はてなキーワード: ライトノベルとは
諸君 私は決断主義が好きだ
諸君 私は決断主義が大好きだ
『バトル・ロワイヤル』が好きだ
『リアル鬼ごっこ』が好きだ
『ドラゴン桜』が好きだ
『DEATH NOTE』が好きだ
『コードギアス』が好きだ
『Fate/stay night』が好きだ
『野ブタ。をプロデュース』が好きだ
この地上で行われるありとあらゆる決断主義が大好きだ
戦列をならべたゼロ年代の想像力の一斉発射が轟音と共にセカイ系を吹き飛ばすのが好きだ
空中高く放り上げられた第三世代オタクの自意識がパワーゲーム的世界観でばらばらになった時など心がおどる
サブカル保守の操る教養主義のアイロニーがポストモダン批評家を撃破するのが好きだ
悲鳴を上げて燃えさかる波状言論から飛び出してきた批評家を「現代の想像力」でなぎ倒した時など胸がすくような気持ちだった
銃剣先をそろえた職業ライターの横隊がブログ論壇を蹂躙するのが好きだ
恐慌状態のブックマーカーが既に息絶えたブロガーに何度も何度もネガティブコメントしている様など感動すら覚える
敗北主義の引きこもり達を実社会に吊るし上げていく様などはもうたまらない
泣き叫ぶ甘えた感性の持ち主がゼロ年代の振り下ろしたサバイブ感とともに金切り声を上げる決断主義者にばたばたと薙ぎ倒されるのも最高だ
哀れな反論者達が雑多なイジケパフォーマンスで健気にも立ち上がってきたのを河出スクールカースト文学が文化圏ごと木端微塵に粉砕した時など絶頂すら覚える
諸君 私に付き従う決断主義者諸君
君達は一体何を望んでいる?
更なる決断主義を望むか?
情け容赦のない糞の様な決断主義を望むか?
鉄風雷火の限りを尽くしサブカル論壇の鴉を殺す嵐の様な闘争を望むか?
よろしい ならば決断主義だ
我々は渾身の力をこめて今まさに振り降ろさんとする握り拳だ
だがこの暗いウェブの底で五年間もの間堪え続けてきた我々にただの決断主義ではもはや足りない!!
大決断主義を!!
一心不乱の大決断主義を!!
ならば我らは諸君と私で総力100万と1人の戦闘集団となる
我々を忘却の彼方へと追いやり眠りこけている批評家連中を叩き起こそう
髪の毛をつかんで引きずり降ろし眼を開けさせ思い出させよう
連中に不安の味を思い出させてやる
連中に我々の不安と憤りの音を思い出させてやる
ゼロ年代と九〇年代のはざまには奴らのテツガクでは思いもよらない事があることを思い出させてやる
一千人の決断主義者の戦闘団で
サブカル論壇を燃やし尽くしてやる
ありがたい話です。僕はエヴァ大好きなんで。
ニコニコ動画でエヴァ関連動画を観ると「ハルヒの方がすごい」とか「懐古厨乙」とか「爺は巣にカエレ」とか返される状況がぼくたちの00年代のリアル(大爆笑)でありますよ。そんなリアルの中で何かまともなことをやっていこうと思ったら「エヴァは死んだ!」「エヴァは終わった!」とか何かあるたびに言っている場合じゃないですよ。劇場版も華麗にスルー推奨ですよ。
「ニューアカ」とか、「マルクス主義」とか、なんでもいいけどそのへんの一世を風靡した単語とまったく同じですよ。終わった終わったと嬉しそうに連呼するバカがそいつらの寿命を伸ばすんですよ。http://d.hatena.ne.jp/otokinoki/20070531/1180589181こんな感じで。ひょっとしてこの人、ツンデレなんだろうか、と思ってしまう。
それにしてもなぁ。
このエントリで書きたかったことは↑で終わってるんだけど、蛇足。ルルーシュとよしながふみを取り上げてればオッケーってなんなんだろうね。どっちもネット界隈では大メジャーなわけで、それを紙媒体に上げたら偉い、みたいに考えるのって、出版関係者ってつくづく紙媒体帝国主義というか、オヤジ体質というか、どうしようもないよなぁ。しねばいいのに。
さらにどうでもいいけど。ハルヒはダメでルルーシュはオッケー、って結局どっちにしろ角川書店最強説じゃん。どっちがどうだろうと大勢は何も変わってねえわけじゃん。徳間書店の『アニメージュ』はオタク業界の朝日新聞、とか言われてた時代があったけど、角川書店は自民党だな。第四の権力どころじゃなくて、日本のオタク体制がそれ抜きでは考えられない、オタクの国体(オタ体)ってやつなんじゃねえのか。ライトノベルの売り上げの大半も角川書店関連レーベル(スニーカー・電撃・富士見・ファミ通)なわけだすからのー。きょわい、きょわい。
はい、しつもーん。
増田はいわゆる「伝奇小説」というジャンルは他に読んだ事があるんだろうか。
いやね、俺も空の境界は読んだことあるのだが、「奈須作品の事前知識」も「武内絵変換」もまるで必要なかったから。どちらかといえば伝奇小説のコードなのかなと思ったわけよ。ああ、新伝奇という言葉は講談が境界を売るために作った造語らしいが……そうだな、伝奇小説とライトノベルの合いの子のような感じというイメージが結構当てはまるね。だからラノベと伝奇双方のリテラシは(楽しむためには)必要かなと思う。
まあね、この文章をもって「文章の最高位」とかいう奴は単に信者として放っておけばいい。これは確かにむしろ悪文の領域だが、その独特のアクが「受ける人には受ける」という類の代物だから。ただ、それを以ってして「奈須ファンしか楽しめない作品」と断ずるのは少々早計だと思うぞ。
あー、あと最近の「似非オタク」の論法は常に増田が遭遇したのと同じだから気にすること無いよ。「ボクの褒めちぎる××を理解できない奴は理解力が足りない」「この作品の深みを理解できない奴はもっと本を読め」云々。実際には「ボク」どころかアルファオタクが誉めたものを摂取しているだけのクセにね。そういう「相手を見下すことでマンセー以外の批評を土俵から追い出したがる」連中は、自分で自分の好きな作品の品位を落としてるって気づけないのかねー。
http://anond.hatelabo.jp/20070512161648
ミステリやSFは横溝賞や小松賞っていう「取ったら世間に認められる賞」がある。
でもライトノベルって(商業デビューのための新人賞以外に)それに該当する賞はない。
第3者に「あんたはエライ!」って言われるのが興味ない、
むしろ書き手と読み手の間に壁が出来て邪魔だから。
ポケモンがすごい物語というわけではないけど子供への親しみでは圧倒的なもの。
ライトノベルの良さはそういうものに近いんじゃないのかな。
(もちろんすごいものはあると思うけど「1番の褒め言葉じゃない」だけ。)
ミステリやSFの「いいもの」が読者に愛されてないとでも思うのか。
「読者に愛される」ものがいいものなのは娯楽小説じゃ何処でも同じだと思うが、殊更「すごくなくていい」を強調すると、そりゃあたかもラノベ読者は「根性がないので適当なのを愛します」って言ってるようなもんだぜ。まあ確かにそれはラノベ読者の一般的イメージではあるが……。しかし卑下したいのか貶したいのかどっちなんだ。
今日発売の野性時代を買った。お目当ては秋田禎信インタビューだ。このたび一般文芸の世界で単行本を出すということで、インタビューを受けていたのだ。その中で秋田は自分が考えるラノベについて語っていた。
僕がデビューした頃、当時は「ヤングアダルト」と呼ばれていた世界は、一言で言うと「何でもあり」だったんですね。どんな文体、どんなテーマ、どんな主人公でもとにかく「面白い!」と言える物語を読ませてくれた。だから作家を志したときに、ごく自然にその場所に入っていけたんです。
でもそれから10年ほど経つうちに、「ライトノベル」という名前が公に使われるようになってきて、名前に固定されるかのように、ジャンルが作られていったんです。ジャンルに括られることで読者にとって把握がしやすくなったり、編集者にとって本が売りやすくなったりするというメリットはあるんでしょうが、僕は、何かの表現物がジャンル化されることで、作り手にとっても読み手にとっても不自由になっていくのを、たくさん見てきた気がして……。
今では作家たちの中でも「ライトノベルとはこうあるべき」という議論が盛んにされるようになって、なんだか窮屈だなあと思ってますね。
といっても、僕はそんなに器用な作家じゃないから、結局は自分の根幹にあるものは変わらないなというか、根幹にあるもので書いていくしかないなということはわかっているので、割り切っている気もしますけど(笑)。
秋田禎信は作家という立場で、どういった「ラノベがジャンル化されることによる不自由さ」を見てきたのか非常に気になる。
また、2chの秋田スレでは秋田もうラノベやめろ一般行けという意見がよく見られたが、それは秋田がこのようにどんどん狭義化していこうとするラノベに抵抗感を持っていたのが読者にも伝わったからなのかもしれない。
もしかしたらこうした抵抗感を持つ作家は秋田以外にも多いのかもしれない。最近一般文芸に進出している作家たちは皆このような抵抗感を持ち、そのライトノベルかくあるべしという世界から逃げるために一般文芸の地平を目指しているのかも。
上記の仮説が正しいとすると、文芸農耕説というのが言えるかもしれない。ライトノベルジャンルだけではなくミステリジャンルにも見られた傾向だが、作家たちがとにかく面白いものを書ける地平で作品を育てていくものの、次第にその畑で採れるものはこうしたものだと期待されることが重荷となり、再び面白いものが書ける地平を目指して旅立っていく。そうして見つけた地平は昔育てられるものが画一化されて見捨てられた一般文芸という地平だったりして、でもそこでもいい作品を育てたらどんどん採れるものに画一化されたものを期待されてしまうようになってまた新しい地平を探してそこは……、そんな作家の流通現象がミステリ、ラノベ、一般文芸の間で起こっているのかも。
http://d.hatena.ne.jp/kim-peace/20070428/p1
ライトノベル読者には二種類が存在する。一つの作品しか買わないようなライト読者、そしていくつもの作品を並行して購入するヘビー読者である。「ライトノベルの読者は作家を追いかけようとしない」という表現は少し違っていて、作家を追いかけないのはあくまでライト読者だけである。現に、ヘビー読者が『涼宮ハルヒ』と『学校を出よう!』をセットで勧めているではないか。
では、なぜライト読者とヘビー読者に分かれてしまっているのか。おそらくライトノベルの、価格のわりにボリュームがあるという特性によるものだと思われる。小説を読みなれていない人にとっては、一作品だけでも十分なボリュームを楽しめる。また、小説を読みなれている人にとっては、これほどコストパフォーマンスに優れた物はない。よって、前者は一作品だけで満足するライト読者になりやすく、後者は手当たり次第に買い漁るヘビー読者になりやすいのである。
ってな説でどうだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20070429122523
あ、コストパフォーマンスが良いってのは、漫画やゲーム(エロゲ)と比べてのことです。
キャラよりも、世界観を全面に押し出した展開をしてる作品を読むとハズレが少ないと思う。人気のあるキャラは高い割合で強度ヲタ向けの造形だからライトヲタにはきつい。
表紙買いするなら、『ゼロの使い魔』『ハルヒ』のようなタッチの絵は避けた方が安全。『イリヤ』や『半分の月』のようなタッチのイラストが表紙の作品の方が多少無難。あと、キャラクターしか見えない=背景とかがない場合、危険。
判断基準としては心もとないけど、絵師は作品傾向を反映して選定されるのが普通だから、無から選ぶよりはマシ。
甘酸っぱい恋愛が好きなようなので、村山由佳の「おいしいコーヒーのいれ方」シリーズ(『キスまでの距離』etc.)とかが合うかも。直木賞作家かなんかだけど、この人も元々はラノベ畑。乙一と同じ。ああ、乙一の『失踪HOLIDAY』『きみにしか聞こえない』辺りも、恋愛は無いけど雰囲気は近い。この辺は一般書とジュブナイルとライトノベルの境界線。あとはセカイ系に興味があるなら『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』とかの滝本作品か。
SFな人らしいけどSFの好みが分からないので、とりあえず高評価の秋山瑞人から『E.G.コンバット』『鉄コミュニケイション』をお勧め。
あとはマイナーでもなんでもないけど、本読みでラノベ初心者って人にお薦めな定番、『キノの旅』か。最近なら『狼と香辛料』もこのライン。
http://anond.hatelabo.jp/20070425021728
いやね、秋山瑞人の『猫の地球儀』を面白がれるSF好きの人だったら、古橋秀之の『ブラックロッド』に始まる〈ケイオス・ヘキサ三部作〉をオススメすれば「ライトノベルはじまったな」状態になるのはわかっているんだけど、でもなんかいいかげん増田で古橋布教するのも飽きたというか、業界(?)内評価高まり過ぎでいいかげん長年に渡る古橋ファンの俺でも尻がむずがゆいというか、「ライトノベル=SFの植民地」という大森望と早川書房にばかり都合のいい史観をセカイにまた広めてしまうのもどうかというか。そんなこんなの小理屈をこねてツンデレしてヘビー級ライトノベルを進めてしまう俺なのだった。べっ、別にライトノベル読んで欲しいなんて思ってないんだからねっ!
ライト級ライトノベル(桜庭一樹とヤマグチノボルの中間)なライトノベルって、改めて考え出すとタイトルが出てこないもんだなぁ。
ああ、そうだ賀東招二の「フルメタル・パニック」シリーズ(長篇の方)とかがライト級ライトノベルかも。
フェザーライトノベル欲しい!と書いたワタクシにヘビー級をのっかりしてまで勧めてしまう増田どもが僕は大好きです。でもたまにはライトライトノベルぐらいなのも思い出して勧めてみてあげてください……!
ちなみに今は桜庭一樹をもう少し読んでみようかと思ってる。
あと漱石のリズムがいいってのは良く分かるなあ。とりあえず最大でも損害は読み終えた時に「やっぱ騙された!」と叫ぶぐらいの程度なので、是非とも突撃してみては。今回のラノベ突撃で身を持って理解したよ、「なんだよこの刷り込みラヴ女! ウザいんじゃ!」という沸々とした気持ちに耐えながらも読み進めれば、結論がどうでても「実は良かった」「やっぱ苦しいじゃねーか畜生と実体験で言える権利」の最低どちらかが得られるのは悪くない。
それに多分漱石は俺の突撃よりは楽だよ。本当に多分。
http://anond.hatelabo.jp/20070424223734 みたいな薦め方はナシじゃねーかなあ。
あれは、作品を読むのはダルいけどライトノベル関係で企画書を書きたいサラリーマンのアンチョコ用、もしくはそれなりにライトノベルを読んでる人の脳内整理用の本だというのが、何度か読み返しての俺の印象。「大変だ」といいつつ http://anond.hatelabo.jp/20070424222549 こんだけちゃきちゃきと楽しんで読めている人に今更薦める本じゃないんじゃないかと思ったよ。
……ところで、もしまだライトノベル読む心の余裕があるんだったら、長年に渡ってヘビー級に君臨するタイソンばりの帝王であるところの『撲殺天使ドクロちゃん』を読んでみません? 元エントリのお方。
んんんんー。スマンけどそういうのは読みたくないなあ。
SFとかミステリーとかゴシックとかハードボイルドとか、別にそれを楽しむのに入門書とか不要だしねえ。これは追記を兼ねるんだけど、ライトノベルもなんかそれ自体を総体として一つのカルチャーと捉え、楽しむ/否定するモノだという流れは日頃感じていて、そこになんか違和感を覚えてたのね。そこで増田での話題を機にとりあえず飛び込んでみたわけ。
で、元々自分は濫読の傾向があるからかもしれないけど、別に十把一絡げに「小説群」として楽しむなら、ラノベも面白いものは面白くて、つまんないモノはつまんないだけじゃないかなという気はした。さっきは色々読み辛さについて触れておいて何だけど、この読み辛さは他のジャンルでもたまに当たる読み辛さと「度合い」においてはそんなに違いはないし。
ただ、ラノベに「特有の共通した」読み辛さってのは確かに感じたので、その辺はジャンル傾向として注意した方が&注意して買えるような仕組みが合った方が読み手は嬉しいかもな、と思ったわけです。その辺は先の人が挙げたように作家別が一番かもしれない。SF知らない人にいきなりスティーヴン・バクスターやグレッグ・イーガンとか読ませたら多分泣くけど、別にレーベルでそれが回避できるわけじゃないしね。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4797333383/
を、おススメします。
何を読んだのかを書くんだ!(anond:20070424113931)と言われてしまったのでちょっと晒してみよう。
anond:20070424113931で名前が出てた人も一部読んだよ! ちなみに読んだ順。
総評:やっぱり「フライライトノベル」と「ヘビーライトノベル」は、例えばレーベルとかで分類して欲しい! でも先の人が「ライト」と書いてた谷川流の小説に読み辛さを感じたり、所詮は好みでもあるのかなとも。あとやっぱりイラスト恥ずかしい。カバーは掛けてるけど挿絵はビビる。電車の隣の人もビビる。
ちなみに普段の読書傾向は幅広くSFや海外サスペンス、軽く西洋系歴史物、ミステリーは古典、といった感じの男性がお届けしました。
さて、とすれば「ライトミステリ」や「ライトSF」に対して「本格推理」や「ハードSF」があるように、ラノベにも入門用(普通の小説に近い?)とディープ用の区分を分かりやすくしてくれたら楽しいなあとか思った。フェザーライトノベルとヘヴィーライトノベルみたいな。
この発想は面白いなー。
多分、「フェザーライトノベル」の代表作家が桜庭一樹さんなんだろうね。だから「ライトノベル読みたいけどコードがわかんなくてしんどい」層と「ライトノベルオンリーから一般小説へと読書の幅を広げたい」層の両方に受けて、あれだけメジャーになれたんじゃないか、とか思った。
ボクシングの比喩を使って話をすすめると(参考:http://www1.odn.ne.jp/haru/data-other/boxing.html)、多分、有川浩さんは「スーパー・フェザーライトノベル」くらい。谷川流さんがまさに「ライト」かな。今野緒雪さんなんかも「ライト」かなぁ。上遠野浩平さんは「スーパーフェザー」なのか「スーパーライト」なのか判断に悩むところ。西尾維新さんがクルーザー級くらいで、ヤマグチノボルになるとヘビー級とかなんとか。
適当にラノベに詳しそうな人を捕まえてお勧めを何冊か読んでみた。
正直言うと、結構これが辛かった。ラノベ独特のプロトコルってかコードってのかな、それを読むリテラシが無いと「ライト」と言いつつなかなかしんどいものだとは分かった。ただこれはラノベに対する煽りってわけでもなくて、多分例えばミステリやSFを読み慣れてない人が感じる辛さと類似なんだろうな、ということ。
さて、とすれば「ライトミステリ」や「ライトSF」に対して「本格推理」や「ハードSF」があるように、ラノベにも入門用(普通の小説に近い?)とディープ用の区分を分かりやすくしてくれたら楽しいなあとか思った。フェザーライトノベルとヘヴィーライトノベルみたいな。
……でもその場合って名前はどっちがどっちかわからんね。「ライトライトノベル」は一般人向けなのか、よりラノベファン向けなのか。うおっと。
http://anond.hatelabo.jp/20070422234719
んー。もっとすごく単純な話で、「絵がキレイ」で「よく動く」作画が一番評価されやすいんじゃないのかなぁ。
だから当然、絵のキレイさが無ければその分だけ評価が下がるというのは、これまた極々単純な話。
しかしながら、現在の「萌えブーム」の中核をなすギャルゲー、ラノベ世代の若いアニメファンにとって、アニメ映像のクオリティの基準は“絵の美麗さ”“キャラクターの一貫性”にあることが多い。これは、ギャルゲーやライトノベルがアニメーションとは異なり、原画家、イラストレーターといった、比較的少人数のスタッフによって描かれることから、絵柄のブレが発生しないメディアであるということも、大きな要因であると思われる。
また、メディアミックスを通じて、複数のメディアで横断的に作品、キャラクターを消費することが普通になっているため、キャラクターの一貫性を維持するということは、ファン活動そのものを維持することに直結する。ゆえに、いちばんわかりやすい、ビジュアルとしてのキャラクターの一貫性が強く求められているのではないか。
グレンラガン4話やアクエリオン19話(だったよね?)の作画の評価割れの件について言えば、そんな複雑な分析は恐らく必要ない。「上手いものは上手い」「下手なものは下手」ただそれだけです。いや、下手と言っても、比較的に…という話ですが。
もちろん、ヘタウマ絵なんて妙なカテゴリもあるくらいで、”下手さ”があるからこそ表現できるものというのはあるのだろう。個性だとか、アート的な何かだとか。ただ、その部分に評価の重点を置きすぎて、下手である事をスルーしてしまうと、それが原因で評価割れが起こってしまうのではないかと思います。
最近では、アニメーターブームの中核を担っていたような人々が、監督クラスになって作品を作っているので、こういった遊びが復活するのも不思議ではなく、動く絵を愛するアニメファンとしては、どうか表面的なキャラ絵だけではなく、広い意味でのアニメをみる楽しさ、アニメの気持ちよさを知ってもらいたいなあと思って、このような駄文を長々と書き綴ってしまいました。
「○○産の△△は□□地方特有の××で育成されただけあって芳醇な…」
それは確かに高度な楽しみ方なのかもしれないけれど、別にそんな事が言いたいわけじゃない。僕らは、ただ単に感じたいだけなんです。
「あー、おいしかった」
って。
ひとつは、絵の美麗さ。
ひとつは、動きのよさ。
「絵の美麗さ」とは、いうまでもなく一枚一枚の絵の美しさ。本来は、レイアウトなども含めて絵としての完成度が測られるべきだが、最近では、キャラクターが可愛く描けているかどうかに重きがおかれる傾向がある。
しかしながら、アニメは構造上、多くの人間によって描かれるため、描き手の能力や個性によって絵柄がブレることになる。そのため、作画監督という役職を置くことで、1話単位での絵柄の(できるかぎりの)統一を図っているのが実態。
場合によっては、さらに“総作画監督”という全話にわたって絵柄を管理する役職を設けることもある。
「動きのよさ」とは、動画=動く絵としての心地よさ。細かい表情や、仕草、あるいは派手なアクションなど。この動かし方やタイミングはアニメーターとしての技術力が最も現れる部分であり、個性がはっきりと出ることになる。“動き”は、キャラの演技や画面演出の幅の広さにつながる重要なポイントとなる。
かつて、80年代後半のアニメーターブームにおいては、様々な作品中でアニメーターが見せる個性的な“動き”にファンが注目し、スターアニメーターと呼ばれるアニメーターが何人も誕生した。
その時代に詳しくない人にも解りやすい例としては、金田伊功の「金田エフェクト」(オーラや稲光、またはその残像などが、画面内で激しく動き回る効果)や、板野一郎の「板野サーカス」(ミサイルや戦闘機が、縦横無尽に追いかけっこをするように動く、メカアニメの定番表現。納豆ミサイルとも)がある。
ちなみに、上記のような“動き”の表現は、アニメーター達の間で模倣、継承され、さらに新しい表現を生んできた。スタジオ内の師弟関係によって、動きだけでなく、絵柄も継承されることがあった。アニメーター単位ではなく、スタジオ単位で担当作品を認識するケースも見られる。
作画監督というシステムも、過去においては縛りの厳しいものではなく、作画監督ごとの個性が大きくでている作品も少なくない。『美少女戦士セーラームーン』はキャラ絵の可愛さに重きを置いているイメージがあるが、実際には作画監督の個性が強くでていた作品の代表例といえる。
アニメーターの個性を楽しむ、という面では、過去には『機甲戦記ドラグナー』において大張正巳による(設定とは異なった)有機的なラインで描かれるメカをそのまま登場させるオープニング(特別に本編に登場した回もある)や、『天空戦記シュラト』での菊池通隆による作画監督回(本来のキャラデザは奥田万つ里だが、当時『超音戦士ボーグマン』で人気が集中した菊池が特別に起用された)など、作画の個性がファンサービスとされたこともあった。
最近でも、『創聖のアクエリオン』におけるうつのみや理、『ギガンティック・フォーミュラ』での薮野浩二(本編)と門之園恵美(原案・ED)といったアニメーターの個性を全面に出した演出、遊びが見られるが、若いアニメファンから「作画崩壊」と揶揄され、拒絶されるケースが多くおもわれる。『天元突破グレンラガン』#4も、キャラクターの感情をさりげない動きで巧みに表現する小林治(『BECK』監督)の個性が全面に出ていることで、過去3話と比較するファンに拒絶されている。
ちなみに、「作画崩壊」というのは本来、制作工程の管理ミスなどにより「動かない」「絵がヘタ」「色がついてない」等の“未完成”状態のアニメが放映、上映されてしまうことを指していた。1989年の『天空戦記シュラト』アスラ神軍編に始まり、1998年「ヤシガニ」の語源となった『ロスト・ユニバース』、1999年に未完成のまま劇場公開され波紋を呼んだ『ガンドレス』と、過去数度にわたり「作画崩壊」は発生している。アニメバブルによる製作本数の増加、海外発注の増加によるクオリティコントロールの困難など、様々な理由があるが、最近では海外スタジオとの作業ノウハウも蓄積されているので、トラブルになるケースは減少したが、国内の動画スタッフ空洞化という新たな問題も抱えている。
上記のような理由から、アニメーターブームを経験している様なファン(30代??)はアニメーターの個性に対して寛容、あるいは好意的な態度をとることが多い。
しかしながら、現在の「萌えブーム」の中核をなすギャルゲー、ラノベ世代の若いアニメファンにとって、アニメ映像のクオリティの基準は“絵の美麗さ”“キャラクターの一貫性”にあることが多い。これは、ギャルゲーやライトノベルがアニメーションとは異なり、原画家、イラストレーターといった、比較的少人数のスタッフによって描かれることから、絵柄のブレが発生しないメディアであるということも、大きな要因であると思われる。
また、メディアミックスを通じて、複数のメディアで横断的に作品、キャラクターを消費することが普通になっているため、キャラクターの一貫性を維持するということは、ファン活動そのものを維持することに直結する。ゆえに、いちばんわかりやすい、ビジュアルとしてのキャラクターの一貫性が強く求められているのではないか。
このことは、『ぱにぽにだっしゅ!』では好評だった新房昭之が、そのままのスタイルで手がけた『ネギま?!』が原作ファンからブーイングをくらうことになったケースにも見て取れる。
今回『グレンラガン』がブーイングの対象になっているガイナックスは、本質的にはアニメーターの個性や動かす技術による部分が大きいスタジオであるので(決して、エヴァとパチンコでお金を稼ぐのが本質ではない、と思いたい)、今回のように作画監督、原画の個性が顕著に現れることは、意外ではない。
最近では、アニメーターブームの中核を担っていたような人々が、監督クラスになって作品を作っているので、こういった遊びが復活するのも不思議ではなく、動く絵を愛するアニメファンとしては、どうか表面的なキャラ絵だけではなく、広い意味でのアニメをみる楽しさ、アニメの気持ちよさを知ってもらいたいなあと思って、このような駄文を長々と書き綴ってしまいました。
決して、俺達はお前達とちがって芸術が解る眼を持っているんだぜ!と言っているわけではないんです。ほんとに。
中学生くらいの頃、魔術士オーフェンというライトノベルが大好きだった。その話の主人公は二十歳で、当時厨房の私からしてみたらすっごく大人に見えた。自分の面倒は自分で見れて、先生なんかもしていたりして、仲間のことを守る力もあって。…本当に憧れていた。
そして今、23歳。もうオーフェンの年をとっくに過ぎてしまった。なのに私はまだ学生をしている。まだ学生って言うのは院に進んだとかじゃなくって単純に留年ってこと。全然自分が大人だなんて思えない。一応親からの仕送りは無しでバイトして生活しているけれど、結局は留年して、自分の面倒すら自分で見切れてはいない。まして誰かを助けたりなんてこと、全然出来てない。
オーフェンは所詮お話の中の人物だからよく見えるんだ、実際の23歳なんてこんなもんだ、とか思うこともあるけど、でもしっかり就職して働いてる友人たちを見たりすると、やっぱり自分だけまだ二十歳にもならないまんま時間が止まってしまった様な錯覚に襲われる。
その二年で、私はどれだけあの憧れの主人公に近づけるんだろう?