はてなキーワード: 緊急避難とは
荒川:ポッドキャスト連動コーナー。週刊ミヤダイ。今週のテーマはこちらです。
荒川:年末年始、派遣切りされた労働者の方々が年を越すということで、日比谷公園に派遣村ができました。でも、派遣村じゃあダメだというお考えですね。
宮台:「だけ」じゃあだめだと申しましょう。「だけ」という言葉をつけておきましょう。
宮台:あるいは緊急経済対策であるとかですね、シビルミニマム、あるいはベーシックインカムを保障するための最低限の所得を保障する政府の再分配、こうしたものは全部緊急避難として重要ですけれど、結局、緊急避難でしかないのですね。長期的にまわる社会の経済や仕組みにつながっていなければ、結局それもできなくなっていってしまいます。
まず、根本的に考えなければいけない問題があります。キーワードは「グローバルガバナンス」というのですが、グローバル化に関係することなんです。
どういうキーワードかというと、さっき法人税の話をすこし話をしましたけれど、たとえば1960年代にドイツの税収に占める法人税の割合は40%あったのですが、今はEU筆頭のドイツですら16%に下がっているのですね。
宮台:つまり、BMWとか、シーメンスとか、ジーメンスとドイツ語で言いますが、こういう会社はもうドイツでは会社はお金を納めていないんですよ。資本が流出していて、税金の安いところに工場があったり、移転、いろんな支部があったりということがあるんですね。そうしないともう国際競争では勝ち抜いていけないというふうになっているんです。
荒川: ええ。
宮台:それでドイツでは法人税収入が下がってきた。対処してどんどん法人税を下げてきた結果、法人税収入は上がったんです。そうすると、実は、他の国々も「じゃあうちも」「うちも」というふうに法人税を下げて流出を阻もうとしますね。そうするとどういうことが起こるかというと、短期には法人税を下げることで工場・本社が戻ってきて税収は上がるけど、続かないんですよ。だってみんな下げちゃうから、最終的に。
荒川:ああ、はい。
宮台:結局、どういう方策しかないか。もうお分かりですよね。国際的に連携して企業からはこれだけ税金をとりましょうというふうにやっていくしかないね、という話になっているんです。
荒川:はい。
宮台:ただ、ここで重要な問題は、そうやって国内で税金を納める企業がいなくなって国外に出て行く、タックスヘイブンとまでいかなくても、企業にとっていいところで税金を納めているということは、そういう国国の多くは低開発国でしょ。そうすると、実はこれは所得の移転なんですよ。従来、南北格差として知られていた経済の格差が縮まる方向性なんですよね。だから世銀、世界銀行が出している統計なんかにもありますように、グローバル化がすすむとそうしたことも背景にあって、地代や労賃が安いだけじゃなくて法人税が安い低開発国に資本が流れて、そこの国の国富が増大するということがあるんですね。そして、いわゆる「旧南側」の国々は、グローバル化がなくしては国富は増大しないというこがあるんです。
荒川:ええ、はい。
宮台:そのことを考えると、グローバルガバナンスという観点、さっきのワークシェアという問題と同じ問題をはらむんですよ。簡単に言えば、「誰とシェアするんだい?」という問題。国内だけでシェアしていいのかという問題。そもそもそういう問題をたてるまでもなく、国内の労働分配率が下がっているというのは、南北格差が縮まるという問題“でもあり得る”のですね。
荒川:現に日本も、低い労働賃金ということを求めて中国だベトナムだとずうっと企業が移りましたよね。
宮台:そうです。あるいは逆に外国人労働者が高い賃金を求めて入ってくるということになりますよね。昔、労働力はあまり空間移動はしないものだというふうな前提のもとで資本が動いていたのですが、今はそういうことはなくなっているんですよね。そうすると、ワークシェアの応用の話になりますけれど、いままでのような一国の枠の中で見て、「政府は手当てをしろ」とかですね、「企業は派遣を切るな」「全部正社員にしろ」とかって言っているわけにはいかなくなってしまう。だって企業が逃げてしまったらもともこもなくなってしまいますよね。
荒川:そりゃあそうですよ。グローバル化っていうのはそういうことですもん。日本だけじゃなくていいんだと、安い労働力を求めて日本を離れますものね。
宮台:もちろん右翼としてのわたしは、そういう人を「売国奴」として批判してもいいんですよ、日本から出て行ってしまう人たちをね。でもそれはムダでね。なぜムダかというと、だって倒産したらもともこもないです、企業は。雇用されている人も含めて。なので、競争から勝ち抜く必要から、これは望むと望まざるとに関わらずそうしないではいられないという企業の原則もあるのですね。
荒川:よくわかります。ただ、しかし、国内から逃げてしまうということになると、今度は日本の国内にいる労働者はどうすればいいんですか?
宮台:…そういうことなんです。
荒川:…。
宮台:だから、さっきのワークシェアの応用問題と考えるしかなくて、自分たちの労働分配率が下がった、と。「これはグローバル化のせいだ」「グローバル化がいかん」と話をするのは一方的なんですよ。そうじゃなくて、グローバル化である種の所得の再配分が進んでいるという“面”もあるんですね。だから自分たちが良ければいいという話じゃすまないというのがさきほどテレフォンにもありました。この発想を柔軟に広げていって、その上でグローバルガバナンスということを言わないと、「みんなで国際的に協調しましょう」と言っても「うちはこれだけのパイがあってこれはもう譲れないんだよ!」とかいい始めるともうにっちもさっちもいかなくなっちゃうんですね。
荒川:うーむ。
宮台:だから、ここは我々のある種の“賢明さ”が問われる場面だというふうにも思われます。
荒川:となるとですよ、派遣というところでいけば、派遣村「だけ」じゃあダメだとい今日のコーナーのテーマなんですが、じゃあ派遣禁止ということで正解が生まれてくるのか?
宮台:生まれませんね。細田官房長官もあるいは御手洗さんも仰っていたように、企業は逃げます。間違いなく逃げちゃうんです。なので、そこはそれなりに愛国心を持ってもらいたいなという思いもありますけれど、基本的に国際競争に勝てるようなどういう仕組みを、しかし社会の保全と両立するようにたてるのか、と。たとえば、公共投資の使い方、財政出動の使い方をはじめ、さまざまなセーフティーネットの張り方、あるいは所得を再配分するときの頭数の数え方、いろんなところで知恵を絞って、少ないパイを“合理的に”わけるというふうにしなければいけない。少ないパイというのは国内だけじゃなくて世界中全体の、グローバルな問題なんですね。なので、「グローバルガバナンス」がキーワードなんです。そのときには、我々のような、別に利己的という意味ではないのですが、ある種のアタリマエさ、自分のことを考えるのはアタリマエという発想では、実は解決がつかないんですよ。
荒川:ただ、緊急避難的な対策にはつながらないかと思いますけれど、日本の労働力の問題、あるいはコストの問題で、外に行った企業、だけど製品の品質が落ちてしまったということから、日本に戻ってきている企業がどんどん増えてきているんですよ。
宮台:だから、経済の流れとして言うと、VTRからDVDへとよく言いますけれど、昔はプラントを輸出しなければならないような技術が重要だったんですが、今はコーポーネンツ、つまりアセンブリー産業になっているんですね。いろんなところで作られた部品を単に組み合わせて作ればいいという作業になっている。自動車もそうですよね。インドのタタ自動車が15万円で乗用車を出しました。これもDVDとかパソコント同じように自動車を作ることができるということを世界に示しているわけですよね。もちろんそういう中で、トヨタのように、人こそが資源だということで優秀な人材だけを集めてものすごい付加価値の高い車をつくるというやり方もありますが、そういう車は高いので所得が高い人にしか売れないわけですよね。そうすると市場を当て込むことができませんので、トヨタもどの会社もいずれにせよ、アセンブリー産業的な側面を抱え込んでいく以外に生き残ることができないんです。
荒川:うーむ。
宮台:そうなると、グーローバル化にむしろふさわしい適応形式ということになっていくんですよね。
荒川:ということは、グローバル化ということからもう目をそむけることはできないわけですね。
宮台:できませんね。
荒川:グローバル化ということを認識した上で、じゃあ次の産業とはなんなんだと、これを模索することが。
宮台:だからさっき強啓さん仰ったように、いまだったら技術水準下がるというふうにまだ言えるかもしれないけれど、プラントが世界中に輸出されているので、それぞれの昔の低開発国といわれるところでも、高品質の商品を、生産材ですけれど、作れるようになってきている。
荒川:なってきているんですね。
宮台:そうすると、昔の「先進国」という言い方がもっているアタリマエさは、もう通用しないんです。
荒川:うーむなるほど。次へのジャンプが新しい労働力、それから仕事のクォリティ、それを政府というか、国全体でそこを探さなければならないと。
宮台:そうです。という時にアメリカのオバマさんが大統領になるのはとてもいい兆しです。
荒川:はい。社会学者宮台真司先生でした。どうもありがとうございました。
宮台:ありがとうございました。
くっきりはっきり書いてあるよね?
たとえばここ。
http://d.hatena.ne.jp/good2nd/20090105/1231163477
その上で思うのは、25条は「すべて国民は」と言っているのであり、「本当にまじめに働こうとしている国民は」などとは言っていない、ということです。
それを、「努力の有無」と「努力の結果」の対立にすりかえたがる卑怯者がいるようです。
ま、住むところもないような人には緊急避難的な支援はもちろん必要だけどさ。
知ってるが?
申請するの自体は自由だろう?
そこからがボランティアの役目なんじゃないの?
公的なセーフティネットをまず頼って、それが現状に合わないってなら
現状に合うように変えるべきじゃないの?
で、変えるために緊急避難的にボランティアが生活の面倒をみるのを悪いとは思わんし
少人数では変えにくいってなら、そこでボランティアは良いかもしれないね
だから、何故、申請すらしないのかと聞くべきだし申請されたら、認められるように活動すればいい
派遣村にいる人がいかに精力的にハローワークとかで就職活動をしてるのかを
具体的客観的な数値でメディアに発表し、セーフティネットの必要性を言えばいい
その上で、生活保護を受ける基準って物を変えれば良いじゃないか
例えば、ハローワークに週三回以上行って、紹介された面接が有れば週に一回以上は面接を受ける
さらに面接でokなら必ず就職する(もしくは保護打ち切り)とかね
http://anond.hatelabo.jp/20081021021700
私の同級生も統合失調症です。付き合いはゼロではないですが、距離は置いてます。
他の方もかいてますが、統合失調症である可能性が大だと思います。
薬は緊急避難的には充分有効だと思います。長期連用は疑問符が付きますけど…
医者も大病院がいいとも言い切れません。その人にあうところ、としか言いようがありません。
その人の家族に連絡が付くようなら事情は伝えられないでしょうか。とにかく善は急げです。早いほど治癒もしやすくなります(逆も真なりです)
あとは、一緒に医者に行ってみるか…でも言うは易し行うは難しですが、あなたが「一縷の望み」というような単語を出してくるあたり、受けているのもそうとうお辛いとお見受けします。
あるいは何度か医者に行ってるのならとにかく通院を続けるか、仕事を休むくらいなら思い切って「検査入院」(「ただの入院」というと抵抗感ありだろうから検査を強調)するよう説得してみてはどうでしょう。
http://questionbox.jp.msn.com/qa357827.html
こういうのもあった。医者がいきなり難しければ保健所か都道府県・政令市の精神保健センターに電話してみるのも手だとは思う。
あなたはこれ以上は引き受けすぎないで欲しい。共倒れにはなってほしくないから。
ネットに助けを求められる余力のあるうちにある程度の線を引いて、専門家(医者、保健所、市役所の保健福祉課など)の支援を取りつけてください。
判ってるくせにー。
(格好悪い奴か本当のお馬鹿さんのどちらかだと思われるので、文言の一部を取り上げて理解できないようなふりをするのは控えたほうがいい)
さて、ネタにマジレスしとくと、40代出産のダウン症発生率に関する現代医学の知見をよくよく検討し、かつダウン症児が産まれた場合のその子の生涯を真摯に考え、さらに彼女のケースでは既に4人の子供を授かっていることを考慮に入れると、たとえ教義信条はどうあれ、緊急避難的に家族計画で5人目は授からないようにするのが穏当だと多くの人は思うだろう(よほどの中絶反対原理主義者でない限りそう思うだろう)。
そして、人の生き死にという局面においてすら彼女の行動にある種の穏当さが欠落しているように見えるのだとしたら、いわんや普段の政局において彼女はどのように極端な態度を示すのだろうか、という彼女の行動規範にまつわるある種の不安を、やはり多くの人が示すだろうということだよ。
書き始めたら、やたら長くなったので二分割。
自炊生活をはじめて結構経つが、今まで自分でお弁当を作ったことがなかった。
と、いうのも、朝に「朝食作り??昼の弁当作り」というパラレルな作業が
とてつもなく困難なものに思えたからだ。
もっとも朝食作りといっても大抵はパンかシリアルかの米無しの朝だが、
それ故になおさら「昼のためだけに米を炊く」という作業が苦痛でしかたなかった。
何?「別に弁当に米無くてもいいじゃん」?
馬鹿野朗。米の入ってない弁当なんざパンの国の人が食うもんだ。ランチボックスとよぶもんだ。
しかし、まぁ、ふりかけが余って余って仕方なかったので
AM5:30。早起きして米を炊く。その脇では、バナナ味のポーリッジが電子レンジの中でうなりをあげて踊っている。
片方は数分後に自分の腹におさまるのに、もう片方は1/4日もお預けをくらう。
今まで経験したことのなかったもどかしさだ。
しばらくの間だけとはいえ、自分が料理したものを食えない、というのはたまらない苦痛だなぁ。
そう考えるとコックさんたちの我慢強さはすごい。偉い。うちの犬やその飼い主とは大違いだ。
でも、絶対になりたくはない。
フライパンをふかしつつ、冷凍庫からベジタリアン・バーガーを取り出す。
ようするに、洋風がんもどきだ。もちろん本来の用途がお弁当用ではないので、かなりデカイ。
8等分くらいにして、二段弁当箱(弁当箱は二段でなくてはらない)の上の方につっこむと、
もうなんかこれは、なんだろう。肉だ。肉塊だ。いや、野菜なんだけど。
それでも8切れのうちに2切れがおさまりきらなくて、プー太郎状態になってしまった。
どうしよう。今、食おうか?しかし、ポーリッジのお陰で舌がバナナになってるのに、それはキツイ。
次に熱気の冷めやらぬフライパンに容赦なく溶き卵をぶちまける。味付けはひとつまみの塩のみ。
またたくまにぷつぷつが表面にうきあがる卵。
ひっくり返しながら巻き巻きする俺。抗う卵。粘る俺。
そして、完成する卵・・・卵・・・これは、卵、なんだろう?
疑問は卵と一緒に弁当箱上段に閉じ込める。
と、ここで米がたける。
弁当箱下段の指定席に詰めると少しだけスペースが余ってしまった。
否、意識的に余らせた。
密着する蓋をよごさないために、詰めたプー太郎どもの上に生のレタスで栓をする。
苦し紛れの応急措置というか、緊急避難だ。レタスには弁当のおかずとしては、他に何の役割も期待もしていない。
非情ともいえる決断だが、これも弁当箱の調和を保つためには仕方の無いことなんであるよ。
そうやって完成した弁当をアツアツのうちにポーチにいれ、鞄に詰め、いざ出陣。
決戦はアフタヌーン。
コンセプトは、ニュースなんかで裁判の話が出たときに、そのことをきちんと理解して、
その内容を適切に評価する能力の涵養、です。回を追うたびに長文化してすいません。
今回は「証明責任」を取り上げます。「証明責任」というと、法律とは関係のない議論でも使われますね。
「大虐殺がなかったというのは、否定派が証明責任を負うはずだ」「いやいやそんなのは悪魔の証明だ」なんつって。
また、「証明責任」とか「立証責任」とか「挙証責任」とか「主張責任」とか、なにが違うのかよく分かりません。
ここでは、「証明」の概念について簡単に触れてから、これらについて説明したいと思います。
裁判では、当事者が証拠を提出しお互いに事実を主張立証して、権利を(民事)、無罪・有罪を(刑事)得ようとします。
そして、証拠により証明された事実を元に裁判所は判断することになります。
では、証明ありとされて事実があったとされるのはどういう場合でしょう。
法は自由心証主義を定めています。裁判官の心証、つまり理性を信頼して、それに頼っているのです。
かつては法定証拠主義といい、たとえば二人以上の目撃証言があれば有罪、などとしていましたが、
いきおい虚偽な証言や拷問が入り込んでしまったという経緯があるのでこのようになっています。
裁判官の理性のみに頼っていると聞くと、「だからアレな判決が出るのだ」などと思われるかも知れません。
しかしながら、我が国では裁判官にはハードなキャリア制をしいていますし、
前例の積み重ねに頼る面もあり、アレな判決は上訴審でも争えることを考えればこの批判は当たりません。
このように理性のみで証明ありなしを判断しているのですが、民事と刑事ではその意識レベルに差異があります。
刑事では、憲法の要請である適正手続を図る必要があるので「合理的な疑いを容れない程度」の証明が必要です(例外もあります)。
感覚で言えば9割かそれ以上あると確信している状態でしょうか。(このような割合を証明度といいます)
一方、民事ではそのようなものは働かないので、7??8割くらいの証明度でよい。
裁判官の経験が培ったカンを、証明度などと客観的に推し量れるものではないのですが、観念的にはこうなります。
刑事では無罪(あるいは起訴を断念)とされたのに、民事では損害賠償が認められた、なんていうことがよく起こります。
これは、まさにこの証明度の差がもたらすものと言えるでしょう。山形マットいじめ事件でも同様なことになっています。
ともかく、証明ありとされれば、事実を認定し、証明なしとされれば事実を認定しないのが裁判所の取り扱いです。
では、証明ありかなしかはっきりしない場合(真偽不明、ラテン語でノンリケットという)はどうなるでしょうか。
「どっちにも認定できないので裁判官は何も判断しません^^」というのもひとつの手ではあります。
しかし実際の事件で、確実に認定できる事実なんてさほどないわけで(全部出来るのは神様だけ)、この手は非現実的に過ぎます。
そこで、現行法では、「証明責任」という概念を導入しています。
「ある事実が真偽不明となった場合に、判決においてその事実がないことにされるという当事者の不利益」です。
要するに、真偽不明となった場合には、一方の当事者にその事実なしという不利益を押しつけてしまおうというものです。
ここで、「証明責任」というと、なにやら「証明しなければならない責任」という風に読み取るのが自然な感じがします。
ですが、「証明責任」を負った当事者、つまり真偽不明のときに不利益を受ける当事者は、別に法が証明を義務付けているわけではありません。
ただ、不利益を被ることによって威嚇して、証明をがんばらせようと仕向けているだけです。
証明しなくてもいいが、自己責任で。ってやつです。
で、問題となるのが、どちらの当事者に証明責任、つまり不利益を押しつけるか。
一応証拠を提出したのに証明なしと同じ効果をもたらすというのですから、押しつけられた方はたまったもんじゃありません。
どのように折り合いをつけているか、まずは刑事の場合をお話ししましょう。
刑事の場合は、どこかで聞いたことがあるかも知れませんが、「疑わしきは被告人の利益に」という原則があります。
(「疑わしきは罰せず」と言われることもありますが、より広く、「被告人の利益に」とするのが正確です。)
真偽不明はまさに「疑わしき」に該当しますので、被告人の利益に、つまり検察官の不利益になります。
例外として話の種になりそうなのは、児童福祉法60条3項における不知に関する無過失の証明があります。
平たく言うと、児童とエッチ行為した人が「児童とは知らなかったんです><;過失はないんです><;」という証明です。
ここでも被告人の利益になっちゃったとしたら、言ったモン勝ちになってしまいますよねえ。ということで例外にされています。
続いて民事の場合。
民事では、刑事のような大原則があるわけではないので、様々な説が唱えられています。
通説的な見解で、実務上も基本的にこれによると見られる説が、「法律要件分類説」です。
これは、法律にどう定められているかで判断するものです。
基本的に法律は次のように定められています。つまり、
「権利の発生については、それを主張する者が証明責任を負う。
権利の障害・消滅・阻止については、権利の存在を否定する側が証明責任を負う。というものです。」
たとえば、売買代金を請求する原告は、売買契約の発生について証明責任を負います。
一方で、これに対しすでに払ったと主張する被告は、すでに払ったこと(弁済)について証明責任を負う、というわけです。
また、よく法律にある「但し書き」については、権利を障害するものなので、本文の証明責任を負わない方の当事者が負うことになったりします。
この考え方は、硬直的に過ぎて、たまに不都合なことがあったりします。
なので、法自体が、あるいは解釈によって、証明責任を転換する場合があります。
こっちに証拠が全くなくて相手方に証拠がある場合には相手方に負わせてもいいですよね。
また、消極的事実の立証を求める「悪魔の証明」となってしまう場合には、基本的には存在を主張する者が証明すべきです。
このように、立証の難易度に応じて証明責任を分配する説を「実質的分配説」と言います。
実務ではこの考え方を補充的に用いています(たとえば準消費貸借契約における原契約の成立について)。
ここらへんの話は、「大虐殺がわーきゃー」という議論にも応用できるかも知れませんね。
では主張責任とはなんでしょうか。
「ある事実が訴訟に上程されない場合に、判決においてその事実がないことにされるという当事者の不利益」です。
裁判所では、当事者の言わないことはなにも判断しないのが原則なので、こうなります。
これを弁論主義といいます。裁判官はどちらの味方にも立たず、あくまでジャッジとしての役割しかしないということですね。
ここでよく考えてみると、「証明責任」に包摂されていることに気づきます。
つまり、ある事実があると主張する者は、その事実について証明ありとしなければならない(証明責任)んだから、
当然にある事実を訴訟に上程しなければならない(主張責任)ってことです。
このように、民事では完全に一致します。
刑事においては、例外が発生します。
たとえば、正当防衛があったということは、被告人が主張すべきです。
なぜなら、検察官に毎回、「正当防衛ではない」「緊急避難ではない」などという主張を強いるのは負担が大きすぎるからです。
もちろん、正当防衛が明々白々な場合は検察官がその不存在を主張すべきでしょうが、そもそも起訴されないと思います。
裁判では、裁判官の理性により、証明ありなしを判断する(自由心証主義)。
刑事では適正手続の要請から証明度が高く、民事と判断が分かれる場合もありうる。
証明責任は、証明する義務ではなく、証明出来なかった場合に負う不利益(が誰に行くか)。
刑事では「疑わしきは被告人の利益に」から原則検察官が負う。民事では法律の趣旨をベースに立証の難易で修正。
なお、上では「証明責任」と「主張責任」の語しか使いませんでしたが、実は用語についてはこのようにごちゃごちゃしてます。
最初は殺し合い(*1)など何でもござれな無法地帯だった。そりゃそうだ、俺ら比喩ではなくまんま単細胞、しかも酸素呼吸すらできなかったんだから。
しかしそのうち細胞レベル、多細胞生物レベル、コミュニティレベル…と多種多様なレベルでパワーゲームを気の遠くなるような時間をかけた結果、殺し合いを限定的なものに抑えないやつは生存率が極端に落ちていくはめに陥って滅んでいった。
もちろん文化を持つ前は本能…DNAなどに刻み込まなきゃ受け継ぐことはほぼできないから、DNAレベルでも殺し合いを抑制する仕組みが徐々に刻まれていった。
とはいうものの、状況によってはやむなく殺しあわなければならないこともある。だから殺し合いが完全にできないようにはなっていない。そういうやつらも結果的に生存率が極端に落ちて滅んでいった。それは法律にも緊急避難的には殺人もやむを得ない事があるということなどで組み込まれている。
そのうち我々の一部は人類になり、また文化や巨大な社会を持つに至った。その新しい村や国というレベルにおいても殺し合いがなされ、その結果さまざまな法則が導かれた。我々はDNAなどが導く内心の構造と比較して殺人禁止を理解する方法なども獲得した。この一部は今日、倫理などと呼ばれている。
ただこういう説明は幼い子供などに説明するのはかったるいので、「人は殺しちゃいけないんだよ」と呪文のように唱えて聞かせている。ただしたまにパルプンテが発生する。なんか眠くなってきたので唐突にギャグを放ちたくなってきた。アルミ缶の上にあるみかん。…せっかく書いた長文が全て台無しである。
って俺はいったい何を書いているんだ。
#トラバ先まちがえた…
あのー、死刑で殺されるのはヒトじゃないんでしょうか。
原爆で死んだのはヒトじゃないんでしょうか。
倫理には、その時代や社会情勢によって、あい矛盾する場合や例外条項があったりすると、このスレッド中でわたしは申し上げております。
死刑、戦争、緊急避難などは、そういった矛盾だとか、例外に相当するのだ、と言っています。
これもtrivialだと思いますが。
倫理は、矛盾や例外を含むべきではない、と仰るなら、話は別ですが、世の中は今までそういうことになっていたと思います。
(追記)
http://anond.hatelabo.jp/20071114025628
まさしく、ものわかりの悪い子どもにはそう言うしかないですねぇ。。他の議論も流れちゃいますし。
まあなんだかエントリ個別のおかしな点を指摘をすると、それにはまったく反応しない(そして大元の問いをぶり返す)というのもどうかと思うんですが。面倒だしそろそろいいですかね。
まだそんなことを…まあ、あんまりそういう主張をしないほうがいいと思いますよ。あんまりにも間抜けすぎやしませんかねえ。
(文献を示せというのなら…もう私が言う事はありませんよ)
逆に人を殺せという倫理もあることになり、「どうして人を殺してはいけないの?」という問いかけ自体が、倫理の相反性が含まれていないことになる。
その問いかけには興味はないですが、問いかけ自体に倫理の相反性が含まれていなければなにか問題があるんでしょうか。
仮に子どもが「じゃ、こういう場合も人を殺しちゃいけないの?」と聞いて来たら、(ものわかりのよい子どもならば)「倫理にはあい矛盾する場合もあってだね…」と続くわけであって、あんまり問題にもならない気がしますが、どうですかね。
倫理に例外規定がありますねというのであれば、どちらが主でどちらが例外なのか、あるという人が示さねばならない。
どちらが主でどちらが例外って…、
「人を殺してはいけない。でも緊急避難的状況であればそれが許されることもある」
これ読んで、わたしがどちらが主だと言ってるかわからないということはありますまい。
考えが浅いと言われるとカチンと来ますが、「人を殺してはいけない」というそれだけを独立の倫理として考えるならば、世の中にはあい矛盾する倫理があるということになります。
いっぽう、「人を殺してはいけない。でも緊急避難的状況であればそれが許されることもある」というのをひとつの倫理として扱うならば、倫理には例外もある、ということになります。
五十万トンのマンモス・タンカーだって、瞼を閉じるだけで消してしまえるが、一匹の蚊の羽音からはなかなか逃げ切れない。
安部公房「密会」より
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20071005it01.htm
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20071005it01.htm
このブックマークのコメント欄を読んでいてとても不安になったので、ちょっと書きます。
なにが不安なのか?
音にまつわることに関して、良いとか悪い以前に問題ですらない、そんなことを問題にするのは異常だと一部で思われていそうなことが不安。
ちょっとオーバーに書くとこんな所だろうか。
「なにが悪いの?」
「こんなことで文句いうなんて頭おかしいんじゃないの?」
「神経質。きちがい。」
「子供たちがせっかく楽しく遊んでいるのにその音が良いとか悪いとか問うこと自体が異常。」
「がまんしろバカ。」
「出て行け!引っ越せ!!」
ぼくはこの新聞記事を読んで正直言ってとてもホッとした。
数年前、呉智英氏が防災無線から流れる音楽によって、静かな生活を送る権利を侵害されたと地元の自治体に放送の差し止めを求めた訴訟を起こしたのだが、
あっさり敗訴してしまった。
予想された判決とはいえ、その事があってから、もうこの日本で少しでも静かな生活を求めるのは不可能に近い事だと思い知ったからだ。
防災無線から流れる音楽というのは、毎日夕方になるとドボルザークの曲(遠き山に日は落ちて)を大音響の電子音で流す例のあれだ。
おそらく日本中のあちこちで曲目こそ違えど、同じことが起こっているだろう。
この音楽は子供たちの安全のために帰宅時間を知らせる大切な役割を担っているそうである。
そう「子供たちのため」だ。
「子供たちのため」「防災のため」と言われれば誰だってとても反対しにくい。
言う方は善い事をしているつもりなのでまさか自分の正義を疑われるなど許される事ではない。
だが、ある人にとって心地よい音楽が、大きな音量だと他人にとって騒音になるのと同様、子供たちのかわいい歓声も度を超せば当然騒音になりうる。
冷静に考えれば、場合によっては子供たちの歓声も音の暴力となりうるという事は、それほど理解が得られにくいという事は無いだろう。
(もちろんこの記事のケースが本当に耐えられないほどの騒音であったかどうかは現場を知る人にしか分からない事なのだが。)
しかし実は「子供のため」という事と「音」の問題は、切り離して考えなければいけないだろう。
もはやこの東京では不可能に近い、青臭い理想論で申し訳ないが、やはり子供たちの遊び場の確保はきちんとした都市計画によって解決するべきで、
子供たちの遊び場を守る事、と、近隣住民の静かな生活を守る事は、本来両立できるように努力するべき事だからだ。
ましてや防災無線のドボルザークなど、呉氏の件でも指摘されていたように子供たちが遅くまで塾に通う昨今にあってはなんの意味も無いし、
情操教育上、悪影響すら与えかねないだろう。
では「音」に関して。
ある音に対してそれがうるさいと思うかどうかを論じるのは難しい。
同じ音でも人によって感じ方が違うのは当然であるし、場合によっては同じ人物でも状況によっては全く同じ音が快にも不快にもなってしまうものだからだ。
しかも、ともすれば
「おれは貴様ら田舎者と違って音に対して敏感なんだよ。もっと気を使えよこのアホ愚民ども。」
「へぇへぇ、どうせあっしらは音に対して鈍感ですよ。ご立派なこったい。そんな気になるんなら、あんた様ここから出ていっちゃどうだい?」
などという不毛なやり取りになってしまいかねず、らちがあかない。
ではそんな面倒な事そもそも話題にするなよ、なぜことさら取り上げなきゃいけないのか、というとひとえに「音からは逃げられない」からだ。
冒頭の引用の通りである。
耳栓は緊急避難としてはもってこいかもしれない。しかし常時耳に詰め物をするのはつらいだろうし、強力な耳栓だと必要な音も聞こえなくなってしまう。
ちゃんとした効果のある防音工事というのはとても費用がかかり、おいそれとできるものではない。(それでも深刻な場合は考えるべきだろうが。)
このような消極的な対策よりは、何か音を発する前に、その音が本当に必要なのかどうかをまず良く考える事が大切ではないだろうか。
音を鳴らすか鳴らさないかどちらか選択肢がある場合に、迷わず音を鳴らす方を、少なくとも今の日本では選択しがちなのではないか。
などなど
これらの音は多数の人にとって騒音と認められる。対策をとれるかとれないかは別として、苦情申し立てをしても不審がられる事は無いだろう。
ほとんどが個人の力では解決不可能な問題であり、自治体など全体で取り組まなければ解決しない問題だ。
これらの音は相手が善意で行っている「悪意の無い音の暴力」。
これらの音を本当に発する必要があるのかどうか、ぼくたちは個人個人もっと真剣に考えなければいけないのではないだろうか。
さて、問題提起ばかりグチグチしていても仕方が無い。
ほんの少しでも音に注意を払うようになるにはどうすれば良いだろうか。
彼はランドスケープ(風景)に対して「サウンド・スケープ(音の風景)」という概念を提唱している。
これは我々をとりまく音の環境を、景観問題などと同じくきちんと観察、考察し、デザインしていこうというものだ。
彼は子供の音楽教育についての著書もあって、その中にこのようなゲームがある。
「しばらくの間、静かに目を閉じ、周りの音を聴く、そして聴こえた音を紙に書き出す。書いたものを友達と見せ合いっこする。」
とてもシンプルなゲームだが、周りの音に注意を向ける訓練にはもってこいだと思う。
例えば電車を待っている間、仕事の合間にできた手持ち無沙汰なちょっとした空き時間などにこのゲームを試してみよう。
もちろん一人でやっていいし、紙に書き出さなくてもいろいろな音が聴こえる事を確認するだけでもいいと思う。
子供さんのいる方はぜひ一緒にやってみてほしい。
そのうちそんなに意識しなくてもふっと周りの音を聴く習慣ができればしめたものだ。
こんな事で騒音問題は解決するわけないが、少しでも音に対して注意深くなるためには、まず身の周りの音を聴く事から始めるしかないだろう。
10年後に日本はどんな国?って聞かれたら「音のない国」と言われそうだ
というコメントがあったが、安心していいと思う。この音のあふれかえる日本が静かになることなど、少なくとも近い将来絶対にないだろう。
このコメントを書いた方はとても静かな場所に住んでおられるのだろうか。皮肉などではなく素直に本当にうらやましいと思う。
ぼくは科学博物館に行くのが好きなのだが、先日まで行われていた「インカ・マヤ・アステカ」展では展示に合わせて効果音や民族音楽の類が館内に流されていた。
どれもとってつけたような音や音楽で、展示物に比較して余りに稚拙な効果音やBGMには苦笑するしかなかった。このような乱暴な音の演出は今回の展示に限った事ではない。
だが国立のこのような施設でも音に対しての感覚は田舎のひどい観光地と基本的に変わらないのではないかと思う。
美術館でもこのようなひどい例がある。
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/gallery/1051714554/967-
通常、静かにすべきと言っても不審がられないであろう美術館や博物館ですら、このように音であふれている。
その音が本当に必要かどうか、もし必要無かったら出さない努力をどうかお願いできないか。減らす努力はできないか。
繰り返しになるが、音からは容易に逃げられないのだ。
さてキモい新聞の社説を下手糞にしたような文章を長々と書いて申し訳ない。なんだかとりとめのない内容になってしまった。
これを読んでくれた方が、もしほんの少しでも今まで気にしていなかった音を気にしてくれるようになったら、ぼくはとてもうれしいです。
そして今、悪意の無い音の暴力に苦しんでいる人へ。
「あきらめろ。この問題は絶対解決なんかしない。文句があるならとっとと日本から出ていけ!!」
ここまで見事な党派的情報宣伝を見せつけられると既に日本の大部分で中国の息のかかった組織に浸透されている可能性を否定しきれないだろう。
なんら確かな情報もなく、言葉では否定も肯定もしないながら「可能性」という病的な妄想を展開して無責任に危機感だけを煽る。
今のような混乱時に乗じてデマゴギーを撒き散らすものは微塵も信用に値しない。信用できるのは公害を撒き散らし、原子力潜水艦の放射性物質を公海に放棄して知らぬ顔をしてるような嘘つき国家の中国でも北朝鮮でもロシアでもなく、その傀儡たる団体でもない。
我々が最も信頼すべきは常に最大の時間とリソースを信用の下に共有する家族であり地域であり、その延長に営々と積み上げた自らの国自身である。
我々は今すぐ身近な親中国勢力に注意を払うべきだ。このタイミングで原発の放射能漏れを異常に関心を示し隙あらばデマを流布しようとしている者は概ねそういった党派と見ていいだろう。この機会に監視し、排除対象と見定めることを勧める。これは日本のように高度な教育を受けた現代的な国民にだけ可能な対処である。そしてそれが愚者の中で姦策を講じることしかできない敵にとっての最大の脅威である。
新潟県中越沖地震による揺れによって放射性物質を含む排水が海に流出した東京電力柏崎刈羽原子力発電所で、周辺で測定している放射線量を、インターネットなどでリアルタイムに公表するシステムが地震直後に故障していたことがわかった。県は「周辺住民に不安を与える」として東京電力に公表の早期再開を求める方針だが、復旧のめどはたっていない。
http://www.asahi.com/national/update/0717/OSK200707170148.html
サーバがダウンしたと書かれているが、地震ごときで復旧のめどが立たないほどの被害が出るとは思えない。
NHK経由、ABC Newsでは日本の原発の放射能漏れについて伝え、日本列島を取り囲む大陸の国(ロシア、韓国、中国など)が日本政府に詳細な報告を求めるような動きがあると伝えた。
住民の不安を取り除くために、早期の復旧が求められていると紙面では語っているが、実は永遠に東京電力のウェブサイトで「点検中」を表示した方がいい事態に陥っている可能性を見逃してはならない。
すでに、いくつかの原発施設で放射能漏れ、火災事故が報道され、地上における放射能の許容値は超えていないと言われているが、もしこの災害が続く新潟県で極度の放射能漏れが報道されれば、政府および自治体の手のつけられないような混乱が起こりかねない。
現在、大々的な放射能漏れは報道されていないが、後々東電や原発責任者や政府が公式見解を行う頃には、被害がずっと広がっているかもしれない。近隣諸国が北朝鮮の各施設に目を光らせる中、日本の対応と、原発の安全への視線が注がれている。
http://anond.hatelabo.jp/20070127004939
>>そうすれば、同性愛者だとかの例外はあるものの、男女ともに危険から逃げられるわけだし。<<
そうでもないと思う。
結果的には「例外」の意外に多いことに気付くことになるだろう。
サンプル数があまり多くないので、断言するのははばかられるが、痴漢に遭いやすい男性、というのは確かに実在する。もちろん加害者は男性だ。しかも必ずしも同性愛者というわけではないらしい。
わたしは初めてひとりで電車に乗り始めた小学校1年生あたりから、実に大学を卒業するあたりまで、ほぼコンスタントに月に1回ぐらいの割合で痴漢に遭遇していた。
パターンは実にバラエティーに富んでいて、触られるはもとより、おしつけられる、抱きつかれる、追いかけられる、見せられる、触らされる、囁かれる、誘われる、衣服とかに白いものを着けられる、トイレの個室に引き込まれるなどが代表的なところか。
ちなみに2chの痴漢スレを眺めると、芸能人で言うと少し前の神木隆之介あたりが彼らの好みらしいことがわかる。
なにかされても自ら体を張っての密かな攻防以外に手立てがないのは、女性と違い、勇気を持って「やめてください!」とか「痴漢です!」とか叫んだとしても、明らかにこっちがおかしいやつと思われるのがオチだろうという、ある種の確信的な諦観からだ。緊急避難のために次の駅で降り、駅員に助けを求めるときも、「怖いヤツに追われてる」とウソをつくことになる。
女性が待ち合わせに遅れるといつも「痴漢に遭って途中駅で降りたのでは」とかつい思うのだが、そんなことはめったにないらしい。
男の性欲ってのは、それを抑圧すれば抑圧するほどそのベクトルは歪み、腐敗し、さらには増大していくものなんではないかと思う。
性犯罪者は圧倒的に男性が多いというのはよく知られている事実だが、その一般的にノーマルと思われる性癖の性犯罪者をひとところに集め、監禁してみると、絶対に「共食い」が始まるに違いない、とわたしは思うのだ。というか、刑務所内ではやはりあるらしいじゃないか。「共食い」。それが「男性専用車両」で起こったらと思うと、おぞましさに戦慄を禁じえない。
余談だが、ブラザートムがまだ小柳トムという芸人だった頃、私鉄の電車内で痴漢に遭ったという話を聞いたことがある。当時も今も彼は誰がどう見たって男らしい男にしか見えないと思う。痴漢というのはそんなにも便利に自分の性癖を環境に適応させうるものなのだろうか。
あ、件の映画「それでもボクはやってない」は制作者サイドが痴漢という部分をことさらに強調しないように広報活動を行っていたらしい。あくまでも司法上の問題を提起というのが主眼とかで。あきらかに集客目的で痴漢犯罪をフィーチャーしたくせに、盗人猛々しいぞ。