はてなキーワード: 終末医療とは
終末医療の議論は上っ面だけ、わけわからん連中が話し合ってるみたいだけれども。
例えば進行性の脳の病気があったとして、現状では治す方法がない、という前提で。
「積極的な延命はしないで下さい」という事になっていたとしても。
経過中に、急に感染症を起こして亡くなっちゃったりすると(これも予想される未来の一つなんだけれど)
何か複雑な気持ちを残す人がいるかもしれない。
もう呼吸も容易じゃない、という時になっても、
延命すれば髄腔内に幹細胞を注入するような治療が出てきてなんとかなるかも、的なことを思う人がいるかも知れない。
本人の判断能力が落ちていたり、なかったり、意見がくるくる変わってしまい、確認が難しい。
わけわからない親戚がいる。
というような色々な因子があって、とてもじゃないが、書面で確認、的な簡単なものじゃない。
http://getnews.jp/archives/246808
終末医療についての法律なのに、なぜ突然「自殺の勧め」との解釈になるのか分からない。
私が尊厳死の法制化に反対する理由|かんかん! -看護師のためのwebマガジン by 医学書院- http://igs-kankan.com/article/2012/08/000635/
「慢性的な痛みや恐怖」というのは、病気によるものをさしているのか?それとも家族が「サッサと死なねーかなコイツ」的な圧力を掛けるようなケースを暗喩しているのか?
なにか「含み」を持たせている文章に見えるんだけど、たとえばその「諸力」の具体例をいくつか挙げてもらえないと、ちょっとぼんやりしていて何が言いたいのか分からない。なんとなく想像はできるけど、その想像が当たってるかどうかはわからない。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20120828-00000000-trendy-ind
結局、問題は「いかに(比較的)健全な逃げ道を用意してやるか」に尽きるんじゃねーのと思ってる。ただホメオパシー叩いてりゃいいってもんじゃない。はてな村民にはそこが足りない。
ホメオパシーとか今すぐ地球上から滅びればいいと思ってやまないんだけど、でもそういうのに縋る人の気持ちもわかんないでもないんだよね。
自分の家族がそうで、タイムリーなことについ最近ホメオパシー関連の団体に入会した(ついでに入会書に勝手に俺の名前書いてたので死ねと思った)んだけど、その直接的な理由がどうも、妹のアトピーが皮膚科でくれる薬を塗ってもちっともよくならない、それどころか数年来悪化する一方(であるように本人たちの目には見える)なのが原因らしい。
その話を聞いて正直アホかと思ったんだけど、同時にその心理はわからなくはないわけで。
一般化すれば末期ガンの患者が拝み屋だの黒酢だのに手を出すような。
はてな村民なんかはバリバリの科学的世界観に生きていて、俺も今のところはそうなんだけど、だから疑似科学をボッコボコにしてもなんともないわけですよ。新大陸行ったら現地人がわけのわからん偶像拝んでた、みたいなもんで、打ち滅ぼすべき悪と確信してやまず、あまつさえ教化の使命に身を震わせてたり。
でも日本人のほとんどはまだまだ呪術的世界観に生きてるわけで(この前どっかの大学の社会学の先生がブログでそんなこと書いてた)、彼らが病院でもうダメだ、となったときにどうするのか。縋るものが必要なわけでしょ。
終末医療におけるホスピスのように、そういう適度な精神安定剤は当然必要なわけ(このへん、日本では宗教がうまく役目を果たしてないからよけいに悪徳宗教とか疑似科学が流行るって話もあったりするわけで)。
これからのこの社会の課題として、そういう「逃げ道」として(比較的)健全さを保った、(比喩としての)プラシーヴォ効果を一定程度供給してくる疑似科学なり宗教なりをいかに確保し、かつ100万円の壷買わせる拝み屋、みたいのをいかに排除していくか、について科学的世界観の持ち主、社会の善導者たるエリート様におかれましては向きあう必要があるのではないでしょうか(そういう意味では、現状での温泉とか鍼灸がヒントになる気もする)。せめてもの妥協として。
少数派は批判されればされるほど、その事実こそが自らの正しさを証明しているのだと思うようになる(って心理学実験の論文が出たってGIGAZINEかどっかにも書いてあった)わけだし、叩くのではなく「仕分け」た方が効率がいいはず。
もちろん同時に、義務教育課程においていかに科学的な思考法を浸透させていくかも問題になるわけだけど、まあ所詮限度があるだろうし、そもそも世代交代には時代がかかるわけだから、当面は上に書いたことを推し進めていくしかないと思う。
http://d.hatena.ne.jp/ssig33/20100825/1282722071
・ホメオパシーの例の事件の問題は、助産師という医療関係者が、K2シロップの非投与という医療怠惰行為を本人又は保護者の説明/了解なく行ったこと
・代替治療の多くが非難されるべきなのは人の弱みにつけ込む悪徳商法となりやすいから
本人が自分で判断できるのであれば、治療方針が科学的であるかは関係ないです
基本的に、転移した膵がんはまず助かる余地がないです
がんは若くて元気な人ほど進行が早いので、今監督のようなケースでは余命は予測がほとんどできないです
少なくとも、抗がん剤治療をしたところで、新しい作品を残すところまで回復するのはありえない
そもそも、抗がん剤治療というのは完全に確立したものではなくて、
いろいろなガンの発生部位、進行度、併発症状などを
少しずつ試しながらある程度効果が確かめられたものを取り入れて
進行したがんについては非常に難しいのが現状なんです
まず副作用がひどい(事が多い) 本人もつらいし、まわりもつらい
副作用によっては見た目が変わる。
本人は早く死にたいと言い出すし、
介助してる側も、こっちのほうが早く死にそうだと
そういう冗談を言いたくなるほど大変です
もちろん、がんになった時点で同じなのかもしれません
ということもわかって頂きたいのです
(最近では医療ミスとして訴えられる訴訟リスクも重なってさらにヤバイ)
いうのを理解して欲しいです
それが正しい判断である場合がもちろん多いのですが、
それ以外の選択肢が許されていないということもあるのです
患者さんにとって、最善の選択ではないと分かっていてもです
科学が絶対であっても、いつか人は死にます
どうにもできない時が必ず来ます
その時にあなたは、どう生きるのか
そして死ぬのか
自分としては
本人の意思と判断が正常である場合には、
むしろ自由度を高めてもいいと思っています
自由度を高めるのは悪いことではないと思います
けして悪いことではないとおもいます
みんなが逃げながら、過度に膨張する倫理感
だれもが来る死
それから逃げないで、だれかのせいにしないで
もう少しだけ自分と向き合って欲しいです
尊厳死ももっと議論の俎上に上がっていいのではないかと思います
興味深かったですが、まさかこんな感想を持つ人が居たので
少し長い話を書いてしまいました。
http://anond.hatelabo.jp/20090122133244
ここまで低脳を晒して、tittonは一体何が楽しいのだろうか。
tittonの中では『正しい自分がこれだけ批判されるのだから自分が絶対に正しい』という確信が膨らんでいるのだろうと想像はつくが。
>何故ならそれは科学者の態度ではないから。何故ならそれは科学者の態度ではないから。
titton『疑似科学を社会的に有害なものとして排除すべきだという主張は「科学の問題」ではない。「社会的な問題」であり、科学者の態度に束縛されない。宗教が「宗教者の態度」に基づいて科学を排除しようとしたのが中世だよね。一方が他方を社会から排除しようとするならば、一方の価値観内で正当性を主張するだけではダメだということ。』
上記のtittonの反論(?)が対象としている文:
『今までの経験から2をやる人間は大体無知である可能性が高いよなあという話はすれども、2の段階で相手を切り捨てるニセ科学批判者は今後も出てこないだろう。何故ならそれは科学者の態度ではないから』
対応が分かりやすいように「A:ニセ科学」、「B=科学者(ニセ科学批判者)」、「C=ニセ科学批判批判者」とした場合、
tittonの反論(?)対象文『Aを批判するBを批判するCは経験上無知である事ばかりでCと話をしても時間の無駄だとAが愚痴ったとしも、話をする前からCを無視する事をAしていないし今後もしないだろう』
tittonの反論(?)『BがAを社会から排除しようとするならば、科学の価値観内で正当性を主張するだけではダメ』
もう『反論(?)』と書かれている理由に、賢明な読者の方はお気づきだろう。
そう、tittonが何に向かって話をしているのかがさっぱり分からないのである。
titton『3)については、それが社会から排除されるに見合うほどの大罪なのか?という量刑が常に疑似科学批判者の一方的な判断で行われているのが問題。』
titton『そういう判断はそれなりの慎重さで行われるものだ。むやみに他人の思想や言動を制限することにつながらないように必要最小限に。そもそもそれが不十分だと感じるからあなたは警察に任せずに自分で疑似科学批判をしてるのではないのか。なぜ不十分だと感じるかといえば物事の一面しか重視していないからだろう。』
やはり対応が分かり易いように「A:ニセ科学」、「B=科学者(ニセ科学批判者)」、「D=科学」、とおくと
titton『Bの一方的な判断で、Aが社会的に排除されるのは問題だ。Aはそれほどの罪ではない』
反論文『Aは(裁判という場で疑似科学批判者とは異なる)裁判官の判断で犯罪(=罪)だとされている物もある(からAの一方的なではない)し、犯罪は社会から排除されるべきではないの?』
tittonの再反論(?)『そういう判断(犯罪が社会から排除されるべきかどうか)はそれなりの慎重さで行われる。むやみに他人の思想や言動を制限することにつならがないように必要最小限に。警察・司法による犯罪の抑制が不十分だと感じるからあなたは警察に任せずに自分でニセ科学批判をしているのではないのか。なぜ不十分だと感じるかと言えばニセ科学の犯罪的側面しか重視していないからだろう』
ニセ科学は人を騙している故に犯罪だと判断されたのだから、人を騙しているという犯罪的側面を重視するのは当然。
というか人を騙しているという実態があるからこそ批判されてるのがtittonには分からないらしい。
tittonの理屈を採用すると幸福の科学とかオウム真理教なども批判できなくなる。
>実証されていないものを実証されたとするニセ科学は、その意図が有ろうと無かろうと科学を否定するものだ。
titton『それは科学側の言い分。そんなことを認めたら、宗教にも「科学は宗教を否定するものだ」という言い分を認めなければならなくなる。このような判断は慎重かつ控えめに行われるべき物であって、あなたのように「そんなの決まってる!」みたいな単純かつ安直な判断で行われるべき物ではない。』
元文『実証されていないものを実証されたとするのは、科学ではない』
tittonの反論を読み解くと『それ(=実証されていないものを実証されたとする行為が科学ではないという事)は科学側の言い分。そんな事を認めたら宗教にも「科学は宗教を否定するものだ」という言い分を認めなければならなくなる。そんな判断は慎重に行え。あなたのように『実証されていないものを実証されたとする行為は科学ではない』みたいな単純かつ安直な判断で(科学かどうかの判定は)行われるべき物ではない』
1.どうやら実証されていないものを実証されたとする行為が科学となる世界がtittonの中には存在するらしいが、そんな世界は少なくとも現実には存在しない。あるとしたらtittonやtittonに類するニセ科学ビリーバーor擁護者or批判批判者の中ぐらいだろう。
2.実証されていないものを実証されたとする行為が科学を否定する行為だと認めるならば、科学は宗教を否定する物になるらしいがどういう理屈だろうか? tittonがそれを説明できるとは思えないが。
3.もしかしたら単にtittonの読解力と日本語表現力がないから話が伝じないだけで、tittonは何か別の意味の事を言っているのかもしれない。だがそれをtittonが主張しても日本語表現力がないので第三者どころか対話者にさえ分かって貰える可能性は低い。
titton『どんなに価値のある思想であっても、ちょっとでも抵触すれば断罪され社会から排除されなければならないのかどうかという点について、説得力のある説明を用意していない点が疑似科学批判の問題。その説明をしないと疑似科学批判批判が世間から信頼を失う』
titton『それは「疑似科学批判が科学の進歩を妨げない」という主張だよね。それはそれで疑問があるが、今はそういう話をしているのではなく、思想や宗教を排除しようというのに「科学の進歩を妨げない」だけしか考慮しない点が、科学の面だけしか見ていないと批判される。つまりすべて「科学の一方的な都合」でしか物事を判断していないのが問題だと言っている。』
ここはtittonにしては珍しくまともに読めている。上段の反論文だけを読んで行った、反論文だけに対する再反論としては間違っていない。
だが、『ニセ科学批判の批判対象は科学を装う物だ。思想や宗教を排除しようとしている例など存在しない』という、他所でなされた事実の指摘はtittonの脳には残っていない。
詭弁を用いて為にする反論に終始し、何も学んでいない証である。
たとえば終末医療。医学とは基本的には人の命を助けることが目的だ。しかしそれだけが目的ではない。だから様々な側面から終末医療はどうあるべきかが論じられるわけだ。「一日でも長く生き延びさせることこそ正しい」という価値観だけで終末医療を論じて、世間が納得するのか。人の感情や心理、その時代の価値観、様々なものを勘案して判断すべきものだ。それを疑似科学批判は「科学にとって○○だ」という一面だけで正当化しているから批判される。
1.終末医療がニセ科学ではない事はtitton以外には自明な事である。
2.「一日でも長く生き延びさせることこそ正しい」という価値観だけで終末医療を論じる事とニセ科学批判が何故対応するのか不明。だがtittonからの説明は期待していない。破綻した説明が出てくるだけだからである。
3.ニセ科学批判は「科学にとって○○だ」という一面だけで行われているものではないという事実はtittonには見えない。
4.ニセ科学批判はニセ科学批判の正当化を目的としていないという事実もtittonには見えない。
5.「一日でも長く生き延びさせる事が正しいかどうか」は科学の範疇では無いので、それに対して科学が何かを判断する事がそもそもない。科学が何か判断しているように見えるのは、人による科学以外の側面の判断であるが、科学を理解していないtittonはそれを区別できない。
6.『関係がありそうで関係が無い事を話し始める』という詭弁の典型である。
読解と日本語表現と論理が破綻しており、さらに自覚がしているかは知らないが詭弁を用いる。
終始、一顧だに値しないゴミ主張の典型例だと言って良い。
本人はユニークだと思っているらしいことが可笑しさを通り越して涙を誘う。
http://anond.hatelabo.jp/20090122023102
疑似科学を社会的に有害なものとして排除すべきだという主張は「科学の問題」ではない。「社会的な問題」であり、科学者の態度に束縛されない。宗教が「宗教者の態度」に基づいて科学を排除しようとしたのが中世だよね。一方が他方を社会から排除しようとするならば、一方の価値観内で正当性を主張するだけではダメだということ。
そういう判断はそれなりの慎重さで行われるものだ。むやみに他人の思想や言動を制限することにつながらないように必要最小限に。そもそもそれが不十分だと感じるからあなたは警察に任せずに自分で疑似科学批判をしてるのではないのか。なぜ不十分だと感じるかといえば物事の一面しか重視していないからだろう。
それは科学側の言い分。そんなことを認めたら、宗教にも「科学は宗教を否定するものだ」という言い分を認めなければならなくなる。このような判断は慎重かつ控えめに行われるべき物であって、あなたのように「そんなの決まってる!」みたいな単純かつ安直な判断で行われるべき物ではない。
それは「疑似科学批判が科学の進歩を妨げない」という主張だよね。それはそれで疑問があるが、今はそういう話をしているのではなく、思想や宗教を排除しようというのに「科学の進歩を妨げない」だけしか考慮しない点が、科学の面だけしか見ていないと批判される。つまりすべて「科学の一方的な都合」でしか物事を判断していないのが問題だと言っている。
たとえば終末医療。医学とは基本的には人の命を助けることが目的だ。しかしそれだけが目的ではない。だから様々な側面から終末医療はどうあるべきかが論じられるわけだ。「一日でも長く生き延びさせることこそ正しい」という価値観だけで終末医療を論じて、世間が納得するのか。人の感情や心理、その時代の価値観、様々なものを勘案して判断すべきものだ。それを疑似科学批判は「科学にとって○○だ」という一面だけで正当化しているから批判される。