はてなキーワード: 沈黙とは
あまりにも出会いに飢えていたので2chから出会い喫茶を知って行ってみることにした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E4%BC%9A%E3%81%84%E5%96%AB%E8%8C%B6
受付に現れたのは30代後半ぐらいのチョイポチャのミニスカおばさん。
知り合いに風俗関係の仕事をやっている奴が、関係者は男とは限らないっていってたのはなるほどこういうことかと思った。
身分証明書がいるということだったので、名刺を出すのは嫌だったのでどうしようと思ってたが免許証でOKとのこと。
ザルな身分証明だ。
周りの人をみたのだが、今までのコンパとはちがい、いわゆるゴルフ場にいそうなおっさんばっかり。
これはカツル!と正直思った。
でもこちとらピュアな紳士なのでまずは話して意気投合したら食事ぐらいのことを考えていた。
女性からアプローチしてくる方式の出会い喫茶らしく、簡単な自己紹介のメモを書いて部屋で待機。
待機はまじで困った。TVとDVDがあって、DVDは適当に見てもらってOKですとかいわれるんだけど、アダルトビデオとか見てどうしろと。
10分ぐらい特に何もなく、近隣の部屋から聞こえてくる話声に緊張していた。
15分後、1人目の女性が入ってくる。
「今日4万」とかいきなり言われてもおかしくない感じ。
いきなり「何言ってんのばかぁん」みたいなボディタッチしてきた。
話のペースもまぁまぁ。
いきなり交渉とかいう流れか?と思ったが、30分後「じゃあいくね。」とブツっと終了。
コンコンと入ってきた次の女(こ)、ギャル、カワイイ、乳あり、ミニスカ、話上手。
ボディタッチはなしだが、こっちが初めてだと伝えるといろいろシステムを教えてくれた。
50分ぐらいずっと話しこんだ後、「きっといい女(こ)見つかると思うよ」と言って退室。
また10分ぐらいの時間が流れる。
この時点で帰ってもよかったのだが、流れ的にまたかわいい子来るかも?と期待してしまった。
話がはずまない。早く帰ってほしかったが、沈黙をはさみつつ30分経過。
2時間コースを選択していたので、延長決定。
普通に話して、いい加減疲れてきたので、食事にさそってみるが今日は用があるからダメとのこと。
よくよく聞いたら、たまに出会い喫茶に来るが一度もどっか出かけたことないとのこと、何しに来たんだこいつ?
ここで終了。
2人目の女の子曰く、「まじめに出会いを求めている人や、遊び友達を求めている人が大半で、ウリはほとんどいない」
さて、俺はまた行くべきだろうか。ちなみに今まで、ミニスカを着るような女とデートしたことない。
ちなみに料金は2万強ぐらいだった。
友達ほしいな。
僕には好きな人が居て、その人はとても弱い人だった。
彼女はとにかく頻繁に泣いた。
「変わりたい」といっては泣き、「自分が不甲斐ない」と言ってはまた泣いた。
僕は彼女の涙に対してどうすることもできなかったし、なにかしようともしなかった。
ただ、彼女は泣いていても真剣に話をすることの出来る人だった。
だから僕も真摯に彼女に向き合って、その話に耳を傾けるようにしていた。
彼女のことを弱いと思っていたのは僕だけで、僕以外誰も彼女の涙を見たことがなかったと知ったのは随分後になってからのことだ。
少なくとも僕の知る彼女は常に自分の弱さに苦しみもがいていて、
ときどき思い出したようにうちに来ては、涙を流すのだった。
ひとしきり泣いた後、彼女は決まって凛とした顔つきになって、「よし。」というのだった。まるで新しい自分にスイッチを入れるみたいに。その瞬間の彼女の顔は今も僕の脳裏に焼き付いている。地獄の業火に焼かれようとも、あの美しさを忘れることはないだろう。
彼女が泣きやんだあとは、2人でくだらない話をしたりテレビを見たりゲームをしたりした。そうして終電の1本前の電車で必ず彼女は帰って行くのだった。
彼女が僕の前で最後に泣いたのはいつのことだったか僕は覚えていない。
彼女は急に泣きそうに微笑んで、君は強いよね、と小さくつぶやいた。
その声はまるですべてを拒絶しているかのように響いて、僕はそれ以上なにも聞くことが出来なかった。
僕と彼女が2人で居る時にお互いなにも喋らないということはよくあって、僕はその沈黙も決して嫌いではなかった。けれど、そのときの沈黙はいつもとは少し空気が違っているように感じられて、ひどく息苦しかったのを覚えている。
やがていつもの時間になって、彼女はそろそろ帰るね、といった。いつものように。
それからも彼女はときどき遊びにやって来た。やってくる頻度は随分減ったし、もう泣くことはないけれど。
最後に彼女に会ったとき、その左手には指輪があった。僕には与えることの出来なかった薬指の眩い輝き。それはきっと、そういうことなのだろう。
いつか彼女も母になって、それでも涙を流すのだろうか。だれよりも弱かったけれど、だれよりも強かった彼女のことを、僕は大好きだった。
学生時代からの付き合いなんだけど、何を話していいか解らなくなってきた。
愚痴は基本的に言うべきじゃないよなーって思ってる。
自分の職場の人に関する話は、全く関係ない相手にとっちゃ噂の伝聞にすぎないし、せっかく
会えたのに、あかの他人の話を話してもなあ…。(だけど、自分の愚痴を伝えてもなあ、って思う)
学生の頃はお互いにオタク入ってるのでニコ動やらアニメやら漫画やらで盛り上がれたが
朝九時から終電まで働いてる相手がそんなものをチェックしてる時間があるわけもない。
逆に、基本的に18時に上がることのできる自分の方が申し訳なくなってくる。互いに実家暮らしが拍車をかける。
かといって相手の話、愚痴でも会社のことでも何でもいい、を聞こうと思っても、あんまり言いたがらない
というか、言わない。聞き方が下手なんだろう。
休日出勤も当たり前の相手だから、休みを奪うのも忍びなくて、何か季節のイベントごとがないと誘うのも躊躇する。
ただ会いたいな、って思う時があるんだけど、何も話せることがないと思うとやめとこう、ってなる。
何を話したら、相手がちょっとでも楽しくなれるだろう。
私、最近こういうこと始めたよ、って話ならそれなりに楽しそうに
向こうも聞いてくれるけど、それって私が一方的に話してるだけだよね。社会人のすれ違いによる破局って、こういうところから来たりするのかな。
レストランで向かい合って座るのが寂しい。沈黙がその場に満ちるのがありありと解って。
入った店にカップルシートがあると安心する。
「家に帰って何してんの」「えーとー…本読んだりとか…」「彼氏としこしこしてんの?」
二十代男子
「麻雀のパイって覚えられないんだよね」「なんすかそれ」「おまえのパイパイはわかりやすいよな」
二十代男性
三十代男性
「やっぱ女の子って甘いもの好きなの?」「私は好きですねぇ」「俺のミルクプリンも食ってくれるかね」
二十代男性
「あそこは魚がうまいんだよね」「魚より女の子釣っちゃったりしてるんじゃないですかぁ?てあぁここにいたか」「まぁ釣っちゃいたいけどね」
五十代男性&二十代男性
「物静かそうだけどうるさいところとか苦手なの?」「ですねぇ、あんまり」「じゃぁ静かな所に行こうよ、ちょっとそのへんとかほら」
三十代男性
気付かない時はながしてるし気付いてもはいはいってながしてる。もう言ったってしょうがないしなって気がしてさ。別にノリもしないし一瞬沈黙するからやばいってことにくらいは気づかせられるはず。相手にしないことですね。と言いつつなんか面白かったら笑っちゃうのがいけないんだろうなぁと思ったりする。
http://anond.hatelabo.jp/20090908162518
沢山のブコメを頂いていろいろ考えさせられました。みんなありがとう。
仕事が早めに終わったので件の彼女を呼び出して最後の食事をしようと思いました。
メールで呼び出したら笑顔の絵文字付きで快諾の返事があっさり返ってきたりして。
待ち合わせまではどんな顔して会えば良いのか判らなくて胃が痛くなって帰ろうかと思ったりしました。
結局合流して、これで最後にするつもりなので予約なんてしてないし行列の出来る料理屋に1時間ほど並んでみた。
なんとかは3日で慣れる等と良く云いますが行列中の他の女性客よりは可愛いのかな?(慣れだよね?)
とか思いつつあの件には一切触れずに他愛のない会話をしたり沈黙があったりして1時間ほど待ってから店内に入りました。
念願の食事にありついて美味しいと云って笑顔を見せる彼女を見ながら、今までのデートでは年上だし男だしということで
基本的に支払いは全て私持ちでやってきましたが今日で最後の彼女との食事でいきなり割り勘とかはどうなのかなぁ?
等と思いながら食事をしました。(結局言い出せずいつも通り私が払いました)
食事だけしてその場で別れてさようなら。
今までは礼儀として別れた後にメール。彼女が家に着いた頃を見計らってメールということをしていましたが
今回はこちらからは何もしないでいたところ、帰宅した頃に彼女の方からメール。
今まではこんな事無かったのにこれってやっぱりキープする気まんまんって事ですかね?
やっぱり無理して最後にとか考えて会わなければ良かったなー、嫌な部分を見てしまった気がするし。
さて、もうこれっきりにして次の出会いに向かいますかねぇ。
http://anond.hatelabo.jp/20090910014230
僕も、中・高校生のころ、キリスト教を信じてしかるべきか?と悩んだときがある
キリストは、踏み絵を踏んだ人の痛みに涙するだろう、ということを言っていた。人の弱さに寄り添う存在だと思う。それが、「心貧しき人は幸いである」ということだと思う。
カトリックの話が続くので恐縮だが(なんとなく、あなたはプロテスタント、のような気がする)、僕の行っている教会の、ヨーロッパ人の神父さんと、日本人たる僕の信じているものが、違うものじゃないかと感じた時もある。だけど、教会にはヨーロッパ人だけでなく、フィリピン人も沢山来たり、ベトナム人も沢山来ている。キリスト教はやっぱりヨーロッパが本場だけど、だけどフィリピン人のキリスト教も、ベトナム人のキリスト教も、もちろん、日本人のキリスト教も、それぞれ、別なんじゃないかな。それはそれで良いんじゃないかなあ、と思います。それは、遠藤周作の「深い河」を読んで感じました。
いろいろなキリスト教の姿がある、と分かると、まあ、カトリックでもいいんじゃないのかなあ、という余裕が生まれました。最近では、プロテスタントとカトリック間の対話(エキュメニズム)をやっている人達もいるので、そのあたりも調べてみるとおもしろいのかもしれません。
僕は幼児洗礼なので、いわば親から信仰を押しつけられた面があります。
だから、神の存在を「肯定」するか「否定」するかの二つしかない。だけど、もし、信者でなければ、特に日本にいれば、「神」を意識することすら無かったんじゃないかと思います。
一部のフェミニズムは「セックスワーカー」とか言って、肯定したりする。
社会学やってる人とかに多い。
特にマルクス主義的フェミニズムと言われる領域にいる人たちは、
「女性が働く権利」という視点から、働く機会均等の社会を作らなければいけないと思って動いてて、そういうことになる。
これは、もちろん一理ある。
格差は是正しなければいけない。社会が実際に運営されている以上、その運営に基づく法の倫理や道徳は思考されなければならない。
そういうのをわかった上で、
私は、新地やキャバで働く人のことを「彼女の権利だから」と肯定する気にはなれない。
想像や思考によって語られた言葉が、漏らしてしまう感覚や感情を
少しは、知っているからだと思う。
男性が暴力の話を嬉しそうにするとき、私はいやな気持ちになる。
暴力を受けとったときの痛さをなんにもわかってないくせに。とか思ってしまう。
(でも、暴力を受け取る強さを私が持っていることも知っている。私たちは、受け取った暴力を快楽に変える心的な構造を、生理的に持っている。)
私は「語り得ないものについて沈黙すべきである」というヴィトゲンシュタインの言葉が好きだ。
「語り得ないもの」とは、決して論理的に整合しないもの、ということを意味しているだけではない。それは、形式的に論理的にだけ物事を語ることが、現実に言い表されるべきであったものから断絶した意味を構成し、言葉を宙づりにしてしまうということがわかっているからこそ、「語り得ないもの」とし、その領域を守るべきだという倫理の一種の形態である。
ここで、また現実的な話に戻ると、
遊郭では、私の想像に及ばない且つ経験したことがないことが毎日起こっている。
それに対して、私はどうして介入をすればいいのか。
それとも、介入などはおこがましいから、私は彼女らとは違った場所に「棲み分け」をして、「私には何もできない」からと沈黙することがいいことなのか。
いまは答えがわからない。
沈黙は、認識しないということとは違う。認識をしながら語らないという決断があり得る。それは、私たちが先験的にどんな能力を持っているかということではなく、今から何を行動するかについてを決める能力を持っているかということに価値を置くことにもなる。
常にいつも人間同士、相手の気持ちや立場を考えて、
臨機応変にやっていこうね、ってことなんじゃないのかと思うんだけどな。
でもって、世の中器用じゃない人も多くて、そういうの疲れる・そういう仕事むり、っていう人も少なからずいる。
そこで、店員はマニュアル通りこなすからお客はマニュアルの範囲内なら気兼ねなく注文できるシステムを作った。
賃金を抑える分、人材を厳選しないことで数は確保する。その分、価格を下げ、良くも悪くもない無難路線で行く。
何時でも何処でも誰でも無難なサービス、無難な価格で、想定外を考えなくてよい安心感、それがチェーンだろう。
つまり、良くなくとも悪いよりマシ。沈黙は金。サイレントマジョリティー。最大多数の最大幸福。これは違うか。
それじゃつまらないと思ったところで、古今東西で言われていること、存在するシステムである事にかわりはない。
ちょっと話したいことがあるから会わない?と誘われた先日。頻繁というほどでもないけど、一ヶ月に一度は飲みに集まってる友だちだったので二つ返事でOKした。喫茶店で落ち合い、このところのことなどひとしきり話したところで、「ところであんた、月末何か予定あるの? 実は私、応援してる政党があってね。」と。
出たな学会員!というのが、その瞬間の正直な感想。まさかこの発言から、別の政党がくるとは思ってない(あっても幸福実現党か、共産党だろう)。案の定「公明党なんだけど。」と。その子は以前私がファッキン創価学会!と発言した時に「創価にもいい子いるんだよ、友だちにいるけど。」と言ってたので、グレーなのかなとは思っていた。政教分離の原則をガン無視してるとことか、しつこすぎる勧誘、F票集め(以上二点はこれまでに遭遇したことないけれども)、芸能関係にはびこるお遊戯会状態に反感を抱いているので、私は学会嫌いを公言してはばからない。
この時点では完全に彼女の話を聴く気が失せてしまった。というか、これからこの子とどう付き合っていこうかと考えていた。繊細で、思いやりのあるいい子だ。共通の趣味でよく盛り上がるし、年下の私になついてくるのがとても可愛い子だ。距離を離すか、フェードアウトか、カットアウトか。沈黙とともに態度を決めかねていた私に、彼女は熱心に、公明党がどんなことをこれまでに実現させてきたのかを語った。「こんなことを考えている公明党を、私は応援したい。だからあんたにも、投票してくれとは言わないけれど、偏見やマスコミの報道だとかに惑わされないで、ただ知ってほしいんだ。」と、続ける。ゴリ押しされると思ってた私は、若干拍子抜けした。「考えてみるわ。」と、曖昧な返事をしてしまったチキンな私に、彼女は嬉しそうだった。
それからしばらく、宗教の話をした。私は宗教と神様は、人が幸福になるために人が生み出したものだと思っている。そして神は押しつけられるものではなく、自分で見出すものだ。ので、「布教される」ことに対して私は否定的でいる。もちろん布教活動ってのは、「こんなにも自分を幸せにしてくれたこれに参加してもらうことで、あなたにも幸せになってもらいたい!」っていう純粋な願いが根本にあってのものだ、というのは理解しているけれども。だって私は私であり、あなたはあなたなのだ。私はもう、音楽っていう神様を見つけてしまっている(個人的に、音楽というのはたくさんの神様を抱いた多神教だと思っている)。あなたが学会という信仰を持っていることは否定しない。ただ、そうなんだね、と思うだけ。県民の友だちが先日の都議選で、「都民の友だちに公明党に入れてくれるようお願いして」「何区の人が何人いれてくれた?」とお願いメールを山のように受けてうんざりしていた。もしあんたがそんなふうにゴリ押ししてくるようだったら、友だちを止めようと思った。けれども、考えて欲しいとだけ言うのでびっくりした。考えるだけの私をそのまま認めてくれたので嬉しかった。これからも友だち付き合いを続けていきたい。
というようなことを話した私に、彼女は、あんたが受け入れてくれてよかった。本当は今日、こうして話をするのはとても怖かった、と、言った。日本では信仰を持つというのは、それだけで差別を受けかねない。あんた(私)が、そういう考えを話してくれる人でよかった。私は私、あなたはあなたっていうあんたの姿勢を、私も否定しない。考えてくれる、ただそれだけでいい。
きっと彼女の周りには、第三者視点で見ても善良な活動をしている学会員しかいないのだろう。ネットでよく語られる、狂信的な人々はいないんだろう。だから、柔らかい姿勢のままでいられる。
私の返答は、正直ではなかったかもしれない。卑怯な部分が多分にあったかもしれない。けれどもなんだか彼女と前より少しわかりあえた気がして、嬉しかったのだ。
しかし彼女は、世間的に思われている学会の姿や、彼女が言う「一部の人たち」(私の言う狂信的な人たち)がどれだけの数いるか知っているんだろうか。何故信仰しているんだろうか。音楽業界で働いていたあなたは、学会ネットワークで決まってしまう仕事がたくさんあることについてどう考えているのか。その辺りを避けて会話してしまったのが心残りなので、いつかまた話し合えたらいいと思う。
死者を恐れるのはなんでなんだろうね。
異界の存在だと思っているからなのかな。それとも、死者という存在が恐れを撒き散らしているからなのかな。
もしかしたら、死をにおわしているからなのかもしれない。恐怖って、拒絶反応の一種かもしれないって思った。
人は何かしらの接点がないと存在を受け付けられないのかもしれないですね。
上の文で私が言いたかったのは、「自分が存在する世界」を受け入れてみてはどうか?ということ。
そうだね。その通りだ。私が世界の一部としてあることを認めることは、ありのままの世界を受け入れることだと思う。
あとね、私はべつに消えてしまいたいわけではないのですよ?ちょっと心配させてしまっただろうか。
ただ、ね。私は受け入れることに重きを置きたいと思っているのです。だからよくよく、中道的な立場に立ちたくなってしまうわけなのね。
当事者でもないのに端から片翼に傾向してしまうのって、いろいろなことを見落とす可能性があるでしょう?
もちろん、どんな立ち位置を取ろうが見落とすことはあるだろうけれど、私は真ん中が一番広く浅く物事を俯瞰できると思うのです。
それが、私のやりたい素直なスタイルだし、たぶん「ありのまま」に一番近いのだと思う。
……いや、でも初見で抱いた感情を一度押し留めて物事を把握しようと“努める”ことは、それ自体最早作為的な行為なのかもしれないな。
力を抜くのって、案外難しいことなのよね。
言葉を発することすら出来ないかも知れないから、
自分が存在している間にやりたいこともあるよね。
うん。だから私は、誰でもいいから、ある人にとっての何かになりたい。
本当は存在しているだけで成し得る願望なんだけれど、たぶんみんなが抱いていることだよね。
そして達成するのも、達成を確認するのも、極端に難しい願い。
考えられる手段は千差万別だ。基本的願望に忠実でありたいのですね、私は。
ちょっと話が戻るんだけど、
最初に元増田が「記録に残りたくない」って言ってたのは
これまでの話で出てきた言葉を使うなら
「自分が記号だけの存在として残るのが嫌」
っていうことなのかな。と思った。
記号だけじゃない自分を見つけて欲しい。
そういう気持ちならわかるような気がする。
あの時の気持ちは忘れてしまったけれど、かもしれないなあって思った。
それに今でも私という世界が、言葉や記号による切り取りを受けずに、そのまま誰かの小さな世界の一部になれたらいいなあって思ってる。
贅沢かな?野心的かな?拒絶する人もいるのかもしれない。
でも、私は私の在りようを認めたいと思うのです。
私にだけは謙虚であったり、尊大であったり、嘘を吐いたりはしたくないからね。
早いもので、八月になっちゃった。いい加減晴れろ。
個人的にだけれど、強すぎる陽光の下、陽炎だけが揺らめく沈黙の中には、なぜか死者の気配が漂っているような気がする。
気のせい?錯覚だろうか?いや、刻み込まれた感覚が叫んでいるような気がする。
id:umetenに限らずだけど、はてな村を舞台に、 すきあらば他人を小馬鹿にして自分を偉そうに見せたがったり、 気に入らない相手に異常に毒づいたり、 議論と称して「俺の方があたまいい」ゲームに引くほど必死だったりしてるようなはてサな方々というのは、所詮はリアルでの彼らの人生が 満たされない(おそらくはそれも彼らの肥大しきった自己愛と自己評価 ゆえの不全感だとは思うけれども)ことへの代償として、鬱積したものを他者や 社会や外部に転嫁したり、自分よりも「あたまのわるい」相手を痛めつけるという 嗜虐的な攻撃欲求を満たすことで回復しようという試みてるんだろうけどさ。
でも結局のところそれで彼らの人生がわずかでもマシになることなんて おそらく無いわけで。彼らが得られるものなんて、所詮彼らの能力とひととなり (特にこっちが重要)に応じたものでしかないんだよ。
id:umetenなんかも沈黙を称揚してるんなら(だっけ?たしか)、ルサンチマンまるだしで 他者や外部に毒づいたり呪ったりするのをやめて、
黙って貧相な人生を生きて、貧相な人生を閉じればいいだけのことだろうにね。
「自分の人生は誰よりも素晴らしくなくてはならない」なんて思ってるからそんな醜態を世間に晒してまで「生きている充実感」を得ようと必死になるんだよ。
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「テロ情報に詳しいStirling Assyntによると、先週、アルカイダは新疆ウィグル地区の中国によるイスラム教徒虐殺に対する報復として、アルジェリアなどの北アフリカ地域で中国人および中国利権に攻撃を加えることを傘下のテロ集団に指示した模様である。
これは同社がアルジェリアに本部を持つ、北アフリカのイスラム過激派の分派であるAQIM(アルカイダのマグレブ支部)からの指示書を見たという人々の情報にもとづいている。「これはビン・ラデンのテロ・ネットワークが攻撃対象を中国に向けた最初のものである」とスペイン紙は伝えた(7月14日)。
Stirlingによると全世界のイスラム聖戦遂行・過激派組織の中には、中国によるウィグル人民への抑圧に対する対中報復への熱望は急速に広まっている。
AQIMは「反中国」という点で、アルカイダの有力支部と見られるが、他の分派も歩調をあわせAQIMに追随すると見られる。
この分析は香港の「South China Morning Post」がすでに報じている。
香港とロンドンに事務所を持つ、Stirling Assynt社によると、近東およびアフリカには何十万人の中国人が働いているが、そのうち3万人はアルジェリアにおり、「アルカイダの報復計画の情報はリアリティのあるものとして重く受け取られねばならない」としている。
中国の圧制から外国へ逃れたウィグル人は、中国政府の発表した死者の数はゴマカシで、実際には間違いなく600~800人に及ぶと言う。
トルコの首相は、「ウィグルでの殺戮はまさしくジェのサイトだ」と批判したが、中国側は「トルコのナンセンスな発言を撤回せよ」と怒りをあらわにしている。
一方、ほとんどのイスラム諸国は、現在のところ、中国との取引関係にダメージを与えたくないということからか、沈黙を保っている。
ウィグル人の多くは中国による支配・抑圧は酷く、ウィグル国家の独立を夢見ているが、中国側は中国こそがウィグル地区の開発・発展をもたらしたのだと反論している。ちなみにウィグルは鉱産物、天然ガス、石油が豊な地域である。
▲米国議会はETIM(東トルキスタン独立運動)をテロリスト指定からはずす動き
中国外務省スポークスマンの秦剛氏は先週、「中国政府はウィグルの(中国からの)分離・独立運動家たちは外国で、一部にはアルカイダのテロ訓練を受けたものだといういくつかの証拠を入手している」と述べたが、詳細の説明は避けた。
Stirling Assyntのレポートは、過激派の間でのネット交信はきわめて活発であり、イスラム諸国内における中国のさまざまの利権構造のナマ情報が入手可能であるとしている。
Stirlingはまた「アルカイダはイエーメンにおける中国の諸プロジェクトを狙う可能性もある」としている。
げんに三週間まえに中国人技術者のボディガードを勤めていた24人のアルジェリア人が暗殺されたことにも触れている。
そして、「あの時は、テロ攻撃の対象は中国人技術者ではなく、彼が働いているプロジェクトそのものだったからである」と述べている。「いまはこの種のテロ攻撃は多分、警備員だけでなく中国人技術者たちにも及んでいくものと思われる」 という。
アルカイダ中枢から北アフリカおよびアラビア半島のアルカイダ傘下のイスラム過激派への指令は、それらの地域の中国絡みのターゲットに向けられると思われる。これら各地での攻撃は手っ取り早く、大掛かりな準備を必要としない。
アルカイダが中国を標的に改めて新たな戦線を形成するということはないが、イスラムの一体感・団結は、同志の相互扶助を必然的なものにするし、お互いに助けている姿を目に見える形で示さざるを得ないという理解が存在しているのである。
このようなイスラム共同意識の形は世界各地から人的・物的支援や資金調達に大いに役立つのである。
中国はウィグルのイスラム独立主義者には断固とある態度で当たるとし、いわゆるETIM (東トルキスタン独立運動)の起こした殺害事件を非難している。
ETIM は9:11事件以後、アメリカでテロ団体に指定されている。
しかしその道の専門家たちは、ETIM そのものが 新疆ウィグルにとっての脅威だとはいう考え方には懐疑的である。
アメリカ議会の何人かの議員がETIM の名前が テロリストのリストから外されるよう、動いている。(粕谷哲夫訳)
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昔の事、学校の休み時間になると、いつものようにクラスメートが私の机を取り囲んで暴言を吐き始めた。
「お前何でいつもここにいるの?」「邪魔なんだよ」「いるだけでムカつくよなー」
私は只、皆と同じように通学し、決められた席に座って皆と同じように授業を受け、そしてそのままの体制でいただけなのだが、そんなことは彼らには関係なかった。私が黙っていると、彼らは相変わらず次々に言い続けた。「バーカ」「のろま」「ボケ」「ブース」…これらは否定しようがなかったので、私はそのまま黙って机に伏せていた。
すると、彼らの中の一人が叫んだ。「こいつ、反応しないぜ! 頭おかしいんじゃねえ?」他の面々も口々に、「聞こえてねえの?」「そうだ! やっぱり頭おかしいんだ、こいつ!」「言葉通じねえんだもんな!」
…そして、「こいつはやっぱりキチガイなんだ!」「そうだ、キチガイだ、キチガイ!」「いや、ダ●ン症かもよ!」「脳●麻痺じゃない?」「つ●ぼじゃないの」「特殊学級いけよ、ここにいんなよ」「とにかく障碍者だよ、障碍者!」「やーい、障碍者!障碍者!」彼らが一斉に合唱を始めるに至って、ついに私は耳を塞ぎながら立ち上がり、大声を上げた。
「やめて! やめてよ! 私は障碍者じゃない! そんなに酷くない! どこも障碍なんて無い!」
彼らはどっと笑い、ますます楽しそうに得意げに次々に言い放った。
「発狂したぞ、こいつ!」「こえー」「やっぱりお前はキチガイだ!」「本当のこと言って、何が悪いんだよ」…「それにさあ」彼らの中の一人が言うには、
「障碍者、って言われて怒るなんて、それって障碍者をバカにしてるってことだろ? 差別じゃん」
「そうだ、そうだ!」他の男子も勢いづいて、「差別だ、差別!」「こいつ、障碍者を差別してるぜ!」「いけないぞ、差別はー!」「みなさーん、聞いてくださーい、増田は障碍者を差別してまーす!」
それまで遠巻きに観ていた女子も口々に、「そうだよー、増田さん、障碍者差別はいけないんだよ」「ひどいよねー、(特殊学級の)○○ちゃんが知ったら傷つくよ」「ほんとに性格悪いんだね、最悪だよ」…私は反論のしようがなかった。
そして、その後も「障碍者」およびそれに類する表現の言葉を、時にはジェスチャーを加えながらも吐かれ続けたのだった。私は沈黙するしかなかった。
本当のことを言ってほしいと懇願したのに、
嘘を突き通した相手の気持ちは、本当のところは、よくわからないけれど。
「言った方がいいのか」「この際全部言ってしまいたい」
「だけど言うわけにはいかない」という相手の葛藤だった。
そこには相手自身の身勝手さも含まれているとは思うが、
あの嘘に落ち着くほか無かったんだろう。
友人に話したら「綺麗に別れる必要は無かったんじゃないか」
「相手は嘘を突き通すしかないけど、それに負けないで
問いつめて逆切れされても、言いたいことを言って
スッキリした方が良かったんじゃないか」と言われた。
確かに。でもどうしても言えなかった。
きっと、言わなくてよかったと思える日が来ると信じて、
今はただじっとしてる。
ずっと前から好きだった。
彼女は社交的で気立ても良く、俺のヲタ話にも乗ってきてくれた。
むしろ、彼女の方が積極的なくらいだった。
車、漫画、鉄道から始まり、それこそ女の子らしい趣味のものまでどんなことでも詳しかった。
才媛という言葉はこんな娘のためにあるのだろう。
そんな彼女の話を聞くのが好きだった。
そして、明るい顔の裏にほんの時折覗くネガティブな面も自分好みだった。
いや、劣等感に苛まれやすい卑屈な俺を安心させてくれた、と言うべきか。
また、これまでの人生で何度かあったように今回も何もできずに終わるのだろう。
そう思っていた。
だが、去年ふとしたきっかけで彼女とメアドを交換することができた。
オッケーだった。
1回目のデートはそこそこ話も弾んで盛り上がった。
俺は車を持っていなかったので、家まで彼女の車で送ってもらった。
別れ際、遠ざかる彼女の車に手を振った。
自分的には成功といって良かった。
もちろん、彼女としてはデートなどとは思わず、単に先輩から飯をおごってもらったくらいにしか思ってなかっただろうが。
彼女と会っても目も合わせられない。
話しかけられても、どうしていいのか分からず生返事。
彼女がこっちへ向かってくると、とりあえず近くの他の娘に話しかけてその場をやりすごす。
好きすぎてどうしたらいいのか分からない。
何を話しても彼女にマイナスの印象を持たれそうで話すのが怖い。
もちろん、避けるのが一番のマイナスなんてことは分かってる。
彼女の気を引けるような気の利いた言葉を紡ぎ出そうと必死だった。
でも、しゃべり下手な自分にはそんなことできるはずもない。
結果的に自分のエゴをそのまま彼女にぶつけてしまったカタチとなった。
結局、部活ではほとんど話せず。
彼女にとっては訳が分からなかっただろう。
もしかしたら、何か粗相をしてしまったのだろうか?
そんな気持ちにも苛まれたかもしれない。
しかし、自分には面と向かって話す勇気を持つことができなかった。
それが何週も続いた。
このままではいけないと思い、次の食事の誘いのメールを打った。
そりゃそうだろう。なんといっても、自分が何かをやらかしたという可能性が消えたのだ。
それと同時に、俺の評価は「挙動不審な人」もしくは「メールでのみ人当たりの良いメール弁慶」になってしまった。
2回目のデートは最悪だった。
俺の挙動不審っぷりをフルスイングで発揮。
話は常にとぎれとぎれ。
「もう先輩とは食事に行く機会はないと思うので」という言葉が胸にささった。
別れ際、家の前で停まった車の中で蚊の鳴くような声で「次もまたご飯に誘っていいかな?」と聞いた。
彼女の返事はただ「はい」のみだった。
遠ざかる彼女の車に手を振った。
手は振り返してくれたが彼女はこちらをみることは無かった。
情けなかった。
ロクに女性をうまく扱えない人間が行動を起こして、結果的にその娘を傷つけてイヤな思いをさせてしまっただけだった。
もう彼女を誘うことは俺にはできなかった。
しかし、半年ほど前のことだった。
その親友は何事もズバリ言う娘で、俺も何を考えてるのか正直測りかねてる娘だ。
その娘が急にこう聞いてきた。
「先輩ってA子(俺の好きな娘)のこと好きですか~?」
俺は部活でA子を好きな素振りなど一度も見せたことなかったし、
おそらくloveじゃなくてlikeのほうだと判断し
「うん、好きだよ」
と気軽に言った。
次の週の部活から、A子の俺に対する態度が少し変わった。
積極的に話しかけてくれるようになった。
訳が分からなかったが俺は嬉しかった。
もう忘れてもらえたのだと、許してもらえたのだと思った。
しかし、時間が経つにつれてA子の親友の言葉が引っかかってきた。
A子は親友に俺のことを相談したのではないか?
→そして、それを親友が聞いて「俺がA子のことが好き」だと総合的に判断
→A子の親友が、俺に「A子が好きか」を聞く
→俺の返事は「A子が好き」
→それを親友から聞いたA子、気を良くする
→A子「それならそうと早く言ってくれれば良かったのに」
以上、俺の妄想
何か新しい出来事があったわけじゃない。
ただ、自己暗示を確実なものとするのに半年かかったというだけだ。
約1年ぶりにメールでご飯に誘う。
オッケー出た。
この半年のうちに車を購入し、デートにはそれで臨んだ。
車の中で話も弾んだ。
万全とはいえないが多少の気遣いもできたつもりだ。
俺を上手く手のひらの上で転がせるくらい。
終始、彼女のペースだった。
俺は情けないが彼女を頼もしく思った。
そして、帰りに送って行った時、別れ際に告白した。
「俺はずっと前からA子ちゃんのことが好きだったんだけど…」
やはり、目を見て話せなかった。
俺は沈黙に耐え切れずに
「うーん、やっぱダメ?」
と合いの手を入れた。
「ごめんなさい、私同じ学校の人とは付き合う気になれなくて」
「以前、付き合っていた人がいたんだけどその人が束縛する人で…。
そんなこともあって『付き合うって何?私を束縛したいの?』
って思うようになったんです。だから、今は男の人と付き合うのは考えられません。
それに今まで何人か告白してくれた人もいたんですけど、今オッケーしちゃうとその人たちにも申し訳なくて…」
「そっか、困らせたみたいでごめんな。でも、そんなこと言ってると一生誰とも付き合えないよ?
いや、俺と付き合ってほしいからいってるんじゃなくて。」
「はい。でも、今は付き合うとか考えられないです。」
こうして振られた。
最後は「告白してくれた人たちは私が断ったら、疎遠になっちゃうんです。
でもそんなの寂しいですよね。もし良かったら、いい先輩後輩関係でいましょう。」
と言われた。
とっさに「振られても俺はA子の味方だよ」と口走った。
A子の顔が少し歪んだような気がした。
俺は冗談っぽく
「じゃあ、付かず離れずってカンジで(笑)」
と言った。
A子は笑ってくれた。
結局、A子にとって俺がどの程度の存在だったのか分からないままに終わった。
自分勝手なのは重々承知しているつもりだ。
自分は相手に何も与えず、しかし、相手に何かを求めてばかりいるクズであることも分かってる。
でもせめて、「好き」か「嫌い」か「どうでもいい」か、それくらいは言ってほしかった。
いや、「好き」はどう考えても無いのだが。
はっきり言わなかったのが彼女なりのやさしさだったのだろうか。
まあ、自分に害を為した挙動不審な先輩を立ててくれる時点で彼女のやさしさに疑問を持つべくも無いが。
一度はフイになった(した)チャンスをまだあると思ってた。
それに関しては自分の思い込みの深さ、思考のキモさに呆れるばかりだ。
ただ、「好きだ」と言えてよかった。
あのままでは一生直接伝えられなかったであろうことを伝えられてよかった。
誰とも付き合えないという言葉が本当ならこれから彼女はどのように生きていくのだろうか?
でも、願わくば俺を気遣っての嘘であってほしいなぁ。
まあ、まだ若いんだし、そんな矜持などアテにならんか。
ああ、今年の花火大会もまた一人か。
長文すまない。
所々、訳のわからない部分もあると思うがそれもすまない。
こんなどこにでもあるようなフラれ話、誰も興味ないだろうけど。
こんなこと増田でしか書けない。
俺、明日からも頑張れそうだ。
結婚した友達と話していると、彼女と独身の私が遠くに隔たってしまったと痛感することがある。
きっと彼女から見た私ももそうなんだろう。10代20代をともに過ごしたけれど、あの頃のような近しい感じは今はもうない。
遊びに行くと、昔とは違ったへんな沈黙時々生まれるから、きっとお互いにそのことはわかってる。
でも、せっかくここまで続いた縁なので、これからも続いたらいいなと思っている。
今は付かず離れず付き合っていく時期なのだろう。
その友人から相談を受けた。
「知人が、最近連絡をくれない」というものだ。
知人も結婚していて、忙しい仕事をしているので、時間があわないから遠慮しているのじゃないか、とありきたりなことを言ったら帰ってきた答えは違っていた。
「私に子供が生まれてから、電話はつながらなくなった。メールはなかなか帰ってこなくなった」言葉がなかった。友達と知人は、私とよりずっとずっと仲が良かったことを知っているから。
私達は、同じ学校で教室で机を並べて勉強をしていたあのときから、本当に遠くに来てしまった。
私は、それまで、友達と私の間に生じたのは、友達の結婚という事柄による立場の変化が大きいと思っていた。
大間違いだ。結婚は、時間の経過によって生じた事象の象徴にすぎないんだ。
結婚している同士ですら、こんなに隔たってしまっている。時間は残酷だ。
出会ってから、15年が経った。15年前にはもう戻れない。
15年後の私達はどうなっているのだろう。
これからも離れていくばかりなのかな。さびしい。
アジャイルメディア・ネットワーク,略してAMNが,ブロガーをモニターとして企業から対価を受け取る「AMNソーシャルレビュー」というサービスを開始した。以下,C-NETのニュース記事から引用。
アジャイルメディア・ネットワーク(AMN)は5月26日,ブロガーに商品やサービスの体験記事を書いてもらう広告商品「AMNソーシャルレビュー」と「AMNモニターパッケージ」を販売開始した。
AMNソーシャルレビューは,同社のパートナーブロガー81名にモニターを依頼するもの。ある程度影響力のあるブロガーに限定してサンプルを提供し,各ブロガーの読者向けにプレゼント企画も実施するという。価格はモニター数ごとに異なり,モニター5人で103万円から。
一方のAMNモニターパッケージは,パートナーブロガーに加え,AMN登録ブロガー約1000名からもモニターを公募する。価格はモニター商品を返却するか,しないかで異なる。返却ありの場合はモニター10人で63万円から,返却なしの場合はモニター10人で56万円からとなっている。
いずれもブロガーに1記事以上の執筆を参加条件として提示するが,広告主に対しては掲載記事数を保証しない。ブロガーはモニター製品に満足しなければ返却して,モニターを降りることもできるため,記事執筆を強制されることはないという。
http://japan.cnet.com/marketing/story/0,3800080523,20393906,00.htm
元のリリースはここ
http://agilemedia.jp/pressrelease/post_121.html
つまりだ,アルファブロガー(笑)による提灯記事をセットにして企業に売りつけようと言うわけだ。100万円単位で。プレゼント企画やらモニター公募やらで本質が見えにくくなっているが,それら付属物はどうでもいい。価格についても云々するつもりはない。問題なのはブロガーをこうした商売の道具に使う,AMNという会社のその姿勢だ。
こいつら(もちろんAMNの連中のことだ)のおかげで,ブログはどんどん胡散臭いものになりつつある。今回のサービスも,ブロガーを組織化して結局やりたいことはブログの地位低下かよ,と心底うんざりさせられる。何がカンバセーショナルマーケティングだ。拝金主義に適当なラベルを貼り付けて,ブログをヤラセの巣窟にすんじゃねえよ。社長を挿げ替えたり,impressの元社員を招聘してるらしいが,事業の質はどんどん低俗化している。
もちろんAMN側もこうした批判があることは予測していると見えて,リリースには詳細は語っていない。C-NETの取材記事にはこうある。「ブロガーはモニター製品に満足しなければ返却して,モニターを降りることもできるため,記事執筆を強制されることはないという」。いちいち時間かけて製品を使って,返却の手間をかけて,それでいて報酬は受け取らないなどという,そんなことが果たして期待できるのか。辞退可能であることを隠れ蓑にしているだけで,本質はなんら変わらないのではないか。
そして驚くべきなのは,このリリースに対するアルファブロガー共の反応の薄さ。特にAMNトップページの右側にズラリと雁首並べるAMNアルファブロガーが,このサービスについて異論を唱えようともせず,ノーコメントを貫いている。いつもはテレビ局のヤラセがどうの,官庁の不正がどうの,利益享受がどうのと難癖つけてエントリに仕立て上げる割に,自分達が当事者になったら途端にこれだ。81名のパートナーブロガーだかなんだか知らんが,揃いも揃って腰抜けどもだな。AMNの犬に成り下がったということか。
今の所反応しているのは,一部のはてなーだけだ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://japan.cnet.com/marketing/story/0,3800080523,20393906,00.htm
この増田がシカトされ,AMNの暴走が今後も続くようなら,いよいよ日本のブログは終わったも同然だろう。1つ言えるのは,このまま沈黙がつづく限り,AMNのトップページに並ぶブログは,企業からの依頼でこうしたエントリの作成に協力している提灯記事ブロガーのリンク集として,衆人の目にさらされ続けるということだ。