愚痴です。不満の声です。主観的な、机上の空論です。ですが自分の中にある声を素直に吐き出しておきたいと切に思いますゆえ、自らがどこまで未熟であろうともそれを容認し、第一に自らの人生のために、ここに書き記します。オフラインのメモ書きで済ませることも可能ではあり、普段は主にそうしているのですが、今回はあえて人目に晒すのもよいかなと感じました。いつもの勢いでOKWaveに投稿しちゃうところでしたが、ふと匿名ダイアリーを思い出してヨカッタヨカッタ。
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以前、意を決して赴いたクリニックの先生はとても高圧的で、こちらの罪悪感をいたずらに掻き立てる人だった。具体的に思い出したくもない人だ。そして不運にも、今回行った別のクリニックの先生も高圧的な人だった。決め付け、見下し、呆れて見せ、息を吐くように私にツバを吐きかける。声にならない声で「お前は碌でもないダメ人間だなぁ」と。ひょっとすると精神科医とは、こういう嫌な意味で事務的で冷たい人であることが当たり前なのだろうかとも思った。
だがインターネット上に散在する、精神科医の方やその患者さんの声を掻い摘んで読み、自分の中で咀嚼した結果、「私の神経は、人間である以上当然完璧と呼べるものではないものの、人間として至極まともである。私が掛かったクリニックの先生方のあの姿勢を自分の中で擁護などしなくてもよい。あの姿勢に対して感じた、自分の中のとても不快で嫌な感覚を安易に否定してはならない。自分の素直な気持ちを大事にしたらいい。」といった考えに落ち着いた。
私としては、そんな攻撃的な姿勢のまま人の心に接する仕事をして害を振りまき続ける事のできる神経はちょっと信じられない。罪悪感に胸を痛めている泥棒さんの方が、人間対人間として付き合う余地があるぶんまだマシかもしれない。患者をどれだけ乱暴に扱って気持ちを踏みにじろうと、理屈の粘土を塗り固めて造った巨人のような姿の“法律”や“知識”という強力な後ろ盾があるため、もしかすると泥棒より性質が悪いかもしれない。どんなにまっすぐで綺麗な心の訴えも“合法”という魔法の呪文で簡単に流し戻されてしまうのだ。診療所を構えて患者を呼び込んでおきながら、診察室の中は苦しむ患者を更に苦しめる罠で満たしてある。そして診療の最後には金を必ず支払わせる、という構図は、泥棒でなければ一体何だと言うのか。
これでは、ますます人が信じられなくなってしまう。ますます、自分はダメなやつであるという無根拠な信念が強固なものとなってしまう。そんな人生絶対にゴメンだ。
人の心に携わるお医者さんというのは、こういった不安に怯える心を救うお手伝いをしてくれる人ではないのか? 自分の価値観を患者に押しつけて、自信を無くさせてトドメを刺すのが仕事なのか? 愛で以って怨恨の連鎖を断ち切るどころか、逆に恨みの連鎖を自ら積極的に作り出し多くの人の人生を邪魔するのが仕事なのか? 嫌な思いをさせて、更に金まで取るのか?
理想論を否定し、現実を見ろと説教を垂れる人をたまに見かける。だが「理想を見ろ」と言う人を私は見たことがない。私はどちらかと言えば「私は現実ばかり見ていないで理想も見る」と言いたい。サンタクロースは居るかどうかわからない不確定な御人だが、サンタクロースを夢見るなどの純粋な気持ちは、人間が何のために生きなぜ心などというものを持っているのか、ということを確定的に教えてくれるように思う。
心は“見えない生き物”のような存在で、抑えつけられれば元気がなくなる。心の持ち主に対し自分の声が届かない状態が続くと、だんだん姿がぼやけてくる。持ち主と心が正面から向き合うことなく、自由に躍動することを許されず、無視をされ続けることで、心というものの存在自体が、輪をかけて曖昧になってくる。
「この先生たちはもう、とうの昔に自らの心を捨ててしまっているのではないだろうか。」私の心の目にはそんな風に映った。心に携わる医者が心を持っていないだなんて、皮肉なものだなと思い、また同時に、この人たちとの関係は早々に断ち切ってしまうことが自らの人生のためによいと結論した。全てと取っ組みあって検証するには、私の人生は短い。
「精神科医というのは、自らの心を殺さねば勤まらない」という結論を、多くの人が出したのかもしれない。上述したように、ある観点において人生は短いと言える。その短い人生をより良く生きるために導き出された、至極真面目な答えなのだろう。私は恐らく一生その結論には至らない。なぜならそれは人生規模で本末転倒な結論であると感じるからだ。私からすれば、ふだん到底思いもしないような代物である。「へえ、そうなの」で気持ちは大体片付いてしまい、大した反感を抱くまでにも到らない。
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というわけでなんやかんやで平穏を取り戻した自らの心にささやかな幸福感を覚えつつ、ここに筆を置きます。読んでくれた人はありがとうんこ。