昨日の文章を要約すると、日本語はメンタル主体に発せられるものに対して、英語はフィジカルを主体とした表現で組み立てられているのではないかということだ。
I have lived in Tokyo for three years.
もしこの英語を直訳したのであれば、”わたしは東京に三年住んだ経験を持っている。”ということになる。
これがわたしが完了形の学習に対して最初に感じた他人事であるという違和感だった。
そこで、英語の訳に対して”フィジカル”という言葉を加えてみたらどうだろう。
”わたしのフィジカルは、東京に三年住んだ経験を持っている。”というふうに、メンタルが今のフィジカルがもつ情報を説明している内容であることがわかってくるのだ。
つまり日本語は、自分自身が自分自身の今の状況を説明しているのに対し、英語は自分自身が自分のフィジカルの状況を説明していると言えるのだ。
詭弁と取られるかもしれないが、”今現在のフィジカル”を主体に考えてみた場合、現在完了、過去完了、未来完了も、全て自然に納得することができる。
少なからずわたしは、これでhaveとhadとwillの使い分けは間違えなくなった。
そこで昨日のLeave it to me.を考えてみる。
”わたしのフィジカルに対してそれをそのままにして”と考えてみるとどうだろう。
”わたしに対してそれをそのままにして”よりは、いくらか”わたしに任せて”といったニュアンスが強くなったように思えないだろうか。
Is it possible~?に関しても、メンタルに直接”ありえますか?”と問いかけていると考えるより、”フィジカルがそうしてしまった可能性がありませんか?”と聞いていると考えたほうが納得がしやすい。
さらに決定的だったのは、英語ではI want が日本語に対してそれほど使われないということだ。
欲しい時はI would like toを使うが、これも日本語がわたしというメンタルが欲しがっているのに対し、わたしのフィジカルが好むだろうという言い方をしていると考えればすんなりと納得ができたのだ。
今のわたしから見て、フィジカルがどのような状態にあるかを考えれば、多くの前置詞もすんなりと理解できそうな気がするではないか。(さすがまだできるとはいいきれないが。)
ここまで考えて英語に対するつかえが取れたというのは、そうした表現だけでなくアメリカ人(あくまでわたしの観測範囲であるが)とのコミュニケーションは、基本的に相手のメンタルに直接語りかけるのではなく、あくまでお互いがフィジカル同士に語りかけるものだったという理解に対してだった。
だから彼らは人の行動に対して何の躊躇もなく批判(評価のほうが適切かな)をしてくるし、されることに対してもいやと思わないのだ。
自分のフィジカルであってもまるで他人事のように無責任に話をしているのだから当然だ。
日本人のようにちょっとした間違いの指摘をすぐに人格否定とは捉えないのだ。
ただ、かといって彼らが無責任かどうかは別だ。バカな行動はするがそれによって生じた結果に関しては常に真摯に受け止めてくれた。(これもあくまでわたしの観測範囲であるが、だからこそ彼は未だにわたしを大事にしてくれているのだろう。)
ただ、勉強法について何かしらの理解を行うにあたって、そこに至るプロセスをストーリーとして仮定しておくと理解しやすいというのがわたしは勉強法として有効だと考えている。
そういえば過去に一度まだ英語も全然話せなかった頃、立派に成人した男性に一度だけ”Good boy”と評価してひどく怪訝な顔をされたことがあった。
その時は確かに男子と呼ばれたら嫌だろうなくらいに思っていたが、これも彼らがフィジカルに重点を置く文化であればこその嫌悪感だったのかもしれない。
そう考えれば、彼がいまだに人の迷惑を考えず、毎朝早くから筋トレを欠かせないのも納得ができるというものだ。