2007-08-01

ほかの大学のやつと飲んできた

インカレサークル飲み会に誘われたので、初めて出席してみた。違う大学のやつらと飲むのは初めての経験である。

そこで実感したのは、偏差値が低い大学に通う奴ほど低レベル、ということだ。こんなこと書くとまた「偏差値至上主義に毒されている」などと言われるかもしれないが、しかし低偏差値大学ほど低レベルな奴の割合は確実に高いと感じる。

いつも私がサークルクラス飲み会に参加するとき、そこでは酒を交えながら普段の授業の感想や思い出話、最近だと日本の政治の話や宗教の話などをする。「○○教授意見と●●教授意見って、かなり対立するものだけれど、どうなのだろう」とか、そういった話もすることがある。しかし低偏差値大学に通う彼らの飲み会は、そもそも会話というものが存在していない。彼らの言う「ノリ」で何かをすることを楽しみ、知的な側面は全く感じられない。くわしくをkwsk漫画をmngと書くような「アルファベットの子音のみで単語を記述する」ことに快楽を覚え「お前それディーワイじゃね?ディーワイディーワイ!」「お前のほうがケーティーだぜ!」などと、何がおもしろいのか全く分からない「会話」を繰り広げていた。彼らはそれが楽しいらしいが、おれとしてはちっとも楽しくない。

旧友がよく「お前の大学のやつはなんだかんだいって会話水準が高い」「どんなにチャラチャラして見えるやつでも、きちんとした思想や観念を持っているやつが多い」などと言っていた。自分としてはっきりそれを自覚することはほとんどなかったが、しかし他大生のこうした現状を見る限り「確かにそうだ」と感じる。私から見たら飲み会で「知的な」会話に興じることはかなりの娯楽なのだが、彼らにとってはそれは「酔っていなくてもそんなことは話さない」レベルの高度な会話であるらしい。そして、私のような存在はかなり珍しいようだ(私の大学では一般的なのだが…)。

学歴で人を判断するのは良くない」とよく言う。しかし、個人的な経験を踏まえれば、学歴は個人を判断するための一つの指標になりえてしまうと私は感じる。「教科の勉強で身に付かないものを持っているやつだっているのだから、学歴で人を差別してほしくない。個性豊かなやつはどこにだっている」とよく言われるが、そもそも教科の勉強すらできない、物事を考える上での基礎的な知識すらあやふやな人間のどこに個性やオリジナリティ存在するのだろうか?それとも飲み会で下らないアルファベット列を考えるのが「個性」なのだろうか?学歴は人の精神性をも示してしまうのではないか、と強く感じるのであった。

同じ学年の連中のなかに「官僚になりたい」というやつが結構いる。メディアによる官僚バッシングが激しく行われている中、国の中枢で国家運営に携わりたいと考える人間がまだまだ多いことは一定の安心感を私に与えてくれたのだが、その中には「あんな馬鹿共と同じ職場で働きたくない」という意思を持っている者も多いようだ。「選民思想だ」といって批判する人間も出てくるだろうが、こちらとしてはそう思っても仕方ない状態が多くの局面で見られるのである。

それにしても日本は知的エリートに対する待遇が悲惨だ。なぜ国家公務員の月給と一般企業サラリーマンの月給を比べ「公務員の月給は高いですねえ…」というのだろうか。国家公務員の奴らは民間就職したとしてもその時にその分野でもっとも繁栄している企業にしか就職しない。そのような優良企業の月収と国家公務員の月収を比較しないと意味がないだろうに。なにはともあれ、「国家公務員は他の東大卒人間よりも年収が劣っているのに、なぜ公務員になりたいという人間が一定数いるのか」という命題に対しては、この「学歴精神性の比例関係」も一定の影響を及ぼしているに違いない。

トラックバック - http://anond.hatelabo.jp/20070801020618

記事への反応(ブックマークコメント)