昔の自分のブログ読みなおして、あまりの痛さに抱腹絶倒していた。
だけど途中で本当に鬱っぽくなってた時は、
主語はないし、意味が分かりにくいし、些細な愚痴をやたら攻撃的に書いてるし
偉そうだし、話は飛ぶし、切り口も話題の選び方も痛々しいし、
要は惨憺たる状態だった。
根本的なところで文章が下手なんだろう。
そんな最悪な書き出しだが、俺がむかし鬱っぽくなった理由を書くので聞いてくれ。
必要以上に憎んでいたと言っても良い。
なんでかって、小さいころから空気読めなくてやることなすことトロくて、
今思えば発達障害だと思うが、その時はそんな知識もなく、
俺は地雷踏みぬきまくって親から罵倒されたりどつかれたりしていたわけだ。
放任されて風呂に入らなかったりしたので学校でもまあひどかった。
そう書くと大げさだが、実際は無視が大半だったので
(飯は普通に食わせてもらってたし)特にどうということはなかった。
なんだかんだ大学生になって、そんな「普通」が普通でないことに気付いて、
それまで自分で服を買ったことがなかった俺が雑誌とか読みまくって
ようやく人間としてのナリを整えるに至った。
その時にDVは良くないということも学んだ。
で、だいぶまともになった俺はサークルとかに入って仲間とかも出来て、
ご多分にもれず少々色気づいて、恋とかしてしまったわけだ。
すげーだろ?高校まで恋愛なんてする心の余裕がなかったんだぜ。
興味が無かったということなのかもしれない。アスペだったし。
で、かなり仲も良くなったし、これは付き合えるんじゃないかってところまで行った。
自分が正にその人を相手にDVの再生産をしてしまいそうなのに気付いた。
その時の絶望と言ったらなかった。
もう自分がSMチックなことに性欲感じることも耐えがたく汚らわしく
起きてる間中どうやってこの汚らわしい生き物を殺すかしか考えられなかった。
ネトゲとかフィクションに没頭している間だけは死ぬことを忘れられたから
実際、周りも誰もうつ病だなんて思っちゃいなかったと思う。
でもそんな遊びは、死ぬ勇気が無かったから、殺されたくて始めたようなものだ。
「過剰に集中してしまう性質だから、ネトゲを始めれば社会的に死んでいくだろう」
と思って、ダウンロードしたことをはっきり覚えている。
(今思えばアスペの過集中って奴なんだが)
その成果もあってその期間の取得単位数は見事に0だった。
生きてみようかと思ったのは
断る気力もなく連れて行かれた旅行で、
自分がスゲー尊敬する友人たちも間近で見てるとけっこう些細なミスやらかすし、
わかった時だと思っている。
何か、汚らわしくても、生きてていんじゃない?と。
余談だが、尊敬する人(芸能人でも)が、何か期待はずれなことをしても、
「まあ人間だしこういうこともあるよなあ」と思うだけで。
自分が尊敬してる考え方だとか、感動した作品とかそういう物と、
その人が人間として生きることは、
全く別の、それぞれ別の理由で尊重されるべき事柄で
つなげて両方を同時に否定する必要はないとも思ってる。
あと家で散々きちがいとか言われてぶんなぐられ罵られてたおかげで
今、会社で同じこと言われても全く怖くないのには驚いてる。
「親に好かれないと生きていけない」のに対して
上司に好かれないと生きていけないという事もないし。
まー、いっこ問題があるとしたら、同僚いわく怒られたあとの俺はすげー動揺してて
何言ってるかわからないってとこだが……。
この辺をコントロールできるようになれば、だいぶ行けるんじゃないかと思う。
まったく豆腐メンタルも世話がねーぜ。
(全く気分が落ち込まないので自分では問題ないつもりなんだが、
行動が伴わないのは不思議だ。)
要は俺が言いたいのは、「自分ウンコ」っていうのと「死のう」っていうのを
切り離して考えれば割と生きやすいぜってことと、
何かを強く憎むこと、思考を差しはさまず排斥することは、問題の解決とは別方向の感情だってことだ。
何か憎しみを感じたら、本当に嫌なことから目をそむけるために憎しみを感じていないか、
一度冷静に考えてみた方がいいと思っている。
ちなみにその時の人とは精神復活後何年か付き合って、その後いろいろとあって別れました。
DVは(多分)していないと思う。目に見える形では。
正直言って、分からない。断定はしない。
そして、これだけ断言したいのは、死なないと解決できないなんてことはない。
そう思ってウンコなまま生きてる。俺も、あと、俺ではない誰かも。