はてなキーワード: ツリー構造とは
その生物のくびきから逃れて文明社会築くのに、生命の根幹からもともとはずれていた雄が中心になった時代があった。
(文明は、生命の自然からはずれることで、初めて発達した。当然もともと生命の中心から阻害されていた男性だからこそ、それを推進できた)
その時には、文明的でない要素としては、暴力による支配ってのが、結構大事だった。
文明的なものとしては、物事を属性によって、ツリー形式の分類に当てはめていくのが、世界観の基準になっていた。
(ツリーの上にあるモノが、下にあるモノを支配しているという世界観。ツリーのてっぺんは神様。神様の下には人間。人間の下には、非人間要素に近い自然物とされたもの、すなわち生命の根幹に関わる女や未開人が、その下に自然界があてはめられた)
で、そのあともっぺん文明に革命が起きて、貨幣経済が発達した。
そうなると、本能レベルの敬意やら恐怖やらに囚われた、支配・被支配関係は、ずっとフレキシブルに機能する貨幣に取り替えられた。
これによって、個人主義社会が始まり、人間を属性で分け、支配のツリー構造を作る思想も、役に立たなくなった。
ツリーがほどけた後は、ばらばらの個人が、平等な平面の上にちりばめられ、個々の人々は金の流れで繋がっている、という世界観になった。
金は支配構造よりもフレキシブルなので、ツリー構造ではなく、メッシュ構造で、あらゆる個人との間に流れた。
支配のための分類に意味が無くなったために、人を人種やオスメスで区別する必要もなくなった。
同性愛・未婚・なんでもあっていいことになった。それがその個人に適した生き方なら、と。
ただ、いつの時代も、新しい感覚について行けない人がどうしてもいる。
権威や本能による統率が必要だと感じる人、個人の自由に心苦しめられている人。
あらゆる個性が認められる中で、「個性を認めたくない」という個性を持つ彼らは抑圧されている。
その抑圧が、ネットに吹き出しているんだろうのかもしれない。
権威のツリーに全てを組み込む世界観を持っているから、そういう人は、自分に当てはまるだけのことも、俺はこう感じるもの、私はこう感じるもの、ではなく、男はこう感じるもの、女はこう感じるもの、と主語が大きくなる。
絶対普遍の真理が世界を支配していると世界を認識しているから、真理はこうだ、現実はこうだ、という言葉を使うことも多い。
(ツリー形式の世界観では、ケースバイケースを本質的に理解しづらい。ケースによって異なる事例は「それはたまたまの例外だ」と思うか、ねつ造だと考える)
のではないかな、という、余り根拠のない予想。
探しました。笑
話題のツリー構造の見方もよく分かってなかったので苦労しました…。
あ、元増田です。
(こういうときに書くんですね。)
一言でバイナリツリーと言っても
積み込みをどこで均一化するか?とかハッシュ関数はどうするか?
削除するときに木の均衡をどうするか?
など、B木といっても山ほどアルのでB木と書いても、山ほどやることはあるので
どんなB木かってのは、もっと書き込まないとわからないとおもう。
少なくともB木というだけでは何も説明できていないとおもう。
逆に、その程度なら、関数名を なんちゃらBtreeと書いておけば済むことだと思う。
最悪のツリー構造のバイナリーツリーじゃぁ、ベクターの方がマシだし。
その部分をどうしたか?という部分が重要で、それって、日本語で書いた方が長くならない?
やっぱり、横暴かなぁ。バランスが難しいです。
論理的な文章を書くための基本的な参考文献(俺セレクト)
どれも割と古典的かな。最近の本はあまり知らないのでオススメがあったら補足をお願いします。
大事なのは、結論を先に書くということだと思う。
結論に至る過程や詳細な説明は後回しにする。
そうすれば、文章が冗長になった場合、単に後ろを削れば良いし、
全部読む時間のない読者は頭の方だけを読めば済むようになる。
結論を先に書くためには、何が結論なのかをはっきり把握していなければならないけれど、
直接アドバイスすることも難しくないと思う。
論理的な文章は、ただ漫然と文が連なっているのではなくて、構造がしっかり考えられている。
根っこ(結論)があって、そこから後ろへ枝葉(詳細・説明)が伸びているような感じ。
「恥ずかしがってるー」 女子生徒らが男の前でも抵抗なく着替え…日教組王国・三重の日常
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1180679.html
数少ない甘い思い出の中に、上の記事と関連するものがあったのでネタにしとく。
小5の頃、着替えは男女で同じ教室。習慣的に自分の席で着替える。席は班制だから周辺の男女比1:1。
思春期。まだだったと思う。毛も生えてなかったし。女子もブラしている人が少数派。
異性に対して淡い感情は抱いても、モヤモヤ考えるほど成熟していなかった。そんな年頃。
当時、僕は隣の席のナオちゃんに惹かれていたのだろう。気立てがよくて優しくて、僕の話によく笑ってくれた。笑顔がかわいい。
2学期、彼女と新聞係になって以来、僕の部屋で記事ネタを考えたり取材で自然公園の動物を見に行ったりと、今の僕では考えられないくらいデートらしいデートをしていた。
今思えば、ナオちゃんも僕に気があったのかも。新聞係は4人だったが、ペア行動では率先して僕と組みたがった。
僕のお誕生日会を企画してくれたのも彼女だ。もちろん、お姉さん気質だったというのもあるけれど。
それでも、このままずっと一緒だったら、もっと時間を共有できていたら、甘い恋愛コースまっしぐらだったかも知れない。
ある日、体育の時間が終わり、僕たちはいつものように自分の席で着替えを始めていた。
隣にはもちろんナオちゃんがいた。僕たちは向かい合って着替えながら、新聞記事について話し合っていた。
互いに砂まみれの上着を脱ぐ。小学生の体操服。真冬でも半袖・半ズボン(女子はブルマ)しか許されなかった昭和の暮れ。秋口にインナーウェアを着る者などいない。
白い上着が首筋をとおり、瞬間、視界をさえぎり、脱ぎ捨てられていく。それが日常。
だけど僕はその時、上着が頭を抜け、視界が明るんだその時、ふと目の前で同じく上着を脱ぎ捨てたナオちゃんの姿を見た。
僕の目はその2点に吸い寄せられた。白い柔肌のキャンバスに置かれた桃色の印。目がいかないわけがない。
ほんの一瞬だったと思う。上着を脱いで、椅子にかかったシャツを着るまでの数秒。しかし、彼女は僕の視線にめざとく気づいていた。
「きゃっ」
小さな叫び声が会話を寸断する。
今まで目を奪われていた桃色の2点が、白い体操着によって覆い隠される。
その声に困惑し、僕は何か悪いことをしたような気になった。すぐにナオちゃんの顔をうかがう。
体操着で口元まで隠した彼女の頬が、みるみるうちに紅潮しているのがわかった。実際に人が紅潮をするのを、このとき初めて目撃したと思う。
交わす言葉のない微妙な間、ナオちゃんは苦笑いを浮かべ、僕は横を向き、互いに淡々と着替えを始めた。
3学期の終わりをまたず、僕も近畿(三重も近畿とか言うな)へ引っ越した。
近畿の小6。
僕が入った小学校は、教室ごとに扉のないオープンスペースなつくり。
体育になるとメイン教室で女子が、隣のフリー教室で男子が着替えることになる(各クラスで2教室完備!)。
しかし各教室に扉がなく、隣のクラスとも廊下のみでつながっているツリー構造。
体育の時間になると、必然的に隣のクラスの女子が着替えている教室を横切ることになる。
僕たち男子は後ろを向いて横走りで駆け抜けるのが習慣になっていた。最初は何も知らず、そのまま横切ると罵声を浴びた。
「えっち!」「へんたい!」「ちかん!」
しかし、後ろを向いたら向いたで、鏡つきの流し場があったりするのが、今になると笑える話だ。
男子たちは目をつむる振りをして、チラチラ鏡の奥を見ては、目当ての女子のブラ姿などをチェックする。
三重から近畿に飛び出し、学年も小5から小6に変わる頃、もしくはナオちゃんの乳首を見て以来、僕は急速に性を深めていったと思う。
男子と女子の明確な対立(三重ではなかった)、男女別での保健指導(陰毛と生理)、恋の話(修学旅行)、性行為の発見(エロ本)。
反応してくれた人がイター!
ちょっと嬉しい。
> 別にrubyでもsedでも良いけど、正規表現で問題なくパース出来るんじゃない?
毎回正規表現考えるのも面倒かなーとかとか。
> 位置あわせでよいのかな?ほかにある?
理想を語ると出力形式指定できれば最強だなーとか妄想してた。
--output-style "[%p<>%u<>%g<>%s] %n"
とすると
| |-- [-rw-r--r--<>hoge<>hoge<>9108] HTTP_BAD_GATEWAY.html.var
みたいな。
別にコマンド的である必要はまったくないっす。
> # tree -pugs | perl -e '@line=<>; $max=(sort map {/(.*?)\[/; length($1)} @line)[0]; map {s/(.*?)\[/$1 . " "x($max-length($1))."\["/e} @line; print @line'
実行してみたら出力に変化がなかった。アルェー?
何にせよPerlじゃね?ってのは超同意。
とかく出力形式を指定できたら便利だなーと。
この手のディレクトリ状況調べて提出してちょ、みたいな要求はちらほらあるのですよ。
付け加えると、CSVで出してちょーみたいな要求の場合はfindとかlsとかgrepとかその辺組み合わせてどうにでもなる感じです。
『はじめから一冊の本としてまとめることを前提に記事を書くのだ』小飼弾の挑戦
今回そんな小飼氏が『アマグラマーのすすめ』という記事を連発して、気になってみると、
なんと目次だけというエントリーまで用意されている。
404 Blog Not Found:アマグラマーのすすめ - 目次
これは、一冊の本としてまとめることを前提に記事を書くという意味が込められており、
今後のために使われるエントリになる。
さて、今回注目したいのがこのブログの手法。
で、こうした手法の素晴らしさを説いているんだが、小説系のエログって昔っからそうだったような。
というか、ブログに昔ながらのサイトっぽい「目次→各コンテンツ」というツリー構造を持たせる方法としては普通だよなあ。
だからダメだってんじゃなくて、この手法が「小飼弾」ってところに素晴らしさを支えられてるように見えてげんなりした。
たんに「切っ掛け」というレベルを超えて、「小飼弾」抜きには書かれなかったんじゃないかと。
実際にはちゃんと「この手法の何がよいか」を書いているので、たぶんタイトルの付け方のせいだろうけど。
輪に入れないってのも同じ原因だと思うんだけど、要はその「立ち位置」が確立できないから、誘われなかったり、はみだしてしまうんだなあ。
なるほど…長く会ってないと「この集まりじゃ多分話がわからなくて完全に浮いちゃうだろうなぁ…」って思うことはある。
実は現在(20台中盤)そういう感じで困る事がちょっと出てきた。
で、
(自分)??(いつも補助してくれる人)←(この人と仲の良い人)
??(別の補助してくれる人)←(この人と仲の良い人)
みたいに、話ができるツリー構造みたいなのを頭で思い浮かべながら人を集めるようにしてる。
本音は全部ごっちゃに集めちゃってそれぞれ仲良くして欲しいなーって思うんだけど、それは無茶な要求だからさ。
だから何かしら人のつながりの中心(ハブ)的役割をしてる人の内の誰かと繋がっておくと、誘われやすくなるのかもしれないって思った。