名前を隠して楽しく日記。
文化的っつうか、大人の足でも片道1時間かかる距離を高学年が低学年の面倒を見ながら行軍させられてたのでコミュ障インドア派にとっては体力的・精神的につらい行事だった。
繊細な奴は面倒だな。
まあ、とりあえずお前は見るのをやめてネット回線を切れ。せめてネットに書くな。
こういうの戦慄するよね
(世間的には)無名な作家のグループ個展・個人個展が、東京と地方だとどっちが開きやすいか考えるまでもねーだろ
コンサートホールとかだぞ、クラシック・JAZZ系のな。地方じゃ都内の施設に勝てないこと多いぞ
画集が家にいくらあっても芸術を語れる友が周囲にいなければ文化的とは言えない
かつて、地方の中核都市にも武士や資本家のコミュニティがあって、伝統文化工芸にもお金が回っていたころには、地方にも確かに文化があった
いまの地方を仕切っているのは、中学時代の上下関係で仕事を回し合う互助会とその親玉の地方政治家
そうした人々に受けるのは文化ではなく娯楽
自宅に画集を置く「距離」を問われると、外にあるから外注できると回答する
地方からも美術館に行けると問われると、東京ならすぐ美術館にいけると「距離」を盾にする
家にピアノが置けないという選択肢の「量」の少なさを問われると、キーボードなら持てると「質」で回答する
自宅に絵が飾れる(絵に触れる機会の多さ)という「質」を問われると、また外注に戻り「量」で回答する
ペットショップや猫カフェがあれば「ペットの外注」ができるかもしれないけど、実際に猫を飼わないと得られないものがある
この実際に「自分の手元における」という豊かさは、1つのモノに対する造詣を深めるからね
美術館の数を話題の中心に持ってくるのも「深さ」の話を「量」や「距離」に置き換えてるんだよね
行った回数や頻度という「深さ」なら地方でも同じ舞台に上がれるのに、美術館の数の問題にすり替えることで地方民をすべて足切りできてしまうからね
まとめると「資本」にはいろいろ種類があるはずなんだけど、それを「量」「深さ」「距離」と使い分けることで
カッペが東京に集まってくるから、フツーにガンガン東京文化を壊してるとは思う
地方でも移住者が騒いで、鐘撞きや祭りをやめさせるがあるが、東京でも割とある。あと産業の移り変わりで、家しか無くなる地域や、クリーンになってチェーン店しかない地域もある
あと、ほか増田が散々言っているように、東京はロクに部屋に物が置けないし、
コロナ禍以降は人気の展示とかだと、入場制限あったりで、美術館も予約や待たなきゃ入れねーし、
どこ行くのにも、人人人人で、移動距離は数キロから10キロ程度でも、入場・入店までに、1時間または以上掛かるはザラ