パクトレ問題について、いくらなんでもいちゃもんだろうという糾弾が度々生じている。写真を見ながらイラストを描けば「目トレ(目で見てトレース)」。既存画像の色味をスポイトツールで拾いながら絵を描けば「色トレ」。模写や資料写真の参考として推奨すらされているような行為まで、著作権法違反かのようにあげつらわれることすらある。
なぜ、賛否両論のパクリの指摘が絶えないのだろうか。「目トレ」や「色トレ」のように、いわゆる「なぞって書き写す」ものでない「トレース」を糾弾している人は、次のように主張しているように見える。「なぞり書きのトレースでないとしても、パクリはパクリだ。他人のアイディアや、創り出した魅力を剽窃する、非難すべき行為だ」。
トレパクが叩かれる背景としてはこのような、「他人の手柄を横取りする、卑劣な行為」への嫌悪感がある、と思う。注意すべきは、これは著作権法において違法とされるものとの乖離が大きいということだ。著作権法は、親告罪であることを除いても、乱暴に言えば「まるっと複製」と言えるものだけが違法となり、プラスアルファのアレンジがあればそれはただの「新しい創作物」とされる。(企業ロゴなどの商標についてはまた別の話だが、おいておく。)
従って、「パクリだ!」に対して、「著作権法では問題なし」「荒木飛呂彦だってやってるじゃないか」という指摘は鎮火に結びつかず、「合法ならいいのか。荒木飛呂彦だって時代が違ったんだ」などと思われるだけだろう。パクリ(及び広義のトレース)を指摘する人間は、他人のアイディアに乗っかって「創作物」を発表する、ずるい所業をあいつはずるだと指差しているのだ。
あまりにも自明でありながらも広く誤解されている神話として、「無から有が創作されることは皆無である」という真実がある。
美術史を紐解くまでもなく、文化とは古来より相互に「他人の創作物を、一部真似してアイディアを貰って、創作する」ことを繰り返し積み重ねて発展をした。流行りの構図があり流行りの色の塗り方がある。流行りのドレスがイラストレーションになり流行りのイラストが着物の図案になる。
「流行る」とはアイディアをパクリあうことであり、「流行りが廃れて新しいものが生まれる」とは、既存のアイディアを踏まえた上で敢えてズラすということだ。なるほど、著作権法に触れずともパクリはパクリかもしれない。他人のアイディアをタダ乗りする行為かもしれない。しかし同時に、それは卑劣な行為ではなく当然の行為なのだ。
では、言いがかりのようなパクリの指摘を減らして行くには、どうすればよいだろうか。自衛策のひとつとして、「影響を公言する」ことが有効だろう。「カラーパレットは○○をベースにいじったものです」「○○で画像検索して見ながら描いた」「この○○の描写は写真家の☆☆さんの作品を参考にしています」等と絵に添える。あるいはプロフィール欄に誰を真似して描いているかを公言する。重ねて、公開と同時または先行して「元ネタ」の著作者に自分の作品を紹介すると、潔白である旨のポージングになるだろう。
勿論、効果は限定的で、「パクリだ」と指摘されることが無くなるわけでは無いだろう。糾弾者と対話するにあたって、この文章が役に立てば幸いだ。間違えてはならないのは、糾弾者は「お前の行為は法に触れる犯罪だ」と(間違った)主張をしているのではない。「お前は元ネタの魅力に乗っかっているにすぎない。調子にのるな」と言っているのだ。
パクリ糾弾て 「絵の書ける人」VS「書けない人」 っていうオタク界隈での絶対的階級差をひっくり返すためのツールなんじゃないかな
いや、普通に有名人を引きずり下ろすのが楽しいからでしょ。おまえもよくやってるじゃん。
模写もトレースも複製なんだけど。
ティーカップが割れた絵を理解しないままパクってマグカップにフット生やした某講座はまずかったよ 元が無料講座でもそれ自体が描いた人の宣伝になってたんだから横取りはダメ そも...