックとなっているけど、そもそも人員物資設備等が
無限であれば、トリアージはもちろん企業経営の探求や経済学的考察など、資源の効率的な配分を研究する
学問・営為は生まれなかったはず。経営学や経済学をはじめ、多くの人間の知的営為はその濫觴において、
現実世界の資源の有限性を前提としており、その有効活用を目的としているわけだから。
たとえば、市場メカニズムの根本を支える価格シグナルは、財やサービスの需要と供給によって決定されるけれど、
供給無限(商品の物量だけでなく運搬供給設備やそれらの生産性等も)であればその価格はゼロとなり、
人は欲望の尽きるまでそれらを蕩尽するはずだが、もちろん現実はそうじゃない。一見価格ゼロに見えても
広告販促込みだったりして誰かが費用を負担しており(そのままでは持続可能ではない)、いずれにしても
「価格」の存在は、資源の有限性がこの世界に付き物だという事実を、端的に示していると言えるわけ。
またたとえば、かつて環境問題が今ほど注目されなかった時期には、社会的制限が存在しない中で
工場は排煙を垂れ流し放題だったけど、現在では空気ですら無限ではないというのが、環境問題を認識する
あらゆる人間の知る所で、その為に各種の環境規制や課税が行われ、少なくとも先進国では、工場経営者も排煙その他の
公害原因の扱いに注意を払うようになっている。逆に各種エネルギーに補助金(それは低い技術水準とワンセットだが)を
与えている中国やインドなどは、その凄まじい蕩尽によって資源の国際価格高騰や各種公害の原因としても台頭している。
以上のように、資源が無限か有限か(≒価格がゼロか否か)は、その資源を効率的に扱うインセンティブを決定している。
そして、およそあらゆる物に価格や税金、規制が付きものなのは、それらが現に有限だからに他ならず、
経営学・経済学・トリアージはもちろんとして、多くの人間の知的活動はその資源制約によって発展・流転を促されてきた。
よって「資源の有限性を前提にするな」という主張は、現実を無視し多くの知的活動を否定する行為に等しく、場違いな指摘だと考えます。
有限性の前提や資源の効率的利用・効用最大化と言った考えがナチズムへとつながるのであれば、必然的にこの世の
学問・営為・制度・生活習慣は、その多くがナチズムの眷属となり、今回の件を特別批判する意味は限りなく薄まるはず。
●論点4
上と関連して。経営学はそもそも社会全体について語る学問なんだろうか?
経営学と経済学は、もちろん共に資源制約の下での効率的利用を目的とするんだけど、後者が主に
社会全体の効用最大化を目指すのに対して、前者は時に社会全体の効用をかえって損なう決定を推奨しかねなかったりする。
既に上で述べた環境問題における企業行動が典型例だし、あるいは独占や寡占の追求、他企業とのカルテル、
最近も相次ぐ情報の非対称性を悪用した偽装問題など、企業は時に利益追求という存在意義に忠実なまま、
社会全体の最適化からは逸脱しちゃう場合がよくある。そうした行為には違法な物からグレーゾーンまで何でもあり。
他に経済学の概念上でだけで考えれば、ブランド構築・製品差別化、特許等の独占的使用販売権の取得等も、
完全競争を避ける狙いから行われる、社会全体の最適化に反した行動とみなせる。もちろんこれらの場合は
消費者や社会の利益となる場合もあるんだけど。ともかく経営が目指すのは本質的に部分最適・部分均衡なわけ。
このように企業はいろいろな経営的実践を通して、市場における競争を避け、超過利潤・独占利潤を得ようとする。
それに対して、各種公害規制や独占禁止政策・不正競争防止、情報の非対称性の排除などを通じて、市場メカニズムの
健全な作用を維持し、また時に所得再分配を考慮し、社会全体の効用最大化を目指すのが、一般的な意味で言う経済学の使命。
つまり、別々の学問として定立している以上当然なんだけど、経営学的実践における「全体」と、
経済学的・政治的・社会的実践における「全体」とは、多くの場合かけ離れているんだね。
よって、(仮に)経営学的営為の例としてトリアージを取り上げる場合でも、それらが一般的な意味で言う「全体」、
社会や国家全体に敷衍されて適用される恐れがあると考えるのは、学問の目標を見誤った、飛躍を含んだ主張じゃなかろーか。
●論点5
トリアージに関連して「他者性がない」選択と言うけど、その「他者」の扱いも恣意性を含んでいるのでは?
既出のようにこの世界のあらゆる物は有限であり、ある選択は必然的に他者の選択を制限してしまうのが世の常。
だからたとえば、日常の買い物で財布の中身と照らし合わせながら商品を決める(予算制約下の最適化行動)裏には、
売り上げ好調で繁栄する勝ち組企業と同時に、売れない商品を作って経営不振に陥り、場合によっては
倒産する「かわいそうな」負け組企業の存在があったりする。ひょっとしたら「切り捨て」られたその経営者は
自ら命を絶ってしまうかも知れない。その他日常ありふれた選択が、当然のように多くの他者の運命を決定している。
政治上の決定で見ればもっとわかりやすい、再分配は必ず財源を必要とする。
たとえば公共事業を削ればどうしても倒産は増えてしまう。増税だって薄く広いだけで景気を落ち込ませずには居られない。
以上のように考えれば、無視出来ない他者の範囲は空間的・時間的に際限なく広げる事が可能であり、
トリアージだけを取り上げ、その「他者性がない」側面を強調する行為には、恣意性が含まれているのではないかと。
●論点6
トリアージを「全体主義的な決定」「悪しき決断」と言うけど、平等な個人の自由な契約という所からも基礎付けられないだろーか。
仮に「災害時に被災・負傷し、物的人的制約のある災害医療の拠点に搬送された場合にどのような治療戦略を望むか」
という契約をあらかじめ(被災時に意識を失えば意思の確認が出来ず不公平なので)交わすとすれば、
そして公序良俗に反するという立場から、金銭などの代償を対価とした優遇や、自己犠牲を禁じ手とすれば、
自由かつ平等な個人は、期待生存率を最大にする為=自分自身の為にトリアージを選択する権利を行使するはず。
これが全体主義国家ならマイノリティは放置され、地位や能力のある者の治療を優先させられるかも知れない。
よってトリアージは「みんながひとりのために」でも「ひとりがみんなのために」でもなく、
「ひとりがひとりのために」という個人主義をベースとした選択と考える事も十分可能だと思う。
また自分の命が常に他者の命と可換であるという強い認識が働くから、他者認識がないという批判も的外れとなるはず。
(ちなみに治療従事者自体はロボットだって構わないわけで、その他者性認識を問題にする意義は仮想の話の上では薄いと思われ)。
以上はリベラリズムの基本である無知のヴェールのアイデアを多少拝借した物。
無知のヴェールとはリベラリズム上の社会正義のあり方を考える思考実験で、それを被された者は他人はもちろん
自分も含めたあらゆる属性・・・住所氏名年齢性別人種主義主張経済状態等々・・・がわからなくなってしまう。
その状態で、各個人は自身の利益も含めもっとも望ましく公正な社会の条件を考えてみよ、というのが実験の中身。
で、リベラリズム上の議論においては、その条件の下で「格差は最も弱い立場の人々の効用を最大化する目的でのみ正当化される」
という「格差原理」が導出される事になっている。では、トリアージの現場において、それがどのような人々に当たり、
かつその条件の下で選択要請される治療戦略とはどのような物になるだろうか、ちょっくらこれを考えてみる。
まず被災患者を症例・緊急度により以下のように分ける。
A.所与の医療資源・技術では、どれだけ治療を施しても亡くなってしまうとされるグループ(START法では黒いタグを付けられる)
そして以下のように選択可能な治療戦略が提示されているとする。
1.治療を受けられない人は「かわいそう」だから「公平に」症状は無視し、医療資源を人数分で割って全員に割り当てる「平等戦略」
2.治療を受けられない人は「かわいそう」だから「公平に」症状は無視し、各人へのくじ引きで割り当てを決める「機会均等戦略」
これら5つの内であれば、各人は全体最適など考えずとも(それを考えるのが完全な悪というのもおかしいんだけど)、
個人の利害に触発されて、自由かつ平等な権利の下に、最も自らの期待生存率の高い4のトリアージ戦略を選ぶはず。
ではその場合の「最も弱い」人はどの患者グループなのか、その効用はどうなるのかを不謹慎な表現も交えるかもだが次に検討。
もし医療資源を注ぎ込んでも「ほぼ」助からない黒いタグ、この場合グループAの患者だとすれば、どのような治療戦略においても
「ほぼ」死亡という結果に終わり、効用は「ほぼ」不変=「ほぼ」常に最大だからトリアージを選ぶ事は「ほぼ」許容される。
次に死亡状態とみなされる人ではなく、助かる可能性はあるが治療を必要とする赤や黄色のタグ、グループBに含まれる患者を
「最も弱い立場」とするならば、トリアージによって最も手厚く医療資源を配分される事になるから、やはり許容範囲となるはず。
問題はもちろんグループAについての「ほぼ」の取り扱い。技術水準の問題として閑却する事も話の上では出来るんだけど、
(前にネタのした時は確実に生存率を判定出来ると仮定したので簡単だった)、現実のトリアージではそうは行かない。
ただ、いずれにしても確率的な選択を強いられるのであれば、やっぱり4のトリアージ戦略しかないと思うんだけどね。
あと検討の順序が逆だったり、戦略や条件の設定の重複・恣意性等あるけど、まあ素人なんで大目に見てくださいな、と。
基本的には無知のヴェールまで降りて議論するまでもなく、最初の期待生存率+公序良俗の「治療戦略選択契約」の話で
大体OKと思うし、そこで「全体主義的」なる批判はシャットアウト可能だと考えてます。よってここらでこの論点終了。
字数制限でhttp://anond.hatelabo.jp/20080817193711へと続きます。目障りでごめんなさい。
許してね恋心よ 甘い夢は波にさらわれたの
いつかまた逢いましょう その日までサヨナラ恋心よ
時を重ねるごとに ひとつずつあなたを知っていって
さらに時を重ねて ひとつずつわからなくなって
愛が消えていくのを 夕日に例えてみたりして
そこに確かに残るトリアージ
って確かに聞こえるサウダージ
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080812/p1#c1218639527
同じことを言ってたつもりだったのだがこの人のほうが数段平易で緻密で簡潔だ。
トリアージ的な状況は既にして「常態化」している
トリアージ的な、資源制約下の選択という問題はこの世界の普遍的な現実です
まあトリアージは物凄くわかりやすくて便利だと思うからどんどん取り入れてもいいと思うけど。
分かってないな、この世は全部トリアージ的な物なの。
とか言ってる人(たち?)に対して俺が下手な言葉を尽くすより、これ一本で反論としては十分だよな。
どうせ「分からない」で返すんだろうけど。
俺から補足できるところがあるとすれば。
「かわいそう」の論理を「女の発想」として単に論外に退けるようなのは、倫理学の発想としてはもう古い、ってのは、キャロル・ギリガンあたりを知ってれば分かることなはず。まあ福耳先生は知った上でああいう態度を取ってそうだが、福祉の学生相手にああいうDisをやるってのは相当その気でやってるってことだよなあ。
ん? 俺はずっと意見変えてないと思うけど?
だから「仮の話」なんだよね? 理屈的に反論はこれで終わってると思うけど。
君の想像上でどれだけ民主的に是認されたやり方だとしても関係ないわけで……。
(民主的に正しさが保証されるような問題ではない、という意味で、たとえ君の仮定が実現しても関係ないのだが、それ以前に、現実の話をそもそもしてない)
人手は足りないけど、診断に使う時間が足りないという状況ではないと思われますが。
「極限」が通常の意味でならそうなるはず。「極限」に新たな意味づけをしたいんだろうけど、
合理的な論拠がないから、第三者には恣意的な区切りにしか見えないわけ。
時間についてはwikipediaにすら書いてあるくらいトリアージの基本中の基本だが。
君が増田で繰り広げる言論活動は内輪じゃなくて、顕名はてなは内輪なのか?
名を出して、自分が名指しで批判されるようなところでガチに議論することはリンチだけど、名前も出さずいつでもケツをまくったり全部リセットして最初からゴネ直すことが可能なところでそうでない相手をネチネチやることはリンチに当たらないわけか。
話にならんのはどっちだっつのw
少なくともこっちのレスは多分文体でわかる・・・はず。多数派工作をした覚えはないなあ。
いや、口調なんていくらでもいじれるからなあ。
「それはそれ! これはこれ!」
という感じなんだよな。
はてサの人は「何故、この二つが同じ論理だと分からない!?」と顔を真っ赤にして喚いているようにしか思えないんだけど、そんなもん通じるのはごく一部のはてなダイアラー同士の間だけだろ。
「大半の人は分かるはずだが、こいつ(叩いている相手)は頭が悪いから分からないのだ」って。
そんなもん、誰が分かるかっつーの(笑)
お前ら左翼崩れの言葉遊びなんて、フツーにウザいだけですから。
むしろ、叩かれている人がそう言いたいのを我慢してる感じがする。
いや貴方が何を何のオプションと捉えようと貴方の構想だから勝手なんだけどね。
現実にはそういう風にトリアージが正当化されてるわけじゃないし、するべきでもないって話だよなあ。
個人にとって最適戦略であるかどうかとそれが民主的に議決されるかどうかとは別の話で、自然に支持されるだろうというのは貴方の推測に過ぎない。
そんなにうまく行くとは限らないし、そもそも筋違いだよ、という話で。
最初に「契約」と打ち出したのを見逃さないでほしい。
社会契約説よりもなおフィクションなものに聞こえるなあ。まあひとつ言うとするなら、現実にはそんな契約はなされてないよねと。
だからそこが根本的に間違ってるという話だよ。
俺はそうは思わないし、今回の貴方の話はそのような契約がありそのような賛同が得られるという仮定の下のものなので、そもそも反論になってないような。
それは福耳先生の説、なのかな? 先生自身手を引き気味に見えるんで、どこまで専門家として責任を取るおつもりなのか計りかねる状況だよね。
だから、経営学的実践たるトリアージの普及啓蒙や実践に当たっている人を、あるいは経営学の授業で
それを例として挙げた人を取り上げて「命の全体最適化を目論むナチスと同類だ」なんて言うのは、
単に知識がないのであればまだ恥ずかしいだけだけど、侮辱的意図を持って行われたとしたなら
大変なスキャンダルだと思うな。
と思う根拠がフィクションじゃねえ。
トリアージを(それも、君の勝手定義勝手概念勝手フィクションを経由してではなく、まさしく「トリアージそのもの」)を経営学的実践であると学問的に主張している専門家を誰か例示してくれ。本でも書いてればなおいい。そういう地に足ついたところから話を始めようよ。
要するにどんな選択も言いようによっては極限状態だって事。そこを否定しないと。
否定できてるじゃん。普通の経営は合理的足切りばかりじゃないよと。いつでも極限状態だからどんな足切りでも正当化できるんだよ、なんて考えてる人ばかりじゃないよなあ。
ところで、ひとつ質問なんだけど、貴方はSokalianさんとは別人?
(追記)
あと、トリアージが最適戦略ってのはやっぱり誤解を招く表現に思えるね。
「ごく限られた状況において、現在知られている中では高確率で最適に近い解を導くことが期待できるアルゴリズム」だとは思うけど、常時使用できるようなものではない。時間的余裕があったらきめ細かい診断を全員にしたほうがいいに決まってるし、そういうものはトリアージとは呼ばないんだから。
もう少し慎重に議論してくれないかなあと思うんだけど、こればっかりは相手のある事なので。
http://anond.hatelabo.jp/20080814225028
>それは文句を言うべきところじゃないからなあ。
この場合はどっちでもいいんだよ。説明したようにね、トリアージのオプションとして扱えるから。
まあ本来は無知のヴェール妄想で崩れている批判なんだけどさ。それで実は後の批判も崩れるはず。
これはこちらの例えを最初から何も理解していないと反応だと思うなあ。(この誤解のせいで一般的云々って話をしたのかな?)
トリアージ(自己犠牲オプションを含めた)こそが、全体ではなく各個人それぞれにとっての最適戦略だという話だよ。
多数決ではない、自由かつ平等な個人による契約ベースの話。たまたまそれがみんな一致するというだけ。
最初に「契約」と打ち出したのを見逃さないでほしい。政治体制ベースなら全体主義も民主主義も同じだよ。
で、以下は「トリアージがリベラリズムに基づいた自由かつ平等な個人の選択の結果」ではない場合にだけ意味のある議論。
>いやhokusyuがここんとこかなりしつこく言ってんの、まさにこの論点だと思うぜ?
だからそこが根本的に間違ってるという話だよ。まあウ○コが例えで申し訳なかったけどさ。
>現場のトリアージではなく、福耳先生がトリアージの論理を経営学一般に敷衍すること、をこそ批判してるんだから。
極限や常態という論点とどうつながっているのか分からないけど、トリアージ自体は経営学的発想の応用だよ。
少ない資源(時間、労力、物資)でいかに成果を出すか、その点でトリアージについて知的に考察・言及したり、
普及を図ったり、もちろん実践をする事自体が経営学的な営為でもある。特に実践は高度の管理技術が要求されるよ。
もちろんそうでない、3分でトイレを済ませるかどうかというのも経営学的発想の応用だけどね。
そもそも百貨店のように経営ってのは、それを行う主体があくまで全体の中の一部であるという大前提がある。
だから経営学によって、何か社会全体が最適化されるというような発想は、殆ど辞書的な意味での経営学を
理解していないに等しい。というのも、経営ってのは場合によっては全体最適じゃない行動も行う物だから。
他企業とのカルテル(明示的、暗黙的)や巨大合併はその典型だよね。その辺は別にも書いたけど。
あとそもそもの百貨店なんて一地域にせいぜい数社しかない、これは典型的な寡占と言える。
それに偽装や手抜きと言った罰則のない所での脱法的な活動とかも。つまり、経営学的発想には本来全体最適なんて頭にない。
だから、経営学的実践たるトリアージの普及啓蒙や実践に当たっている人を、あるいは経営学の授業で
それを例として挙げた人を取り上げて「命の全体最適化を目論むナチスと同類だ」なんて言うのは、
単に知識がないのであればまだ恥ずかしいだけだけど、侮辱的意図を持って行われたとしたなら
大変なスキャンダルだと思うな。
>冷たい足切りもするけど時に人情で判断したりもするのが生身の経営者だろう。
何か話がズレてるよ。要するにどんな選択も言いようによっては極限状態だって事。そこを否定しないと。
それにそちらの論法を借りれば、トリアージの現場でだって自分が恨みに思う相手が搬送された場合に、
本来は赤や黄緑に分類されるのに、黒のタグをつけちゃう不届きな医療班がいるかも知れない。
そういう人間は、経営努力を怠った企業経営者が、市場の裁きを受ける可能性が高いのと同様に、
場合によっては司直の手に委ねられる事になる可能性はあるが、ありえない話ではないよね。
ただし、そうした情実等によるノイズがあるにせよ、基本的にはそこで営まれる行為には一定の目的や法則性がある。
経営判断であれば利益を出す事だし、医療現場であれば患者を救う事。映画館であればウ○コではなく映画を見る事。
例外は原則を揺るがさない。
前にもここで誰かに同じ事を言ったんだけど、相手の文章を良く理解せずに、食い下がりたそうな点にだけ食いついたり、
あるいはフレーズをリピート状態にしているだけのようなレスは、迷惑だから控えた方がいいと思う。
某所で無意味に暴れている人達がいるのは、まさにそういう態度を巡って意固地になっているからなんだしさ。
http://anond.hatelabo.jp/20080814222650
はは、いいねそれ。既に盛れている人は自主退館すんじゃないかな。