はてなキーワード: エコロジーとは
今、ブックマークで注目を集めている記事に
http://d.hatena.ne.jp/kawango/20090626/1246030883
読み進んでいく上で、なんか言いしれぬ違和感を感じていたのだが、一番最後に
お金を稼げば稼ぐほど貯め込んでいく一般の産業界よりもコンテンツ業界にお金がまわる仕組みにしたほうが世の中が楽しくなると思うのは僕だけだろうか。
と言う文章があってその正体が分かった。
この人、想像力が全く足りないのだ。つまり、自分が観測可能な部分だけで論理を組み立てているのだ。つまり、知らないだけだと。
いうまでもなくこれはいくらでも改変ができる言葉だ。ざっくり作ってみよう。
いくらでも変えられるし、それぞれに真実もある。そもそも稼いだ金をため込むなんて状況が現代日本で実現するには、タンスにしまうか穴掘って埋めるぐらいしかないのだが、その点で基本的な経済の流れを理解していないのではないかという気もする。しかし、ただ一つ言えることは、これらの言葉が、他の可能性とその理解を全く否定していると言うことだ。
それをふまえて見てみると、まさに様々おもしろい。この人は、今コンテンツ産業が革命への転換点にいることを頭では分かっていても、事実として受け止め切れていないのでは、と。
たとえば、活版印刷が発明されたとき、従来型の手で書き写すものに投資するのと、活版印刷に投資するのとでは、どちらの方が効率がいいか。
たとえば、産業革命の時に家内手工業に対して膨大な投資をするのと、蒸気機関による工場生産に投資するのとでは、どちらの方が効率がいいか。
たとえば、コンピュータが発明されたとき、今までの従来型の機械式計算機に投資するのと、コンピュータに投資するのとでは、どちらの方が効率がいいか。
たとえば、IPの急速な普及期に、今までの電話交換機に投資するのと、IP通信制御機器に投資するのとでは、どちらの方が効率がいいか。
すべて言うまでもないだろう。今コンテンツ産業は、そう言った急速な転換期に来ているのは間違いがない。
もちろん過渡期の話は分かる。活版印刷の装置が間に合わなければ手で書き写さねばならないし、蒸気機関が間に合わなければ手で作るしかない。コンピュータがまだ不安定ならば、機械式計算機を使ったり、今までの電話交換機を買ってくることも必要だろう。
ただ、過渡期の存在を理由に、将来を信じ切れなかったものは、理解しきれなかったものは滅んだと思う。そして、理解しきれないからこそ、今までの方式が正しいのだという言葉を吐くのだ。
必要なのは新しい方式はコストが下がり、回ってくる金が少なくなることを心配することではない。
新しい方式で、いかに投資効率を上げ市場を広げていくか、たくさんの人を巻き込んでいくかだ。なぜならイノベーションは止められないからである。特にコンテンツ産業の革命は、すでに先駆者がスタートを切って走っている。後ろから続くものがその欠点を発見したとしてもできることは、先駆者に追いつくか、そのおこぼれに預かるかしかない。もしくは、自ら滅びるか。
http://d.hatena.ne.jp/kawango/20090616/1245130321
ブックマークにて、一つだけ明らかに意図が伝わっていないコメントをしてくださった方がいるので、追記をしておく。
「そういった産業の転換点では、投資の効率が全く変わってくる。」反証:エルカセットとかβマックスとかキャプテンシステムとか…/枯れた技術の水平展開も大事じゃねえの?
挙げられているエルカセット、βマックスはそれは技術の洗練の話であって、革新的な、産業の転換期が発生したのはそれよりも前、磁気テープと言う技術が発明されたときだろう。なのでその指摘は反証にはならない。そんな個別の話ではない。
私はこの文章の中で、特別な商品名を出していないことでこの意図を伝えようとしたのだが、読み誤らせてしまったのは残念だ。
たとえば産業革命の際に、よく分からない有象無象の装置の中には失敗して売れなかったものもたくさんあるだろうことは想像が付く。しかし、産業の転換というものは止まらなかったように、それらは些細な話である。このように、個別の事案についての話ではない。また、個別の商品が失敗したことが、この全体の流れが間違っていると言う話にはならないだろう。βマックスが駄目だといって別のものを選択するとき、磁気テープすべてを否定しフィルムに戻るなんてことは明らかに投資の効率を落としている話だ。それではいずれ滅びる。
そして、キャプテンシステムだが、これは発想的には進んでいたと言えるが、それが産業の転換をもたらしたわけではないという点で反証になりうるかもしれない。これは蒸気機関にたとえるならば、トーマス・ニューコメンの蒸気機関であろう。その後のパソコン通信・アーパネット、インターネットとつながる一連のものを、ワット以降の蒸気機関とすれば、である。と言うことは、これが産業の転換期の前触れであった、あるいは、条件の一つであったという言うことにはなるだろう。ただ、これがトーマス・ニューコメンの蒸気機関ではなく、ワットの蒸気機関が爆発的な産業革命を起こしたように、キャプテンシステムが産業の転換期を作れなかったわけである。この差を見極めるのは非常に難しい事ではあるが、これは投資のタイミングの話ではあっても、産業の転換期に投資の効率が変わってくることに対する反証にはならないのではないかと私は考える。
最後に、「枯れた技術」であるが、これは水平展開は必要ないだろうが、保存の必要はあるように思う。なぜ水平展開が必要ないかと言えば、すでに保存されている枯れた技術を見れば分かる。
保存された枯れた技術…これは「文化財」(文化ではない)などとよばれ、特別に保護されているものがその代表だ。これらは、産業の転換が起きた後には、それそのものが持つ機能―――革新的な技術等が置き換えてしまった前の機能が必要であるがために残されていたものではなくなり、すでに当初とは別のものになりはてていると言ってもよいだろう。産業系の博物館などに行ってみればこの手のものはごろごろしている。
そして、古いものを直すときに、それらが必要になるときも来るだろう。しかし、それを水平展開する必要はない。なにしろ、それよりも革新的な技術は、嫌でも広まってしまっているので。
あれはなんなんだろう
「本を完全に読んだ自分は心も完全だ」と言わんばかりの傲慢さ
とにかく「読み残してはいけない」という原理宗教的な人たちに辟易させられる
はっきりいって、積読なんて売りさばかなければ本棚オーバーだし、
必要以上の本は邪魔でしかない
そして、必要な分だけ読んで、売りさばくということは、所得にもつながり、古本は苦学生の購入になり
極めてエコロジーで合理的なのだ
まあ、脳味噌が少し足りないというか、自分で考える習慣がないのだろう
こういう人たちが、マイバックを自慢げに取り出したりするんだろうか
僕も、普段の積載や、その本の必要具合を考慮して、必要以上の量は処分するのだが、
なんかもったいない的なことをよく言われる
邪魔でしかないのにね
あれはなんなんだろう
「飯を綺麗に食べた自分は心も綺麗だ」と言わんばかりの傲慢さ
とにかく「食べ残こしてはいけない」という原理宗教的な人たちに辟易させられる
はっきりいって、外食なんて食べ残さなければカロリーオーバーだし、
必要以上の食事は毒でしかない
そして、必要な分だけ食べ、食べ残すということは、健康にもつながり、残飯は家畜のえさになり
極めてエコロジーで合理的なのだ
まあ、脳味噌が少し足りないというか、自分で考える習慣がないのだろう
こういう人たちが、マイバックを自慢げに取り出したりするんだろうか
僕も、普段の体調や、その日の活動具合を考慮して、必要以上の量は残すのだが、
なんかもったいない的なことをよく言われる
毒でしかないのにね
最後。どっかのネットのアホが言った一部で有名な言葉に「やらない善よりやる偽善」という言葉がありました。わりと大事だと思うよ。
いやいやフィーリングだけで行動する馬鹿がいるから困るんだよ。
エコはエコでもエコノミーを考えれば元増田の言うとおりかもしれないが、やってる本人達の大部分はエコロジーと勘違いしてやってる。
そしてその勘違いはよいことではない。雰囲気で行動していては、本人達の願っているエコロジーと相反するからだ。
うまく乗っかってエコノミーで利を喰ってる奴らがムカつくので、「やらない善」の方を大プッシュするね。
割り箸を使って森林資源を使うのと、プラスチックの箸を再利用するために使う洗剤、その他諸々の経費を十分考えて結論を出すべき問題だったと思うんだよね。
プラスティックというか、使い捨てでない箸が大量に登場し始めた背景には、箸を洗うことだけに特化した安価な洗浄機とのセットでの普及がある。実際の所「エコ」と言っているが本音では「エコロジー」ではなく「エコノミー」を重視してる。つまり安い。
プラスティック箸は、大量に作る場合、もちろん質にもよるが実は十数回再利用すれば元が取れるぐらい安い。(そのため、世の中にはプラスティック製の割り箸などというものまで存在する)一定以上の規模ならば機械の導入コストを含めても、実はかなりの経費節減になっているというわけ。さらに普通に考えても、少量であれれ多くの飲食店では食器洗い乾燥機を導入しているだろうから、そこに籠でもつけて入れるだけでいいのでほぼ追加コストがなくて導入できる。
それでも今まで導入してこなかったのは、やっぱり滑るし使いにくいとか、衛生面の懸念から(たとえ問題がなくても)の苦情とか、(さらに言えば、礼儀作法では高級な使い回しの箸よりも、割り箸の方がよいとされている)そういうことがあったからだけど、そういう所を、エコロジーブームにかこつけてみんな理由をつけることができるようになったから。
それは、高価な国産材を使った一部の割り箸だけ。そんなコストが高いものをそういった激安な店が使っているはずもなく(というか激安とまではいかなくても、庶民が普通に行く店ではまず使ってない)、そういう理屈から行くとエコロジーではある。(悪かったところをやめる、と言うだけではあるが)また、間伐材の貴重な使用用途だった、と言うのは今は昔。実際には割り箸などは外国産に押され値段が下がってしまっている。そのため、割り箸を使うことだけをもって「間伐材の利用促進」とは言えなくなっている。(爪楊枝等も同様)
世の中には高級ブランドのエコバックとか、贅沢な素材を使ったエコバックなどという「お前頭沸いてんのか?」と言いたくなる糞みたいなエコバックも存在しているので程度ものだが、実用的なものであれば、基本的に単純なものなので、簡単に考えると値段で判断すればいい。
たとえば、ウォルマートグループ(日本だと西友とか)が販売しているエコバックは不織布でできて、200円とか言う激安なものがある。構造もかなり簡単だが、それなりに丈夫で、作りもまとも。今まで同様の使い捨て前提の使い方を変えずに使うような人や、そもそもものを大事にしない考えが足らない人でない限り、相当持つ。(たとえば我が家ではこれを、農作業用の袋として数十枚使っているが、かなり丈夫である。とか書くとウォルマートの人に怒られそうだが)
そして、だいたい買い物袋は一枚5円と言われている。
単純計算すると
200/5=40
で、約40回で元が取れる。
このウォルマートの商品はあまりにも安すぎるが、これがたとえ1000円でも、約200回で元が取れることになり、全く問題ない。
さらに言えば、超高効率で生産されていると思われる買い物袋はそのほとんどがエネルギー費や材料費であると考えられること、エコバックは商品であるため、小売店の利益も上乗せされて販売されているであろうことから、環境コストという面ではこれよりも召還が早いはずである。
ただ、店側が負担していたコストを、消費者に添加するのはどうよ、と言う話はもちろんあるが。
これはよくある誤解。"太陽電池を作るのに使ったCO2"というのがどういうものかよくわからないが(排出されたCO2の間違いでは?)、太陽電池を作成するためのエネルギーコストは、数年で回収できることがすでに立証されている。
説明すると長くなるし、自分がここで書くよりも読んでもらった方がよいと思う。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E9%99%BD%E5%85%89%E7%99%BA%E9%9B%BB%E3%81%AE%E7%92%B0%E5%A2%83%E6%80%A7%E8%83%BD
Wikipediaの上記記事(太陽光発電の環境性能)を参照して欲しい。ちなみに太陽発電パネルは、メーカーによって十年単位で保証がある。(建材では一般的な長さ)
後、こういった問いかけに対して、今はかなりの資料がネットから参照できるので、印象論で語らず、調べてみることをおすすめする。ただし、この手の技術は近年急速に発達しているので、5年前の資料でもすでに情報が古い可能性があることと、一カ所の情報を信じないことと言うことは忠告としておく。世の中には「リサイクルしないほうが環境によい」と主張する自称専門家もいるし。自分が知っているだけのちっぽけな知識で話をする奴もいるし。(例えば俺とか)
評価手法は確立している。国際標準ですでに規格(ISO14014/44)で規定されている「ライフサイクルアセスメント」という手法を使う事が一般的で、これを持って、国際的な環境負荷に対する基準と比較することが出来る。「あまりにも難しい」などと言うレベルでは少なくともない。
ちょっとした企業なら、すでに普通にやっていることである。国際認証を取得するためのコンサルティングをやっている企業などでは、たいていライフサイクルアセスメントのコンサルティングもやっているし、一般的な指標なら、政府や各種行政機関などから計算済みの資料を入手することも出来る。
これを「超長期の影響が不明であり、見逃し等があるため意味がない」という風に主張する人もいるが、そういった人々は何らかの利害関係があるか、結論のために理由をつけている様な人たちなのであまり相手にしなくてもよい。彼らが出す答えはいつも「人類は18世紀の産業革命前の暮らしに戻るべき。でなければ滅べ」であったり「標準が意味がないので、環境配慮などせず今まで通りでよい」という極論ばかりであるからだ。
最後。どっかのネットのアホが言った一部で有名な言葉に「やらない善よりやる偽善」という言葉がありました。わりと大事だと思うよ。
理由がないと行動できないツンデレ的に「あ、あんたのためにやったんじゃないんだからねっ」と言うためのいいわけも世の中にはそろいつつあるので、納得できないことを調べることは重要だが、わざわざ否定して回ることもないんじゃないかと思うがどうだろうか。
都会の独身貴族だけど。、健康に気遣う、エコロジーにはそれほど関心はない。
以前は、オイシックスとからでぃっしゅぼーやで野菜を買って、料理していたけど、いまは実家の母に電話して送ってもらってる。
こっちのほうが、断然、安全、安心、信頼できる。賞味期限切れとか、うちで食べる奴だから、農薬バリバリかけてないし。
逆に、売り物はめちゃ農薬かけまくりだけどね。そんなのたべれないし、しかしそういうものが望まれるならどうぞ、って感じ。
食品といっても、飲料はわりとパッケージ化された均一の既製品だからこれは抵抗がない。
やばそうなのは、通販の食品で、自家製キムチとか、魚、カニとかだな。どんな品質かぜんぜんわからんし、このへんは
かわない。
「地球温暖化と環境破壊との因果関係がはっきりしていない」という意見がある。しかし環境破壊は良くない、というのはみんな一致した意見だよな。そもそも環境破壊や環境保護の「環境」ってのは、「人間が住みやすい環境」を指しているのだから。極論すれば、クジラやシロクマが死のうが人間が未来まで快適に住めればいいのである。
「環境は大事だけど自分の便利な生活は失いたくない」という意見がある。正直であり当然である。しかし、便利な生活を失った見返りがあったらどうだろうか。たとえばお金。現に、ガソリン代が上がったらクルマでの遠出を控えたり回数を減らしたりしてるという。流通業界は業種業態の枠組みを超えた共同配送等も検討するという。みんなお金は大事である。
というわけで、地球と財布に優しいエコ(エコロジー/エコノミー/エネルギー)を考えてみた。
会社なんてエコロジープロジェクトを投資収益率が低いって理由で却下するようなとこだぞww
命を大切にするのは、それが儲かるからであって、それ以外の理由はないよ。
某社でのこと。
役員昇格された上長を祝して各企業よりおおきな胡蝶蘭や花束が山ほど届けられていました。
ところが、です。
どの花もすべてしおれかけもしくは既に枯れているものばかりです。
水をやらなくてもよいのでしょうか?!
そう思いつつも私は単なる事務派遣の人間で、社員の方にそんなこといえません。
花も命です。水さえやれば何ヶ月ももつような胡蝶蘭です。それなのにもう茶色くカサカサです。
その後廊下を通りかかったときさすがに見かねたのであろうお局社員さんが「水くらいやってあげてください」とスタッフ社員に訴えておられました。
ところがあろうことか「邪魔なんですよね。早く枯れてくれれば撤去できるんですがぁ」との気のない返事。
花も命です。そんなことすらわからないのでしょうか?
私は時給として千数百円いただいていますが、あの豪華な花を買うのに1週間以上は働かなければいけないと思うとそれらを粗末にする様にひどくこころが痛みます。
それを思うと私たちのような派遣も使い捨てだと思われているようで切なく思いました。
エコロジー以前にこころあるものであれば命を大切にしてください。
言いたいのはそれだけです。
結局エッセーと日記を好むようになって作品は後回しに。作者の自信作、よりはもう少し切れ味の鈍いわかりやすいほうを好んだと思うし、さらにはエッセーのような構成されたものよりもそのまま出てきた日記の文章が良かった。
ネットで話題になることもあまりなかったように思う。新本格自体がそうであったとも言えるし、ネットの発達がはっきりとした頃はもう西尾維新が出ていたからその流れもあったかも知れない。ところで流水と維新はべたべたとくっつくな!お前らは森さんを理解できてないじゃないか!!と怒っていたこともあったけど、今は怒りや嫉妬の気持ちはなく、ただ受け取り方が違うのだなと思う。違う人間だから当たり前といえば当たり前で。本当に当然のことを言ってしまうのもつらつら事だから然りとかなんとか。
最も面白かったのはその思考で、現状を把握することの冷静な態度とその記述に私情の入らぬこと。どうもうまく言葉にはならないが、私はあの分厚い日記を読んだとき、いっぺんでそれがわかった。吾妻ひでおさんは玉子様をエコロジーと言っていたが、限りがあり、それを理解し、望む将来を自分で考え、その結果を実現しようとするきわめて現実的な姿勢を言い表してないと思うし、私の感じ方に近い人を探すのもなかなか大変だったことを覚えています。
とにもかくにもいっぺんでわかったということとそれからのつながり、数年間は私の研究とうまく接合できなかったがそれはそれとして現実の不具合はさておいて、森を読むことは稀有な体験だったと思う。あれがなければ今の私はない。ありえない。おそらくまだ辛い精神を抱えて右や左へ行っていたのだろうと思う。
あんまり自分語りの多く、それでも尽きないことは驚きであります。
別にその団体の関係者じゃないし、特にかばおうとも思わんけどさ。ここに書いてあった内容だけで判断すると、その団体にもともと偏見を持っていたが、今回のことで改めて調べても特に悪いところが出て来なかった(雰囲気批判みたいなのばかりだった)のに元々あった偏見を払拭出来ず、自分の偏見が正統であることを求めてるだけに見える。
まあなんとなく分かるけどね。そういう活動やる奴はうさんくさいとか、スピリチュアル(笑)エコロジー(笑)自分探し(笑)みたいな感じなんだろ。
児童ポルノについて、日本のサブカルチャーにおいて少女というアイコンはあまりに大きな存在なので、どうも客観的に考察することができない。そこで仮に「少女」が「うんこ」だったら、ということを考えてみる。児童ポルノ問題が排泄物ポルノ問題だったら。
*
この国ではスカトロ嗜好がなぜか文化の基底に浸透している。コンビニに並んでいる週刊誌のグラビアのモデルはたいていパンツの汚れがソフトに強調されている。80年代頃はもろにうんこをしている写真が載ってる雑誌なども並んでいたがさすがに刺激が強すぎると言うことで規制された。アダルトショップではその手の雑誌が未だに大人気である。広告等では排泄物に関わる隠喩が消費者の目を引くポイントとして巧みに使われている。芸能界では溲瓶を持ったりうんこの着ぐるみを着て歌う歌手たちが昔からアイドルとして人気だ。しかしこの国のスカトロ嗜好が爆発したのはなんといってもマンガ、アニメ、ゲームの領域である。排泄のエロス、神秘性、陽気さを最大限に表現するこの国のサブカルチャーは近年国外からも注目を集めつつある。国際的な評価もとみに高い某アニメ監督の作品はエコロジーな主題とダイナミックな排便描写の魅力で知られる。オタクが集まることで知られる某電気街は、アニメ調にディフォルメされたつややかな大便の図像であふれている。しかしこの風潮が高まるにつれて反発もじわじわと強まってきた。学級崩壊の進む全国の小学校で教室で脱糞するイタズラが生徒の間に流行するに及んで事態は決定的となった。まずは実写系のビデオ、および風俗関係の取り締まりが強化される。しかしもっとも規制すべきはマンガやアニメである、と規制派は主張する。マンガやアニメにおけるスカトロ嗜好が子供に悪影響を与えないことがあろうか。しかもそれらは近年、海外に発信されるコンテンツとなりつつあるのだ。それがうんこまみれであって国の体面と言うものが保てるだろうか。「マンガやアニメに描かれるうんこは臭くないし、誰にも迷惑をかけてはいない」という規制反対派の声を押し切って、メディアにおける排泄物表現の規制は断行された。この国のマンガ・アニメ・ゲーム等に排泄物が登場することは一切なくなった。その後の、中心軸を失ったこの国のサブカルチャー全般の衰退は誰もが知る通りである。規制前を知る人々は当時を懐かしんでこう言う。あの頃こそ黄金期だったのだ。ってやかましいわ。
なんか見てると、"ALL I REALLY NEED TO KNOW I LEARNED IN KINDERGARTEN" http://www.peace.ca/kindergarten.htm ってあんまりみんな知らないのね。昔日本でも流行ったんだけどな。 欧米の人達は結構これ好きみたいで、Kindergartenの部分を、一時期の吉野屋テンプレのノリみたいに my cat とか star wars とかに変えた亜種がいっぱい存在する。
ネットで見たけどあんまりいい翻訳ないのね。 だから百式の中のひとみたいに超訳してみました。
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どうやって人生をおくるか・どう生きるかについて必要な事の全部を、幼稚園で学んだんだ。そういう知恵は、大学院っていう教育システムのてっぺんにあったんじゃなく、幼稚園の砂場の中に埋もれていたんだ。
僕が幼稚園で学んだのはこんなこと。
・なんでもみんなで分けよう。
・フェアにやろう。
・人を叩いちゃいけない。
・使った物は元に戻す。
・自分の後片付けは自分でする。
・自分の物じゃない物は取らない。
・誰かを傷つけたら「ごめんなさい」っていう。
・ごはんを食べる前に手を洗う。
・トイレつかったら、ちゃんと流す。
・バランスの取れた生活をしよう。 ー ちょっと学んで・ちょっと考えてみる。 絵を描いたり塗り絵したり歌ったり踊ったり遊んだり仕事したりをちょっとずつ毎日やる。
・毎日お昼寝しよう。
・外に出たら周りに気を付けて! 手を取り合って離れ離れにならないようにしないとね。
・驚きとか疑問とかを大切にしよう。 発砲スチロールのカップに植えたあの種の事を思いだそうよ。 根っこは下に伸びて茎は上に伸びる。なんでそうなのか、だれもわかんない。 でも、僕達もその種みたいなもんなんだってことは、なんとなくわかる。
・金魚とかハムスターとか鼠とか、そう、それにあの発砲スチロールに植えた種もみんないつか死ぬ。 僕達もだ。
・ディックとジェーンの絵本に一番最初にでてくるあの言葉を思いだそう。一番大きな字で書いてあったよね。「ちゃんと見て!」って。
君に必要なこともきっとこの中にあるはずだよ。「自分が人にして欲しいように、自分も人にしてあげなさい」っていうイエスさまの「黄金律」も愛も基本的な衛生概念もこの中にある。 エコロジーも政治も平等も、そして、ていねいな生活に必要なものも、全部この中に入ってる。
このリストのうちなんでもいいから一つでも、小難しい大人語に訳してから、家庭生活とか仕事とかお役所とかの、君を取り巻くいろんな事柄にあてはめてごらん。きっとちゃんと立派に通用するから。 例えば、僕達みんなが ーつまり世界中がー 三時のおやつ時にクッキーとミルクをたべて、お気に入りのブランケットに包まれてお昼寝するようなになっとしたら、なんて素敵な世界になるだろう。例えば、もし世界中のお役所が「使った物は元に戻す」と「自分の後片付けは自分でする」を基本政策としてちゃんと実行するようになったとしたら、なんて素敵な世界になるだろう。
で、これも本当の話さ。いくつになっても「外に出たら、周りに気を付けて」、「手を取り合って、離れ離れにならないようにする」のが、一番大切なんだよ。
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著作権上の問題あるのかな?
そのぐらいのことで温暖化の勢いが止まるわけがない。
そもそも自然を大切にしようなんておかしい。
今まで地球は生物が全くいなかった時期だってあるし、氷で覆った時期もある。
「自然を大切にしよう」は「人間が住みよい環境を維持しよう」の言い換えであって、
エコの観点から昔ながらの生活に戻れば環境悪化の抑止になるというのは間違い。
そして、一番危険なのがリサイクルだ。これで対処した気になってしまっていては自殺行為だ。
日本人全員がリサイクルに目覚めても温暖化の進行は1%ほどしか止められない。
温暖化は文明の発展がもたらした人災だと言う人がいる。エコやリサイクルに走るのも、その言説を受けてのことだ。
しかし「自然を大切に」「リサイクルをしよう」という観点で頑張っていては事態は一向に止まらず進展し
気がついたら取り返しのつかない事態まで環境悪化が進行してしまったってことになりかねない。
エコやリサイクルに金をかけるのは、今すぐにやめた方がいい。
今まで人間は困難にぶち当たった時に「発展」という武器で対抗してきた。
今こそこの「温暖化」という困難に大して「発展」で戦おうじゃないか。
日本語でも読めるようにIPCCの報告書の訳を貼っておきますね。
http://www.gispri.or.jp/kankyo/ipcc/ipccreport.html
人類の活動による二酸化炭素排出を-6%削減したところで地球温暖化阻止には海の水をスプーンですくい出そうとするようなものでしかない。
んーと、根拠は何?
前提
http://www.gispri.or.jp/kankyo/ipcc/pdf/IPCC-TP4-Japanese.PDF
二酸化炭素(CO2)に関して言えば、仮に2010 年の時点で、排出量に大きな差が存在
したとしても、大気中のCO2・気象・海面の変化の反応は、その排出量の変化に対し緩慢なた
め、2010 年の時点でのCO2 濃度、地球平均気温、地球平均海面レベルの違いは、比較的小さい
ものとなるだろう。温室効果ガス排出量の変化、特にCO2 排出量の変化の結果が、気象システムの
上で完全に具現化するには数十年から数百年かかる。
NL-1%の場合で、2100 年には 9 ppmv に達し、NL-2%の場合で、6
ppmv に近づく。2100 年でのCO2 放射強制力で言うと、これらの差は、0.1-0.2 W m-2 になる。
そのような不確実性が気象や海面水準におよぼす影響は、極端に小さく、IS92 シナリオの元での
将来的な非付属書I 諸国排出量や、他のガスの排出における不確実性、気象や海面水準のモデル
上の不確実性など、他の要素から生じる不確実性よりも、はるかに小さいのである。
2100 年の時点でのNL-2%の場合の気温低減(気象感度
は低から高)は、(ベースライン)IS92a で0.34-0.68℃、IS92c で0.11-0.23℃、IS92e で0.44-
0.91℃である。これに対応する海面水準の降下は、IS92a で4.5-11.5cm、IS92c で1.6-4.6cm、
IS92e で6.2-15.0cm である。
第二の比較は、異なる排出抑制案の間のものである。仮定した付属書I 諸国排出量に対し、
NL-1%とNL-2%での濃度の差は、どれほど、影響を受けやすいものなのか?その結果を図C3
に示した。ここでは、影響は、2000 年まではゼロであり、「誤差」は、それから、徐々に広が
って、2100 年では、 3 ppmv 程度に達する。2100 年でのNL ー1%対NL-2%の濃度差、27 ppmv
は、低い参照数値の場合、 24 ppmv 位にまで縮まる。これは、放射強制力や、気象上の影響
からすると、無視できる程度の影響である。
極端なモデルNL-2%排出抑制シナリオで100年後の差は1℃もない。
逆にお伺いしたぐらいだ。
2012年までに二酸化炭素排出を日本が-6%制限した結果、何年後に何℃下がるとお思いなのか?
上記のことが知ってることの全てなら、知らないに等しい気がするんだけど(汗
しらんがな(汗
二酸化炭素の温室効果は赤外線領域に強い吸収帯があるからという前提になっている。
だけどそれだってCH4より低い。大量排出ったって自然界の炭素循環のそれよりも低い。
どんな拠り所があるの?
南極ボストーク基地からとれたアイスコアをみるに時代的にはそろそろ二酸化炭素濃度はピーク。
http://en.wikipedia.org/wiki/Vostok_Station
二酸化炭素が増えた先に待っているのは地球の歴史から見て寒冷化であって、
そのまま一様に温暖化が進むというわけではないのは地球の歴史からみても明らか。
都市化による気温上昇と混同しすぎではないのか。
あと、
観測結果によると、極地の氷が減ってるっみたいだけど、
これはどこの観測結果?
南極やグリーンランドの氷床は増えているし、北極のような陸地のないところの氷は解けたところで海水面の上昇には寄与しない。
http://www.ep.sci.hokudai.ac.jp/~geodesy/pdf/kuga_poster.pdf
と、そんな感じでレスしてみた。
二酸化炭素削減万歳!
「あのー店長」
「なんだ」
「そうだよ、白モノをやってた。まあ耳タコだろうけどな」
「そこでちょっとお聞きしたいのですが、冷蔵庫って、ちょっとでも開けっ放しにすると電気が勿体ないんですよね」
「そうだな。あれは5秒以上開けっ放しにすると庫内温度が上がってしまうからな」
「はあ」
「10秒を5回より、5秒を10回のほうが節電効果があるんだ。」
「そこでなんですけど」
「うむ」
「長時間開けてるとアラームが鳴る冷蔵庫は知ってるんですけど」
「あるな、というかあったな。今はうちでは扱ってないけどな」
「ああ…」
「5秒で閉まる冷蔵庫があれば、エコロジーだって、売れると思うんですけどね」
「あのさ、それな」
「なんで無いのか知ってます?」
「それ、試してみるとわかると思うんだけどな」
「はあ」
「ものすごーーく…不便だと思うんだよな」
「…はあ」
「…うん」
「…それって…店長は試されたんですか」
「それは内緒だ」