はてなキーワード: 北杜夫とは
よく「惜しい人を亡くした」って言うけど、その感覚がどうしても理解できない。
同僚などの近い人が死んだときによくブログとかの追悼文でそう書いてる人がいるけど、本当にそう思うんだろうか?
自分の周りで亡くなった人がまだ祖父と高校の時のクラスメイトだけだからだろうか?
祖父はまあ寿命だってことで片付く問題だし、高校の時のクラスメイトも若干の寂しさこそあれ、普通の毎日がまたやってくる。
正直なところ同年齢のこの前まで話していた人が死ぬという出来事はかなりショックではあったけれど、「惜しい人」とはどうしても思えなかった。
ニュースで有名人の訃報を見たときも、あまりそう思ったりしない。
自分は北杜夫が大好きだが、死んだときも「あー亡くなったのか」位のもんだった。
年齢が若ければ惜しいかというとそうも思わない。「早く亡くなってかわいそうだね」くらいのことは思うけど「惜しい」とは思えない。
自分の生活や心を支える人が亡くなればひっちゃかめっちゃかになるだろうけど、それは果たして「惜しい」なのか。
自分が未熟なのか、それともみんな前口上でそう言うだけなのか。
医師免許を持っているけど臨床系ではない人ってそれなりにいるんじゃないかな?
製薬会社なら医師しかできない研究内容や実務もある。(やっぱり独占資格だからね)
実際は美容皮膚科で保険対象外で高価な処方箋がないと作れない有効成分濃度が高い基礎化粧品を出したり、
レーザーで脱毛したりシミ抜きしてたりするのは規則正しい生活(ほぼ9時5時)だと思う。
特に同じ意識の医師と共同経営でローテーション組めばかなり仕事は楽だと思う。
あとは公務員になるけどやはり保健所なんかだと所長になって、指導とかで臨床は保険師任せ。
いや、それは違う。
まだ周囲に助けを求める気力があったとき、周囲の方が忙しいオーラ出してたり
大事だと見なさなかったりして相談することができなくて、
少しずつ少しずつ助けを求める気力が削られてって、気力が完全に無くなってから初めて周囲が
「なんでそんなになるまで黙ってたんだよ!」
と非難するんだよ。
北杜夫は「つるつる滑るガラスボウルの中に蚤を入れる」と言っていて、
名前忘れたけど昆虫学者兼作家で首から下が動かなくなった人は「小さなマッチ箱に入れる」と言って、
蚤がどんなに飛び跳ねても全く現状から進めない状況に放り込むんだってさ。
何度も何度も飛び跳ねているんだけど、あるときからパッタリ跳ばないようになる。
そこから物を牽かせる芸とかを仕組むんだってさ。
増田はそんな蚤を見て
「何で跳んで逃げないの?馬鹿なの?死ぬの?」
と言ってるだけ。安全地帯で放言すると、世の中を腐らせる一因になっちゃうよ。
想像力とか希望とか将来の夢をみる力は殺されることもあるんだって知らないことは、幸せな人なんだけどね。
「光に闇の深さが解るわけねーだろ!」
ちなみにきちんと行動出来る人のお話し。
早めに病院いったほうがいいと思うな。
薬をもらわないまでも、医者に話を聞いてもらうだけで、
ちょっと楽になることもある。
僕の場合は、薬がきかなかったので、基本的には「待つこと」が治療になった。
作家で精神科医の北杜夫が、「三十まではがまんして生きてみろ」というのを、頼りにして。
確かに、三十の声が近づいてくると、ずいぶん落ち着いた。
それでも、十六歳あたりから断続的に鬱状態がくるので、大変ながかったわけだが、、
妻や子にも相当、迷惑かけた。今はただ、生きていることは、大変ありがたいことだと思う。
時間をかければ、あなただってそう思えるときがくるはずだ。
「死にたい奴は死ねばいいじゃん、その方が楽でいいだろう」って、
親も、教師も、上司も、総理大臣も、当たり前のようにいうような社会になったら、
秋葉原のあのバカなんざ、迷惑かけるくらいなら一人で死ね! って
誰もが思っただろうけれど、そんなことは公の場ではとてもいえないし、
「命は尊い」とか、「自殺ダメ絶対!」みたいなタテマエは、社会を保持するうえで不可欠なんだろう。
個人のレベルでいうと、俺自身も、高校入学あたりから十年くらい、
死にたくて死にたくて仕方なかったんだけれど、
好きだった北杜夫の本に、とりあえず30までは生きてみなさい、とあったので、
それだけならまぁ、親にも大して迷惑かかるまいと思って、
実際には多大な迷惑をかけて、今も何とか人類の末席を汚している。
そうこうしているうちに子供もできた。
そうなると、自分のことは棚にあげて、この子に先に死なれたりしたら俺はとても生きていけない!
とか思う。親の子に対する感情って、俺はなってみるまでわからなかったけど、
他の全てを吹き飛ばすくらい強いものだ。親が子に、「死なないでくれ!」という感情がウソなら、
この世に真実なんてものは、ひとつもない気がする。
世の中が「論理的」に動いている、「論理的」に物事が解決する、というふうには、
俺は年取って、あまり思わなくなった。
世の中は、不完全な人間が、数千年かけて、反吐がでるくらいの犠牲者を出しながら、
どうにかこうにか折り合いをつけてきている。今だって、人類は滅亡しそうだしな。
私利私欲と、嫉妬と偏愛と、そのほか様々な薄汚いものがあって、
時折、気まぐれだか正気に戻ってだが知らないが、「良いこと」もしてみたりする。
そうやって生きてきたんだから、これからもそうやって生きればいいんじゃないか。
あくまで自分の場合なんだけれど、時間がたって身体がまた少しは動くようになって、
世間のことに大体アキラメもついて、それで自分の好きなように時間をすごすために、
自殺せずに生きている。
http://anond.hatelabo.jp/20070128233637
思えば俺の親父も、けっこうヘンな人である。
化学合成を主とする製品を扱う学部であるからジャンルとしては理系に分類されるはずなのだが、俺が小さい頃からすでに俳句や漢詩・囲碁をたしなみ、正月での祝詞(我が家の宗教は神道である)の際はかならず一家を列席させて神棚に手を合わせさせたりだのと、「ヘンなエンジニア」ではあった。北杜夫や遠藤周作・あるいは司馬遼太郎といった小説に親しむ一方、大学時代は山岳部に在籍し富山・長野間の山に登ったりしていた。その兼ね合いでか、俺自身も理系崩れではあるが、四字熟語や「句読点のルール」といった分野には妙に関心を抱くようになった。
(その一部が、かつて在籍し倒産したDTP会社では、多少は生かされたとは思ってはいるが)
あと読書だけど、おカネが無くても古典を読むだけなら、「青空文庫」でも幾らかは読めるからね。自分のお勧めは、宮澤賢治と中原中也。今度は、太宰治作品に挑戦してみるつもり。