はてなキーワード: 答案用紙とは
知人の変人、というかキモい人が凄まじい勢いで人生を巻き返しているという話を聞いて焦った。
小学校はイジメられて登校拒否、中学はほとんど学校に出ず、高校は見事中退、その後順調に人生をフェードアウトだった筈だったのだが。
いつの間にか高学歴になり、いつの間にか俺より遥か上の就職先を得て、現在は起業して順調に業績を伸ばしているらしい。
何故そんな話を知っているかというと、その男を仮にAとするとAと俺は小中高と同じところに通っていたから。
確かにほぼ学校に通わず県下トップと言える高校に入学したのだから、地頭は良かったのだろうと思う。
その一方、彼のコミュ力は絶望的だった。テスト中に消しゴムを落としたことを言い出せず、指で消そうとして答案用紙を破き
そのまま提出するようなコミュ障だった彼に何が起きたんだろうか。
聞くところによれば現在は一端のカリスマと呼べる経営者となっているらしいが・・・。
百歩譲って、大学まではわかる。あれはテストさえ越えればいいのだから可能性はある。
しかし、彼が就職、起業と至ったプロセスが全くわからない。俺の知る限り、彼に出来るコミュニケーションの限界は
マックでセットを注文するくらいのところだったはず。「ポテトの塩多目で」とか「お冷ください」とかは間違いなく出来なかった。
それが、何故こんなことになっているのか。いつも肩にフケを積もらせた小太りの彼が経営者なんてのは全く想像できない。
俺の記憶が正しければ、彼は何らかの障害を抱えていたと見て間違いない気がするんだが。
ttp://tyk.livedoor.biz/archives/51465889.html
そういう高校は、中学の成績がオール1でも、入試で答案用紙になにも書かなくても入学できる。中学で試験をうけたことがなかったので、成績がないという生徒でも入学できている事例も紹介されている。
高校は勉強の場ではなく、18歳で社会に出るまでの猶予期間に過ぎない。働くわけにもいかないし、勉強してもしかたないので、つまり、宙ぶらりんな期間に、いちおう学校いってますというお墨付きをあたえる期間にすぎない。
中退率もすごい。あるクラスは入学時28人で、その年のおわりには10人減った。2年生以降はすこしはやめなくなるのだが、卒業するのは半数程度だそうだ。
もちろん、いきなり、そういう風になるわけではなくて、タイトル上著者は高校中退にフォーカスしているが、高校が問題というより、中学校のときからもうだめで、たいがいは小学生の2-3年生からもう勉強についていけなくなってしまっている。中学生までは義務教育で中退ということにはならないので、中学中退では本のタイトルにならない。だから高校中退としているのであるが、実情は小学校中退というのがふさわしい。
親が男のところに転がり込んだので、家を追い出された女の子とか。
もうめちゃくちゃ。
交通費がだせないので、自転車で1時間以上かかって通っている生徒や
体操着が買えないとか、
入学金の5000円が工面できないとか
そういう話になっている。
著者は貧困が連鎖することを問題視しているが、まさにそのとおりだ。
十八才の時、自らの進路を決めるために志望校を決めた。本当は十八才なんて若さで将来のことなんか分かるわけないのに、その時の感情のおもむくままに、また周りの友人に流されるままに進路を選んだ。
冬になってセンターを経て受験が始まった。どこの会場に行っても、殺気に似た息づかいがひそひそと聞こえてくるようだった。寒い校外とは別に、教室の中だけは熱気に満ちていた。
第一志望の受験は一番最後だったのだけれど、その前にいわゆる「滑り止め」をいくつか受けた。受験しているときは自分が自分でないような気がして、もしこのまま受かってここに来ることになったら、いったいどんな四年間(以上)を過ごすことになるのだろうと不安にも思っていた。
幸か不幸か、その学校には合格した。あとは第一志望の受験を残すのみとなった。
第一志望の受験会場に行ったときには、足が震えていた。それは決して寒いからではなくて、周りのあまりの士気の高まりに自分がついて行けず、怖くて震えていた。それぐらい周囲の誰を見てもやる気に満ちあふれていた。
この時点で負けは決まっていた。当然ながらその学校には落ちてしまった。それも完敗だった。受験会場を後にした時点で負けを自認していた。
親には反対されたが、もう一度、第一志望の学校を来年受けてみようと思った。自分の進路に対する思いというものが、この敗北により徐々に明らかになっていくのが分かった。そう考えると、一度落ちたということは良かったことなのかもしれない。
四月になり、みんなの新生活が始まった。無事進学した者はそれぞれの場での活動が忙しいし、自分たち浪人組もまたこれから一年の戦いが待っていた。
最初は不安だった。勉強をするのは苦ではないが、それだけでこの貴重な十代最後の年を過ごしていいものか。また、勉強したからと言って確実に受かる保証をいったい誰が与えてくれるというのか。
これらの不安を払拭してくれたのは友人たちだった。授業が終わると一緒にファストフードやカラオケにいってお互いを励まし合った。自分が一人でないことを確認できた。みんなで一緒に壁を乗り越えていこうという気持ちになった。
やがて夏になり、秋が過ぎて、冬が来た。
今年もセンターの季節になった。しかし一年前とは違っていた。自分が進むべき道は自分の頭の中ではっきりと描かれていた。だからモチベーションを維持できた。この一年間、友人たちとも話しながら、決して遠くない将来の自分たちの姿を語り合ってきた。こうあるべき、とまではいかないが、こうなりたい、という希望や願望を夢とともに話し尽くした。
そんなバックボーンを抱えたまま、センターの会場に向かうと、周りの人間を圧巻した感じになる。自分は自分の力で道を切り開いて進んでいるのだという自負がある。
その年のセンターは大成功だった。予想以上といってもいいぐらいの成績を収めることができた。
二月になって、試験もいよいよ本格化してきた。昨年、事情により「蹴っ」た学校にも再び合格することができた。そしてまた、いよいよ、第一志望校の受験の日がやってきた。
受験会場に着いたときは、去年の自分とは違っていた。去年の自分のような人を横目に見ながら、さっそうと会場を練り歩き、目的の教室へと向かっていた。昨年と同じ会場で、二回目の会場なので、余裕もあった。
試験中は自分の最大限の力を発揮した。迷いはなかった。緊張もどこかへ吹き飛んだ。あるのは目の前にある真っ白な答案用紙のみ。そこに思いの丈をこれでもかとブチ込んだ。周りを威嚇するために、わざわざ大きな鉛筆音を出してカリカリと答案用紙を真っ黒にしてやった。
試験が終わって会場を出たときには、何とも言えない達成感があった。自分はやり遂げた。目標や夢というものに向かって歩き続けているという現実感を感じていた。そこに結果は必要ではなかった。自分の成長具合に自らが興奮していた。
約二週間後、合格発表があった。
…自分の番号はなかった。
もちろん泣いたが、そこには進歩した涙があった。これはあくまで予定調和で仕組まれた道なのだと、後になって十分に納得した。やるだけやって、自分が進んできた道は間違ってないと確信していた。結果というものは運命の導きであるから、それは胸を張って受け入れなければいけないと思った。
…結局、その後に受けた第二志望の学校に無事合格した。そして入学した。そのことについて、何ら負い目はなかった。確かに自分が想定していた進路は変更になったが、それについてはこの一年間で十分に吟味して、いろいろな可能性を考えていた。人間、どういう道をたどることになっても、そこで自分の力を発揮できればいいし、そうでなければいけないということを分かっていた。
結果的に受験自体は成功はしなかったけれど、この一年で得たものには限りない財産性があることを実感した。
一年前と比べると、自分の意志が確固としたものになっていたし、この一年間は決して無駄ではなかった。単なる時間つぶしのためのものではなかった。この一年がなければ、自分は人生において大きな欠損を抱えたまま生きていくことになるのだと思った。
浪人を勧めているわけではないが、人はどんな状況においてでも自分の価値を見出し、その価値を実現するために行動できるということが分かった。その信念に基づいて行動すれば、一般に辛いといわれる浪人の状況でも前向きに生きていくことができた。
今ではこの一年というのは、自分の人格形成を司った、極めて重要な一年だったということができる。そして友の存在。彼らとは未だに全く関係が切れていない。むしろ年々盛り上がっている。
自分は、こんな素敵な一年をこんな素敵な友と過ごせたことに感謝している。この時点において、自分の人生はまだ「点」に過ぎなかったが、今やそれは現在につながる「線」になっている。「点」が多くなければ「線」は存在し得ない。
そして今もまた、mixiやインターネットを経由した色々な面から「点」の形成をなしえている。感謝してもしきれない。
思えば、自分がもし第一志望に合格していたら、今の自分はなかった(もちろん別の自分があるのだけれど)。そう考えると、今の「線」のつながりを振り返り、また、前を向いて「線」を展望するに、不合格だったことはまさに運命のなせるものだったのかもしれない。
今、友人として多くの人と交流させてもらっている。これは運命なのだと。そしてその運命を今は楽しんでいるし、受け入れている。加えて、運命の「線」を先に延ばそうとがんばっている。その過程がとても楽しくて幸せである。
人によって「幸せ」といったものの定義は違うだろうが、少なくともここに一人、人生において「幸せ」をありがたく享受している人間がいる。たとえささやかなものであれ、それがみんなに行き渡ることができたらこれほど素晴らしいことはない。
人は、どんな状況からでも「幸せ」を獲得することができる。無駄な時間は一秒たりともない。自分が「幸せ」になろうと思えば、誰だってそうなることができる。間違いなくできる。「幸せ」になる権利がある。
中学2年のとき。
私は学年トップクラスの成績だったのですが、見た目はあまり賢そうに見えなかったらしいです。
それでなのか、担任の英語教師が、単語テストのときに私の席にやってきて、突然答案用紙をめくりました。
その瞬間はいったい何をされたのかわからなくてポカーンとしてしまいましたが、あとからあれはカンニングを疑って確かめようとしたのだと思い当たりました。
母がその教師に抗議をしたらしく、母への謝罪はあったようですが、私本人への謝罪は一切ありませんでした。
それ以来、私はその教師の授業を受けることを拒絶しました。
教室には居るし、教科書も机の上に出す。しかし耳をふさぎ、窓の外を見たり考え事をしたりして授業は完全無視。
塾に通っていたので勉強はそこでしました。
そして定期テストでは満点を取り続けました。
おまえの授業など意味がないのだと教師に見せつけるように。
おとなしい優等生の私にできる、精一杯の反撃でした。
やぁ、元増田だ。
どうやら、本当にわかってない人達がいるようだね。
http://www.suzaku-s.net/2007/12/kosei-kyouiku.html
http://anond.hatelabo.jp/20071214154638
円環的時間に子どもを閉じ込める、というのは、どういうことか。個性を育てる教育とか要らないとか、ゆとり乙とか、そういう話じゃない。
http://oku.edu.mie-u.ac.jp/~okumura/blog/node/1870
ある方からのタレコミ。小4のお子さんが学校で長方形の面積を横×縦で計算したら減点された。学校に問い合わせたら,担任にも教務主任にも縦×横が正解と言われたとのこと。横×縦でも同じになることを自分で見つけたならば褒めるべきところを減点するようでは,創造性を伸ばすなというようなもの。
こういうレベルの話だ。俺は30年くらい前に小学校の作文授業で、「習っていない漢字」を書いたことによって減点された(日本語としては間違っていない。ただ、「まだ教えていない」ことだけを理由に×をつけられて減点された。理由も明記されていた)。「ゆとり」時代にカリキュラムにあったかどうかは知らないが、「つるかめ算」を意図しているであろう設定の問題で、空気を読まずに二元連立方程式でさっくり解くと、×になる。あくまでも、つるかめ算の操作を暗記して再現するのが算数のテストの答え方だという。ちなみに、ちょっと気の利いた学習塾などに行くと、さっくり解いたあとで求められる操作に数字をあてはめておくといいことぐらいは教えてくれる。このほうがまじめに空気を読むよりは速い。でも、答案用紙に連立方程式の痕跡は残しちゃいけない。
学習指導要領をどう弄ろうが、これが日本の公教育のスタンダードだ。
毎年、「あまり代わり映えのしないこと」(これ自体は、初等・中等教育では、ある程度はそういうものだろう)を教えつづける、という円環的時間の中にいる教師が、生徒を育てるのではなく、自分の授業が自己完結し続けるという循環の材料として子どもを使うという構図だ。その中において、教師の授業の「上を行く」子どもの行動は、夾雑物として扱われる。
一見、「創造性を育む」ようなお題目の内容であっても、「どのような流れでどのような形の解答にたどりつくか」ということが、教師の想定範囲に留まることが求められてしまう。そして、これは個々の授業内容に留まらず、どういうカリキュラムを学校として提供するか、という学習指導要領などの作成にも反映されているし、さらに敷衍すると、社会形成の全てにわたり、よくみる若者カルチャー叩きの構図と重なっていく。文化として、別に良くも悪くもない、というか、どうでもいいことが、単に老人の分からないということだけで罪悪視される。
モンスターペアレンツ叩き事例をよくみると、茶髪やピアスといった、それ自体は正直どうでもいいことについての「生活指導」に対する親の異議申立てが混じっていたりするよね。もちろん、それは自身が茶髪であったりピアスをつけていたりする親への叩きにもなっていたりする。
このクラスは800人も学生がいたので、1年生の他の多くの科目と同じく、
この試験も新しい学生を振り落とすためのものだった。試験は2時間で、問題用紙が配られた。
教授はとても厳しい人で、きっかり2時間後にこの机の上に提出しないと受け取らないこと、
試験が始まって30分後、1人の学生が息せき切って駆け込んできて、教授に問題用紙を下さいと言った。
「もう最後までやる時間はないと思うがね」
と教授は用紙を渡しながら言った。
「いえ、やります」
とその学生は答えると、席についてやり始めた。
2時間後、教授が試験の終了を宣言すると、学生たちは列をなして答案を提出し、出ていった。
30分後、机に向かって次の授業の準備をしていた教授のところに、その学生がやって来た。
彼は机上に積み上げてある答案用紙の上に、自分の答案を置こうとした。
「駄目、駄目。受けとれんよ。もう、時間切れだ」
学生は不信感と怒りを露わにした。
「先生は私が誰だか御存知ですか?」
「いいや、どなた様か知らんね」と皮肉な口調で答えた。
「先生は私が誰だか御存知ないのですか?」と再び学生が聞いた。
「分りました」と学生は答えると……
優等生のイエス先輩やムハンマド先輩の答案用紙をカンニングするのが「宗教」というやつである。
「人生」というテストはとても厄介で、決まった正答が存在しない。
ただ、イエス先輩やムハンマド先輩の回答はスマートなので、正解に近いだろうと思われている。
「私は自力で問題を解いているのに、こいつらは自分の頭で考えずに楽をしている」と考える生徒がいる。
「なんでカンニングしないんだろう、カンニングすれば楽なのに」と考える生徒がいる。
「カンニングが横行すれば学内の秩序が乱れる、カンニングは禁止すべきだ」と考える生徒がいる。
生徒A「どうして答えだけじゃダメなの?」
教師「先生は過程が見たいのだよ」
生徒A「だってさ、どうする?」
生徒C「あたし過程はあってたけど答え間違ってたから部分点なかったけど」
生徒A「うーん。総合すると、答えがあっててかつ答案用紙てきとうに埋めときゃいいわけね」
生徒C「なんだ、結局答えがすべてなんじゃん。馬鹿らし」
生徒A「そりゃそうでしょ。マニュアル主義的には妥当な態度だし」
生徒C「納得いかねー」
生徒A「だから、採点マニュアルにそう書いてあるんだよたぶん。答えがあってても他が空欄なら×とせよ、みたいな」
生徒C「あー納得」
生徒B「あ、そうか、現実忘れてアカデミックな方向に引きずられるからわけわかんなくなるだけか」
生徒A「そうそ。あたしたちにとっては点数がすべて。教師にとっては理由あるいは言い訳がすべて。理念なんてどうでもいいわけ」
生徒C「なら攻略法もあるわ」
生徒B「国語なんか思いっきりそうだけど数学も例外じゃないのか。あーあ」
生徒A「学校は教育する場所じゃなくて、教育したっていう既成事実をつくるための場所なのよ。勉強したいなら一人でしなさいってこと」
生徒C「そこまで極端なのはちょっと」
生徒B「でもこの学校のあの教師について考えたとき、その言い分は正しいと思うな。あたしたちがおかれてる状況を充分説明できてる」
生徒C「p⇒q? 日本語でいうと、えっと」
生徒A「あの教師にしてこの教育あり?」
生徒B「んーでも集合論的におかしくない? 教師は教育の部分集合でしょ?」
生徒A「教育現場はボトムアップでもないしね。たしかに因果律が不自然だ」
生徒C「じゃあ、こんな状況になった十分条件なんて定義できる? あの教師ってのは必要条件てことになるけど」
生徒B「うーん、マニュアル主義の功罪ってやつ?」
生徒A「あたしわかるよ」
生徒C「なに?」
生徒A「過程なんて毎回考えるの面倒だから、結果だけコピペしちゃおうって姿勢の帰結」
生徒B「なるほどねー。必要外のことに注力できるのは熱意あるアマチュアだけだし」
生徒C「じゃあ国語と数学以外もそうだね。教師が点を与えてもきちんと言い逃れできるだけの回答をすればいいわけだ」
生徒A「これ定理だね。正しいだけじゃほしいままにならない」
生徒B「対偶取ると、ほしいままにしたいなら正しさ以外にも目を向けよ、か」
生徒C「この場合、ほしいままってのは良い成績取ることだから、綺麗事に目を背けず、やるべきことをやらないと」
生徒A「てことで、この正答だけが書いてある答案に点数つけるにはどうすればいい?」
生徒B「論破すれば?」
生徒C「さっきの定理によれば、それ以外にも、たとえば教師の逃げ道が必要だよ」
生徒A「じゃあこうしよう。『この問題文には答えよとあるだけで、証明せよ、求めよ、といった過程に対する言及が見られない。にもかかわらず後になって過程も見せよとはどういうことか。これは問題文の不備か教師の恣意的な受け答えに過ぎない』ここまでが論破部分ね。んで『なのでいま私にこの問題を実際に解かせ、その過程を見ていてもらいたい。その上できちんと採点していただきたい』」
生徒B「それをあの教師にもわかる口調にしたら終わりだね」
生徒C「しっかし、ここまでしなきゃならんもんかね」
生徒A「仕方ないでしょ。あいつだって、答えコピペして成り上がってきたようなやつだし」
生徒C「まーね。それにしても過程の重要性を知らない人間はほんと疲れるわ」