三角関数ネタがまた流行っている。このネタについて前に書いた文章なのだが,Haikuが消えるそうなので増田に転記しておく。
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100文字だと言いたいことが伝わらないような気がするのでHaikuで。
今回の県知事の発言に対して「いやいや三角関数も役に立つよ」とか「確かに役に立たないけど進学には必要だよね」とか「〇〇も役に立つから教えるべきだよね」という意見は,全て正鵠を射ていない。
そもそも,「学校では役に立つことを教えよう」という考え自体が教育をゆがめることになる誤った考えなのだ。
一つ目の理由は,ジョブズの有名なスタンフォード大卒業式のスピーチ「点と点をつなげる」を読むとわかる。リード大学で学んだ「カリグラフの講義」という,おおよそ役に立つとは思えない授業で学んだことが,人生で大きな判断をするきっかけとなり,やがてそれが世界を変えることにもなった,という話だ。
人生において,学ぶことが役に立つか立たないかを,事前に判断することはできない。予想はえてして大きく外れるものだ。またある人の人生の役に立った知識が,ほかの人の人生に役に立つとは限りらない。あらかじめ役に立つと予想したものだけを学ぶことは,人生の可能性を大きく狭めることになる。
二つ目の理由は,基礎的な教科を学ぶ目的が頭をよくすることだからだ。
人は腕立て伏せが人生で必要だからやるのではない。腕立て伏せをすると,腕の筋肉が強くなる。強い体が欲しいからやるのだ。
数学のような「普通科のカリキュラム」は,受験のため進学のために学ぶものではない。それは論理的思考を身につける訓練をするために学ぶものだ。思考対象をモデル化し,抽象的な論理にそって展開し,結果を得るという作業は,極めて高い思考能力が要求される。それを繰り返すことにより人間の頭脳は鍛えられる。
複雑な運動をすると体と運動神経が鍛えられるように,複雑な思考をすると頭脳が鍛えられるのだ。
三つ目の理由は,効用を目的とすると教育の崩壊をうむからだ。これは私の考えではなく,内田樹が著書で述べていることだ。
たとえば,簿記の知識は人生に必要だ。だが,それを得る手段の選択肢としては「自分で簿記を学ぶ」と「簿記の専門家の知識を金を払って利用する」の二つがありうる。効率を考えると,後者を選択するほうが合理的だ。さらに効率を追求すると「簿記の専門家の知識をただで利用する」方法を模索するようにさえなる。
学問の効用を教育の目的としてしまうと,いかに少ない労力でその効用を得るか,という方向に人間の思考はむくものだ。たとえば大学の卒業の目的が「就職でのアドバンテージ」になると,いかに手を抜いて最小限の労力で卒業の資格を得るか,に学生は腐心することになってしまう。そして,これは実際に多くの大学で起こってしまっている。
教育の場では,能力の向上そのものを目的とするべきだ。そうでないと教育機関はその役割を果たすことができなくなる。学校では,むしろ「そんなこと学んで何になる」というような浮き世離れした学問をやった方がいいくらいだ。役に立つ実学は,社会に出てからも学べるのだから。
ゴミレベルの記事しか書けないセルクマはてなブロガーは失せろ
それは馬鹿差別にもつながるので、能力向上に全く役に立たなかったとしても学ばせておく理由が別に必要