元々の言語化能力が決して高くないせいってのもあるんだが、それにしたって人と会話をしている時の言語化能力の低下っぷりと来たら目に余るものがある。
だが考えてみればそれも当たり前なのだ。
私にとって人と会話をするということは思考回路をこれでもかと酷使する行為にほかならないのである。
私が会話をするのには行き帰り共に3つのプロセスを必要とする。
次に、普通の人(定型発達者)のするような会話をリバースエンジニアリングすることで作り出した定型発達者会話エミュレーターに一度通す。
それから、そうして出てきた会話文が定型発達者同士の会話にふさわしいものかをチェック用のシステムに通し、問題が無いと判断された場合は口述の形で出力する。
そして、人から受け取るときも、相手の言葉を定型発達者同士の会話で使われる文脈をエミュレートした仮想OSに一度通し、それから自分なりの言葉に変換し直し、そうしてようやく内容について考えるという事が出来る様になる。
普通の人はこれを1プロセス、または2プロセスで行うのだろう。
たった1つプロセスが増えた程度で何をそんなに苦労するのだろうかと思われるだろうか、私はこの状態の時2つのOSを同時に頭のなかで走らせなければいけないという事を考慮して欲しい。
私だって文章で読み書きする程度ならば、頭の中で簡単な回路を作ればいいだけなので人並みに出来るのだ。
だが、面と向かっての会話となるとそうはいかない。
あの、非言語コミュニケーションなるもの、顔の筋肉や仕草、声の抑揚等だけでなくその場の雰囲気としか表現しようもないものまで交えて行うコミュニケーションを処理するのには、もはやOSをもう一つ仮想空間で動かしてしまった方が効率が良くなってしまうのだ。
それほど、私の普段の思考回路からアレらの儀式はかけ離れてしまっている。
そんな訳だから、私はただ普通に会話をしたいだけでも非常に脳を酷使することになる。
挨拶のような決まりきった約束事ならば、何とかなるし、内容に自由度がある友人同士での純粋な雑談や、逆に何をどう話すかが前もって決まりきっていくらでも事前練習出来るようなビジネス的な会話などであれば人並み(とはいえその底辺に触れるかどうかのレベル)に可能だ。
しかし、時折これらのどれにも属していないような会話が飛んでくると途端に脳が限界スレスレに陥りときには応答なしとなってしまう。
定型文を使って対処できるうちはいいが、そこから深く踏み込まれると非常に困る。
考えるべきことは無数にあるし、内容についての精査は必須だ。
相手が何を思ってそんな事を聞いているのかも考慮しなければいけないし、どの程度のフランクさをこちらに求めているのかも完璧に近いレベルで読み取ることが求められる。
そのような状態に陥ったとき、私の言語化能力はほとんど失われてしまう。
目の前で展開される定型発達的な会話(が出来る人間の振り)をやりきることに精一杯になりすぎて、脳の処理能力が許容限界に達していることに気づかないままアクセルを踏みっぱなしにした結果として、自分の頭の中で生まれた概念を、まず私に分かる言葉に直す能力すらも唐突に失われるのだ。
あの感覚はぞっとする。
言葉が消えるのだ。
伝えたいこと、考えたいことの漠然としたイメージは浮かぶが、それを他人や、10秒後の自分に手渡せるような実態のある物に変換できないのだ。
思いつくたびにイメージは失われ、失われるたびに再生産され、そのたびに崩れ去っていく。
あの感覚を味わうのが嫌で、私は人との会話を割けるようになった。
頼む、私と会話をするのならば、本当に取り留めのない会話をするか、極めてビジネスライクな会話のみをするか、定型文の投げ合いだけをするか、その3つのどれかにしてくれ。
そのどれにも属していないような会話を私にふるな。