大変なことがわかったのだけど、わたしがうんこを漏らす理由はアレルギーによるものかもしれない。
今まで漏らすときと言えばたいてい急な便意に襲われてトイレまでたどり着けないパターンで、その10割がほぼ液体だ。
液体だからこそこらえがきかないし、一度溢れ出し始めればズボンの色を染め上げるまで止まることはない。
しかし、そうした突然の便意に襲われるのはほぼ外食からの帰り道だということは経験から分かっていた。
だから大抵の場合、食後にパチンコ屋で暇をつぶして小一時間ほどで便意に襲われなければ帰るという生活を送っている。
それがたまたま人と一緒だったり車で移動中だったり知人宅に招かれて家を出てしばらくしてから便意に襲われたりと、そうした偶然がいくつか重なってしまうと惨事にまみれてみまわれてしまうのだ。
さて、事故に至る状況はこの程度にしておいてここから本題に入りたい。
増田を卒業できるかもしれないということは、つまりこの突然襲いかかる便意の原因を突き詰めることができたかもしれないということだ。
そしてその原因とは、生のネギ、もしくは玉ねぎにあるかもしれないのだ。
辛味が強いと口臭が気になるが、口臭を気にしてくるような相手もいないのでお構いなしである。
ところが、どうもやつらを口にしたあとは、ほぼ間違いなく約1時間ほどで強烈な便意に襲われることが最近分かってきた。
うんこを頻繁にもらしたことがある人間なら分かってもらえると思うのだが、いい大人になったというのに人前で限界まで括約筋を締め付けていると、自分が大人になり損ねているみたいでとても惨めな気持ちになってくるのだ。
さらにわたしが初めて人前でうんこをもらしたのは、初恋の人の目の前だった。
小学生のころ、同級生数人と連れ立って出かけた夏祭りのことだ。
友人宅で食事を終えたあと、皆で出かけていったおまつり会場で悲劇は起こった。
初恋の人の目の前ということもありながら、あの年頃だと尚更お腹が痛いという理由では皆のもとを離れることはできなかったのだ。
もう帰ろうと幾度なく提案してみたが、その願いが受け入れられることはなかった。
その場では何がおきたのか全く記憶にないのだが、翌日初恋の相手から電話をもらったのを覚えている。
「君がうんちを漏らしただなんて勘違いしてごめんね。変なことを言ってしまったことを謝ります。」
向こうから進んでなかったことにしてくれようとしたのだ。
それを聞きながら受話器を手で覆い隠しながら泣いたことだけは昨日のことのように記憶に刻まれている。
思えばあの時の昼食は薬味たっぷりで楽しんだ流しそうめんだった。
便意が括約筋をこじ開けようとする時、決まってその時の記憶の扉もこじ開けられてしまう。
小学生のあの頃から、結局なにも成長できていないままこんな歳になってしまったのだ。
突然の腹痛に襲われる度に、そんな惨めさを噛みしめる人生だった。
しかし、今回これで原因がわかればわたしはこの悪魔から逃れることができるかもしれない。
しかもそれがアレルギーという本人の意思とは別の生理現象であり、自分がいくら大人になろうとも原因さえわからなければ防ぎようのないものだというではないか。
アレルギーが見つかったことによるショックよりも、気をつけてさえいればこれからの人生でもうあんな思いを二度としなくても済むかもしれないという喜びが全身を駆け巡っていくのがわかった。
これで1時間程度の後に激しい腹痛に襲われることになったならば、それはわたしの人生の新たな始まりの知らせであり、増田の卒業を知らせる鐘の音となるだろう。
余談だが、初恋の人に対する好きという気持ちを捨てることができず、小学校の卒業式に思い切って告白をしたのだ。
彼女は僕の言葉を聞き終えると蔑んだ目で口元を歪めながらこういった。
そこまで言うと、ハッとした顔で「どっちにしてもごめんね。無理だわ。」といってそそくさとその場を離れていってしまった。
もしこれであの時の勝手大便がアレルギーのものだと証明できたのであれば、わたしはそのことを彼女に伝えようと思っている。
君に愛を告げた人間は、便意を予測できない赤ん坊のように未熟な人間だったのではなく、自覚することが難しいアレルギーを持った至ってどこにでもいる少年だったのだと。
これ以上彼女の人生においてわたしが汚物汚点であってほしくないのだ。
もう誰かの鼻つまみ者になるのは沢山だ。