はてなキーワード: 食糧安保とは
字数制限で文章ぶった切られたので。
http://anond.hatelabo.jp/20080817193348
●論点7
むしろ平時に「かわいそう」の論理を追求する方が、長期的には「かわいそう」な人を増やすのではないか。
共産主義崩壊なんて大袈裟な話は必要なくて、たとえば近代医療の誕生によって駆逐された呪術医療の扱いとか、
ラッダイト運動の時点で生産性が止まっていたらとか、新興産業や技術革新が誕生した時に「かわいそう」だからと
既存の業者を温存していたら、介護産業志望者にとってその助力を必要とする要介護者は、その年齢・状態に達する
までもなく死亡し、社会問題・産業となるほどの数までは至らなかったんじゃなかろーか。要するに最初からお役ご免。
幼少時はもちろん青年期壮年期でさえ生きるのがとても困難な、「かわいそう」な人々の時代で止まっていたかも知れない。
そもそも「かわいそう」に感じる主体は誰なのか、「かわいそう」な相手は本当に「かわいそう」なのかを
考えてもいいはず。企業自身は例とされた百貨店を含め、いずれも利潤を上げる事を目的に活動している。
その意味では競合企業を「かわいそう」な目に遭わせる事を辞さないわけで、あくまで対等な競争の結果
「かわいそう」な状況に陥ったまで。そして企業自身の経営学上の実践としては、潔く市場から退出するか、
経営努力によって「かわいそう」でなくなる(≒相手を「かわいそう」にする)事を目指すかのいずれかとなる。
要するに、「かわいそう」に感じる主体(=個人)の思惑とは別に企業は活動している。百貨店なんて典型的な寡占業種。
では「かわいそう」に感じた主体が、どうしてもその感情の処理をしたい場合はどうか。すぐ思いつくのは「かわいそう」な
企業の顧客となる事だけれど、売れ残るような商品を自腹切って買うのは何となく馬鹿らしいし、仲間集めをしても実質蟷螂の斧。
よって可能であれば行政の働きに期待する事も選択肢として浮上する。けどこの場合、長期的には「かわいそう」な人を
社会全体でもっと増やしてしまう。理屈としては既出だけどもう少し、かつての銀行の護送船団方式を例にしてみる。
護送船団方式は最も弱い金融機関が維持可能なように、金利やサービスなどを行政が細かく規制する事で達成されてきた。
実はそれは同時に最も競争力のある金融機関=強者が、競争を免れ仕事ぶりに比して高い超過利潤を得る事も可能にした。
で、その超過利潤って、結局サービスの受益者である預金者や融資先の企業・家計の負担の事なんだよね。
この場合「かわいそう」の論理は「かわいそう」を他に転嫁しているだけで、弱者でも何でもない連中に援助の手をさしのべただけ。
そして社会全体のリソースの量は(経営革新・合理化が停滞する分)そうでなかった場合よりも下がる。
やがては再分配として割くべき財源も底を突くかもしれない。
他に農林水産業も同様。実際フリーターでもした方がもっと楽に儲かるかも知れないのに、規制を掛け、補助金を注ぎ、
非常に高率な関税を掛ける事で無理矢理維持している。特に穀類なんかはそう。結果、消費者レベルでは非常に高額な
(国際的な食料価格高騰でもまだ輸入した方が安い、しかもそれらは補助金で安くした価格)負担を強いられて、
エンゲル係数の高い層は「かわいそう」な状態に追い込まれている。こうした政策は消費者はもちろん、生産者個人に
とっても長期的には為にならない結果をもたらしている。食糧安保の為と言う人もいるが、異論もあるしここでは議論しない。
また敢えて「大袈裟な話」をすれば、クメール・ルージュが君臨したカンボジアがその代表例と言えるよね。
ブルジョワやインテリ、エンジニアなど高い金融・物的・人的資本を誇る階層を「搾取」の根源として「排除」または転向させ、
近代的な制度や設備を次々に廃棄、他国との交易や援助も拒否し、ほぼ全人民が農民という「理想社会」を建設した。
そこでは全員が平等に生産性が低いから、勝ち負けや格差があるという意味での「かわいそう」な人間はほぼ消失。
しかし結果的には、凄まじい生産性の低下によって餓死者が続出し、またそれを少しでも埋め合わせる為に強制的かつ過重な
労働が営まれ、それが更なる犠牲者増加を招いた。政治的粛清の10倍以上、百万単位の人間が誤った経済観の犠牲者となっている。
無知のヴェールからも到底正当化出来ない、地獄のような社会であった事は間違いない。最近じゃジンバブエも似たようなもん?
シンプルに考えると「かわいそう」の論理は、利益追求が本業でいくらでも換えの利く企業等の事業者ではなく、
本来個人に対して適用すべき話のはず。経済上の競争では敗者は消え去るわけではなく、労働力という資源としてきちんと
再利用できるように、その生活や就業機会をある程度保障・支援する必要がある。しかし(完全な)人権享有主体ではなく、
もちろん資源そのものでもなく、効率本位の存在ながらその意義を否定された衰退産業・企業は、資源の浪費を生み、
社会が利用可能なリソースを減らすという観点から、長期的には退場して、その所有・利用する資源を市場に開放するのが好ましい。
有限な資源は、それをより有効に扱えると考えられる勝ち組企業に集中させるべし。
大雑把に言えば個人さえ救済出来れば何の問題もない。個人への再分配こそ行政の目指すべき使命で、企業にはあくまで競争。
以上から「かわいそう」の論理を経営学講義において差し挟む事は論外として、それを(たとえば経済学上の実験として)
企業間の競争に適用し、行政の使命としてその論理を貫徹させる事は、社会全体はもちろん当人らにも長期的には好ましくないと言える。
あとノロウイルスなんかが蔓延した場合に「かわいそう」だから隔離は止め、なんて事になったらかなり悲惨になりそうだしね。
実際、発生当初何が何だかわからないまま被害が拡大しちゃった所が沢山あったようだけど、それがもっと酷くなる。
そもそも要介護認定という制度がある以上、あるいは医師や他のコメディカルではなく介護労働者にケアさせている時点で、
介護産業自体が大前提として「トリアージ」的論理を含んだ物と言える。専門家がいれば必ずノロの被害が抑えられたって
事もないんだろうけど、その辺の出来る事、出来ない事の区別は重要だと思う。医師ですら時にそうなるんだから、
「燃え尽き」ない為には、全能感をなるべく遠ざけておく方がいいかも知れない。
●論点8?
・・・で、倫理を批判応酬の基準に置いている以上、論争当事者の人間性について何か書いてもいいんだけど、
そういうのは本人の認識より第三者の素の反応の方が重要だと思うんで、不要な面倒を呼び込む恐れもあってパス。
他にも何か書きたい論点があるような気はするけど、面倒なので止め。