はてなキーワード: 80年代とは
http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20080830/1220032774
最初に「80年代は気持ち悪がられていたのに、現代はビジネス必須だなんて」と書いているが、82年に企業起源とする資料が指摘されると、こんどは「70年代から統一教会がやっていたはず」と憶測に後退。最初の意気込みはどうした。
自分の嫌いな連中をけなすために書いてみたけど、ツッコミくらってひざが笑っているってとこか。みんな、組織的なことの批判になると狂喜乱舞だなぁ。
そもそもネットの中で、「善・悪」を分けるのが野暮ってもんだな。
もっと殺伐としたもんなんだよってことで。
村上朝日堂(80年代末のエッセイ)で、そういう二分法(イケてる・イケてない)がはやってるってので、
パロってからかってるエッセイがあったけど、山崎元もその時代の人か。
っつうか、JMMだって、結局はMLだから、コメント付けられないのだから、1)の原則からしたら野暮だよな。
たんなる村上龍的経済観の押し付けでしかなかったし。単にネットを利用した経済評論としてうまくのっかっただけ。
で、山崎のおっさんの理屈によると、それによって「議論がクールになった」っつうんだから、
1)と9)が矛盾するじゃん。そういう論理的整合性の無いものを二分法で分けるってのは、頭が鈍感で幸せなんだね。
それにさあ、なんで九鬼周造で、「いき」の分析的側面じゃなくて、そういう「しおりの一遍」っていうか
学者として頭使ってないレトリックを引くんだろ。ブックオフでそういう線引いてある奴見たら、馬鹿と思う。
信じたいことだけしか頭の中に入れてないんじゃないの。
http://anond.hatelabo.jp/20080823131346
http://anond.hatelabo.jp/20080824102454
同和教育の冊子、「にんげん」。しっかり覚えています。
一通りの同和差別話をしたあと、担任の教師がこう言ったのだ。
「こういう差別をしたらな、同和関係の団体につるしあげられるんやぞ!
めちゃめちゃ怒られるんやぞ! そやから差別はしたらいかんのじゃ! わかったか!」
教室中の皆がうなずいていた。
でも、私はどうしても納得できなかった。
出身を理由に、就職とか結婚とかで差別するのはいけない。人権侵害だ。それは十二分にわかる。
でも、差別しちゃいけないのは、「団体から怒られるから」ではないのでは?
「怒られるからしない」のでは、根本的にある問題は解決しないのでは?
道徳の授業後の感想文にそう書いたら、放課後の掃除時間中に職員室に呼び出されて怒鳴られた。
「お前は何にもわかっとらんのじゃな! こんなもん全部書き直しじゃ! 書き直してこい!」
悔しくて涙がにじんだが「私は絶対間違ってない。書き直さない」と言い返して、学校の裏へ行って泣いた。
その後、数日、また書き直せと言われるんじゃないかと少しびくびくしていたが、
意外にも担任は何も言ってこなかった。職員室にいた他の先生が何か口添えしてくれたのかもしれないけれど、
今となってはもうわからない。
五輪男子の完敗,女子の奮戦などで盛り上がるサッカー,ここらでちょっとオレオレフットボールコラム。サッカーが下手で最近のJリーグもほとんど知らない私が,どんな風に,どうしてサッカーが好きかを自分で再確認するために書くメモ。あるいは,素人戦術好きのメモです。
基本的に選手についても監督についても批判とかを書いたりするのは嫌いなので(やっぱ,がんばってる当事者達に文句を言うのって嫌ですから),今後の日本代表を監督人事や戦術を中心に思うところを書いておきます。
岡田さんの後の監督についても,いろいろとすでに話が出ているけど,やっぱり代表監督には目の前の結果と,将来への育成,この両方を期待してしまうし,でも日本に根本的に欠けているも「マスコミの良識」や,日本に存在する「広告代理店による商業サッカー」を思うと,人選はとても難しいと思います。サッカーの伝統や文化がない(マスコミと広告代理店のせいで育たない)日本は,戦略(主にサッカー協会が考えること)と戦術(主に監督が考えること)の両方で頑張らないと,W杯のような真剣勝負の舞台で世界から相手にしてもらえることは無理っぽいことがドイツW杯,北京五輪で改めて判明しました。サッカー協会はとてもがんばっていると思うけど,致命的に問題なのが日本のマスコミ(とその背後の広告代理店)で,ほぼ全く現代サッカー,特にその本場である欧州サッカーの動向なんかほとんど知らない,興味ない人たちが,代表戦の前後や,人事のゴタゴタだけを「視聴率が取れれば良い」,「ビジネスになればよい」というだけで騒いで終わるだけなので,日本でサッカーに対するまともな文化が育たない(と,偉そうに書いてみました)。W杯とか代表戦で盛り上がっていない普段は日本のサッカー情報は本当にマニアックで詳しい人も多いのだけど,ことW杯絡み,日本絡みとなるととたんに地道な報道や記事は吹っ飛んでしまうのですよね,恐ろしいことに。
現代サッカーは長期戦略(才能ある若手の発掘,育成,優秀な指導者の育成,獲得,有力選手の強化支援)をベースに,極めてシステマティックに構築された戦術と,選手の個人能力を融合であり,その実戦は主に欧州6大リーグで顕著に見ることができます。70年代に名将リヌス・ミケルスに率いられ,空飛ぶオランダ人,ヨハン・クライフによってオランダ代表及びアヤックスで完成されたトータルフットボール,それを内包して80年から90年代にかけて研究され完成したラインディフェンスによる高度にマニュアル化された戦術,これがしばらく世界のサッカーの基本戦術でした。すなわち,現代サッカー戦術において,重要な出来事は2回,ミケルスが率いクライフが体現し世界を驚愕させたオランダのトータルフットボール,そしてプロ経験のない靴のセールスマンだったサッキ監督が80年代後半から90年代初頭に完成させた革命的4バックラインディフェンスです。
この現代サッカーシステムはしばらく打ち破られないと考えられていましたが,2000年以降,皮肉にもこれらの現代サッカーの完成期に現役時代をおくった選手が監督としてピッチに戻ってきて,大きな変化が起きつつあります。W杯ドイツの監督であるクリンスマン,バルセロナを21世紀最初の黄金期へと導いたライカールト,PSVで結果を出したクーマン,批判もあるけれどやはり優れた戦術家であるモウリーニョ(この人はちょっと特殊な例,いろいろ言われてるけど僕は好きです),そしておそらく現在最も優れた天才若手監督であるデシャンなど,僕の世代ならば,小学生や中学生の時に選手としての全盛期のプレーを見ていた彼らは,リッピ,サッキ,クライフ,ベッケンヴァウワー達の下で自分たちがプレーしたラインディフェンスによるマニュアル化されたシステムの強さと限界を知り尽くしているので,その先のシステムが彼らから生まれてくるのも必然の帰結と言えるかもしれません。代表的なのはフランス,リーグ・アンの中堅だったモナコを一気に強豪まで育て上げたデシャンでしょう。彼の指揮するモナコの特徴は「世界初のシステム化されたラインディフェンス破り」と言われています。詳細は多くのサイトが取り上げているので割愛しますが,欧州トップレベルクラブでの戦術は,数秒単位,1m単位で極めて細かくマニュアル化されたシステムの攻防であり,フラットなラインによるDFでは,相手攻撃陣のボール所持位置,向きに応じて一瞬でラインのON/OFFを切り替える必要があり,この判断は基本的にチーム事のマニュアルで細かく決められています。しかしデシャンはこのマニュアルの唯一の弱点と言うべき,ON/OFFの判断ができかねる一瞬(通常これはバイタルエリア,あるいは最終DFラインとボランチの間が約5mから10mの距離の位置で,攻撃側の司令塔,トップ下,あるいはポスト役がボールを持った瞬間)を意図的に数多く作りだし,そしてそれをシステムとして突破する戦術(というか,この状況が形成された無条件で味方アタッカーの位置を考慮せずDFの裏へスルーパスを放り込むという暗黙の了解)を導入しました。極めて強固で洗練されたラインディフェンスによる華麗な守備を誇るスペインの強豪デラポルト・ラ・コルーニャを完膚無きまでに撃破した試合では,解説の人が「これを戦術でやっているならデシャンは天才です」と言っていたそうですが,メンバーの代わった試合でも同じようなことを続けているモナコの姿を見て,デシャンが天才だったことが証明されました。書くと簡単ですが,実戦するのは簡単ではないはずだし,実際欧州でこの戦術が実行された場面を見ると,攻撃陣の絶妙なパスと動き,そして恐ろしいまでの破壊力に驚きます。
このような戦術の話題は,欧州では瞬く間に話が広まり,各チームによって研究,実戦され,より洗練されていきます。日本でも普段からサッカーのニュースではこのような議論が喧々諤々続けられ,小学生から老人までが戦術について熱く語り合わなかればならないのです,たぶん。でも果たして日本のW杯や五輪サッカー関連のマスコミで,「デシャンのラインディフェンス破り」についてきっちり情報を入手して理解しているような記者はどれくらいいるのでしょうか。あまりにも戦術が軽視されているように思います。芸能人に得点予想を聞いたり,一つ覚えのように「3-5-2は守備的,4-4-2は攻撃的」と繰り返すよりも重要なことがたくさんあるように思えてなりません。実際デシャンは攻撃に人数を割くのが攻撃的なのではないと考えているそうで,4-5-1あるいは3-6-1でも攻撃的なシステムを研究し,実践しています。
オシムに決まった監督ですが,候補にジャケ・エメの名前が挙がっていました。同じフランス人ならばデシャンの方が,日本の4年後,そしてその先を考えるとふさわしい気がします。でも,デシャンほどの才能を,サッカーに理解のないマスコミがくだらないことばかり書き立てるアジアのサッカー後進国に迎えるのは世界のサッカーに対する犯罪のような思いもあります。長々書きましたが,とにかく言いたいのは,次期監督は日本に合った戦術をしっかり考えて,実戦できる人にしてくださいということです。
そして,今回の五輪で明らかになった,男子サッカーの衰退と女子の奮闘。特に,澤。この不世出の才能を日本サッカーが今後生かせるかが,日本サッカーが世界について行くことができるかの重要なキーになるかもしれません。澤に率いられた日本女子代表のプレー,皆さん見ましたよね。男子との違い(決定力や個々の位置取りから,システムの機能・実践まで)がここまでわかると,さすがにみんないろいろ考えると思います。
そもそも、元記事は「バブル的なものを追い求める」という話ではなく
「青年期に恋愛をエンジョイしてこなかったから、結婚して安定してから恋愛の刺激を求めてしまう」という話。
その中に出てきた単語の1つ「恋愛経験値」を「バブル的なもの」と捉えているんだろうけど、文章全体にバブルテイストが流れているとは思えないし、文章を素直に読んでいない印象がある。
「恋愛経験値」という言葉に代表される恋愛至上主義がバブル的というより
ともに80年代のあだ花なのだが、バブルが崩壊しても恋愛至上主義は生き残り、
より先鋭化した形(性の低年齢化など)で非モテたちの心をえぐった。
http://anond.hatelabo.jp/20080721222220
まあ、いきなりここかよとも思うけれど、「∀以前」を濃縮しきっていて、「∀以後」を決定づけたという点では
外せないんだよなあ。長さも4クールだし。
ただ、ここでオタトーク全開にしてしまうと、彼女との関係が崩れるかも。
この世界名作劇場的総まとめな作品について、どれだけさらりと、嫌味にならず濃すぎず、それでいて必要最小限の情報を彼女に
伝えられるかということは、オタ側の「真のコミュニケーション能力」の試験としてはいいタスクだろうと思う。
アレって典型的な「オタクが考える一般人に受け入れられそうなアニメ(そうオタクが思い込んでいるだけ。実際は全然受け入れられない)」そのもの
という意見には半分賛成・半分反対なのだけれど、それを彼女にぶつけて確かめてみるには
一番よさそうな素材なんじゃないのかな。
「ガンオタとしてはこの二つは“腐女子向け”としていいと思うんだけど、率直に言ってどう?」って。
ある種のSFアニメオタが持ってる軌道エレベーター時代への憧憬と、スタジオオルフェ監修のオタ的な考証へのこだわりを
彼女に紹介するという意味ではいいなと思うのと、それに加えていかにも水島精二な
「俺ガン(俺ガンとは - はてなダイアリーではなく、「俺がガンダムだ」の台詞)なださカッコよさ」を体現する刹那
の二人をはじめとして、オタ好きのするキャラを世界にちりばめているのが、紹介してみたい理由。
たぶんこれを見た彼女は「○○○だよね」と言ってくれるかもしれないが、そこが狙いといえば狙い。
この系譜の主義主張が(先進国では)その後続いていないこと、これが中東では大人気になったこと、
全米ならドキュメンタリーになって、それが劇場で公開されてもおかしくはなさそうなのに、
00年代でこういうのがつくられないこと、なんかを非オタ彼女と話してみたいかな、という妄想的願望。
「やっぱりアニメは子供のためのものだよね」という話になったときに、そこで選ぶのは「機動武闘伝Gガンダム」
でもいいのだけれど、そこでこっちを選んだのは、この作品にかける3DCGへの思いが好きだから。
断腸の思いで削りに削ってそれでも「ガンダムシリーズ」の最長の全52話、っていう尺が、どうしても俺の心をつかんでしまうのは、
その「3DCG」ということへの諦めきれなさがいかにもオタ的だなあと思えてしまうから。
「ザコザコアワー」の長さを俺自身は冗長とは思わないし、もう削れないだろうとは思うけれど、一方でこれが
富野や福田だったらきっちり全50話にしてしまうだろうとも思う。
なのに、各所に頭下げて迷惑かけて全52話を作ってしまう、というあたり、どうしても
「自分の物語を形作ってきたものが捨てられないオタク」としては、たとえSDガンダムがそういう作風でなかったとしても、
親近感を禁じ得ない。作品自体の高評価と合わせて、そんなことを彼女に話してみたい。
今の若年層でZ見たことのある人はそんなにいないと思うのだけれど、だから紹介してみたい。
逆シャアよりも前の段階で、富野の哲学とかアニメ技法とかはこの作品で頂点に達していたとも言えて、
こういうクオリティの作品がテレビアニメでこの時代にかかっていたんだよ、というのは、
別に俺自身がなんらそこに貢献してなくとも、なんとなくアニメ好きとしては不思議に誇らしいし、
いわゆるブレンパワード以前の富野を知らない彼女には見せてあげたいなと思う。
富野の「目」あるいは「絵づくり」をオタとして教えたい、というお節介焼きから見せる、ということではなくて。
「終わらないガンダムシリーズに区切りをつける」的な感覚がオタには共通してあるのかなということを感じていて、
だからこそアニメ版『∀ガンダム』最終話は「ディアナ様、また明日」以外ではあり得なかったとも思う。
「人気シリーズ化したガンダムと共に生きる」というオタの感覚が今日さらに強まっているとするなら、その「オタクの気分」の
終着点は逆襲のシャアにあったんじゃないか、という、そんな理屈はかけらも口にせずに、
単純に楽しんでもらえるかどうかを見てみたい。
これは地雷だよなあ。地雷が火を噴くか否か、そこのスリルを味わってみたいなあ。
こういうヤンデレ風味の恋愛をこういうかたち(カテジナさん)でアニメ化して、それが非オタに受け入れられるか
気持ち悪さを誘発するか、というのを見てみたい。
9本まではあっさり決まったんだけど10本目は空白でもいいかな、などと思いつつ、便宜的にファーストを選んだ。
∀から始まってファーストで終わるのもそれなりに収まりはいいだろうし、80年代以降のアニメ時代の先駆けと
なった作品でもあるし、紹介する価値はあるのだろうけど、もっと他にいい作品がありそうな気もする。
というわけで、俺のこういう意図にそって、もっといい10本目はこんなのどうよ、というのがあったら
教えてください。
http://anond.hatelabo.jp/20080711144312
そのキーボードを見て「エンターキーが右側ないからだめだ」トか言い出すやつが必ずいる
ばっかじゃねーの?
あんな遠くて場所とってるキーのどこがいいんだ。アレを親指で押せるように入力速度がもっと速くなるぞ。
しかもダサいしさ。一体どう言う神経してるのかわからんが、コレをかっこいいと感じる馬鹿もいるらしい。センスおかしいよ。お前80年代のPCが一番かっこよかったとかいってるジジイだろ?
http://www.kinesis-ergo.com/images/kb_classic-wht720x430.jpg
私が通った公立小学校は郊外の都営団地に隣接していて、同級生の半数以上は団地の子だった。都内郊外といってもいわゆるニュータウンとは違い、古くからの住民が多く住む町だ。団地の意味は例えば練馬や町田とはだいぶ違っていた。つまり、少し言いづらいことだけど、その近辺は地区有数のワイルドサイドと見なされていた。
日光に修学旅行に行ったとき、入口に大鳥居がある駐車場にバスが入ろうとしたことがあった。前方で先生方が何か話し合いをはじめ、バスは入口の手前で止まった。10人ちょっとがそこで下りた。振り返って見てみると、後ろのバスでも同じことが起きていた。宗教上の理由で鳥居をくぐれない子がいるので、と先生が簡潔に説明した。その口調から毎年同じようなことが起きてるんだろうなと思った。先に下りた子と私達は駐車場の外で合流し、そのまま滞りなく観光地だかお昼だかに向かった。家に帰ってから「うちは鳥居をくぐってもだいじょうぶなの?」と母親に確認して、「今までさんざんくぐってるじゃない」と笑い飛ばされた。
4年生の時、隣のクラス担任の先生の口癖は「勉強が好きじゃない子が無理する必要はない」だった。授業時間なのに校庭で騒いでる子がたくさんいるなと思って見てみると、隣のクラスの子達が半分外で遊んでいて半分教室で勉強していたということもあった。よく問題にならなかったものだと思う(なっていたのかもしれない)。50代にもうすぐ手が届くという年頃の男性で、決して声を荒らげない先生だった。当然のことながらPTAからの評判は悪く、生徒には人気があった。
6年生の時の担任の先生はやはり中年の男性で、保護者から有志を募って読書会を開いていた。うろ覚えだが、灰谷健次郎や村上春樹、アレックス・ヘイリー、それに上野千鶴子などがリストアップされていたはずだ。
君が代や国旗の問題がマスコミでちらほら取り上げられるようになってから数年経つ時期だった。式典では起立しない先生の方が多かった。高学年に上がると毎年8月は原爆のことばかり勉強した。ばりばりの日教組の先生が集まっていたと聞いたのは卒業してしばらくしてからだったが、たぶん小学生の頃に聞いても意味が分からなかっただろうと思う。
私はその後私立の女子校を経て地味な国立大学に進み、事務職に就いた。取り立てて特筆すべきこともない平凡な進路だ。
自分が通った小学校がどちらかというと変わったところだとはっきり気づいたのは大人になってからだ。それとももしかして私が勝手にそう勘違いしているだけで、その頃はよくあることだったのかもしれない。とりあえず私としてはけっこう楽しかったです。
こいつらが散々60-80年代騒いで、日本の国防、外交方針をグチャグチャにしてくれた為に (正確に言うと、左翼に遠慮して後先考えずに自民が色々妥協したために) 結果として日本はアメリカの属国固定されたのにねぇ。
まあ、電波という人は言わせておけばいいけどさ
結局、日本が独自自国防衛戦略を組めなくなった原因や、インテリジェンス機能を整備できなくなった原因は
左翼政党の皆様の攻撃と自民党の皆様の無知とそれを支えた国民にあるわけよ。
NOと言える言えないの議論の前にNOと言えない形に押し込められる片棒を担いだ皆さんは、その責任をちーとも
感じていらっしゃらないし。
ほんとに国を今後運営していくつもりがあるんですかと聞きたい。
今ではアニメの中に女性の科学者やらエンジニアやらのgeekなキャラ(と言って正しいのかな?)が
出てきても違和感は全然なくて、泉こなたみたいな女性nerd(これは誤用だよな)が主役を張るような時代だけど、
『電脳コイル』を見直していて、そういえばイサコ、フミエ、メガばあ、オバちゃんと4人も
女性のgeekが出ているなと今更感心したところでふと沸いた疑問。
「じゃあ、フィクションで女性のgeekが現れ始めたのはいつ頃で、それが当たり前になったのはどの辺?」
起源については全然知識がないんだけど、自分の記憶を掘り起こすと、アメリカの映画やドラマでは
『ナイトライダー』(1982-1986)におけるK.I.T.T.担当メカニックボニー・バーストウとエイプリル・カーティス、
『エアーウルフ』(1984-1987)の第4シーズンに登場したジョー・サンティーニあたりの印象が強い。
アメリカではこのころにはある程度そういう像が確立していたんだろうと思う。
じゃあ日本ではどうなのかというと、これが情けないことに『新世紀エヴァンゲリオン』の赤木リツコ以前を思い出せないんだ。
アニメとか特撮とか結構見ていたはずなんだけど、どうも出てこない。
類型としちゃ『ドラゴンボール』のブルマなんてぴったりではあるんだけど、彼女はgeek属性が前面に出てるキャラじゃないし、
その属性がメインであるキャラクターの系譜ってどんな具合なのかを、皆さんにお伺いしたいのです。
http://anond.hatelabo.jp/20080408170256
【60年代風】
救いを 求めてる 私がいた 夜中そっと あなたの寝顔 見ていた 出会ってからは 必ず幸せになる あなたの 声を 聞きたい タクシーを拾い 行き先 告げて目を閉じ 少しづつ 揺れている la la la la la …
【70年代風】
世界中 誰にも 知られずに 救いを 求めてる 私がいた 手のひらで 揺れている 私の 存在は この国で 誰も知らない タクシーを拾い 行き先 告げて目を閉じ 進みたい 進みたい la la la la la …
【80年代風】
出会ってからは 必ず幸せになる Carry on Carry on! LOVE BRACE 抱きしめて 力を 強く強く つかまえていて Carry on Carry on! LOVE BRACE 2度ともう これほどに 愛せなくて Carry on Carry on! LOVE BRACE 思いを 少しでも LOVE BRACE la la la la la …
【90年代風】
初めて 私が 心に誓って みたこと そのぐらい ときどき孤独を感じる時は 伝えたい 運んで LOVE BRACE 私の思いを… Carry on Carry on! LOVE BRACE Carry on Carry on! LOVE BRACE Carry on Carry on! LOVE BRACE Carry on Carry on! LOVE BRACE Carry on Carry on! LOVE BRACE Carry on Carry on! LOVE BRACE Carry on Carry on!
80年代だって日本人の長時間労働が国際問題になるくらいで過労死は今より多かったし、
土地バブルのせいで家が買えないという人がたくさんいた。
家が楽に買えたというのは特定の世代の問題っていうより階層の問題と思う。
前の世代は楽だったとか言うやつは親が金持ちでフリーターやってる人なんじゃないかと思う。
自分は親が貧乏で狭いアパート暮らしで小遣いもろくにもらってなくて塾とか旅行とか外食とは無縁の生活だったから前の世代が楽だなんてぜんぜん実感ないし、逆に新卒の初任給で親の年収超えたぐらいだ。
とりあえずGDPのデータなら内閣府だ。http://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/menu.html
今と昔では、豊かさとか幸せの感じ方がそもそも違ったと思う。最低限の文化的生活というときの基準が低かった。
夫婦二人で食えなくても親子三人なら食える、とかよくわかんない理屈で「とにかく子供を作れ」という圧力が強かったから、子供を育てるための余裕があるとかないとかそういう発想がそもそもなかった。あるいはワガママな考え方とされた。
子供も労働力だし、学校行くのだって労働力としての価値を上げるためなんだから、学校出ても定職につかずにブラブラしてれば穀潰しとしか言われないし、社会に受け皿なんかはなかった。
今でもそういう圧力はある、といわれるかもしれないけど、今なら反論がたくさん出てくるだろう。昔はそんな反論なんか、少なくとも表立っては出てこなかった。社会が貧しいほど、いろんな制約条件はふえてくるし厳しくもなる。社会が豊かになれば許容範囲も広がってくる。
あと、貧しいときは経済的な拡張が幸福感につながりやすいし、経済成長が続いていれば「今日より良い明日」を信じやすい。将来の成長分を担保にできるから、現在も豊かになる。経済が停滞すると、将来の成長分が見込めないだけ現在も目減りして、親の世代でできたことが子供の世代ではできないということにもなる。80年代から90年代前半くらいのアメリカがそうだった。
この考え方もどうかと思うよ。
だって日本人自身っていったって国債を購入した人=国民全員じゃーない。
儲かる人は国債を買った人や法人だけど、損する人はそれを負担する国民全員だ。
それは一律に日本人と談じていい性質ものじゃないとおもうがな。
それを言うなら納税者だって一律に日本人と断じていいものでもない。
税金は日本人が平等に負担してるものじゃなくて大企業や金持ちが多めに負担してるわけで。
インフレとかで借金の実質負担を減らせば、税負担の収入はないが資産を多くもつ人が損する。それを防ぐためには増税しないといけない。
要するに財政再建先送りするほうが収入少なく資産の多い老人(とその子孫)が損しやすく資産のない人が得するわけ。子供たちのために増税で財政再建しようとか言うのは大間違い。
それにね、国債を単純な貸し借りで考えるのもどうかなとおもうんだ。
貸してるという考え方がよくないよ。
金利をつけて返すことを前提に政府が国債を「売ってる」わけじゃない。
みんな政府を信用して国債を買うわけだけど、この信用は「買っていただいた国債は利子をつけて弁済しますよ」ちゅう契約のもとに成り立っているわけじゃない。
だから「誰に」貸した借りたという話しはさほど重用じゃなくって売った以上、国債は償還する必要があるわけ。
国債償還というのが具体的にどういう状態にすることかを考えないと。
たとえば、国債を一億円もってる人に償還する場合普通は預金に一億円振り込むことになるが、その場合銀行が国債を代わりに持つことになるだけで国債残高を減らす必要性はまったくない。じゃあ現金で返した場合はどうなるかというとこれは日本銀行が一億円分の国債を持つことになる。預金というのは民間銀行にとっては借金であり、現金というのは中央銀行にとっての借金。そして銀行は負債だけを持つことはなくて必ず資産もおなじだけ持ってバランスさせる。
結局国債償還しても貸し手が変わるだけであって残高を減らす必要性はない。
本当はさ、お金を前借りしてまで先行投資することにより、将来にもっと稼げるようになろう!というのが投資じゃない。
これは悪くない。いいこと。いい事なんだけど……。
投資先をしくじると負担以外の何者でもないとおもうんだ。
この10年日本が投資してきたものは、道路とか箱ものとか補助金とかなわけですよ。
これがそのまま価値を生み出してくれればよかった。問題なかった!
でも、道路をつくったおかげで経済効果がでてそれだけ国民の生活を豊かになっにしたかといったら、そうじゃないんだよね。
逆にいらんものをつくったせいで将来にわたって、そのたいして経済的価値がないものをメンテナンスしつづけなくてはいけないという、ランニングコストの増大を招いたちゃった。あちゃーーっていう感じ。
これは使い道の問題であって財源の調達方法の問題じゃないでしょ。
財政赤字を問題視する人は歳入の問題と歳出を混同しすぎだと思う。
所得税や消費税財源にして不要なインフラ整備してもランニングコストは発生するでしょ。
利払いももう税金じゃ賄いきれないからがんがん国債出しているけど、そういうのも含めて国債発行してまで集めたお金の使われ方そのものが将来日本を担う子供達のためになってるとは思えないんだよね。
この10年でさ、10年後に日本が先進国であるために国際社会に立ち向かえる産業をちゃんと育成できてる?
そこにどれだけ国策としてお金落としたのよ。
いまお金落としているところって10、20年後社会にでてくる子供達の食い扶持になる産業?
ほんと負担だけ押し付けてない?大丈夫??
デフレでも財政再建して失業や倒産増やしてたら育つ産業も育たなくなって将来の子供は困るだろうね。
国債を償還することを前提にしたらインフレにせざるをえないよね。
そうすると資産の目減りは避けられない。
ローンを組んでいればインフレはラッキーだけど、既に日本はあるていど成熟した国。
年率10%成長なんていうのは無いから80年代のような賃金上昇は無理。
結果国民はものすごく困窮することになる。
インフレのほうが失業率は下がりやすいし、企業の投資もやりやすいので生活水準や生産性はあがりやすい。
80年代のよう座成長が無理だとしてもデフレを続ければさらにひどいことになる。
実際2000年前後のデフレ真っ盛りの時期と今じゃ明らかに今のほうが失業率や求人倍率マシになってるし。
賃金上がりにくいのはたぶん失業率下がりきってないから。数%のインフレにしたら失業率は2%台になって賃金が本格的に上がってくだろうと思うんだけど。
今やって少しでも減らしておかないと将来偉いことになる。((すでにこのタイミングを逸した気もしなくもないけど。))
だから国債は返さなくてもいいなんてバカなことはいって欲しくないな。
国債発行額を増やしつづけても日本がいけるってなら、そういうシナリオ書いてくれよ。
無理に国債残高減らそうとするほうがえらいことになる。これは橋本や小泉で経験済みのこと。
上に書いたように社会全体では常に円の現金預金を持ってるだれかが日本国債の貸し手になるからデフォルトは杞憂。
貨幣を使った売り買いというのは社会全体とのモノや労働力の貸し借り。
国債を返すというのは貸し手を別の人に変えるだけのこと。
国債を返してほしいならさっさと金をつかってほしいものでも買えということ。
現金や預金で持てば間接的に貸すことになって銀行とかに利息ピンはねされるだけ。
国債を減らし続けたらやってけないが、予算の無駄遣い減らしながらどんどん国債依存度上げて減税すればやってけるんじゃないかなと。
横レス。
この考え方もどうかと思うよ。
だって日本人自身っていったって国債を購入した人=国民全員じゃーない。
儲かる人は国債を買った人や法人だけど、損する人はそれを負担する国民全員だ。
それは一律に日本人と談じていい性質ものじゃないとおもうがな。
それにね、国債を単純な貸し借りで考えるのもどうかなとおもうんだ。
貸してるという考え方がよくないよ。
金利をつけて返すことを前提に政府が国債を「売ってる」わけじゃない。
みんな政府を信用して国債を買うわけだけど、この信用は「買っていただいた国債は利子をつけて弁済しますよ」ちゅう契約のもとに成り立っているわけじゃない。
だから「誰に」貸した借りたという話しはさほど重用じゃなくって売った以上、国債は償還する必要があるわけ。
日本人が日本人に借りてるんだから大丈夫だとかそんな論点ではないわけよ。
だから必ず返す必要がある。
右から借りて左に返すんでもいいから返さなくちゃね。
だけどね、今の日本はその返済のための金利も集めた税金では賄えない状態にまで悪化してしちゃってるの。
利払いのために国債を発行しなきゃいけないわけ。
利払いのために国債発行なんてばからしいよね?
でも現実は税収が50兆ぐらいの国なのに国債費が20兆円あるわけよ。
国債の利払いが20兆円。
利息分を支払うだけで20兆円。
わかる?この状況。
本当はさ、お金を前借りしてまで先行投資することにより、将来にもっと稼げるようになろう!というのが投資じゃない。
これは悪くない。いいこと。いい事なんだけど……。
投資先をしくじると負担以外の何者でもないとおもうんだ。
この10年日本が投資してきたものは、道路とか箱ものとか補助金とかなわけですよ。
これがそのまま価値を生み出してくれればよかった。問題なかった!
でも、道路をつくったおかげで経済効果がでてそれだけ国民の生活を豊かになっにしたかといったら、そうじゃないんだよね。
逆にいらんものをつくったせいで将来にわたって、そのたいして経済的価値がないものをメンテナンスしつづけなくてはいけないという、ランニングコストの増大を招いたちゃった。あちゃーーっていう感じ。
信号機設置しまくって維持費だけあがって、既得権益者を肥やしただけみたいな。
国民の生産性の向上に寄与しない浪費は将来の負担以外のなにものでもないとおもうわけよ。
そりゃあれば便利かもしれないけど、公益性と効果対費用はちゃんと考慮しなきゃ。
結果論かもしれないけどね。
毎年利払いだけで20兆になるほどお金つかっておいて、この日本の状況はないだろうと。
もっといいことできたんじゃないかって思うわけよ。
利払いももう税金じゃ賄いきれないからがんがん国債出しているけど、そういうのも含めて国債発行してまで集めたお金の使われ方そのものが将来日本を担う子供達のためになってるとは思えないんだよね。
この10年でさ、10年後に日本が先進国であるために国際社会に立ち向かえる産業をちゃんと育成できてる?
そこにどれだけ国策としてお金落としたのよ。
いまお金落としているところって10、20年後社会にでてくる子供達の食い扶持になる産業?
ほんと負担だけ押し付けてない?大丈夫??
はあぁ・・・。ため息でちゃうよ。
国債を償還することを前提にしたらインフレにせざるをえないよね。
そうすると資産の目減りは避けられない。
ローンを組んでいればインフレはラッキーだけど、既に日本はあるていど成熟した国。
年率10%成長なんていうのは無いから80年代のような賃金上昇は無理。
結果国民はものすごく困窮することになる。
だからできるだけ国債発行額はさげて少なくしていかないと。
今やって少しでも減らしておかないと将来偉いことになる。((すでにこのタイミングを逸した気もしなくもないけど。))
だから国債は返さなくてもいいなんてバカなことはいって欲しくないな。
国債発行額を増やしつづけても日本がいけるってなら、そういうシナリオ書いてくれよ。
残念ながら自分の想像力では中国並みの成長をとげながらインフレを受け入れるか、デフォルトするかぐらいしか思いつかないわ。
10年で給与所得が倍になるような前提で話せるほど楽天家じゃないもんよ。
参考までに。
これ今年可決された予算案な。日本人で大人ならこの国がどうなってるのかはみておいたほうがいいきがする。
十通目にようやく理由が書いてある。
世の中いろんな人がいるよね。
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投資家富裕層による日本の北朝鮮的独裁社会化の現実を心配してメールを送らせて頂きます。
投資優遇税政により、現在の日本経済は、バランスを崩しています。投資減税により庶民の生活とは関係ない、金融、投資経済にお金が溜め込まれて投機的投資に利用され散財されると同時に、庶民経済(庶民が日常で生産、消費で使用する実物経済、実体経済)が年々縮小し続け、弱者や地方がワーキングプアに至るとともに不景気となり、国全体の消費が伸び悩んでいる現状は政府の政策ミスであると考えます。
最低賃金規定を設けたり、投資家や企業が投資で儲けたお金を庶民経済に還元して不景気感の強いワーキングプアや地方の労働者層の景気を刺激してあげる必要があると考えます。
彼らワーキングプアに、テレビ番組の『いきなり黄金伝説』の様な『月1万円生活』の我慢を強要するのではなく、せめて
中古車、買えない、軽自動車→カローラ、プリウス等の普通小型車
が買える様に、彼らの給与を上げる事によって労働者層の購買力を高めると同時に、日本の外貨稼ぎの中心である国内製造業の景気上昇を図るべきです。
(私は投資、金融産業を国家の基幹産業とは思えません。むしろ労働者の経済を細らせ労働意欲をそぐ、寄生虫的悪魔のシステムと考えます。しかし国内の1、2次産業を海外に移転させて国内産業空洞化を招く様な事をしておいて、外貨稼ぎの為に国家の基幹産業として投資、金融産業を国家の経済の中心に据えるのなら、他の第1、2次産業の企業の経常利益に課税する様に、配当課税や株譲渡税等に対して、しっかりと課税して国民に富を還元させる責任を担わせるべきと考えます。)
わたくしは、声を発しなければ世の中は、良くならないと考えています。
メールを送りつけられた人にとって迷惑でしょうが、弱者の野垂れ死にの競争社会である『グローバル化競争社会』を気にやんで、日々ネット言論による啓蒙活動を図々しくも犯罪的にしています。
政治家、政府、自治体、労働組合、弱者援助団体は、いまいちグローバル化に対する根本的問題[失業問題や、貧困問題や、投資、金融経済優遇政策によって労働者層の経済や生活に掛かる負荷の増大化現象(労働者の家畜化、奴隷化現象)]に理解が無い様で、弱者救済や、弱者や国民に対するグローバル化の問題点に対する啓蒙活動に、二の足を踏んでいる、論点がずれた真剣みのない国会中継などを見ながらイライラしているのです。
(国民の弱者を、おためごかし的に騙し、投資家富裕層による日本の貧困労働者層を奴隷として搾取する様な北朝鮮的独裁社会を作ろうとして、国会を空転させている様にさえ見えます。)
従って、不特定多数の庶民の方々にも、グローバル化や構造改革による弱者野垂れ死にの日本の問題点と未来を理解して貰えたらと、テロ的に啓蒙活動をしようと考え、迷惑メールぐらいのつもりで図々しくも(迷惑でしたら消去してかたずけてください。)送り続けています。
内容を読んで理解して賛同して下さるなら、知り合いのワーキングプアやネットカフェ難民等々の貧困層の人達にメール転送して下さると助かります。(この文章は迷惑メール、チェーンメールであり、どの程度の犯罪に抵触するかが問題ですが…。)
私はワーキングプア等の貧困層の方々が政治や経済に疎い事で、自らの人権や国の未来を選ぶ権利すら剥奪されて野垂れ死にしていると考え、テロ的啓蒙活動を正義と考えて日々不特定多数の庶民の方々にメール送信活動をしています。
弱者にとって、ホロコーストに近いジャーナリズムの欠落したグローバル化、グローバリゼーションの流れの中で、弱者に注意喚起の必要性を感じ、闇や負の部分について啓蒙活動の広報の必要性があると考えます。
このまま何も考えなく、経済、社会のグローバル化を押し進めるのは、世界をごちゃ混ぜのお好み焼き状態にし、庶民の人権(『人間の安全保障』)を脅かすとともに、個性ある独立国家の経済、社会、文化の死を早めます。(ナショナリズムが必要です。また、アイデンティティを高める為の市民運動も必要ですが、非正規雇用の派遣労働者層のワーキングプアは生き延びる事に精一杯で、文化や思想、また、理想や人生を選ぶ権利すら持てません。)
『グローバル化』だからこそ、国家よる弱者の個性ある庶民文化や生活の保護の為の経済、社会、文化に対する『反グローバル化』の考えも必要と提唱します。(富裕層や投資に対する重課税による国家の共産性の維持も必要と考えます。)
このまま弱者の自己責任として、過激な『グローバル化競争社会』を肯定して、共食いや階層社会を容認しないでください。負け組の弱者がホロコースト状態になる阿鼻叫喚の地獄の大失業時代の未来に対する現実から目をそらさらぬ様お願い申しあげます。
※現代を読み解くキーワードを以下に記します。ネット検索などして調べて下さい。
[『現代用語の基礎知識』なども総合的に勉強するのに役立ちます。過去の新聞資料、ドキュメンタリー番組等も役立ちます。ネット世界は、株で食べている人や企業広告で食べているネット企業の流れの人達だらけの『改革推進派』で牛耳られていると考えます。(若い人がネット管理者ですから…。)古い資料程、データに嘘がなく役に立ちます。現在のネオリベラリストによる国家のメディア・コントロールの状態に注意して下さい。]
※『ダーウィンの悪夢』『華氏911』『シッコ』『誰も知らない』
※『小泉構造改革』『外為法改正 1998年』『金融システム改革法』『金融改革』
※『年次改革要望書』
※『配当減税』『贅沢税』『関税』
※『21世紀ビジョン』
※『グローバル化』『グローバル化競争』『グローバル化競争社会』
※『反グローバル化』『反グローバリゼーション』
※『修正資本主義』
※『ホームレス 支援』『ネットカフェ難民 支援』『生活保護』『民生委員』
世界はグローバル化によって経済、産業の国家vs企業vs資産家vs投資家vs労働者層によるやらせの第3次世界大戦状態です。
負けたら奴隷的労働者階級(ワーキングプア、失業者、ホームレス、貧困理由の犯罪者、野垂れ死に者、自殺者)にされてしまいます。
弱者の自己責任として放ったらっかしにしたまま過激な競争を続けている、アメリカ的な投資、金融の競争と支配による『グローバル化』『グローバル化競争』『グローバル化競争社会』の問題を国民全員が認識するとともに、政府はその是非と対策を国民全員に問うべきです。
日本の投資、金融に対するモラルの崩壊や個人主義は、おそらく80年代後半の土地バブルの頃から始まったものと思われます。
が、それと同じ様に1998年の『金融システム改革』『外為法改正』『金融ビッグバン』の時期にも国民のモラル崩壊が起こっていると疑います。
この年に大部分のお金に貪欲な日本人の一般庶民までもが『金融の規制緩和』により、バブル期に地上げや株や為替やアメリカ的金融工学等を用いた経営をやって儲けていた銀行や証券会社や大企業や投資資産家のやり口や考え方を見習い、投資や金融に対するものの見かたを、新自由主義的な『投機』の部分だけの価値観に変えてしまったのではないでしょうか…?
サブプライム問題で、急激なアメリカの不況と物価高と円高が進んでいますが、2008年の日本は1998年に輪をかけた経済、社会の混乱に巻き込まれ、更なる自殺者の増加現象が起こりそうで心配です。
新自由主義によるグローバル化を当然として行なっている改革の是非を問うべきと考えます。
政府、官僚にモラルが無い事が行政非難の的になっていますが、それを盛り上げているマスコミもまた、新自由主義者の官僚&投資資産家&経営者と結びついて国民の労働者層を騙し、国民を奴隷化して搾取する社会を作ろうとしている単なる拝金主義者の新自由主義者と疑います。
(それは、彼らが1998年以来の失業、貧困問題に起因する、自殺、野垂れ死に、殺人事件、ワーキングプア問題に対してジャーナリズムがない点で明らかです。又、配当減税等の資産家優遇の減税処置により作った享楽的なセレブを持ち上げつつも、行き詰まった失業者やワーキングプアやホームレスに、貧困の責任とモラルを強要しているだけで、構造改革とグローバル化に伴う失業、格差、貧困問題というジャーナリズムが無い点もです。資産家に対する減税処置の非難を一切しない点でジャーナリズムがありません。弱者を救う財源の税金をどう取るか?どの程度まで救うかの問題です。富裕層優遇政策のせいで北朝鮮並の気違い国家になるかの瀬戸際です。)
投資、金融によるグローバリズム推奨派と、新自由主義の意向にそったメディア・コントロールを、未必の故意のまま黙認し、ジャーナリズムを出し惜しみしている政府、テレビ局、経済新聞、ネット業界に責任があります。
サブプライム問題による、これからの不況に対する認識や知識は、国民全員が受け取る権利がある筈です。また、それに対する救済を求める権利も国民全員にある筈です。
政府が1998年より経済、社会をメディア・コントロールにより勝手に操り、(現在の若者の『ニート』『ネットカフェ難民』『ワーキングプア』はテレビ、インターネット等により作為的に1999年??2004年当時の就職難を無視されて作られた被害者世代です。1999年??2004年迄高校新卒者の求人数が求職者数を下回っています。また1998年??2006年迄就職内定率も50%を切っています。)国民の政治や経済に対する認識や考えを新自由主義方向に操りつつ、旧来の修正資本主義の考え方の羊的な人々を、おためごかし的に、なだめすかしながら認識に混乱や欠落を作って、将来的に行き詰まらせそうな迷走国政をしている様では、盲目の彼らの野垂れ死に者が増えるだけです。
新自由主義vs修正資本主義の対立の構図に絞った、21世紀の国家、国政の主義の議論や政党の主義の主張、国会議員のイデオロギーをあらわにした国会を見たいです。
ちゃんと『グローバル化競争社会』の問題点や、『修正資本主義』vs『新自由主義』のイデオロギーの違いを国民全員に認識させるべきです。
気違い通り魔殺人をした犯罪者などは『金融、構造改革』『グローバル化競争社会』『新自由主義者』『未必の故意のメディア・コントロール』の被害者と考えます。
彼らが行き詰まり、気が狂って殺人に至る前に、せめて『グローバル化競争』『新自由主義 vs 修正資本主義』『憲法25条』『セーフティネット』『民生委員』『生活保護』『援助団体』の存在を知っていたら気違いや犯罪者にならなくても済んだかも知れません。
彼らの減刑を求めるとともに、弱者の自己責任として個人で世界企業と戦う事を強要する様なメディア・コントロールを行なっている、税金を払いたがらない新自由主義者の構造改革推奨団体を、1998年よりの未必の故意で国民の弱者10万人を自殺に至らしめていた罪で訴えてやりたいです。
村上春樹は、私の知る限り80年代半ばからずっと国内のテレビを観ない、
新聞を読まないという生活を続けているのだけど、周囲や読者から、こと
あるごとに「なんでテレビを見ないんですか」と聞かれているのだそうな。
「新聞読みません」と恥ずかしげもなく言う若い人は結構多いけど、新聞
代わりの情報源を持っていない場合、ただのバカというケースが多い。
新聞(4大紙+日経)の弱点は知っているのだが、だからといって代わりの
インプット手段を持っていないとホント世間知らずになる。
だから自分は消極的な動機だが新聞を読んでいる。
話題の狭い若い人にも「せめて新聞ぐらいは」と薦めている。
これに倣っていうと、5年後ぐらいに、代わりの情報源を持っていないのに
「テレビ見ません」と恥ずかしげもなく言う若い人が増えてきたら、「せめて
テレビくらいは」と薦めることになるのだろうか?
児童ポルノについて、日本のサブカルチャーにおいて少女というアイコンはあまりに大きな存在なので、どうも客観的に考察することができない。そこで仮に「少女」が「うんこ」だったら、ということを考えてみる。児童ポルノ問題が排泄物ポルノ問題だったら。
*
この国ではスカトロ嗜好がなぜか文化の基底に浸透している。コンビニに並んでいる週刊誌のグラビアのモデルはたいていパンツの汚れがソフトに強調されている。80年代頃はもろにうんこをしている写真が載ってる雑誌なども並んでいたがさすがに刺激が強すぎると言うことで規制された。アダルトショップではその手の雑誌が未だに大人気である。広告等では排泄物に関わる隠喩が消費者の目を引くポイントとして巧みに使われている。芸能界では溲瓶を持ったりうんこの着ぐるみを着て歌う歌手たちが昔からアイドルとして人気だ。しかしこの国のスカトロ嗜好が爆発したのはなんといってもマンガ、アニメ、ゲームの領域である。排泄のエロス、神秘性、陽気さを最大限に表現するこの国のサブカルチャーは近年国外からも注目を集めつつある。国際的な評価もとみに高い某アニメ監督の作品はエコロジーな主題とダイナミックな排便描写の魅力で知られる。オタクが集まることで知られる某電気街は、アニメ調にディフォルメされたつややかな大便の図像であふれている。しかしこの風潮が高まるにつれて反発もじわじわと強まってきた。学級崩壊の進む全国の小学校で教室で脱糞するイタズラが生徒の間に流行するに及んで事態は決定的となった。まずは実写系のビデオ、および風俗関係の取り締まりが強化される。しかしもっとも規制すべきはマンガやアニメである、と規制派は主張する。マンガやアニメにおけるスカトロ嗜好が子供に悪影響を与えないことがあろうか。しかもそれらは近年、海外に発信されるコンテンツとなりつつあるのだ。それがうんこまみれであって国の体面と言うものが保てるだろうか。「マンガやアニメに描かれるうんこは臭くないし、誰にも迷惑をかけてはいない」という規制反対派の声を押し切って、メディアにおける排泄物表現の規制は断行された。この国のマンガ・アニメ・ゲーム等に排泄物が登場することは一切なくなった。その後の、中心軸を失ったこの国のサブカルチャー全般の衰退は誰もが知る通りである。規制前を知る人々は当時を懐かしんでこう言う。あの頃こそ黄金期だったのだ。ってやかましいわ。