はてなキーワード: 国文とは
こんな感じの使い方がデフォの人が多い気がするけど、みんなどうやってこれ身につけた?
まず多分こんな難しい言葉、小学生は知ってても使わないと思う。自分はあまり使った覚えがない。
肯定と否定っていう言葉をちゃんと使うようになったのは、中学の英語で否定文と肯定文をやってからだと思う。ひょっとしたら国文法で「否定」っていう概念を扱ってたかもしれないけど、何れにしてもそのどっちかが最初で、それ以外はあまり使うことのない単語だと思う。
それが大人になると,「良く言う」「悪く言う」みたいな意味で使う人が多い(気がする)んだけど、みんなどうやってそう言う使い方を身につけたの? 少し前までここのズレに自覚的でなくて度々誤解を起こしていたような気がする。今もだけど。
http://anond.hatelabo.jp/20170116163025
いや普通に文学とされている分野の学問も役に立つと思うんだが……。
・国文
・地理
・歴史
などに大別される。心理とか教育とか社会とかいろいろ他にもあるけど。この内国分以外の「なんたら語学」は、外国語を専門的に知ってるという点だけで結構使えると思う。
じゃあ国文は役に立たないかというとそうでもないのではないだろうか。だって、ある作者とか時代とかの文章を研究したり、研究した結果を読み込むっていう経験は、普通に仕事上で「分析」あるいは「分析結果の活用」を行う際にいいものとなると思うんだ。
哲学・倫理も、仕事のやり方とかが本当に正しいのかを判断するものとなるし、こういうのは法律の成立に関わっている場合も多いからそっち方面も期待できる。あと心理にも繋がる場合もあるのでは。
歴史だって人生を生きる上での、「模範的ストーリー」あるいは「反面教師的ストーリー」の宝庫だし、国文と同じような分析云々も役に立つ。
地理も、地域学とかを考えれば活用できないことはないとは思う。
といってもそもそも「大学で学んだことを活用させたいと全く思ってない」企業には無関係だろうし、職種によってはかすりもしないだろうってのは現実としてあるのはわかってるけど。
この手の話は好きなのでちょいと(だけ)考えてみた。国語学/国文の卒論のネタにでも。
で、元増田に1点だけ答えるとすると「良み(がある)」は、語幹と「み」の付き方は文法上は間違っていないのであり得ると思います。でも気持ち悪みがある。
元増田の「そもそも、『さ』(『良さ』、『行きたさ』)からして俺はちょっと嫌だった」はわかる気がする。形容詞は自分の、いまここ、このときの感じ方を場に放り投げるもの。それが「さ」によって、せっかくの、いまここ、このときの俺の新鮮な感じ方が第三者化、対象化、抽象化される。それを自らいうかね云々という。きもみ。