夢のはじまりは夜だった。私は友達三人とどこか温泉街のような場所に旅行に来ていて、ホテルのチェックインを済ませたところだった。私に一緒に旅行ができるような友達は三人もいないはずだから、その友達が誰だったのか、どんな顔だったかはもう思い出せない。あるいは高校の修学旅行で同室になった同級生たちだったかもしれない。
ホテルは十四階建てくらいの、温泉街にしては大きくりっぱなホテルで、私たちは四人で一部屋の和室に泊まった。皆で浴衣に着替え、宴会場のようなところでにぎやかに夕食を食べた。酒を飲んで心地よくなった私は「先に部屋に戻るね」と言って、友達三人を残して宴会場から抜け出した。私には昔からこういう空気が読めないところがあって、だから友達もいないわけで、やっぱり三人もの友達と旅行になんて行くわけがない。
部屋に戻ると、すでに四人分の布団が敷かれていた。食事の間に用意してくれていたようだ。私は自分の布団に潜りこんだ。眠気はすぐに訪れた。
さらに夜が深くなり、あのまま眠ってしまったらしい私はうっすらと目を開けた。部屋の電気はついたままで、けれど室内に他の三人の姿がみえない。敷かれていたはずの他の布団も見当たらない。まだ微睡んでいる意識の端でふと、私はもどる部屋を間違えたのかもしれない、という可能性を考えた。アルコールで思考が鈍麻していた私は、それでもいいかと思ってそのまま目を閉じた。
翌朝、目を覚まし、今度は完全に意識が覚醒した状態で室内を見渡した。何度みてもやはり、其処には私一人しかいなかった。
思ったとおりだ。私はもどる部屋を間違えてしまったんだ。
とくだん焦ることもなく私は冷静に自分の荷物をまとめ、スマホの充電がいっぱいになるまで少し待って、部屋のドアを開けた。
ホテルの廊下が続いているはずのそこには、明るい外の景色があった。それも、よく見慣れた、私の実家の玄関を開けたときに見える畑と砂利道と住居と、そういう眺めが目の前に広がっていた。
私はさすがに驚いて、たった今まで自分が寝ていた部屋を振り返る。ホテルの部屋だと思っていたそこは、私の実家に替わっていた。もう誰も住んでいない、置いていかれた家具がなんとか朽ち果てずに残されているだけの、異質な存在感を放つ廃墟が私の背後にあった。
私は酔っぱらって、ホテルの部屋に戻ったつもりが実家に帰ってしまっていたんだ!
情けない気持ちになりながら、とりあえずホテルまで戻ろうと外に出たところで足が止まる。実家からあのホテルまでのルートなど私が知るはずもない。途方にくれたが、私はそれでもホテルを目指して歩いた。そしてすぐに気づいた。あのホテルは私の実家のほとんど真裏に建っていた。
視界にあらわれたホテルは来たときよりも小さく、ペンションのような見た目に変わっていた。
しばらくホテルを見あげて立ち尽くしていると、入り口から引率の先生のような中年男性がでてくるのが見えた。いなくなった私をさがしに来てくれたらしい。友達四人の小旅行だったはずの旅行がいつの間にやら、修学旅行か何かに変わっている。気づけば私は当然のように学生服を着ていた。
「一体どこにいたんだ?」
小走りで駆けよってきた先生が私に尋ねる。私はその瞬間、廃墟となった実家で一夜を明かしたことを話せば奇異の目で見られるのではないかと不安になり、曖昧に口ごもった。まごつく私に先生もそれ以上追及することはなく、私をホテルのロビーまで連れていってくれた。
ホテルのロビーでは、先生に付き添われて私は誰かを待っていた。友達三人のことを待っていたような気もするけれど、はっきりとは分からない。それでもただ、私は待った。ロビーには私のように先生に付き添われ誰かを待っている人が他にも何人かいた。あてどないような、茫洋な表情を皆そろって浮かべている。それを見るうちに私は、昨夜の出来事をすべて先生に話してしまいたくなり、これまでの経緯をとつとつと先生に打ち明けた。
「私、本当はやっぱり、実家出るの嫌だったってことなのかなぁ」
最後にそうつぶやくと、先生は私を見て黙った。それからゆっくりと、正面の大きな窓に目をやり、その向こうに見える立体駐車場を指さした。あの駐車場は昔は駐車場じゃなかった、あそこには誰かの住居があった、でも今はもうない。そうやってすべては変わっていくものだと、先生はしょぼくれた私を励ますように喋り続けた。
私はぼんやりと、良い人だなあこの人、でも、たとえ話は上手くないなあと思いながら、熱心に語られる話を右から左へ聞き流した。
目が覚めた。今度こそ本当に、そこには現実の朝があった。
まだ夢の記憶が鮮明な私はしばらく体が弛緩したようになり、とても起き上がる気になれなかった。まったくなんて夢だろう。
来月、転職が決まっている。新生活のスタートだ。もうあと半月と経たずに、私は生まれてから二十数年を過ごしたこの家を出る。夢の中ではすっかり空っぽの廃墟になっていたあの家に、現実の私は今、まだ、あともう少し、住んでいる。
住み慣れた我が家の廃れきった姿、それでもそこに帰ろうとした夢の中の自分を思うと、切ないような気持ちがこみあげてたまらない。