児童ポルノ規制が「架空の表現」にまで及ぶことは明らかに「児童の権利保護」の観点から見て無意味だし
何より表現の自由を守れなくなるので、そこはもう議論の余地がないと思ってる。
でも、じゃあ実際、性被害に遭う児童を現実的にどう守ればいいのか。
児童性愛者について社会は、法は、道徳はどう対峙、対話していけばいいのか。
そんなことを数日考えてる。
「自分はペドフィリアで、いつか現実に子供に害を加えるかもしれない不安を抱えている」
と私に言っていた。
私は「自覚症状があって、自身が悩んでいるなら、カウンセリングなりすれば良いのでは」
と言ったが、実際、現実的にそういったセラピーは無いらしく、相談する相手はおろか
打ち明ける場所や機会がそもそも無いという。
自分も「児童性愛者」に対して道徳的にも社会的にも、どうスタンスを取ればいいのかわからない。
だからアドバイスも、自分の価値基準も持てず、言葉に詰まってしまった。
ちなみに、その集まりはセクシュアルマイノリティと家族が集まれるイベントだったのだが
「ジェンダーやLGBTという枠とは(小児性愛は)違うし、児童福祉の観点から言えば治療の対象だ」と
あまり望ましい対話ができなかったらしい。
話を戻すと、アニメや同人などで現在ふつうに流通している「ロリ・ショタ」的コンテンツを消費している人らと
実在する児童のポルノを消費する(あるいは性嗜好障害としての)ペドフィリアとは、もう根本的に違うということ。
それは概ね同意が得られそうだけど、じゃあペドフィリアの人は、その性嗜好自体が社会的に憎悪されるべきものなのかと言えば
それは思想の自由から権利が守られるべきで、実際に加害者がいなければ現状、法的には問題がない。
だけど、社会規範的、道徳的に「ペドフィリアである事実」の人をどう扱えばいいのかというコンセンサスが日本にはないと思ったのね。
声高に児童ポルノをすべて禁止すべき!と叫ぶ人たちは、そういった実在する「児童の性被害」や虐待に対して、主体的に問題に取り合っているのか。
タブー視や軽視せずに、犯罪の原因や事実、ケーススタディについて議論しようと取り組もうとしてきたのか、と疑問に思うわけ。
実際、上述した彼のように、その性嗜好が社会的に許されないと認知した人は、どこへ行けばいいのか、それを用意しようとした人がいるのか。
ただ、そういう人間や「似たような因子」をタブー視して「すべて禁止!」しようとしているだけじゃないのかって思う。
そういう浅知恵じゃ、「加害者になる可能性」も「被害の予防」もできないと思う。
けれど、「ペドフィリアは危ない因子だから、こちらへどうぞ!」とは簡単にいかないような気がしている。
もちろん性衝動が抑えられない精神医学的な意味での「異常行動」の問題はしかるべき治療をすればいいけど
そうではない様々なケースに、社会はどう捉えればいいのか…とも考えていて…
まずはカウンセリングを自主的にしたい人の為のリソースがあるべきとは思うけど、「社会的な同意」としてのコンセンサスや整備が
つまり被害者がいない場合のペドフィリアを糾弾せず冷静に「異常性」だけを判断し分別できるシステムとか。
社会はどう対峙していけばいいのかを考えてる 社会じゃなくて警察の間違いじゃないの? そもそも「性欲」って規制出来るものかね? 相手が子供じゃなかったらOKという発想自体、...
元増田です。 でも、その刑法や法律をつくるのは市民であって、社会やコミュニティがつくる道徳が根幹なわけだし… だからこそ社会的な文脈を再構成させた方がいいって思ってるんで...
でも、その刑法や法律をつくるのは市民であって、社会やコミュニティがつくる道徳が根幹なわけだし… は?、法律を作る権限は、少なくとも日本の場合、市民にはありませんよ(苦...