はてなキーワード: 高橋亀吉とは
・ともに佳作
・他の受賞者なし
・その年でこの賞は廃止
三浦瑠麗は、東大農学部にいた時は旧姓の濱村瑠璃と名乗っていた。
1980年生まれの湘南高校出身で、東大在学中にベインキャピタル(ミット・ロムニー元共和党大統領候補が所属していたファンド)に現在務める、福岡出身の三浦清史(親族がどうもアメリカ人生物学者である)と結婚している。
湘南高校エリートといえば、石原慎太郎、岡本行夫、浜田宏一を戦後は輩出した進学校であり、戦前は海軍兵学校の予備校的な存在だった。
湘南高校出身者のネットワークとして、「湘友会」があり各地方や海外、クラブ別、企業別の支部も存在するという。
三浦女史の兄弟は金融庁勤務を経て今はシカゴに留学中の妹がおり、弟は東大で国際関係論を学んでいるようだ。
要するに、現在の日本の「東大パワーエリート」とはこういうものだ、という見本のようなファミリーである。
私が三浦女史がアメリカと日本のそのカウンターパートの受け皿としてかなり計画的に、かつ組織的に育てられた人材であることを直感したのは、
彼女と夫が東洋経済が主催した「高橋亀吉賞」という経済学論文賞を同じ年に夫婦で同時受賞していることだ。
しかもともに「佳作」。
他に受賞者がいないというのも驚きである。
この論文の審査体制に疑問が生じるが、やはりというべきか、2014年を持ってこの論文賞は廃止されている。
このように経済、安保、農政と様々な人脈があって、東大国際政治学者・三浦瑠麗は準備されていた、ということだ。
そしてイスラム国事件を論じる「ニューリベラルの論客」としてデビュー。
https://blogs.yahoo.co.jp/kinakoworks/13112404.html
三浦 瑠麗氏 法学博士、東京大学大学院法学政治学研究科 ポスト・ドクトラル・フェロー
「長期的視野に立った成長戦略 ― ワーキングマザー倍増計画」
http://www.toyokeizai.net/corp/award/takahashi/2010/
安倍マリオ「森喜朗会長が総理に提案」 五輪組織委の武藤敏郎氏が語る
http://www.huffingtonpost.jp/2016/08/22/abe-mario-and-mori_n_11657360.html
平成29年11月29日規制改革推進会議 大田弘子氏と安倍総理
https://www.kantei.go.jp/jp/content/29kiseikaikaku01.jpg
金融緩和に積極的なリフレ派として知られる早稲田大学の若田部昌澄教授
https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2017-12-13/P0VQ9Q6TTDS001
1976年、日本経済新聞社刊。
社会が大きな変化に直面しているとき、渦中の人々がその重大性に気づかないというのはよくある。高度成長期の日本もそうだった。「どうして日本が戦後に奇跡的な成長を遂げたのか」という国内的な疑問も主として欧米の人たちが最初に投げかけたテーマだった。本書の刊行は1976年、終身雇用とか、組織への忠誠心とか、メインバンク制、官民一体とかそんな日本的経営論が新鮮な響きをもって受け入れられていた時代に、このころまだ珍しい日本人エコノミストの手による”日本経済の奇跡”に対する論考である。
「もはや戦後ではない」(昭和31年経済白書)という有名な一言がある。これはもともと「もはや戦後復興需要は一巡したのでこれからの高成長持続はいっそう難しくなる」という文脈で使われた表現だった。このように昭和30年代初頭、今まさに経済的な飛躍を実現せんとするタイミングにおいてすら、日本国内では慎重論・悲観論が渦巻いていた。しかし、蓋をあければ昭和30年代を通じて政府の期初経済成長率見通しを毎年上回る実績を上げた。
根本的なドライバーは「重化学工業の革命的発展だった」と高橋は言う。戦前から国策として奨励していたがなかなかうまくいかなかった重化学工業がこの時初めて開花した。鉄鋼増産の結果、国産価格は戦前においては欧米よりも2割高かったが、昭和30年代には欧米よりも少なかず低廉となった。鉄鋼価格の下落を通じて、鉄鋼を素材とする機械、自動車、造船などの産業発展も促した。それが昭和39年の貿易収支黒字転換という一大事を達成させる原動力となった(100p)。また、重化学工業化はこれまで輸入に頼っていた製造機械の国産化を通じて、産業の裾野を熱くすることにつながり、これまで2重構造と称されてきた日本経済の所得不平等の解消(したがって、内需のさらなる拡大)に寄与し、スパイラル的な発展を促した。
高橋は本書のなかで、重化学工業に対する日本の経営者達の基地外じみた設備投資意欲に驚嘆し、しばしば呆れる外国人研究者の声を紹介している。多くの欧米人研究者が当時の日本企業を、足元の収益よりも銀行から莫大な金を借り入れて生産拡大を重視しているリスキーな奴等、と評している。今では信じられないが高度成長期の日本ではあまりにもアニマルスピリットが旺盛すぎて、「当時、日本の経営者にとっては投資を抑制するものが資金不足以外にありえなかった」(p183)」だったのだ!GDPにおける設備投資比率は2割をしめ(現在は15%弱)、日本経済の最大の成長ファクターになっていた(150p)。
現在は、資金調達環境は多様化している分、当時より新興企業が金を調達しやすい環境にはなっているだろう。しかし、高度成長期の日本には今と違って、①ガンガン金を借りれる若き経営者がわんさと存在していた。そして、②我先に、と投資に走れる機会が国内に存在していた。①は、大企業が解体されることで保守的な旧支配層から進取性のつよい年齢層への大規模な人材の交代が起こったことが大きかった。②は戦時の破壊によって最新鋭の設備がスンナリ導入できる環境にあったことと、中東から安い原油の輸入が重化学工業をプロミシングな産業にさせていた。
本書の重要なインプリケーションは、高度成長の主役は政府にはなく、ひとえに民間企業の熱烈さにあったということだ。政府は高度成長を予見してすらなく、官僚の主導権も(戦後こそ強かったが)重化学工業がそのものが飛躍する30年代後半には衰えを見せていた。
欧米人は、当時の日本企業の果敢さをこう賞賛したという。「日本の造船の特徴はきわめて大胆であること。低コストであること、そして競争相手たちより、はるかにスピーディであることだ」(p136)。まるで、今の日本が韓国企業を称するようではないか!
http://twitter.com/#!/zaway/status/21446713415831552