今回の件では、ラノベを批判する側も決して一枚岩でなく、いくつかのグループがありました。
そのうちのあるグループがこう主張していました、
「エロい表紙だからダメ」でも「差別的な意図があるからダメ」でもなく、
「私たちに『差別的な意図がある』と思わせたからダメなのだ」と。
なかなか理解できずにいたところ、ふと思いついたのが、
「差別的な意図はなかったとしてもステレオタイプな黒人を描くのは差別」という論理でした。
「差別的な意図はなかったとしてもステレオタイプな巨乳女性を描くのは差別」。
なるほど、対応しているように見える。
いったい何が問題なのでしょうか?
なぜ「意図的でなくとも」なのか。
それは、差別的なステレオタイプを「無自覚に」支持していることがありうるからです。
そこからは作者の「意図」が差別的かどうか、という問題となり、
『境界線上のホライゾンXI中』の表紙に描かれた、
葵・喜美というキャラクターの格好には、もちろん作者の「意図」がありますが、
その「意図」を評価するには、作品内容に踏み込まねばならないでしょう。
「被害者が差別的に感じればすべて差別」という論法が使われることもあるらしいですが、
これは「差別かどうか」を機械的に分別しうる分かりやすい基準が欲されているだけだと思います。
当然ながら、「そこに意図はあるのか」「その作者の意図は差別的か」といった判断に思考放棄は許されず、
男性への媚びや隷属、あるいは羞恥といったイメージを抱く人がいます。
一方で、オタクには「エロい女は強キャラだ」というステレオタイプがあります。
あられもない格好をして興奮しているようなキャラクターが弱いはずがない。
『境界線上のホライゾンXI中』の表紙に描かれた、
主人公も含め、多くのキャラクターが頭の上がらない存在でもあります。
たとえば「ハーレム」というと男性優位をイメージするでしょうか?
多くのハーレムラブコメにおいて、男性主人公は情の深さと優柔不断を併せ持ち、
その性格がためにむしろ周囲のヒロインたちに奉仕する構図になりがちです。
(もちろん英雄好色を地で行く奔放なキャラも一つの類型として存在しますが)
言うまでもなく「いずれのステレオタイプが正しいか」と主張したいわけではありません。
ステレオタイプというものは意外に食い違っているものだということです。
「女性の頬が紅潮しているのは男性への媚びである」が「黒人の唇は厚い」などと
同程度に共有されたステレオタイプであるのかは議論の余地があるでしょう。
『境界線上のホライゾンXI中』の表紙に描かれた、
(ちなみに境ホラⅤ下の表紙は男性です)
しかし、たとえばセリーナ・ウィリアムズをカリカチュアライズして炎上した風刺画とは違い、
オタクにとってあのイラストは、あくまで葵・喜美というキャラクターの「真像」です。
これは、あのイラストを広く遍く「女性」のカリカチュアとして捉える人々との深刻な齟齬となります。
特に、葵・喜美はキャラクターとして「ごく一般的な女性」として設定されているわけでもありません。
シリーズに深く親しむファンほど、「女性」全体のイメージと結びつけるような見方に反発するでしょう。