個別のテロ――誘拐だったり殺人だったり破壊行為だったり――ってのは社会体制維持の文脈で(つまり俺が社会参加者でその体制を破壊されると不利益であるという利益関係者として)否定するんだけど、一方で、テロ全体という行為や思想そのものは否定しきれないと思うわけだ。
現在この民主主義的な社会において、多数派ってのはやろうと思えば少数派を限りなく弾圧できるし、そういう法を作ることができる。
すごく適当な仮定の話でいえば「苗字があ行で始まる国民からは全財産没収しますー」という法はつくれる。憲法があるから作れないっていう人は憲法改正ができないと思ってるお花畑だ。
んでもって、当然「苗字があ行で始まる国民」は「それ以外の国民」より数が少ないので、多数決でこの決定ってのはひっくり返し難い※1。
そういう状況が立ち上がった時、「苗字があ行で始まる国民」は法の内側かつ、※1によらない方法では彼らの待遇を解決する手法は存在しない。この少数派がさらされているのは、法維持的、国家の暴力だ。
この状況は同一の法に支配されたある任意の国家の内側の話で、「苗字があ行で始まるかどうか?」に関する不平等なわけだが、とうぜん国家をまたいだ状況ってのも存在しうる。
格差や不平等の是正には※1でみたように多数派の自制が必須なのだが、経済的植民地問題とか、人種問題とか、宗教問題が絡むと、「多数派の自制や少数派に対する配慮」ってのはたやすく吹っ飛ぶ。
多数派は気軽に「話し合いの場を設けるんで話あえ」とかいうわけだが、今現実実際経済的破滅の危機に際している人や、生命の危機に瀕している人に対して「話せば君の不満も緩和される」とかいうのはほとんど物理攻撃に等しいだろうし、それはすごく傲慢だ。
俺は日本人で地球ランキングでいえば上位の所得を持っている(日本人全部がそうだ)し、治安や生命の安全度も限りなく上位だ(日本人全部がそうだ)。だからそれら自分の利益を守るために「テロには反対」だ。でも、それはまさに「俺の利益を奪われるので反対だ」というだけのことであって、それ以上でも、以下でもない。
少数派が異常だからであるとか、邪悪であるからであるとか、テロが人類にとってすべきではないことだからとか、ましてや特定宗教が人類にとってウィルスであるからとか――そういう理由ではない。
そういう理由でテロを否定する人ってのは、テロリストのつぎくらいにはテロの温床になっていると思う。
重ねて言うけど、今回の者も含めてテロを擁護するという記事ではない。
だけど、「盲目的でかつアレルギー的な暴力の完全否定」ってのは、暴力の温床になりえる。そもそも「お前にどんな事情があろうと暴力は認めないぞ」ってのは、多数派と少数派の数的比率が十分にある場合、それだけで立派な暴力になりえるのだ。そういうアプローチしてる限り、テロって無くなりゃしないよね、というだけの話かと考える。
※1:現実にはそうはならない。こんなばかげた法はおそらく成立しない。でもそれは多数派側が理性的で自制できた結果だ。少数派側が多数派側に数的勝利した結果法成立が見送られるということは、当たり前だが少数派である以上ありえない。民主主義ってのは、だから、多数派が少数派に対して理性的で自制する――つまり配慮することでしか成り立たない。