「ガレー船」を含む日記 RSS

はてなキーワード: ガレー船とは

2024-02-27

anond:20240227170723

どちらも人間としての価値に差などない。労働の仕方程度で人間価値が決まってたまるか、あほくさい。

もしそんなことで人としての価値が決まるなら、昔のプランテーションガレー船奴隷こそ最も尊く、

それに比べると今の日本人はほぼすべて人として価値が劣ることになるが。

主婦家電に頼るなんて人としての価値がないんだろうか。

そういう、「汗水たらして長時間仕事している人間にこそ価値がある」って考え方こそが人類幸福の敵だろ。

2024-01-23

anond:20240123154928

前世ガレー船奴隷だったんだけど、

手漕ぎで海渡らないと休めなかったか

倒れた奴の分まで漕ぎっぱなしだったよ。

おかげで現世のブラック企業にも耐えられる。

2021-07-25

聖火台、人力で動かしてたって聞いて、おっさんが汗だくになりながら、ガレー船奴隷みたいに力一杯押している様子を想像してちょっとクスッとした。

2020-03-11

細かすぎて(略)ないSHIROBAKOの気になった点

第一幕の七福神の船にバルバスバウがある。 手漕ぎガレー船木造和船)にバルバスバウがあるなんて、設定の今井みどり氏は仕事をしたのか? (衝角なら有りうるが、形態位置サイズ的に違う)

なめ茸しめじ憔悴声優オーディションシーン。「どうして昨日と今日が同じだなんて言うんだ」の前「このまましずかに消えていくんだと思っていた」のせりふを坂木しずかが読むところ。

 坂木しずかがしずかに消えていくんだ、ってブラックな……?

遠藤VS瀬川対戦シーン。瀬川氏が立ち去るとき大きめ長財布しか持ってないんだけど、ゲームセンターに行くときそういう外出の仕方する?

エンドロール後Cパート興津氏。左側からみた横顔なので前髪先端が左右反転「ノの字」(乀)になっており、それが眉毛に見える。 最初なんでこの人はこんなに困った表情をしているのだろう?と思った。(実際の眉毛もっと上にある)

2014-11-23

自由人」対「奴隷

http://anond.hatelabo.jp/20141007125424 を読んで、「最近よくある意見」だなあ、と思ったので一言。まずは、例え話から

たとえば、船同士が海戦で戦って、片方が「勝った」としても、それは、船の内燃機関にとっての勝利なのか? と言えば、違う。内燃機関は「道具」の一つであって、戦って勝利したのはそれを「道具」として=自らの戦いの条件の一つとして利用した人だよね。

内燃機関にとっての「戦い」って、たとえばもっとシンプルな他の内燃機関との性能競争とかそういうものであって、道具として利用され期待されたパフォーマンスを出したからといって、その成果の割り前が内燃機関にあるわけでなし、それは内燃機関にとっての「戦い」ではないよね。どんな優秀な内燃機関でも、提督がアホだったら戦闘には「負ける」わけだけど、それを内燃機関の「負け」とは言わない。

「道具として利用されたものが、主人の『勝敗』も我が身に負えるものだろうか? = 否。それは幻想に過ぎない。」

ということなんだ。言いたいことは分かっていただけるだろうか?

いや、まあ待て。人間機械は違う、とか、そういうことを言いたいんだろう? だが、本当にそうだろうか。その内燃機関が、たとえばガレー船のように、人間だったとしたらどうなんだ? 

ガレー船の漕ぎ手にも、いろいろな立場人間がいたそうだ。いまWikipediaで見ただけけど。(※1)

兵士が漕ぎ手を兼ねることもあれば、認められてのし上がることを目指す無産市民自分用の小さなスペースで交易ができた自由人から囚人捕虜などの奴隷まで。

さて、現代社会において「ガレー船」は、一人一人が働く「会社」のことだけでなく、増田がたとえたように「国家であるとも言えるし、あるいはもっと大きく「資本」そのものであるとも言える(※2)けれども、その「漕ぎ手」である我々の立場は、上のどれに一番近いんだろうか。そう考えてみるのは、それほど無駄なことではないと思うんだ。

管理職以上なら、「会社」というガレー船では「兵士」と言ってもいいかもしれない。与えられた戦いであっても、自分用の武装や場所を与えられ、成果が褒章されるのだからね。もしその「会社」がベンチャーなら、社長以外の誰もが「無産市民」かもしれない。のし上がって、自分の戦いを自分主宰する立場になることを目指しているのだろうから

だが、多くの「会社」でほとんどの割合を占める一労働者は、やはりただの「奴隷」ではないだろうか。戦いの場ですりつぶされていくだけの道具。

そして、その全てが……社長管理職も平も、あるいはその「会社自身も、「国家」や「資本」といった巨視的な視点から見れば、所詮代替可能な道具であり、つまりは「奴隷」にすぎないのじゃなかろうか。

国家」や「資本」が「戦い」(※3)に身を投じるとき、そこに含まれる一個人や一中小企業に、一体どんな「自由」があるだろうか。



ちょっと前に話題になった、堀江貴文氏×瀬戸内寂聴氏の対談の内容の一つが、まさにそういうことだった。

http://news.livedoor.com/article/detail/9301931/

ホリエモンはこんな発言もしている。

「僕は、(中略)戦争が起こったら、真っ先に逃げますよ。当たり前ですよ」

 これに驚いた寂聴は「どこに逃げられる? 逃げる場所がある?」と聞くが、ホリエモンは「逃げる場所あるでしょ。第三国に逃げればいいじゃないですか」と、淡々と返す。

 そして、寂聴から「行かれない人はどうするのよ」と突っ込まれると、ホリエモンは平然とこう言い放ったのだ。

「行かれない人はしょうがないんじゃないですか?」

たとえ「国家」や「資本」にまで話を広げても、堀江貴文氏という人間は、上で言う自由人だ。端から見れば国家資本というガレー船の中でそれに奉仕しているだけに見えても、彼が戦っている戦いは徹頭徹尾「個人」の戦いだ。だから現代日本でも「自由人」として行動する「自由」は存在する、と堀江氏なら言うだろう。

だが、寂聴氏が指摘するように、大半の人間はそんな「自由人」として振る舞うことなどできはしない、ということも事実だ。自由人になれない人が奴隷としてすりつぶされていくのは「しょうがない」という、堀江氏の立場。「しょうがない」では済まないと言う寂聴氏の立場

前者から言えば、増田の言うことは別に間違っていない。だが、後者立場……すなわち、そこで奴隷としてすりつぶされるのが、たとえば自分の「妹」であったとしても、同じ事が言えるのか?というのが、元増田が提起する問題なんだろう、と思った。

その意味で、元増田増田の話は興味深い。で、ここまで整理して見せれば、結論不要だろう。それは、各自が考えるべき問題だろうからね。

注※

※1 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AC%E3%83%BC%E8%88%B9 の「乗員」の項参照。

※2 国際的金融取引の仕組みが整備された現代社会においては、「資本」はもちろん「国家」より大きいよね。

※3 野暮な説明だけれども、この「戦い」とは別に戦争のことだけを意味しているわけではない。戦争もまた、経済活動の一形態に過ぎないのだから、あらゆる経済活動は「戦い」であるとも言える、そういう意味

 
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