一部のフェミニズムは「セックスワーカー」とか言って、肯定したりする。
社会学やってる人とかに多い。
特にマルクス主義的フェミニズムと言われる領域にいる人たちは、
「女性が働く権利」という視点から、働く機会均等の社会を作らなければいけないと思って動いてて、そういうことになる。
これは、もちろん一理ある。
格差は是正しなければいけない。社会が実際に運営されている以上、その運営に基づく法の倫理や道徳は思考されなければならない。
そういうのをわかった上で、
私は、新地やキャバで働く人のことを「彼女の権利だから」と肯定する気にはなれない。
想像や思考によって語られた言葉が、漏らしてしまう感覚や感情を
少しは、知っているからだと思う。
男性が暴力の話を嬉しそうにするとき、私はいやな気持ちになる。
暴力を受けとったときの痛さをなんにもわかってないくせに。とか思ってしまう。
(でも、暴力を受け取る強さを私が持っていることも知っている。私たちは、受け取った暴力を快楽に変える心的な構造を、生理的に持っている。)
私は「語り得ないものについて沈黙すべきである」というヴィトゲンシュタインの言葉が好きだ。
「語り得ないもの」とは、決して論理的に整合しないもの、ということを意味しているだけではない。それは、形式的に論理的にだけ物事を語ることが、現実に言い表されるべきであったものから断絶した意味を構成し、言葉を宙づりにしてしまうということがわかっているからこそ、「語り得ないもの」とし、その領域を守るべきだという倫理の一種の形態である。
ここで、また現実的な話に戻ると、
遊郭では、私の想像に及ばない且つ経験したことがないことが毎日起こっている。
それに対して、私はどうして介入をすればいいのか。
それとも、介入などはおこがましいから、私は彼女らとは違った場所に「棲み分け」をして、「私には何もできない」からと沈黙することがいいことなのか。
いまは答えがわからない。
沈黙は、認識しないということとは違う。認識をしながら語らないという決断があり得る。それは、私たちが先験的にどんな能力を持っているかということではなく、今から何を行動するかについてを決める能力を持っているかということに価値を置くことにもなる。