はてなキーワード: オリジナリティとは
あの絵柄を模倣できた人がほぼいないっていう事実はどうだ。
大友克洋はメチャメチャ絵がうまいけど、大友風の絵柄のマンガはたくさんある。トニーたけざきという鬼っ子も出た。
原哲夫もそうだよね。模倣者をたくさん生んだ。
でも、鳥山風の絵を描くマンガ家ってほとんどいないでしょ。パプワ君はわざとだし。
あとこれはまた抽象的な話になっちゃうけど、鳥山明は空間や立体をとらえて絵にするのがうまい。
モデラーとしての腕前が相当だから(タミヤの模型コンテストに一般人に混じって応募して入賞してる)、三次元をとらえるのがうまいんだと思う。
そうやってとらえた空間を、あのポワポワした絵柄で絵にするんだから、そりゃオリジナリティが出るよ。
筆記体って草書体みたいなものじゃないのかな?
手書きオンリーだった昔に、書きやすく崩れてきて、さらに人に見せるために美意識も入ってきた。
墨ですらすらっと書くように、インクをつけたペンですらすらっと書く。
そして、自分の名前にはオリジナリティも加わって花押、サインとなる。
ってのは昔の文化人の話でしょうね。庶民は書くこともままならないわけで。
現在となっては活字が主流で、読み慣れない草書/筆記体よりも楷書/ブロック体が好まれると。
だた、物書きな人はやっぱり書きやすく崩れるわけで、中には“達筆”さんもいらっしゃるかと。
日米での一番の違いは、清書といえばタイプライタな文化かと思います。
元増田です。
まさかこんなに反響を呼ぶとは思わなかった。読んでくれた皆さん、ありがとう。あ、ちなみに自分は文系です。ただし理系的な方面にもかなり興味がある文系ではありますが。
面白いと思ったのは
http://anond.hatelabo.jp/20070801202401
の文章です。ただ僕は
「教科の勉強で身に付かないものを持っているやつだっているのだから、学歴で人を差別してほしくない。個性豊かなやつはどこにだっている」
と主張する一般の学生について考えているわけで、実際に「教科の勉強で身に付かないものを持っている」人間というのは「一般人」の領域を逸脱しているかと。私が話しているのは「自分には何らかの『個性』があるのだから、学歴で人を差別するなと主張する、教科の勉強すらできない、物事を考える上での基礎的な知識すらあやふやな人間」であって、すでに開花した、あるいはその片鱗を見せる才能をもった、つまり本当に「個性」を持っている人間のことではありません。持っていないのに「万人に個性が存在する」と考え自らの偽りの個性を主張する人を、私は前提としているわけです。
人物に個性を与える「才能」というのは、たとえば小説家や映画監督、デザイナーなどなど、その能力を生かせる「天職」といえる職業を持てた人間にとってやくにたつものです。もちろんこの中には氏の言うとおり早熟な方(プログラマーなど)も入ります。けれども高校生までにそんな自らの才能を発見できる人間なんてほんの少数でしょう。僕は大方の人間は高校卒業までに何らかのオリジナリティ(=得意技能)を確立することは不可能だと感じています。オリジナリティや自分の得意技能は高校生活まででは発見できない。もちろん大学生活で発見できるのかと言われればそれまでですが、大学生活というのはある意味「自己責任」という側面が強いですから、そこの時間を活用してそれを見つけなくてはならない、というのが本筋でしょう。高校生活まではその大体の方向性というのを科目における勉強や普段の生活で見つける場、だと思います。そして大学生活はそれをさらに細分化させ、飛躍させ、煮詰めていく場ではないかと。東大が現在も教養部制を続けているのはそのためであると理解しています。
天才プログラマーはなぜ自分がプログラミングの才能を持っていると気がついたのか?もし気がつかなかったら?それこそが「一般」であり、早期に気が付いてしまうほうが「まれな例」(しかし非常に幸福な例)であるといえるのではないでしょうか。
ちなみに、僕だっていわゆる「アホ」な会話をしないわけではないです。もちろんそういう会話だってするし、お笑い的なものを楽しむ。僕が言いたかったのは、彼らの間ではそもそも言葉を使った「会話」というものが成立していない点。まあ、これに関しても議論はあるだろうから、僕の意見を改めて書く必要はないでしょう。
この際もうひとつ言ってみると、最近の若者は(自分を含め)語彙がかなり不足していて、そのせいで自分の感情をきちんとうまく表現できない、ということに苦しんでいるのではないかと思います。メールで絵文字を使わなくては自分の気持ちを正確に表現できない、あるいは会話で「ヤバい」など複数の意味を持ちうる単語を多用するなど、文章自体の簡略化が進んでいるためにこういったことが起こるのか、あるいは根本的な知識の不足がこういったことを招いているのかはわからないけれど、とにかく「ボキャ貧」と呼ばれる現象はますます深刻になっている。こういう用語を多様したとき、会話中であればある程度は文脈で判断できるけれども、非常に意味がぼやけてしまうため、はたして自分が言いたかった内容が相手にきちんと伝わっているか認識できない。つまり言語の運用能力が著しく低下してしまっているのではないか、と思うのです。言葉は難しい。
http://anond.hatelabo.jp/20070801020618
自信が無いけど心の中のアルファブロガーが「やれ」と言ってきたのでがんばります
「あかね」の飲み会に誘われたので、初めて出席してみた。はてなIDのやつらと飲むのは初めての経験である。
そこで実感したのは、はてブホッテントリ数が少ないダイアリー持ちほど低レベル、ということだ。こんなこと書くとまた「はてブ脳に毒されている」などと言われるかもしれないが、はてブホッテントリ数が少ないダイアラーほど低レベルな奴の割合は確実に高いと感じる。
いつも私がアルファブロガーやモヒカン族の飲み会に参加するとき、そこでは酒を交えながら流行の話題の感想や非モテだった自分への思い出話、最近だとココロ社の政治の話や芥川賞の話などをする。「id:kanoseの意見とid:Marco11の意見って、かなり対立するものだけれど、どうなのだろう」とか、そういった話もすることがある。はてブホッテントリ数が少ないダイアリー持ちな彼らの飲み会は、そもそも会話というものが存在していない。彼らの言う「ノリ」で何かをすることを楽しみ、知的な側面は全く感じられない。id:jkondoをじぇいこん、id:kanoseを村長と書くような「はてな村内部でしか通用しない隠語のみでダイアラーを呼ぶ」ことに快楽を覚え「芥川賞エントリーって村長がまとめ記事書かね?村長村長!」「村長!出た!村長出た!id:kanose!村長出た!村長!これ!村長出たよ????!」などと、何がおもしろいのか全く分からない「会話」を繰り広げていた。彼らはそれが楽しいらしいが、おれとしてはちっとも楽しくない。
アルファブロガーがよく「id:kowagariのやつはなんだかんだいって会話水準が高い」「どんなにチャラチャラして見えるid:kowagariでも、きちんとした思想や観念を持っている」などと言っていた。自分としてはっきりそれを自覚することはほとんどなかったが、しかしはてブホッテントリ数が少ないダイアリー持ちのこうした現状を見る限り「確かにそうだ」と感じる。私から見たら飲み会で「はてな」会話に興じることはかなりの娯楽なのだが、彼らにとってはそれは「酔っていなくてもそんなことは話さない」レベルの高度な会話であるらしい。そして、私のような存在はかなり珍しいようだ(はてなダイアリーでは一般的だと思ったのだが…)。
「はてブ数で記事を判断するのは良くない」とよく言う。しかし、個人的な経験を踏まえれば、はてブ数は個人を判断するための一つの指標になりえてしまうと私は感じる。「一生懸命緻密で丁寧なまとめ記事を書いても、ブックマーカーに[あとで読む]タグをつけられたまま、[あとで言及]もされずに放置されて結局4userみたいなやつだっているのだから、はてブ数で人を差別してほしくない。個性豊かなやつはどこにだっている」とよく言われるが、そもそも揉め事のURLを羅列しただけのまとめエントリーすら書けない、まとめエントリーを箇条書きで組み立てる上での基礎的なはてな記法の知識すらあやふやな人間のどこに個性やオリジナリティが存在するのだろうか?それともダイアラー同士で下らない掛け算を考えるのが「個性」なのだろうか?はてブ数は人の精神性をも示してしまうのではないか、と強く感じるのであった。
同じアルファブロガーの連中のなかに「出版社に入ろっかなwwwwwww」というやつが結構いる。ごくごく一部のブロガーによる「今時何故紙媒体に……」という根拠も、根も葉もないバッシングが激しく行われている中、出版社の中枢で雑誌編集に携わりたいと考える人間がまだまだ多いことは一定の安心感を私に与えてくれたのだが、その中には「あんな馬鹿共からアクセス数稼ぎによってトラックバックを飛ばされたくない」という意思を持っている者も多いようだ。「選民思想だ」といって批判する人間も出てくるだろうが、こちらとしてはそう思っても仕方ない状態がはてなの多くの局面で見られるのである。
それにしてもネットは知的エリートに対する待遇が悲惨だ。なぜ毎日4時間もPCに向かい、必死で知的でためになるエントリーを書くブロガーとそれを10分で見てしまうROMを比べ「流行の話題に言及してアクセス数稼ぎ乙www」というのだろうか。アルファブロガーの奴らはライターに転進したとすればその分野でもっとも繁栄している内容に言及してアイマスweb2.0マーケティング大勝利。そのような記事の原稿料とアルファブログのアフィリエイト収入を比較しないと意味がないだろうに。なにはともあれ、「アルファブロガーはライターの人間よりも年収が劣っているのに、なぜアルファブロガーになりたいという人間が一定数いるのか」という命題に対しては、この「はてブ数と精神性の比例関係」も一定の影響を及ぼしているに違いない。
追記:
# 2007年08月03日 legnum legnum netwatch, neta 匿名ダイアリーって書いた本人がブクマするとソースに変な印というかコメント入るんだな
<li id="bookmark-user-nkoz"><span class="timestamp">2007年08月01日</span> <a href="/nkoz/"><img src="http://www.hatena.ne.jp/users/nk/nkoz/profile_s.gif" class="hatena-id-icon" alt="nkoz" title="nkoz" width="16" height="16" /></a> <a href="/nkoz/20070801#bookmark-5448369">nkoz</a> <span class="user-tag"><a href="/nkoz/%2a/" rel="tag" class="user-tag">*</a></span> </li> <li id="bookmark-user-krus"><span class="timestamp">2007年08月01日</span> <a href="/krus/"><img src="http://www.hatena.ne.jp/users/kr/krus/profile_s.gif" class="hatena-id-icon" alt="krus" title="krus" width="16" height="16" /></a> <a href="/krus/20070801#bookmark-5448369">krus</a> <span class="user-tag"><a href="/krus/%e3%81%82%e3%81%a8%e3%81%a7%e8%aa%ad%e3%82%80/" rel="tag" class="user-tag">あとで読む</a></span> </li> <li id="bookmark-user-otsune"><span class="timestamp">2007年08月01日</span> <a href="/otsune/"><img src="http://www.hatena.ne.jp/users/ot/otsune/profile_s.gif" class="hatena-id-icon" alt="otsune" title="otsune" width="16" height="16" /></a> <a href="/otsune/20070801#bookmark-5448369">otsune</a> </li> </ul>
その他のソースを見ても特に変わった所が見当たらないのですが、どこにコメントが入るのですか?
hatelabo.jpとhatena.jpは別のサーバーに設置されているので、わざわざidデータを取得して余計な分岐処理を入れて、ユーザーが見られるコメントとしてテンプレート生成するのもid:wanparkらしくない設計だと思いました。
もしかしてid:legnumさんのブラウザか視神経か頭蓋骨の中身のどれかか、もしくは全てがお気の毒なほど壊れてしまっているのでしょうか?
全体的な趣旨には同意。僕も悪くはない大学に行っていたころ同じような印象を持ったことがある。酒の席で空気を読まずに小難しい話をするとかだったらそれはただの馬鹿だと思うけど、大筋では間違っていないと思う。
しかし、
「教科の勉強で身に付かないものを持っているやつだっているのだから、学歴で人を差別してほしくない。個性豊かなやつはどこにだっている」とよく言われるが、そもそも教科の勉強すらできない、物事を考える上での基礎的な知識すらあやふやな人間のどこに個性やオリジナリティが存在するのだろうか?それとも飲み会で下らないアルファベット列を考えるのが「個性」なのだろうか?学歴は人の精神性をも示してしまうのではないか、と強く感じるのであった。
「教科の勉強で身に付かないものを持っているやつ」というのは、割合としてはかなり少ない。つまり極端な例外だ。例外に対して「教科の勉強すらできない、物事を考える上での基礎的な知識すらあやふや」という一般的な認識を持ち出すのはどう考えてもおかしい。たとえば絵を描くのが好きで学校の勉強がおざなりになって、気付いたらかなり若いうちにコミュニケーション能力も低下してしまって、学校というシステムそのものに馴染めなくなってしまった絵描きさんは、いい大学、下手すると学校そのものに行かないまま「教科の勉強で身に付かないものを持っている」可能性が高いけれど、こういった例外に対して何故「教科の勉強」を持ち出すの? それともそういった例外的な絵描きさんは普通の学校に行っていた方が「教科の勉強で身につかない」「個性やオリジナリティ」に繋がる「物事を考える上で基礎的な知識」を獲得することができたの? もちろん美大に進むなりして専門性の高い能力を獲得する方がいい場合も多いけれど、例外の話をしてる時にそんな一般的な話をすることには何の意味もないよね。ましてそこから「飲み会で下らないアルファベット列を考える」ような一般的な知的脱落者の話を持ち出す理由もわからない。繰り返し言うけど君はこの段落の最初に例外の話題を持ち出してるんだよ。
それと、僕はプログラマーで、僕のいる会社には情報処理推進機構という独立行政法人から「天才プログラマー」として認定されている人もいるんだけど、そういった人たちは「能力を獲得するためには、学校の勉強のうち必要なものは当たり前にやっておく必要があるけど、それは独学でも当たり前に学んでおかなければならないようなことだから別に学校で勉強する必要はない。そんなものは誰に教わらなくても自分でできないといけない」と言う。僕は彼らほど凄くないけどこの意見には同意だよ。もちろん持つ能力の平均値が高い人になる場合ではなくて、「今日の勉強で身につかないものを持っている」ような「個性やオリジナリティ」のある例外的な人になる場合の話だけど。
これが理解できていない時点で、君は恐らく独自の能力を身につけるに至っていない段階なんじゃないかな。「守破離」という概念があるんだ。物事を成す最初の段階では人から教わることを「守」ってきちんと基礎を固め、それを「破」って自分に合った形を探し、独自の道へと「離」れていく。たとえばプログラマーの場合、東工大や東大の学部程度で教えている情報処理技術のうち大半のことを修得してしまっている高校生優れた教育を行う大学で情報処理を学んでいる学部生と比べ、情報処理に関してそれほど遜色の無い理解を持っている高校生が極々稀に存在するんだけど、そういった例外が大学に行く必要性はどこにあるのかな。メリットはあるけど、絶対に行った方がいいというわけではないよね。これがわかってないから、君は学校に行かないまま例外的に固有の能力を獲得した人の存在を想像することができていない。
追記。「たとえばプログラマーの場合、東工大や東大の学部程度で教えている情報処理技術のうち大半のことを修得してしまっている高校生」と書きましたが、これは意味も無く馬鹿みたいに大袈裟に書いてしまっており、指摘も受けてしまいました。すみません。「優れた教育を行う大学で情報処理を学んでいる学部生と比べ、情報処理に関してそれほど遜色の無い理解を持っている高校生」と置き換えておきました。
インカレサークルの飲み会に誘われたので、初めて出席してみた。違う大学のやつらと飲むのは初めての経験である。
そこで実感したのは、偏差値が低い大学に通う奴ほど低レベル、ということだ。こんなこと書くとまた「偏差値至上主義に毒されている」などと言われるかもしれないが、しかし低偏差値の大学ほど低レベルな奴の割合は確実に高いと感じる。
いつも私がサークルやクラスの飲み会に参加するとき、そこでは酒を交えながら普段の授業の感想や思い出話、最近だと日本の政治の話や宗教の話などをする。「○○教授の意見と●●教授の意見って、かなり対立するものだけれど、どうなのだろう」とか、そういった話もすることがある。しかし低偏差値の大学に通う彼らの飲み会は、そもそも会話というものが存在していない。彼らの言う「ノリ」で何かをすることを楽しみ、知的な側面は全く感じられない。くわしくをkwsk、漫画をmngと書くような「アルファベットの子音のみで単語を記述する」ことに快楽を覚え「お前それディーワイじゃね?ディーワイディーワイ!」「お前のほうがケーティーだぜ!」などと、何がおもしろいのか全く分からない「会話」を繰り広げていた。彼らはそれが楽しいらしいが、おれとしてはちっとも楽しくない。
旧友がよく「お前の大学のやつはなんだかんだいって会話水準が高い」「どんなにチャラチャラして見えるやつでも、きちんとした思想や観念を持っているやつが多い」などと言っていた。自分としてはっきりそれを自覚することはほとんどなかったが、しかし他大生のこうした現状を見る限り「確かにそうだ」と感じる。私から見たら飲み会で「知的な」会話に興じることはかなりの娯楽なのだが、彼らにとってはそれは「酔っていなくてもそんなことは話さない」レベルの高度な会話であるらしい。そして、私のような存在はかなり珍しいようだ(私の大学では一般的なのだが…)。
「学歴で人を判断するのは良くない」とよく言う。しかし、個人的な経験を踏まえれば、学歴は個人を判断するための一つの指標になりえてしまうと私は感じる。「教科の勉強で身に付かないものを持っているやつだっているのだから、学歴で人を差別してほしくない。個性豊かなやつはどこにだっている」とよく言われるが、そもそも教科の勉強すらできない、物事を考える上での基礎的な知識すらあやふやな人間のどこに個性やオリジナリティが存在するのだろうか?それとも飲み会で下らないアルファベット列を考えるのが「個性」なのだろうか?学歴は人の精神性をも示してしまうのではないか、と強く感じるのであった。
同じ学年の連中のなかに「官僚になりたい」というやつが結構いる。メディアによる官僚バッシングが激しく行われている中、国の中枢で国家運営に携わりたいと考える人間がまだまだ多いことは一定の安心感を私に与えてくれたのだが、その中には「あんな馬鹿共と同じ職場で働きたくない」という意思を持っている者も多いようだ。「選民思想だ」といって批判する人間も出てくるだろうが、こちらとしてはそう思っても仕方ない状態が多くの局面で見られるのである。
それにしても日本は知的エリートに対する待遇が悲惨だ。なぜ国家公務員の月給と一般企業のサラリーマンの月給を比べ「公務員の月給は高いですねえ…」というのだろうか。国家公務員の奴らは民間就職したとしてもその時にその分野でもっとも繁栄している企業にしか就職しない。そのような優良企業の月収と国家公務員の月収を比較しないと意味がないだろうに。なにはともあれ、「国家公務員は他の東大卒の人間よりも年収が劣っているのに、なぜ公務員になりたいという人間が一定数いるのか」という命題に対しては、この「学歴と精神性の比例関係」も一定の影響を及ぼしているに違いない。
http://anond.hatelabo.jp/20070712133851
それよりも気になることがある。あなたの思想の根底にあるのは、パロディ否定であり、二次創作否定だ。オリジナリティ礼賛でもいい。私自身にもその感覚はある。一次創作より二次創作の方が劣っている、とどこかで思っている。
そんなことは全然思ってないわけです。
私が言いたかったのは、二次創作は良いことだと思う。コンテンツを生む上で、通らなくてはいけない道なのは、常識なんで。
ただ、二次創作をする上で、同じ手法(同じ題材、メソッド?)で作品を作り上げること、そして列挙して後に続くことが、愚かだということである。
その二次創作の中での、手法の中にオリジナリティが存在して、そこを延ばしていけばいいのだが、お祭り騒ぎのように、後に続くために愚かな二次創作とも呼べない二次、三次創作を垂れ流すのが、愚かなのだと。
正直、お笑いも二次創作は多いが、オリジナリティの手法を持ってない、お笑い、例えば芸人ではエンタの神様でも多くみられ、淘汰されてる。
サービスってのは最初はね、近くにいる人があれこれ言って変な力でどうにかして凡庸な物にしてしまうより、作ってる本人の信念を貫いてもらってオリジナルな物に到達してもらうことが大事ですね。
いやいや、「サービス」でそれやっちゃまずいんじゃないの。
「サービス」に凡庸さやオリジナリティといった要素は重要じゃない。
ま、「最初は」ってのがどの程度の期間を指してるのかにもよるが。
それってどれ?
じゃあ何が重要なの?
創作物じゃないならなに?
何が「ま」なの?
あいまいすぎて何いってんのかわかんないよ。
正直、そろそろネット上の動画(YouTube,ニコ動)も終わったなと思います。
理由としては、同じアプローチで作られた動画がふれてるからだ。
「魔理沙は大変なものを盗んでいきました」が出て来てから、「○○は大変な○○を○○しました」と似たアプローチで作られた作品が溢れ出てるからだ。
これが、週に何度も似たような作品がYouTubeの人気の動画にも上がって来ている。
正直、最初は面白かったがお腹いっぱいというより、吐き気がする。
これは、作ってる側も悪いと思う。正直、オリジナリティのあるものでなく、既にある、作ってもケガしない映像を作って、賞賛(もしくは、上位に上がって)されて、恥ずかしいものだと思う。
2ちゃんねるはなぜ潰れない、でもあったが、求められれば、潰れないということ。
要は見てる側も求めてるからだと思う、
正直、見る側もNoと思うなら、言うべきだと思うが、どうやら結果からみると、Yesみたいだ。
こういった見る側の質が落ちたことが、日本のネットユーザが質が落ちて来た証拠かもしれない。
そろそろ、見る側もはっきり、Noとは言うべきだと思う。
俺の親は、当時大人気だった高校球児の名前をそのまま拝借して付けたって言ってた。
分かる人はこれだけで分かると思うけど、荒木大輔さんのことね。
当時は新生児に「大輔」と名づける親が急増する社会現象になっちゃったらしい(荒木大輔 - Wikipedia)。
俺はそれを聞いた時「えーなんだそれ」って内心思った。
親父は野球が大好きで、まあ俺も親父の影響受けて野球大好きなんだけど、それはどうだろうって。
子供の名前ってのは姓名判断の本とかを出産のちょっと前から買い込んじゃってさ、うんうんうなりながら付けるもんだと俺は勝手に思い込んでいたのね。
別にオリジナリティに満ちた名前付けてくれってわけじゃなくて、ありふれた名前でもいい。でも、そこに「○○な子に育ちますように」っていう思いみたいなのがあまり感じられなくて、ちょっと引っかかった。
親としては本当のことをさらっと言っただけなんだろうけど、なんか気になるよなそういうの。
…あれ?Wikipedia見てたら荒木大輔フィーバーって1980年じゃん。
俺生まれたの78年。
……………親父!どういうこと!!
■追記
ブクマを頂いたので反応。
75年生まれだけど同級生が荒木大輔にちなんで名づけられてたよー
75年! 荒木大輔まだ11歳ですよ。
http://hochi.yomiuri.co.jp/feature/topics/newsx/news/20060828-OHT1T00036.htm
↑の記事によると、大ちゃんフィーバーが本格化したのはやっぱり1980年から。
新生児の命名ランキングで「大輔」が1位になったのが79年から86年の間。
リトルリーグ世界制覇ぐらいの時には、名前がある程度売れていたってことなのかな。
しかし、今で言えば「佑樹」とか「遼」とか、女子だとなんだろ?「真央」とか?
みたいな名前を自分の子供に付けるってことなんだよね。
やっぱり俺はしないだろうな…
2chができた1999年頃、丁度個人ニュースサイトや個人日記サイトも盛り上がり始めたころだった。
「個人ニュースサイトなんて不要だ」「すぐいらなくなる」なんて声も一部にあったけれど、
それどころか年を追うごとにますます増えていく一方だ
。
昔はごく一部の個人ニュースサイトだけが月数万ヒットー10数万ヒットしていて、大手と呼ばれていた。
今じゃ、月10万単位のアクセスのあるサイトが無数に存在する。
単純に市場が大きくなったからだ。
7-8年前よりも、ずっと沢山の人がネットを見るようになった。
だから個人ニュースサイトの需要も、ますます伸びてきているんだ。
ちなみに当時はRSSという仕組みがなかったら、個人ニュースサイトの更新情報を追いかける「アンテナ」も流行した。
今は「はてなアンテナ」があり、誰でも簡単に使えるから、
昔よりも沢山の人が、より多くのニュースサイトを横断的に見ることができるようになったんだ。
え? 前置きはいいからアクセスを増やす方法を教えてくれって?
じゃあ手短に。
2 独自の切り口と、品質絶対主義
1 美しさは人を惹きつける。
だから自分のサイトのデザインは、シンプルで美しくする必要がある。
webページを見て、メニューが複雑だったり、ごちゃごちゃと小さな文字や広告が入り乱れていない?
大きければいいというものではないよ。サイズを小さくしてみたり、あるいは試しに外してしまいなよ。
かつ記事の内容に合致した商品リンクを試してみてはどうだろう。
2 どんなジャンルを扱っているの? 得意分野は何?
それがお客さんにはっきりわかる必要があるよ。
そして何より、記事の品質が全てだ。
つまらないネタ記事を数合わせの為に入れるのは絶対に止めるんだ。
自分が「これは」と思った記事だけを登録すること。
そして、見ている人にとって役に立つ、面白い情報であることを意識した記事にすること。
気の効いたコメントが思い浮かばなかったら、綺麗な画像を載せればいいんだ。
有名なニュースサイトは、いつも美しい写真をアップしているよね。
3 どんな人が管理人なの? もし本気でやるつもりなら、簡単な自己紹介ページを作っておくといいよ。
管理人の人となりがわかると、お客さんは何度も足を運びたくなるよ。
顔文字というのは、上手く使えば驚くほど人の感性に訴えることができるんだ。
2chでキタ━━━━(゜∀゜)━━━━!!などのアスキーアートが常にコピペされているのは、
それが人の心を直撃するからなんだよ。
参考サイトはこちら
http://matsucon.net/material/dic/kao_11.html
【おまけ】
アクセスを増やしたかったら、当然宣伝が必要だよね。
どうやって宣伝しようか?
まず、自分のサイトが検索エンジンに登録されているか確認すること。
自サイト名で検索してみよう、1番目に表示されたかな?
もしサイト名が無個性な名前だったら、必ずオリジナリティのある名前に変えたほうがいいよ。
検索で出るようになったら、次はリンクを貼ってもらうこと。大手ニュースサイトで記事が紹介されたり、
リンクページに載れば必ず大量のアクセスが来るよ。そのお客さんを掴むんだ。
ただ「相互リンクの依頼お断り」の所も多いから、注意してね。
Google AdWordsみたいに有料の広告を使ったことはある?
試しに使ってみたらどうだろう。自分が広告を出す立場になると、見えてくるものがあるはずだよ。
最後に、記事の更新に費やす時間は1日1時間以内にすること!!
ダラダラと長時間やっても、効率は上がらないよ。それよりちょっとデジカメ持って外に出よう。
短い時間の中で工夫しようとすると、どんどん新しいツールや仕組みを使う必要に迫られるから、
かえって自分の能力を高めることができるんだ。ショートカットキー1つ知っているかどうかだって大事だよ。
例えばプログラムを書ける人は、あなたが必死になって手動で収拾しているニュースを、
道具の使い方を覚える事が、自分の時間を増やしてくれるんだよ。
だからニュースを集める時間の他に、自分がスキルアップするための時間を毎日確保しよう。
高校生や大学1,2年のころから会社を運営する奴がいる。そういう奴を世間は「すごい」「若いのによくやってるね」と評価するようだが、俺はそうは思わない。
高校生から大学1,2年の間というのは、いろいろとチャレンジし、視野を広げることができる。なのにそれをせず、「今興味があるから」という理由だけで適当に会社を作り運営するのはもったいないことなんじゃないだろうか。起業することは遊びじゃない。起業=社会とかかわり、社会の一端を担うこと、というのを決して忘れてはいけない。
それに若いうちに起業しても将来苦労するだけ。なぜならば、若いころは「若い」という一種のブランドを持つことが出来るけれども、将来的にそれはなくなってしまうから。
高校時代や大学1、2年の間はまずいろいろと視野を広げ、何が自分に一番適しているか、やりたいのかを定めるべきだ。そしてそのやりたいことを実現するためには何が必要なのか、とりあえず知識を身につける。「もし将来自分が会社を設立したとき、業界の競争に買つためにはどんなオリジナリティが必要か」ということも考慮して、独創的な視野の構築も目指していきたい(ただし独創的な視野というのはいきなり生まれるものではなく、既存の知識や視点をフルに活用する必要がある)。
一度大企業に就職して、社会の仕組みを学んでおいたほうがいい。それから独立しろ。ただし「業界の後ろをついていく」のではなくて、「常に業界の最先端を目指す」くらいの心意気じゃないといけない。
以上、30歳で起業して今面白くなってきた俺より。まあ、俺は起業したいから起業したのではなくて、起業しないとやりたいことができなかったからなんだけど。
ちなみに以上のことは大学発ベンチャーなんかには当てはまらないけどね。あと、高校生で起業家になりたいという奴はまず勉強しろ。そしていい大学に入れ。なんだかんだいって学歴はいいほうがいい。
ひとつの実例を考えてみよう。
放送後20年以上を経ても根強い人気を誇る古典的作品だが、よく見るとこの作品はかなりひどい。「これはひどい」タグをずらずら並べたくなるほどひどい。
これだけいい加減で支離滅裂な作品を、「三流品」と呼ぶ以外になんと呼べるだろうか?
繰り返す。
この作品には20年来のファンが少なからずいる。
だが。
三流品(ボトムズ)を愛することがいけないとは思わないが、それが三流であるという事実は、誰にもどうにもできない。
いくら誉めたって三流品(ボトムズ)が一流品になったりはしない。
それは誰にもどうにもできない。
どうにもできないんだよ。
非モテの知人(学生)がサークルで旅行に行くので服の買い物に付き合って欲しいというので、シンプルな店に連れて行くのだが
そもそも彼自身が手に取るものがひどい。
ユニクロでもコムサイズムでも、どう考えても最も合わせづらそう、もっと言うと個人的に言って最もダサイ服ばかり手に取る。
おまけに、自分のキャラをどう思ってるのか(というかデビューしたいんだろう)移動の最中にお兄系の
スワロフスキー満載のシャツとか尖がってて糸ほつれまくりのブーツとか、袖と襟だけ赤黒の市松模様になったブルゾンとか
そういうものばっかり見とれて、チャラい店員のセールストークになびいて財布を取り出そうとまでした。みっともねえからやめてくれ。
どうみても似合わない。キャラ考えてくれ。
原則としてファッションはTPOを満たしてさえいれば自己満足の代物なので、本人の自主性を尊重したほうがいいのだろうが、
そんなことを言い訳にしてるからいつまでも非モテなんじゃないのかと思って(というかあれは自主性なのだろうか?)
思い切って俺が選んだものの中だけから半ば強制的に買わせた。ただ抵抗したくなったらしくてシャツだけは自分で選んだものを
買ってた。襟が二枚になっててやたらでかくて、ビビッドなオレンジのストライプのクレリックシャツ。めまいがした。
それに支払える7000円があるんなら、パンツやブルゾン、1ランク上のイイのが買えますよ?
普段どんな友達と付き合っていて、誰に憧れているんだろう。
どうも彼は「シンプルでサイズがぴったりで清潔な格好」がカッコイイんだという俺の意見に頷きはするものの、どこかで
捻りを利かせたい、オリジナリティを出したい、普通はいやだ、という気持ちがあるらしい。そりゃあそうだがスポーツでも
学問でも入門とか型とか基本あってこその応用だろうよ。自分らしさなんて嫌でも引っ付いてくるんだから…とかいいながら
自分の高校時代、女に惚れてからの空回りした努力を振り返って、失敗しながら成長するんだよなーなんて思った。
でも、旅行の翌日に「どうだった?」って聞いたときの「おしゃれとは呼ばれなかった」ってその返事どうなの?
賛同するやつはゆとりだの何だの批判やらいろいろあるけど、ここまでの反応があるのは正直凄いな。
便乗でマジレスやらネタやらあるし、書いた本人もちょっとした快感があるんじゃないかな。
人生をゲームと形容するには単純すぎるとかいう意見も多そう、いいイベントなんかも頑張り次第っぽいし、自分の行動に関係ない突然のゲームオーバーやら何やら難易度も相当高いだろうな。
スタートが全員同様なラインでないことも腑に落ちないかもしれん。
まぁ神ゲーが糞ゲーかはスタートとか周辺環境次第で人それぞれって言ったらおしまいなんだけど、自分にしか体験できないシナリオって言う意味でオリジナリティという部分は一番ではあるよね。
ゆとりだから神ゲーとか言うんだよって言うおっさんを見るとほんとおっさんにはなりたくないよなーと思うな。
エンディングに迫った人たちは何て言うのかな。
ジャイアンこと剛田武が歌う事を強く愛している事は疑問の余地がない。また彼が独自のセンスと才能をもって楽曲をつくり出していることも数々のエピソードから伺える。オリジナリティ、ヴィジョン、パッション、どれをとっても剛田武は本物のアーティストの資質を持っている。
しかし剛田少年は音痴だと言われる。彼の歌は、ひょっとするとノイズやアウトサイダー・ミュージックの愛好者には受容される余地があるかもしれない。しかしそれは彼の望むところではなかろう。彼は自分の名前を正統なポップミュージック史に書き入れたいと望んでいるのだ。だが歴史は彼のつくり出す音響を受け入れない。
剛田少年は自分の歌声を録音して聴く事もあるはずである。彼はそこで、自分の歌声の"異質さ"に気付かなかったのだろうか。気付かなかったのだとすればそれは認知の歪みによるものだろうか。そうかもしれない。だがもう一つの可能性が考えられる。剛田少年の音楽観は世間一般のそれより広いのだ。通常の限界を超えた領域にも、彼の耳は音楽の歓びを聴き取ってしまう。その震えるような歓びを分け与える為に彼は歌うが、聴いた者は耳を塞いで逃げ出してしまう。
競争は、質の良い物を生み出すためには確かに必要だけど、既存の物に有利で、新しい物には不利。新しい物を認めさせるには膨大なエネルギーが必要なのである。
新しい物をより効率よく生み出すために、いったん競争というものを忘れなければならない。
ブレストと似てるかもしれない。
しかし徹頭徹尾、受け入れを無視するわけでなく、最終的に食べやすくデフォルメ・アレンジをしたものを、つまり入門を用意するのがコツである。
世の市民権を獲得してるか否かは単純に、入門があるか無しかの差である。
メジャーな物ほど、いくつかの入門が用意されているものだ。
狭き門は、ノイズや歪曲者、破壊者などを呼び入れないためには確かに必要であるが、今の情報ネットワーク化時勢では門を開け放すことを選ぶ覚悟がいる。
ただここで重要なのは門を開け放すタイミングであって、それを誤ると、用意した構造物を揺さぶられ、破壊され、無価値な物へと変質させられてしまう。
だから今、最も求められる(俺が重視する)力は、門を開け放したときに入ってくるノイズをいかにして制御するかということである。これは詰まるところリーダーシップを発揮することや、マネジメント力である。
この世界の人材は玉も瓦も一緒くたになっている。ものすごく能力が高い人間もいれば、本当に使いようがない人間もいるわけで、狭き門はこれらをふるいにかけるフィルターの役割をする。
ただ、このフィルターは完全ではなく、有能な人間も多くはじいてしまうし、無能な人間も多く引き入れてしまう。
全くフィルターしないよりかは随分マシという程度、ファイアウォールを有効にしたら少しはウィルスの被害に遭わなくなるだろうといった程度の物である。
かつての時代は、隠れた才能は完全に切り捨て、志願してきたある程度の質を持つ人間だけで聖域(コミュニティ)を作り、そこで自分らの技術・学術を発達・洗練させていけば良かった。そしてそれは必然的に専門性を生成する構造であり、専門外のことについては深く対応できないし、求められることもなかった。だが、時代は変わりつつある。
今現在、人々にはマルチの(複数の)分野での活躍が求められてつつある。それと同時に、今までフィルターされて弾かれてきた隠れた才能に着目・それを発掘することも行われるようになった。どっちが先でどっちが後か分からないが、この2つの兆候は密接に関係しているように思う。
インターネットが専門外の有能な人間を多の分野に引き込むようになってますますこの兆候は加速しているが、インターネットがここまで普及する以前から、この兆候の前兆となるものはあったように思う(というのも、俺が高校生だった90年代頃にすでに専門を問わず複数の分野で深く活動していた人がいたからである)。
情報の分野では、インターネットの普及により、専門外の有能な人間の参加が増えたことにより、ノイズも多く増えたがそれを補ってあまりある有益な情報も引き込まれるようになったのは今更言うまでもないだろう。
全ての分野は情報を持つ。そして情報は価値を持つ。いわば情報は一つの通貨である。そして多くの人がそれらを扱う環境が整えられたため、多くの人により扱いやすくなるように情報はフォーマットされることとなった。こうしてフォーマットされ扱いやすくなった情報は、より多くの人々に普及し、価値が高められていくようになる(ただし、ここで言う価値は有用性であり、希少性ではない。このことは後述する)。
だから、逆に言えば、情報にある程度の魅力(価値)があり、それがフォーマットされていたらそれは流通するのである。
こうして、今まではコミュニティだけで流通していた通貨が、一気に世界へと広がったのである。だがこのことによる弊害もある。
それはコミュニティだけで共有されていた情報が誰でも簡単に入手できることによって、その情報の神聖性(希少性)がなくなることである。
情報の価値には2つのパラメータがあって、一つは有用性、もう一つはレアリティである。これはトレカに喩えると分かり易い。コモンカードだけどめちゃくちゃ使えるカードもあれば、レアカードだが全く役立たずなカードもある。
特に一部の人しか知り得ない情報はいわばプレミアカードと言うことができる。
情報を門戸を広げてネットという大海原に放出することは、情報の有用性を高める代わりに、希少性を失うことを意味する。
かつてはプレミアカードを持っていた人間は賞賛された。それがたとえ使えないくずカードだったとしても。
そしてそのことによってそのカードの持ち主は自身の価値を高めることができた。
人々は、カードのシナジー(組み合わせることで効果が倍増する組み合わせ)やコンボを重視し始めた。
つまり自分のデッキに組み入れられるかどうか、そのカードをどうやって使うか、に価値を置き始めたのである。
こうなるとプレミアカードコレクターの人的価値が下がってしまう。彼らが取る行動は大きく3つ。
一つは何もせず、成り行きに任せる(あるいは問題意識を持たない)。
もう一つ漏洩を徹底防止してカードの希少性を維持すること。
三つめはそのままでは使えないカードを使える形に加工してから、それらを開放すること。つまり誰も考えつかなかった意外なコンボを提示したり、できる限り汎用性の高いカードを何とか発行することである。
お堅いと思っていた団体が急にフランクになった例を最近よく見る気がするが、こういうことが一つの理由だろう。
しかし将来的には遅かれ早かれ、多くの団体が三つめの手段を取らざるを得なくなると思う。
このような情報は流通を制限することで価値が高められているが、本来的な価値は少ない。そして価値の低い情報は駆逐されていく時代の兆候なので、団体には新たな価値を作り出し、社会に発信することが求められてくるからである。
そうなってくると、まやかしの希少性は徐々に意味を失い、経験に基づいた情報や、洗練の要る情報といった、よりその人の血肉となっている(オリジナリティがある)情報こそが希少性ある情報となるだろう。
インターネットというのは価値判断を大衆に委ね、まやかしの希少性を暴くという点でこれから役立っていくと思う。
しかしそうなると、今まで手に入れるのが困難だった情報を収集していた専門家はどうなるのか?
いったい何をもって情報収集をしている一般人と差別化を図ればいいのか?
複数の範囲を渡り歩く人々が増えてきた原因はここにあると思う。
苦労して新しい論や分析を発表しても、少しすると自分と同じ考えを言ったりしたりする素人がいる。
何も発表しないままだと時間とともにその人とその専門家との価値の差異が縮む。
だから専門家は、常に社会の流れを追って新しい論や考察を生み出し続けなければならない。新しい情報を常に発しなければならない。
みんながみんなそんな発想力とバイタリティを持ち合わせているだろうか?
もしそこに不安がある専門家は何をすればよいだろうか?
そこで複数の分野をカバーするわけである。
専門の分野を知ってる人がいる。
αの情報を知ってる人がいる。
でも専門の分野+αの取り合わせの情報を知ってる人はなかなかいない。
こうすることで自分の価値を高めているのではないだろうか。
また、社会現象がより複数の多岐の分野に渡ってきたお陰で、それを一つだけの専門性で切りにくくなってきたというのも考えられる。
「最前線で価値を生み出し続けることはできないけど、その人達と違って私はレパートリーが広いから庶民の要求に幅広く応えることができます」、といったところか。
自分の本来の分野では新しい価値を生むのは難しいけど、違う分野にて本来の分野のやり方で切るという方法で、新しい価値を生み出すというのも考えられる。新たな組み合わせ。シナジーを期待するのである。
あるいは価値観が多様になったため求められそうな情報は何でも漁るドラフト者もいることだろう。
ここは、多分野に渡るといえ、コンセプトを持ってコレクトをしないと情報の海に溺れてしまうだろうから注意が必要だ。
今までは専門がはっきりしない人は浮ついてると見なされ正当な評価をされにくかったが、これからの時代は複数の分野に渡って活動しているマルチ専門家がますます増えていくのではないかと私は考えている。みんながみんな興味関心を一つに絞りきれるとは思わないし、そんな人たちの複数の分野で活動できる環境が整いつつあるからだ。あるいは、この高度情報化による副産的な効果として、成り行きで専門外の領域に踏み込む機会も、より多くなっていくのでは、と感じている。
だからノイズ(=厨)は多かれど、有用な人を引き込もうとするならば、もっと入門を設けるべきなのだ。
一部では腐るほど入門を設けてる分野があるのに、他方で全くそれが整備されていないのはおかしなことだと思う。
※推敲途中です。