自分は慈善事業を生業としている者で、慈善事業にはあくまでも仕事として取り組んでいるのだが…それでも仕事の毎日に引きずられるものなのか、オフの日でも慈善事業めいた行いをする事が多い。
具体的に何をしているのかというと、恵まれない子に食べ物を施したり、遊んであげたり、一緒に時間を過ごしたり。
(字面にすると別の不道徳な意味に読み取れてもくるがそのような邪推とは無縁で、本当にそのままの慈善行為しかしない)
身銭を切って休日を施す、というのは他人にあまり共感を覚えられるオフの過ごし方ではないだろう。それほど多いタイプの人間ではない。
しかしオフの日に見かける、同じ行いをしている人間は他にも居るので、
そういう人たちのすべてが、同じような慈善事業者気質かと考えていた。
しかし、全く違った。
垣間見せる極度の過激さゆえに既に周囲からの鼻つまみ者となっており、
その狂ったエネルギーをつぎ込める先がもう慈善行為しかないから長年取り組んでいるだけであり、
ただ場所や相手に執着ししがみついているだけなのだと知らされてしまった。
その活動への熱心さは、
自分が向けているのは善意なのだからいくら対象に暴力的に押し付けても大義名分が通ると信じているから、
そして大義名分を盾に同じ活動をしている他人をも縛り付け酷い扱いをしても許されると考えているから、
堂に入った恫喝を受け、伝手と語る反社会的団体による嫌がらせの指嗾まで匂わされ。
さらには自分のやった事を白日の下に晒されてもなお、あくまでも相手を嘘つきと言い張るその姿勢を見て、初めて思い知った。
清き白川に住まう無垢で無知な白魚とは、そもそも住む水が違う、濁った田沼に潜む得体の知れぬ影でしかないのだと。
まさか休日に行っていた慈善行為の先で、そのような相手に不当な扱いを受けるとは、まるで予想もしなかった。
同時に、相手が自分にだけおかしな態度を取り続けてきたその理由もよく理解した。
立場からすると、慈善事業者が休日に慈善行為を行う事そのものが、鼻について仕方がないのだろう。
南センチネル島だったか。未開の部族に接近し声をかけていた宣教師は無残な姿で見つかったと聞く。
開拓精神は立派だが、布教の志は見事だが、清い水で育ってきた人間が、足を踏み入れてはいけない領域が実在するのだ。
慈善事業者の価値観は、恫喝と面子とプライドしか気にしない単純な世界観の持ち主にはまるで理解できぬものなのだ。
簡単に法を犯す部類の人間には、近寄ってはならない。関わってはならない。話しかけてはならない。
近寄るのは警察がやり、関わるのは弁護士がやり、話しかけるのは裁判官がやるべきであった。
もう二度と前科者には関わらない。