世の中には「程度問題」という単純なことが分からない人が沢山いる。オールオアナシング、白黒でなんでも考えてしまう人。程度によって話が違ってくるのが分からない人。
認知を簡略化することでストレスを軽減しているのだろう。言うなればストレス社会の家畜。おのれストレス社会めと貴方がたは武器を手に立ち上がるべきだ。
一方で「恥の暴力」という特徴的な現象も日本にはある。日本は「恥の文化」と言われるが、それは恥が大きなパワーを持つ国ということでもあるんだよ。
つまり、相手が恥ってことにしてしまえば勝てる。これが恥の暴力であり、村八分やGoogle八分の原理である。
で、実は「程度問題」と「恥の暴力」って相性がいいんだよ。「程度問題」って要するに解釈のねじ曲げじゃん?
「カネないから毎日カップラーメン食ってるわ」と聞いて「カップラーメン買えるとか金あるだろ」と突っ込むようなマヌケは居ない。
でも「疲れたからゲームしてた」と聞いて「疲れてるなら寝ろ」「ゲーム何時間もやるとか疲れてないってことじゃん」くらいのねじ曲げであれば、世間でいくらでも散見される。
程度のねじ曲げって便利で、テンプレに当てはめることさえできれば簡単に相手を陥れることができる。良い子は真似してはいけない。
我々のライトな日常感覚からしてもねじ曲げの問題が多発するのだから、もっとデリケートなことになるとそりゃもう大変で、
イジメとかセクハラとか夫婦喧嘩とかもっと哲学的なことでもいい。簡単に程度のねじ曲げが発生してしまう。
もはや程度の数値化で解決できる話ではない。なるほど一見あやふやなことでも数値化できるケースは多いが、じゃあ数値化のプロセス自体に客観性はあるのか?そこなんだよ。
中途半端にしか勉強しなかった理系とか一切文系を受け入れないようなガチガチの理系に多いけど、
数値化した時点でそこから先は完全に客観的な話になった、もう主観的なことは考えなくてよいと錯覚しやすい。
しかしその場合「何が」客観的になったかが問題なのだ。なるほど数字は客観的だ。数値化すれば客観的になる。
でもその数字は何を表しているのか。何が客観的になったのか。そういうことを考えないから、すぐ程度問題のワナにブチあたり、争いの余地が生まれるんだよ。
貴方がたも心あたりあると思う。理系の学会なんかでも、くだらないねじ曲げあいの応酬が見られたりするね?
これが文系だともっと簡単で、相手の主張に表面的であれ反していそうな文献を掲げて、読んだことはあるのか問い詰める。
読んだことがない=恥であるから、日本の文系は延々とそういう喧嘩をやっているのだね。
争いは同レベルでしか起きないという名言があるけど、本当にその通り。似たものどうしでしか争わない。
本当に異質なものどうしでは、自然と離れてしまう。いじめのように一方が暴力をふるっているならともかく、
双方が更格廬のようにボクシングしているのは、これはもう完全にお互い同類としか言いようがない。
向上心ということが世の中では重んじられるけど、それは支配の道具として用いられているだけであって、
実際に本当に文字通り向上心のある人は少ないものだ。上を見ているなら横の対立は気にならないはず。斜め下からの攻撃も、隣人の目も気にならない。
自己啓発では目標設定が強調されるけど、これもくだらない支配者の論理であって、本当に脇目もふらずに目標を目指している人はごくごく僅かだ。
で、日本人のいう「恥」というのも斜め上にいるみんなから足蹴にされているという妄想だけれども、これも真上が見えているなら気にならない。
でも真上って何?そこが問題なわけ。上には雲がたちこめてて真上にあるはずの星が見えない。そういう世の中だから。
だから意識して真上を見ようとする。そうすればたまに真上から光から差してくるのに気付く。
そうでもしないと恥の暴力に巻き込まれる。暴力する側かされる側になる。それくらい恥の暴力は強い。なぜなら程度問題と密接だから。
程度問題というのは言葉の曖昧性の問題とも言えて、さらに言い換えると先ほどの上空に立ち籠めている雲でもあるのだ。
例えば、人に嫌な態度をとられて止めさせたいときについつい余計な嫌味を言ってしまう。相手を恥の暴力に陥れてしまう。
仕事には必ず一番いいやり方が存在するのと同じで、こういう時ももっとも良い言い方(星)があるのに、その星に気付かない。
嫌な態度という「言語=雲」にとらわれて、その曖昧さを都合良くねじ曲げてしまうから、正解である星が見えない。
本当はスッと上空全体を見ることができれば、見ようとすれば、ふいに正解が見えるものなのに。それをしないから、恥の暴力が生まれてしまう。
文系は頭悪い、わたしは機械オンチまで読んだ。