はてなキーワード: 一部の人とは
土地収用=居住者と話し合いはしてるし、補償金も出してる。ゴネてるのは一部の人だけ。その一部の人間のために全体が犠牲になってはいけない。
基本的に中国の国土は所有権は国(正確に言えば地方政府)、そこにだれが住んでいても居住者に所有権はないから地方政府は勝手に売却できる。これは他の国では常識的に考えられない。
さらに国が出している保証金を地方政府がネコババすることも多い。国が出している保障基準満額で支払っている例など殆ど無い。
また、地方政府と地方政府幹部が出資している不動産業者が組んで動く事も多い、基本的に土地の元手タダで売却できるからこんなにおいしい商売は無い。
元々農村戸籍とか都市戸籍とかある時点でオカシイということに気が付くべき。結局m地方政府という軍閥と中央政府という権力だけが富む構造になってるんだよ。中国は。
チベットは元々、中国の領土ですらなかったところを強引攻めて、文化を破壊して、人を虐殺して漢民族がどんどん住んでいるのが実情。
大体、なんで長期的にみて自滅確定のようなポンコツ国家なんかになんで併合されなきゃならんのよ。
それに日本の教科書検定に干渉する前に、大躍進も天安門事件も文化大革命もないお前の国の歪曲教科書をなんとかしろよ。
逮捕されるヤツは逮捕されるだけの理由があるんだろ。 西側マスコミは住民側の報道ばかりするからな。判断するには情報が不足しすぎている。
裁判所は行政の一環だし(三権分立さえできていない)、裁判官はもちろん地方政府と癒着、地方政府のお得意企業とも癒着、まともな判決なんて出ない。
陳情しに、中央政府の陳情窓口に行こうにも、窓口付近に公安がうじゃうじゃいて、窓口にたどり着く前に消息不明になる。
とてもマトモな国とは思えない。
アイマスMADのことを語るときよく言われるのが表現の幅を広げるための技術の革新で、これを語る時には決まって抜きとかエフェクトとか用語が頻出する。
そこには初めはただ単にステージで踊っていたアイドルを、その動きを切り貼りして別の音楽とシンクロさせたり、編集ソフトで作ったエフェクト効果やらアイドルのダンスをステージから切り抜いて、背景を自由に書き込んで肉付けしたりして、PVとしてどこにでも出せるような映像を作るという、今まで中心にあった狭義の意味でのアイマスMADの文脈がある。
現在ではそうした技術も高い水準に達していて、抜きの技術は公式側の援護もあって効率化され、AEなど使ったプロ級のエフェクトも専用サイトで共有化されようとしている。ここにおいては一部の人間の技術向上ではなくてそれが広い範囲で共有化されたということがわりと重要で、新人Pでも過去の時代と比べると格段のレベルの動画を上げることができた。
技術の向上によってPVの表現の幅が広がったという意義もあるけれども、むしろ「技術の向上」ということ自体にロマンを感じてしまうような内側の推進力のようなものがあって成り立っていた部分があった。
一方で抜きは765コマンドが出てしまったり、エフェクトも水準に達してしまって、3D背景ですらばりばりできるようになってる現在、技術が天井に達してしまったのではないか、そうするとこの文脈が成り立たなくなってくるのではないか、そうなると動きとして停滞してくるんじゃないか、などと心配していたが、よくよく考えてみるとこの技術向上の文脈は、アイマスSPの発売によって、ようやく今まで故意に見逃されてきた「箱○モデリングの限界」にメスを入れる段階に達するのではないかと考えた。
PV系動画はダンス時の顔の表情のバリエーションが足りなくなってきた感じ。 - とつかしね☆なの。(仮)
本物のPVと見まごうほどのハイクオリティな作品が出るほど、(俺の目には)まさに今言った「人間とアイマスキャラの違い」が気になるようになった。
特に上で書いたような明らかに公式曲に無い雰囲気の曲を使うとき、背景や演出やダンスが曲にマッチすればするほど、その薄笑いの顔が気になる。
気になる。
俺だけ?
いや、もちろん普通にマッチしてていい感じのPVもたくさんあるですよ。
でも!有名なアレとかコレとかですら!
アレちょっと怖いんだよ!
最新情報が日々注目されてるアイマスSPだけれど、その中でニコマス界隈でよく話題になったのが箱○のモデリングとの差異だった。たしかに携帯機であるPSPのスペックからか箱○版発売の衝撃ほどはないが、その分よく見れば後発であることもあって表情パターンが豊かだったりアーケード版に近い手触りのあるモデリングで、箱○版とは違った魅力がある。そしてこの両者のモデルの、こうしたバランスがすごくいいのだ。
今後このモデルを使ってアイマスMADを作ろうとしていく動きは出てくるだろうし、そうすればこっちのモデルのよさもニコマス内で広がっていくと思う。そうした時に何が起こるか。
先に言及したような形式の狭義のアイマスMAD以外でも、別の手書きで作られたアニメーションやらのPVや、アイマスの3Dモデルを作ってしまって広い意味でこれらをアイマスMADと言ったりしている。正直なところこっちの方が受けがいい。
これが従来のノーマルPVを編集して飾って光らせて抜いての狭義のアイマスMADを注目して作る/見るしている人が「ああやっぱり一般人には手書きのほうが受けるんだよね、やっぱりあれがああなったりそうなったりする技術の文脈が理解されてないと受けないんだよね」とかぶつくさ言ってるのを最近よく見るんだけど、こういう人達は「ゲームの中にいる彼女が本当の彼女達」という意識が前提にある気がする。
そうした中でPSPモデルと箱○モデルといった、バランスの良い優れたモデルが「並び立つ」というのはこうした絶対性を急激に相対化していくだろうと思う。
箱○モデルが絶対的な存在であり他のモデルがそれに追随するといった構図は崩れ、各3Dモデルは相対的に異なる魅力を持つ存在として受けいられていくだろう。
PSPと箱○モデルが相対的に優れているように、ユーザーの作った造形も「技術はすごいけど本家に比べたら」みたいな印象は以前よりもいっそう薄れていくだろうと思う。そうしていくと
一方で3Dモデルが複数共有されていくとなると、ノーマルPVを装飾していくという狭義の意味でのアイマスMADという言葉は徐々に衰退していくだろう。公式のモデルの絶対的な価値が失われると、一方にある公式モデルの限界ばかりが目についてしまう。
彼女達は創作者の意図における二次創作を目的として作られた存在ではないからだ。あくまで彼女達はゲームの中で踊っていることを目的として作られた存在であり、過去に作られたそうしたMADは、彼女達が別の意図で微笑んだことに対して、その外面をとりこんで、創作者の個人の物語に外挿したものであり、だからこそその笑顔は不自然なのだ。彼女はPCの画面の前のあなたに微笑んだのではなくて、目の前の、プロデューサー、それも「ゲームの中に存在している」プロデューサーに微笑んでいるのだ。アイマスMADの根幹にある不純さはここにあると思う。
そもそも、理系は文系に比べてどれほど劣位な状況にあるんだろうね。
対人関係の処理能力や交渉力に劣る人間は、文系だろうが理系だろうがお金の儲かるお仕事が出来るわけもないし…。対人関係能力の低い文系は、対人関係能力の低い理系より悲惨に見えるけどな。文系は学問で社会から評価される、ということが比較的困難だし(実社会で役に立つと思ってもらえない学問の割合は、理系より文系の方が高いのではないだろうか)、一部の社会から高く評価される類の文系の人間は、それなりに苦労をしている。苦労の程度に差がある、と文句が言いたいのだとしても、それを実証を伴わない怨念丸出しの口調で語るのはちょっとどうなの。一部の人に至っては、文系の学問の価値まで否定するし…。理系が差別されている、という発想はどこが発祥なんだろう。文系だって差別されてるよ!特に哲学とかそういう方面!
そもそも日本人がみんな大学を出ているわけですらない(参照→進学率 - Wikipedia)わけだし、変なルサンチマンを爆発させなくてもいいと思うんだけどなあ。そりゃ、家庭の事情で理系に無理やり行かされて、嫌な気持ちを味わった、という人には同情も共感もするけれども、
http://ikesho.spaces.live.com/blog/cns!4641AC64DC21940A!1409.entry
http://ikesho.spaces.live.com/blog/cns!4641AC64DC21940A!1415.entry
↑こういうのを見ると、文系よりも理系の方が安定して強いのではないか、と思えるしさ。
そうやって理系差別を口にする人々は、ルサンチマンから距離を置いた上で、やはり文系の方が理系よりトクだと思っているんだろうか。自分がもう一度大学を出るなら、理系でなく文系を選ぶのだろうか。なんかこうばかばかしいというか、MMORPGでの最強職論争みたいな不毛なもんを感じる。
ちなみに俺はhttp://anond.hatelabo.jp/20081015082901じゃなくてhttp://anond.hatelabo.jp/20081015101644の方の増田だから反論っていうか横槍な。
モンスター○○認定で満足ってどうなんだ。ネタで書いてる気もするけど。匿名ダイアリーで顕名すんなって意見はそれなりに間違っていないと思うんだけど。
名前欄のある無しってけっこう大きいと思うんだよね。
humid なんかよくわかんないけど一部の人達の間では異分子を排除したがるほど増田が大事な自己表現の場になってるってことか。
ここで「異分子を排除」「大事な自己表現の場」って表現は恣意的すぎないか?
「異分子を排除」間違ってはいないのかもしれないけど「匿名の場」って前提はあるし、その前提的にどうなんだい?って話をしているんだろう。
「大事な自己表現の場」別にただの遊び場だって気になることは気になるだろ。
ついでに言っとくと俺はhttp://anond.hatelabo.jp/20081015082901の「ルール」「マナー」って言葉に対しては抵抗がある。
「荒れる原因になるから」ってのも排除する理由にはならないと思う。だから煮え切らないことしか言えないんだけど、ただ「どうなの?」と思う。
ここのところidがやたらと長い一部の人がマスダイヤリにブックマークしているのをよく見かける。
マスダイヤリに限らず、関連エントリにも顔を出し始めているようだ。
でもだれからもまともに相手されない。
なぜだと思う?
理由は本人以外はみんな気づいていることだよ。対策を書いてあげよう;。
とりあえず漢字の量を3分の1にしろ。中学生がわからないカタカナ用語は使うな。
3行書いたなら、短く一行に書き直せ。
一番大事なことだが、こんなサイトは無視して外に出て異性に会え。
なんだったら飲みに誘ってみようかと思ったが、面倒そうなのでやめた。(飲むか?と書きかけたけどやっぱり消した)
まぁいろいろとがんばれ。すべては自分で気づくかどうかだ。
産油国の国民は、降って沸いた富を皆で平等に分配して幸せに暮らしました。おわり。
国民皆平民の日本国民は、一部の人が頑張って稼いだ富を、皆で不平等に分配して暮らしました。終わり。
って感じかな!?適当だけど。
まぁ、自分が養ってる側、と言ってしまうつもりはないが、
少なくとも自分は養われる側に甘んじようとはおもわん。
ルールの中のルールについて考えたことはあるだろうか。日本にも法律はあるけど、小規模なコミュニティにも規則は存在する。普段は意識することがない。だけど、本当に守るべきルールってなんだろう。
どっちにも共通するのは、「ルールを破ったことに気付かれたら、破ったものが不利益をこうむる」ということ。そして、「ルールが絶対ではない」ということ。
たとえば、お酒は20歳になってから。他の国では年齢がバラバラだったりする。でも、小さなコミュニティでみんなが飲んでいるのに自分だけ飲まないっていうのはいいのか? 法律を厳守するなら飲まないことを選択する。でも、現実に生きている集団内で、他の人と違った行動をすると問題が発生したりする。そんな集団は離れてしまえばいいけど行動に移せるのかと問われると難しい。個人的には二十歳超えてるけど酒は飲みたくないかな。
知らない法律も規則もある。でも、個人の視点で考えるのであれば利益と不利益だけ考えればいい。法を守るのはどれぐらい大切なんだろう。規則を守るのはどれぐらい大切なんだろう。集団のためにルールを守るのは結果的に個人の利益にもつながるから。一度限りの関係なら集団のために考える必要はない。囚人のジレンマみたいなもの。
でも、属している人間が多ければ多いほど、好意的にルールを守らない人が出てくる。個人の利益? 集団の利益? 人間関係の繋がりが薄い人は、その小規模なコミュニティしか居場所がない。孤独になるぐらいならまだいいけど、敵視されると不利益になる。
ルール自体がナンセンスなのかも。ガチガチに固めたルールは全体を円滑に動かすもの。でも、ルールばかり口にしていると心地よくない。無意識に守る方が気軽でいい。だから、「空気」とか「雰囲気」が発生してくる。そのせいで一部の人間が困るわけだけど。
「誰がどんなことを言った」っていうのは簡単に広がっていく。対象とする人がいなかったら守るべきルールなんてものも存在しない。嫌なことがあれば「常識的に考えて・・・」って批判したりもする。
■じゃあ、どうすればいいの?
→信念や信仰を持てばいい。絶対に守るべき基準があれば考えやすくなる。それに絶対の価値を置けば破ることを恐れるはず。ただ、そんなものは簡単に用意できないから、何すればいいかわかんないんだよね。さて、どうしようか。
仕方ないとか以前に、低容量ピルなど 海外では比較的安全なピルが出ているのにいまだコンドームが主流という日本の避妊がどうにかしているというのは以前から言われていること。
同 望まれない形での育児の精神的・経済的負担やその後の幸せな家族への負担は大きい。
(幸せになる人も多くいるだろうが、不幸になる人も多くいるという意味で)
性が乱れるとか、ピルの母胎への不安とか 一部の人の思想や宗教倫理によって赤ちゃんポストとかが必要になる現代社会のほうが、よっぽどどうにかしている。
そもそも、コンドームの使用率自体が高くないという 日本の性教育の圧倒的な遅れをなんとかして、低容量ピルなどもふくめ、正しい性知識を学生のうちに教えて、学生でも、そういうものが手にはいるようにして。運用を実態に合わせないと、 理想に運用を合わせていると。理想とは違うところにいる早熟な子たちが、どんどん不幸な目に合うだけ。
近年にわかに、非常に注目を浴びている研究がある。それはクローンである。この研究が近年になって注目を浴びた原因が存在する。一九九七年二月二七日に「ネイチャー」誌が掲載した「核移植」という技術により作製されたクローン羊によって、多くの議題があがったのである。この研究によってさまざまな問題点が指摘され、そして多くの批判なども挙がり、現在では討論なども世界各国で行われている。本稿では、まずクローン、核移植とは何かを提唱し、その研究によりどのような利点、問題点が存在するのかという点について述べてみたい。
まずはクローンという言葉の意味について検証してみたい。今井(1997)によると、細胞を大概で培養し、それらがある特殊な性質を獲得した場合、たとえば遺伝子組換を行っている場合、それらはクローンと呼ばれる。さらに広辞苑によると「遺伝子組成が完全に等しい細胞または生物の集団。一個の細胞または生物を共通の祖先として、それから無姓生殖的に、かつ突然変異なしに増殖することによって生ずる。」いわゆる同じ物のコピーのようなものなのである。すなわち、今存在する人物のクローンも作ることの可能性はあると考えられているのである。一九九七年に発表されたクローン羊もこの無性生殖的に誕生した生物なのである。クローン羊は一九九六年夏に政府特殊法人のロスリン研究所のイアン・ウィルムット博士とキース・キャンベル博士によって無性生殖的に作り出された生物である。このクローン羊が誕生して7ヶ月たった後にウィルムット博士とキャンベル博士によって発表された。
このクローン羊は「ドリー」と呼ばれた。この研究に使われた方法が、核移植であった。熊谷(1997)によると核を提供する細胞は、六才の雌羊の乳腺細胞、羊の胎児から取った繊維芽細胞、受精9日後に当たる羊の胚からとったED細胞の三種類をクローン羊の作成に使われたと述べている。核移植とは精子の代わりに他の細胞の核を卵子に移植したのである。熊谷(1997)によると、ドリーの以前の方法では人間のクローンを作成できはしなかったが、ドリーの方法では細胞さえあれば、クローン人間が生まれる可能性はあると述べている。以前の方法だと一卵性双生児とにたようなもにしかならなかったが、新しい方法を使用すればほぼ同じようなコピーを作り出すことができると考えられている。
クローン人間が与える利益は多様にある。不妊症対策がそのひとつである。軽部(1997)は、男性に精子がない場合、クローン技術によって子供を作ることができると述べている。もちろんみずからのクローンを作ることですらできると考えられる。映画、「ジュラシックパーク」のなかで行われていた、恐竜を作り出すことも可能であると思われる。すなわち、すでに絶滅している生物を作成することもできるのではないのだろうか。今井(1997)は、クローン羊の報道があった後、一部の人々がヒトラーなどの危険な人物がよみがえるのではないかという不満があったと述べている。しかも非常に屈強な兵士を何人も同じような兵士を作り出すこともできるのではないだろうか。
クローンが作られる過程のなかで、問題が指摘されている。それは無性生殖的に増殖するということである。すなわち、性行為がこの過程の中で行われないのである。自然界の法則の中にも提唱されているように、雌雄間の性行為がない限り、子孫は残せないという理論がある。特に人間のクローンを作成すると、さまざまな理論を覆してしまう恐れがあり、多くの議論が出されることになる。
一つは宗教の理論を全面的に否定することである。宗教の考え方の中には、人間は神から生命を授かった生物であるという理論がある。そして同じ生物が二人存在しかねない時代もまじかに迫ってきている。その生物は人間の手で作り出されたものであり、宗教家から考えれば、それは禁断の科学ではないのかという議題があがるのは、明らかである。だが実際にこのような議題は時代とともに承認されている。たとえばダーウィンの進化論なども否定され続けられていたが、近日ローマの法王が進化論の一部を認めたことは記憶に新しい。一九九八年一月には人間へのクローン技術応用禁止令が欧州19カ国で調印された。この調印もクローン研究は神への冒涜とおもわれているゆえに発展した調印ではないかと考えられる。軽部氏(1998)によると、人間が神の変わりになってはいけないかという考えがある。
クローン人間が大部分の人口を占めたとき、非常な危険な状態になると考えられている。軽部(1998)によると、人間の遺伝的多様性が減少し、主としてヒトの長期的存在にかかわる問題となると述べている。すなわち、強力な伝染病などが流行すると、すべての人口がまとめて死滅しかねないのである。太古の時代から生物は少しずつ進化しており、このクローン人間の出現により進化が止まってしまうと考えられるのである。
前述でも述べたように、クローンは無性生殖的に行われるものである。結婚という概念すら必要なくなってしまうのである。さらに、筆者は性別という概念すらもなくなってしまうのではないかという問題が考えられた。女性は子供を産むために必要であるが、男性は不要になってしまうのではないだろうか。男性がいなくなるということではないが、彼らが不必要となったとき、少しずつ減少していく可能性も否定できない。
最相(1998)によると、「クローン人間が生まれてきた場合その子供は差別を受ける可能性が非常に高い、と述べている。子供とは親との家族関係、すなわち子供と親というものによって確立されるものである。これは特に女性のみで、クローンが作られた場合による。」養子などは子供の権利が象徴されるがクローンの場合親の権利によって生み出される可能性がある。子供の権利は完全に無視した状態になり兼ねないのである。
だが、実際に内面まで類似しているクローンを作り出せるとは考えにくい。その一つの原因は、人間の性格は生まれたときに決まっているのではなく、育つその過程によって性格が変わっていくものなのである。重要なことは、外見、そして根本的なものの類似しているものは作成できるだろう。筆者としては、実際に完全に一致したクローンを作り出すことは難しいと思われる。それゆえに前述でも述べた新しい第二のヒットラーが産まれかねない可能性はないと考えられる。元の人間とまったく同じような人生を歩まない限り、酷似するとは考えられない。
最後にクローン問題が世界各国に与えた影響を述べたい。軽部(1997)によるとアメリカではヒトクローン研究の一時的停止を議会に提出したと述べている。だが実際はいまだ審議中であり規制が実施されるのはまだ先と考えられている。他の国でも、いまだ完全な規制は敷かれてはいない。特にクローン技術を悪用する国家が現われることが無いよう監視をするべきではある。
クローン人間問題に対する議題は特に本稿でも述べた宗教関連によるものである。そして、クローンを研究している科学者はさまざまな批判によって研究が進められていない。実際にはクローン技術によって利益もあるが不利益も存在する。だがこの研究は今までの人間の理論を完全に覆すことのできる研究の一つである。人間はさまざまなものを今まで開発してきた。原子力なども以前は革命的と考えられてきたテクノロジーも第二次世界大戦では殺戮兵器としてつかわれてしまった。どのように新しい技術を使っていくのかという点を考慮しない限りクローンも原子力のような過ちを繰り返しかねないと思われる。
近年にわかに、非常に注目を浴びている研究がある。それはクローンである。この研究が近年になって注目を浴びた原因が存在する。一九九七年二月二七日に「ネイチャー」誌が掲載した「核移植」という技術により作製されたクローン羊によって、多くの議題があがったのである。この研究によってさまざまな問題点が指摘され、そして多くの批判なども挙がり、現在では討論なども世界各国で行われている。本稿では、まずクローン、核移植とは何かを提唱し、その研究によりどのような利点、問題点が存在するのかという点について述べてみたい。
まずはクローンという言葉の意味について検証してみたい。今井(1997)によると、細胞を大概で培養し、それらがある特殊な性質を獲得した場合、たとえば遺伝子組換を行っている場合、それらはクローンと呼ばれる。さらに広辞苑によると「遺伝子組成が完全に等しい細胞または生物の集団。一個の細胞または生物を共通の祖先として、それから無姓生殖的に、かつ突然変異なしに増殖することによって生ずる。」いわゆる同じ物のコピーのようなものなのである。すなわち、今存在する人物のクローンも作ることの可能性はあると考えられているのである。一九九七年に発表されたクローン羊もこの無性生殖的に誕生した生物なのである。クローン羊は一九九六年夏に政府特殊法人のロスリン研究所のイアン・ウィルムット博士とキース・キャンベル博士によって無性生殖的に作り出された生物である。このクローン羊が誕生して7ヶ月たった後にウィルムット博士とキャンベル博士によって発表された。
このクローン羊は「ドリー」と呼ばれた。この研究に使われた方法が、核移植であった。熊谷(1997)によると核を提供する細胞は、六才の雌羊の乳腺細胞、羊の胎児から取った繊維芽細胞、受精9日後に当たる羊の胚からとったED細胞の三種類をクローン羊の作成に使われたと述べている。核移植とは精子の代わりに他の細胞の核を卵子に移植したのである。熊谷(1997)によると、ドリーの以前の方法では人間のクローンを作成できはしなかったが、ドリーの方法では細胞さえあれば、クローン人間が生まれる可能性はあると述べている。以前の方法だと一卵性双生児とにたようなもにしかならなかったが、新しい方法を使用すればほぼ同じようなコピーを作り出すことができると考えられている。
クローン人間が与える利益は多様にある。不妊症対策がそのひとつである。軽部(1997)は、男性に精子がない場合、クローン技術によって子供を作ることができると述べている。もちろんみずからのクローンを作ることですらできると考えられる。映画、「ジュラシックパーク」のなかで行われていた、恐竜を作り出すことも可能であると思われる。すなわち、すでに絶滅している生物を作成することもできるのではないのだろうか。今井(1997)は、クローン羊の報道があった後、一部の人々がヒトラーなどの危険な人物がよみがえるのではないかという不満があったと述べている。しかも非常に屈強な兵士を何人も同じような兵士を作り出すこともできるのではないだろうか。
クローンが作られる過程のなかで、問題が指摘されている。それは無性生殖的に増殖するということである。すなわち、性行為がこの過程の中で行われないのである。自然界の法則の中にも提唱されているように、雌雄間の性行為がない限り、子孫は残せないという理論がある。特に人間のクローンを作成すると、さまざまな理論を覆してしまう恐れがあり、多くの議論が出されることになる。
一つは宗教の理論を全面的に否定することである。宗教の考え方の中には、人間は神から生命を授かった生物であるという理論がある。そして同じ生物が二人存在しかねない時代もまじかに迫ってきている。その生物は人間の手で作り出されたものであり、宗教家から考えれば、それは禁断の科学ではないのかという議題があがるのは、明らかである。だが実際にこのような議題は時代とともに承認されている。たとえばダーウィンの進化論なども否定され続けられていたが、近日ローマの法王が進化論の一部を認めたことは記憶に新しい。一九九八年一月には人間へのクローン技術応用禁止令が欧州19カ国で調印された。この調印もクローン研究は神への冒涜とおもわれているゆえに発展した調印ではないかと考えられる。軽部氏(1998)によると、人間が神の変わりになってはいけないかという考えがある。
クローン人間が大部分の人口を占めたとき、非常な危険な状態になると考えられている。軽部(1998)によると、人間の遺伝的多様性が減少し、主としてヒトの長期的存在にかかわる問題となると述べている。すなわち、強力な伝染病などが流行すると、すべての人口がまとめて死滅しかねないのである。太古の時代から生物は少しずつ進化しており、このクローン人間の出現により進化が止まってしまうと考えられるのである。
前述でも述べたように、クローンは無性生殖的に行われるものである。結婚という概念すら必要なくなってしまうのである。さらに、筆者は性別という概念すらもなくなってしまうのではないかという問題が考えられた。女性は子供を産むために必要であるが、男性は不要になってしまうのではないだろうか。男性がいなくなるということではないが、彼らが不必要となったとき、少しずつ減少していく可能性も否定できない。
最相(1998)によると、「クローン人間が生まれてきた場合その子供は差別を受ける可能性が非常に高い、と述べている。子供とは親との家族関係、すなわち子供と親というものによって確立されるものである。これは特に女性のみで、クローンが作られた場合による。」養子などは子供の権利が象徴されるがクローンの場合親の権利によって生み出される可能性がある。子供の権利は完全に無視した状態になり兼ねないのである。
だが、実際に内面まで類似しているクローンを作り出せるとは考えにくい。その一つの原因は、人間の性格は生まれたときに決まっているのではなく、育つその過程によって性格が変わっていくものなのである。重要なことは、外見、そして根本的なものの類似しているものは作成できるだろう。筆者としては、実際に完全に一致したクローンを作り出すことは難しいと思われる。それゆえに前述でも述べた新しい第二のヒットラーが産まれかねない可能性はないと考えられる。元の人間とまったく同じような人生を歩まない限り、酷似するとは考えられない。
最後にクローン問題が世界各国に与えた影響を述べたい。軽部(1997)によるとアメリカではヒトクローン研究の一時的停止を議会に提出したと述べている。だが実際はいまだ審議中であり規制が実施されるのはまだ先と考えられている。他の国でも、いまだ完全な規制は敷かれてはいない。特にクローン技術を悪用する国家が現われることが無いよう監視をするべきではある。
クローン人間問題に対する議題は特に本稿でも述べた宗教関連によるものである。そして、クローンを研究している科学者はさまざまな批判によって研究が進められていない。実際にはクローン技術によって利益もあるが不利益も存在する。だがこの研究は今までの人間の理論を完全に覆すことのできる研究の一つである。人間はさまざまなものを今まで開発してきた。原子力なども以前は革命的と考えられてきたテクノロジーも第二次世界大戦では殺戮兵器としてつかわれてしまった。どのように新しい技術を使っていくのかという点を考慮しない限りクローンも原子力のような過ちを繰り返しかねないと思われる。
y_arimがぽけぽけしながらも生きてることがどれだけ一部の人の精神安定に役立ってるか。
高学歴でも自分がバカなだけだったり、身体障害があったり、心臓が弱かったり、ドモリだったりで道から滑り落ちたやつなんてたくさんいるんだ
しかも、勉強めっちゃしてたやつとか、あたまいい奴とかだったらこの切なさは泣けてくるほどに辛い
同期の奴らに「いまなにしてんの?」って聞いたりしたら、「金融でスイス」「トヨタ」「キヤノン」
・・・普通に死のうかと思うぞ?
それでも生きてけんだ、ってことをy_arimは証明してくれてる。
それだけでもちょっと、なんていうか、元気出る。明日も頑張ろうかと思える。
自分の基準と違うからって誰かを攻撃してごちゃごちゃ言ってるお前はまったく自己中だ。
彼らにいなくなられたら、明日も頑張ろうかと思う人間が少し減ることだってあるんだ。
はてなブックマークで、コメント一覧を非表示に出来るようになったらしいが、俺は正直それよりも、「はてなブックマークのコメントに、直接コメントをつけ返す機能」の方がいいんじゃないかと思う。
今のはてなブックマークって、結局、ほとんど掲示板化してんだよなぁ。いい悪いはさておき、各々がブックマークしてコメントをして、他の人の意見なんかも見つつ……なWEB2.0!ってより、単に、2chのネットウォッチ板のスレを、該当のエントリにリンクさせました、みたいな感じになってる。
まあ、結局そういう風に流れてしまうのは人のサガなのかもしれないが……
制限しないと、有意義な使い方なんて俺たち愚民には無理なんだよなあというのを痛感する。匿名で、どんな記事にも書けて、しかもどんなめちゃくちゃなバッシングをしても、誰からも何も言われない、というフリーダムな空間を与えればどう転がっていくか……考えてみれば、当然のことだったのかもしれない。そんな自由で、責任も問われない世界で、「きちんと読んで」「反論にしても、無意味に強い罵倒はしない」とかそういうリアル世界でなら当然の事を、はてブ世界でわざわざ「してやる」奴がどれだけいるか。そんなある意味で、「いい子ちゃんぶった」ことをやる奴がどれだけいるのか。それを考えればやはり当然の帰結だった。
はてブは一部の人を除いてピンポンダッシュ化した。やっても、本気で追いかけてくる奴はそうそういない。
皆欲望のままに、読まなくても、脊髄反射でも、なんでも構わないからコメントをぶちまける。だってどうせリアルの俺だって分かるわけねーし、IDにしたって追いかける奴はそうそういねーし、コメントにしたって、コメント欄やトラバならまだしも、はてブのコメントにわざわざリンクしてコメントつけて反論するやつなんてそうそういねーし。じゃあ、やりたい放題やっちゃえばいいじゃん。なんか問題起きたら、消しちゃえばいいし。そんな感覚で出来てしまうのがはてなブックマーク。
ある意味2chよりもフリーダム。2chはおかしなレスを書いたら、すぐにその下で「何言ってんだ」「おまえの言ってることはおかしい」などとすぐ反論されてしまうが、はてブにはそれすらなかった。匿名の上、大抵は反論されずに済む(たくさんブックマークがつけばつくほど、自分のものは隠れていくし)。というか、仮に、ブログ主が反論していても、そんなのは関係ない。大抵、自分の書きたい放題かいたあとは、そいつのエントリなんか見ないから。自分の欲望書き散らしてすっきりした後は、見る必要なんてないし。
完全なる「俺ワールド」の出現だった。Myブックマークのページは、そんな俺ワールドの集大成だった。言いたい放題いって誰からも反論されないどころか、はてなスターができてからは、賛同者「だけ」が可視化されるようになり、「俺ワールド」はますます増長する。ブログでいえば、何をどう書いても、ネガコメはつかないが、「賛成です!」「同意です!」という声だけはつく、最悪でも、その「賛成です!」というコメントがつかないだけ、という状態。そら、書くわな。何でも。
一方、「ちゃんと読んでからコメントする」「罵倒はしない」「人格否定はしない」等のことを、なぜリアルや、個人のブログではきちんと守るのかといえば、それは「何言ってんのあいつ」「バカじゃねーの」と白い目で見られるのが嫌だったり、リアルでならそれで人間関係が形成できず孤独になってしまったりするのが嫌だったり、また、俺たち愚民は、自分では「バーカw」「ああそうじゃあ生きるのやめれば」とか言うくせに、自分にそれが向けられると怖いし、真っ当な反論が来てしまうとやはりそれも怖いという、人間、「DISりたいけど根はチキン」という奴がほとんどなため、だった。(俺はDISりまくる。だからお前らも俺をDISりまくっていいぞ。俺は何もいい訳せずそのDISを受け止めてやる、等という気概の奴はそうそういない。そこまでいけばそれはそれで天晴れだが)
はてなブックマークのコメント一覧を非表示にしても、その辺のはてブの性質はほとんど変わり無い。実際使う奴はあまりいなさそうだし、というか、非表示になることによって更に皆暴走していく気がする。「どうせ、こいつには見えてないんだろ?だったら今まで以上のDISでもいいよな」と。まあ、実際見てないんだから、ほとんどチラシの裏状態になるのでそれはそれでいいのかもしれないが、はてブの悪質な部分が変わるわけではない。
はてブのよさを残しつつ、悪質さを除外するにはどうするか、といえば、そこで、「コメントにコメントを『直接』つけられる機能」がいいのではないのか、と思うのだ。
直接、というのがキモだ。書いた本人の、Myブックマークに、はてなスターが現れるように、否応なく見ることになる状態でなくては意味がない。また、はてブのコメントに反論したいと思ったら、即、簡単に書き込めるためにも、「直接」書き込める感じの機能になっていることが必須だ。
別にコメントそのままが載らずとも、エントリに「○○users」と載るように、「あなたの意見にこれだけのコメントが更についていますよ」ということが分かればとりあえずいいし、あるいは、はてなスターは、「賛同」のマーク(ちょっと違うかもしれないが、とりあえずプラスの意味ではあるはず)だったが、その逆の、「賛同しない」という、紫色か何かのDISマークを作るのもいいかもしれない。
今の段階で既に、「↓」や「↑」を使って、やりとりをしている者がちらほらいる。それならばもう、はてブコメントに、直接コメントをつけられてしまう機能を作ってしまえばいいのだ。
実際につくか否かというより、その「直接コメントつけられてしまう」という恐怖が、「下手なこと書くと、反論されてしまう。DISられてしまう」という恐怖が、ちょうど、リアルやブログでそんなに下手なこといえないというのと同じく、「俺ワールド」の暴走の制止力になるだろう。
勿論、そんなことをしても、めちゃくちゃなことを書く奴は書く。ブログでも2chでもなんでもそういう奴は一定数いる。それはしかたがない。ただ、コメントをつけられる恐怖を課すことで、暴走の程度は以前よりは軽くなるだろう。
非表示をしても、それは臭いものに蓋をしているだけで、根本的な解決にはならない。毒には毒をもって制すのだ。
グループで行ったときは、お互いの頼んだものをつまめばよろしいじゃないですか。また、それを前提として「グループとして」注文するものじゃありませんか。
ところがですよ。潔癖なのかなんなのか、自分で頼んだものは自分だけで食べようとする人がいるんですね。抱え込んじゃってさ。取らねえよ、別に。オマエだけ好き勝手やれよ、もう。
ほかは同意するけどこれはお前……ダメだ。ダメダメだ。(一応これにはこの先があるけど、この人は既にこの「自分で頼んだものは自分だけで食べようとする人」って時点で批判しているので)
逆に自分は、こういう奴腹立つんだよ。グループでいったからって、勝手に「みんなでつまんで食べるよねー」って前提作ってる奴。(勝手じゃなくても、事前に提案されても反対したい←けど大抵なし崩しに同意させられる。同意しないとKY扱い)やだよそんなの。色々食べたいなら自分が色々頼めよ。強制的に「みんなでつまんで食べあいっこ」の輪に入れられるのが腹立つ。自分は、それが食べたくて頼んでるんだよ、お前らが頼んでるものなんて別に食べたくねえ。自分はマグロのカルパッチョが大好きなんだけど、頼むとそれを勝手に「うまそう、一口くれ」とかいって食べてく奴がいる。ほんっとこれ腹立つのね。そんで怒ると「いや俺のも食べていいからさ」とかいうけどお前の頼んでるものなんて別に食いたくねえんだよ、補償になってねえんだよそれは。
あのなあ、自分すっげえ好きなんだよ?カルパッチョ。注文してからめっちゃwktkしてんのよ?もうドレッシングの一液も残したくねぇ、ってくらいの勢いなんよ?しかも店のカルパッチョなんて、少量で高価なのばっかでさ。ちょっと取られただけで大ダメージなんだよ。そういう意気込みでこっちは頼んでるのに、勝手に「たべあいっこでいいじゃん!」の輪に入れられ、食べられてしまう苛立ち。そしてそれを断ると、「けち臭い」というレッテルを貼られるこの苛立ち。けちくさいのはそっちだろうが。カルパッチョ食べたきゃ新たに金払って食べりゃいいんだよ。金けちってんのはそっちだろ。
お前はこっちのものが食べたいからいいかもしれないけど、こっちは別に食べたくないんだよ!
「お互い様☆」とか思ってるかもしれないけど全っ然お互いさまじゃねえ!こっちは食べたくないんだから!
食べたいなら頼めよ、カルパッチョ。なんで自分のをとるわけ?っていうと「だってちょっとだけ食べたいから…」て答えがかえってくると思うが(そうじゃないなら頼めばいいんだからな)、しらねえよそんなお前のわがままなんか!なんで自分がそんなお前の身勝手なわがままにこたえてやらなきゃなんねーんだっての。
「みんなでつまんで食べる」とか、本当やめてほしい。お前らの頼んだものなんて必ずしもこっちが食べたくなるようなものじゃないんだから、同じ物量食べるなら、自分が自分の好みで選んだ美味しい食べ物を食べていたいんだよ!
大体こいつさ、「とらねえよ別に」っていってるけど嘘つけ!「グループとして注文してお互いつまみあうもんじゃないですか」って言ってるんだから最初から他人のつまむ気満々ってことだろうが!守らなかったら、つまんでくるってことだろうが!そりゃ守るわ。守らせてるのは誰だっての。「つまむもんだよねー」とか勝手に他人の食事まで己の者としている奴のせいだろうが。
こういう奴って本当他人の事考えてないのな。「自分がつまんでたのしいと思うんだから他人もそうにちがいない」っていう考え。
こういう奴にくらべたら、調味料クラッシャーとか、他の店と比較するとか、(そりゃよくはないが)たいしたことじゃない。だって、どれも「ただ言ってるだけ」「相手の食べ物が破壊されるだけ」なんだから。「勝手につまみあいに参加させられる」のが一番重大な被害。自分の食べ物他人に食われるんだから、これほど直接的な被害ってないだろうよ。
あーあ、カルパッチョの恨みが再発して長文になっちまった。ああ腹減った。
ブックマーク見て思ったんだけど、「カルパッチョ代だけ後で払えば」とか「一人で食べれば」とか、なんでそんな皆当たり前のように「みんなでつつきあうのがありき」で話すんだ?自分にとっちゃ、「みんなでつまむ」なんてのは誰かにとってのマイルールってくらいの感覚なんだが(だから、そんなマイルールをハナっから押し付けてきて、従わない方が変!とか言ってる様にドン引きするんだが)、お前らにとってはもしかしてうんこをした後手を洗うくらいに当たり前!な常識なのか?だとしたら物凄いカルチャーショックを感じる。
実際、大勢で集まったから、当然のように分け合うよね、なんてあんまり周りの環境じゃ無いんだよなー。大抵多人数で食事するときは各自好きなもんとって食べて談笑するのが普通。(だからこそ、上のような例が今でも腹立つんだが。しかも大抵カルパッチョは最初の方にでてくるから腹減った奴の餌食になる。おめーはハンバーガーでも食ってろ!!)誰かが「分け合う?」っていっても「いやでも皆好きなもん食べたいっしょー」「食べる量も人によって違うから、単にワリカンにするとアレだしなー」って言うのが普通の環境なんだよな。分け合って食べるっていうとアメリカ人のバーベキューか、子供のパジャマパーティーみたいな印象しかない。
でも、「大勢といったらつまみあうのが常識」と「個々人で注文し食べるのが常識」がぶつかりあったその時は、後者を優先すべきじゃないか?なぜなら後者なら我慢する人がいなくてすむから。その分、つまみあうのが大好きな人の、つまみあう分の楽しさは減るかもしれんが、だからといって好きなものを頼んで食べる以上「普通より下」にはならんだろ。一人の時など、普通の時は誰だってそうやって食べるんだから。でも、前者にすると、つまみ合うのが好きな人は普通以上に楽しくなるが、その分それが嫌な人は食べたくもないものを元を取るために食べ、自分の食べ物はとられ、そしてワリカンを払うなどという我慢をさせられなきゃならん。「普通以下」の気分にさせられてしまう。つまみ合う人たちの「楽しさ」のために、一部の人が「我慢」させられなきゃいかん。それは理不尽な話だろ。多人数で食事する以上、多人数がなるべく同じくらいの気持ちでいられるようにすべきだ。誰かがめっぽう楽しいが、誰かは嫌がっている、なんて状態を作りだすのは、楽しんでいる人たちのエゴだろう。嫌な人たちを土台にして、自分達だけ楽しんでるだけだ。
(てか、「じゃあ一人で食べれば」って意味わかんねーんだよな。え、多人数の食事の意味って「つまみ合う」ところにしかないの?っていう。そんなしょっぱい目的でしかないの?多人数の食事って。
たとえばフランス料理や懐石なんか、いくらなんでも誰だってわけあっては食べないだろうが、だからといって恋人同士のデートでのフランス料理が無意味ってなるか?「じゃあ一人で食べれば」ってなるか?ならんだろ。個々で食べてても「一人で食べればいいじゃん」なんて出てこないだろ。誰かと食事をするいいところって、わけあって食べると色々食べれてお得とかそんなセコい点じゃなくて、幸せな時間を共有するとか話したりするとかそういうところにあると自分は思うんでね、「じゃあ一人で食べれば」って言う人の意味が全然理解できねーわ。多人数の食事ってそんな程度のもんだっけ?)
[ジャララバード(アフガニスタン) 26日 ロイター] アフガニスタン東部ナンガルハル州で26日、日本人男性が武装勢力に拉致された。同州のスポークスマンが発表した。
この男性はダラエ・ヌールでの作業中に拉致されたとみられており、当局は男性の捜索を開始した。
日本のメディアによると、拉致されたのは日本の非政府組織(NGO)「ペシャワール会」の伊藤和也さん。
ペシャワール会というのは以前からたびたびその名前を聞いていた。井戸を掘るお医者さんと、彼を支える会なのだと聞いていた。えらいひとたちがいるものだなあと思っていた。ところが何日か前にこんな報道があった。
アフガニスタンとパキスタンで活動する福岡市の非政府組織(NGO)「ペシャワール会」がアフガン東部ナンガルハル州シェワ地区で、イスラム神学校「マドラサ」の建設を進めている。旧政権タリバン幹部を養成し過激派の温床とも批判されるマドラサだが、同会は「地元の要望が強く、貧困層の子供や孤児の養育が目的」としている。
マドラサはイスラム聖職者養成も目的とする寄宿学校で、青少年に聖典コーランの内容や読み書きなどを教える。アフガンでは二〇〇一年のタリバン政権崩壊後、各国NGOが学校建設を進めているが、ペシャワール会によると、非イスラム教国の団体によるマドラサ建設は初めて。
同会は干ばつによる食料不足を防ぐためシェワ地区などで農業用水路を造成。用水路は二十一キロ余り完成し砂漠地帯だった土地で耕作が可能になった。このため、隣国パキスタンに逃れていた難民が続々と帰還、地区周辺の人口が急増しているが、大きな学校がなく、信仰に根差したマドラサ建設の要望が出ていた。
約一万四千平方メートルの敷地に学舎と寮、モスク(礼拝所)を建設中で、今秋にも完成予定。同会現地代表の中村哲なかむら・てつ医師は「貧困層にとって寺子屋と養護施設の役割がある。過激思想を植え込むという考えは間違いで、科学なども教える大事な施設だ」としている。(シェワ共同=遠藤幹宜)
科学も思想もところが違えば過激にも穏健にもなる。進化論は科学ということになっているが、一部の人々にとっては過激であると映る。マドラサと一口に言ってもそこで教えられる思想というかイスラム神学というのは地球上どこへ行っても同じというわけではない。そのマドラサで教える側に立つピールであるとかホジャであるとかイマムであるとかの思想背景によって違ってくる。地域によっては女子のためのマドラサというのもある。どのようなマドラサを構想していたのだろうか。
寺子屋が必要ならば学校でよいではないか。養護施設が必要なら養護施設でよいではないか。なぜマドラサである必要があるのか。
ペシャワール会のウェブサイトを見る限り、マドラサ建設に協力しているというような話は一言も告知がない。あくまでも農業支援の話しかない。『過激思想を植え込むという考えは間違いで、科学なども教える大事な施設だ』というのは論点のすり替えだ。ペシャワール会のひとたちはどのように考えておられるのだろう。
何にせよ無事に解放されることを祈る。
昔から「留学は貴重な経験になる」とか「若いうちは海外旅行しとけ」とか聞いてたけど、語学が嫌いで中高の英語も大学で取った第二外国語もてんでだめで、どーせ国内で生きてくんだから別に海外なんて行かなくてもいいじゃんとか思っていた自分が、すったもんだの末に留学することになって、えっちらおっちら1年やって、日本に帰ってきた。
行ったのは日本のネット上で大いに話題になっている某国で、留学前はいろいろ心配してたし、実際に大変なこともいくつかあったんだけど、でもなんかさ、やっぱさ、行くと行かないじゃ全然違うんだよね。そこに暮らすのと暮らさないのでは明らかに違った。むかつくタクシーのおっちゃんや超汚いトイレに出会ったとしても、1年間そこに住んで、大好きな友達ができてお気に入りの場所を作ったら、その国のことは愛しいんだ。情がわいちゃうの。使い古された言葉だけど、まさに第二の故郷。
で、帰国して結構経って、ネットやマスコミの第二の故郷バッシングに(仕方ないとわかっていても)イラっとしてしまう今日この頃。確かに責められる部分は追求するべきなんだろうけど、あまりにも嫌悪感が表に出すぎてて何それ? って思うこともしばしば。民度? 何それおいしいの? 本当に他国のことを憂いているのはごくごくごく一部の人だけで、ほとんどの人はネタ的にまた○○かって言いたいだけ。それが悔しい。よくわかんないけど、お前の母ちゃんデベソって言われてるような気持ちになる。
たまに国自体とその国に住む人々を同列に語っている人がいるけど、トンデモ国家に住んでる人だって、国に振りまわされてんだと自分は思う。トンドモ教育受けたり(あるいは教育自体受けられなかったり)トンデモ政策の中で育ったりしてるんだもん。育ってきた環境が違うから好き嫌いは否めない、みたいな。いやちょっと違うかな。とにかくそういった実感を持ったのは、やっぱり留学したから。それまで自分にとって外国のことは他人事でしかなかったんだけど、他人事が私事になるような環境にいたら、人間何かしら変わっていくんだと思う。ひとつの国でそういう経験をすれば、自分の中にある偏見やステレオタイプに気づいて、他の国や人の見方も変わる。これは自分の場合だけど。
長くなったけどさ、若い人も若くない人もいっぺん海外行ったら楽しいと思う。そりゃもうびっくりしたりすげーむかついたりするだろうけど、一つくらい好きなとこ見つかるかもしれないよ。ツアーとか1泊2日の小旅行だと微妙かもしれないけど、まあ美味しいもの食べれたらそれも思い出になるだろうし。大学生なら、お金とチャンスがあるんなら語学力が多少不安でも留学してみるといいと思う。案外なんとかなる。語学を目的にするのもいいし、語学力の他に得るものもあるんじゃないかな。何より日本の外にも好きなものや大切なものができるっていうのが楽しいよ。おすすめ。
おそらく上の文を書いた増田は、喫煙者の都合と非喫煙者の都合がバッティングした場合に、
後者の都合が優先されるべきだと考えているのだと思う。
まずそのときの「喫煙者の都合」っていうのは、「煙草を吸いながらうまいもんを食べたい」っていう都合だ。
「非喫煙者の都合」は、「煙草の煙に邪魔されずうまいもんを食べたい」っていう都合だ。
喫煙者の、「煙草を吸いながらうまいもんを食べたい」っていう都合が、周囲に迷惑をかけず、己の範囲に止まればいいが、残念ながらそれは周りの非喫煙者にも迷惑をかける。それも、それが命に関わる(例えば物凄く臭い薬であるとか)ならまだしも、単なる嗜好品。
個人の単なる嗜好品のために、その嗜好品を楽しみたくない人が、健康の危険にさらされ、煙たさにさらされ、不快になる。飯もうまさが減る。
個人の単なる嗜好品のために、それを楽しみたくもない人たちが我慢するのか。
それとも、ある嗜好品を外で行われると嫌な人たちのために、その嗜好品が好きなものが、公では我慢をするか。
どちらが我慢すべきかといえば、後者だろ?
一方は「嗜好品を我慢する(公の場で)」一方は「普通の生活(煙でせきこまない、普通に飯を食べる)を我慢する」。
どちらをとるか?といえばそりゃ嗜好品の側に我慢してもらわにゃなるまい?
一部の人間が嗜好品を嗜みたいがために、多くの人が、「普通の暮らし」を我慢しなきゃならないなんて、理不尽極まりない。なぜ、そこまである嗜好品を嗜む側が優先されねばならないのか、理解に苦しむ。
まず、大勢の人が「普通の暮らし」が出来るのが第一で、個人の嗜好品云々は、その土台の後に来るべきものだろう。
ある嗜好品によって普通の暮らしが出来ない人がこれだけ出てくるのに、その嗜好品を使用する側が優先されているのは、嗜好品を使用としない側の「普通の生活の権利」より、「嗜好品を嗜む権利」が優先されているということだ。ほとんど人権無視に近いだろ。