2016-06-10

日記

最近ツイッターばかりやっていて、どうも140文字言葉をまとめる…というより無理矢理詰め込むような表現に疑問を感じていた。

文章には情報を搭載する能力だけでなく、それ自身流れを作る力がある。

文章はただ情報を集めてまとめるだけでなく、文章の作る流れの力でそれを自然読み手脳内に流し込む機能が求められている。

140文字にまとめられた言葉にはそれがない。代わりにタイムラインという一種強制力が、ただ時間の流れとしてツイート五月雨式に送り込み、ユーザー意識を同期的に支配することになる。

問題は2つある。

一つは、ただ時間軸に乗せられて流れる言葉にはロジックが内在しないということ。

文脈、前提条件などと言っても良い。

140文字で切り取られ、一秒単位更新時間機械的に並べられるライムラインだとか、RTによる拡散だとかでポップアップしていく情報には、大抵文脈が欠けている。どんなに短い言葉にも、本来書き手がそれを発するに至った個人的社会的意義、文脈というもの存在するはずなのに、切り貼りされたタイムラインの中で、140文字でそれを表現するのは事実上不可能だ。

この弱点を克服し、140文字でなにがしかの「感銘」を与えたように感じさせる、注目されるために、ある種の野心を持ったツイートには、つねに何か擬似的な文脈のようなものが付加される。

具体的に言えば、一種の「ベタ」でコーティングする。みんなが叩いているものを叩く。誰かへの批判。「俺たち」の賞賛。「敵」を認定し、「俺たち」の立場からそれをやっつけてやる。大抵はおおむねそんなものだ。しょせん擬似的な文脈なのだから

タイムラインはより大きな文脈を忘れさせ、たかだか140文字でっち上げられる程度の擬似的な文脈を、その陳腐さを省みさせることな肥大させ続ける。タイムラインは流れるだけで永遠に蓄積しない。言葉を重ねれば重ねるほど、そこで人は深い認識を失い、空虚な幻惑のなかをさまよいつづけることになる。

二つ目は、一つ目の現象の裏返しとして、本来あったロジックも見えなくなりがちなところだ。

またある種の、野心より挟持を優先したツイートには、このようなでっち上げ文脈よりは多少複雑な、固有の文脈で送り出されるものがある。

ツイートパラグラフ段落のように見立て、またそこまでではなくとも、マッシュアップされる前の自分自身タイムラインだけで醸し出される文脈大事にする。更新時間並べ替えられたタイムラインで目立つことよりも、自分自身文脈のなかでメリハリの利いた言葉遣いであることを意識する。

このようなツイートは、その真意を読み解くために、投稿者の背景や前後ツイートRTさらにはここ最近ちょくちょく取り上げている問題が何かを把握しないと、場合によってはほぼ反対の意味にすら解されてしまうことがある。そういうことを、恐れずに(もしくはあまり注意せずに)発信されている。

…とこれは少し主体的に書き過ぎたが、そこまで覚悟を決めてなくとも、あえて「ベタ」な文脈に固執しているタイプの並々ならぬ野心に燃えている場合を除けば普通はいくらかはこのような、個人の文脈にとらわれた「誤解の恐れのある」ツイートをしているものである人間自然生理として。

タイムラインはこれら全てを切断し、タイムスタンプだけに依拠したツイートリストへと単純化する。読む人はこの流れに支配され、ただタイムラインのなかの異物として特異な文脈を持ったツイート認識する。

ある人は身勝手単純化して「俺たち」の賞賛として受容し、ある人は身勝手単純化して「俺たちの敵」の悪あがきとして攻撃する。個人的にはあるツイートがどのような文脈で生み出されたものであるのかを常に気にしているし、そうやって探るうちに見えてくるものを楽しみとも感じているのだが、そういう人はすくない。

そういう人のことを、わからないわけでもない。

結局のところ、繰り返すがこの問題ものごとの裏表であり、前者が後者を生み出しているところがある。

タイムラインで目立つということが一種生存競争として成立してしまった状況下で、文脈を捨て去った(あるいは、単純な疑似文脈に頼り切った)ツイートが力を増すなかで、より普通文脈を持った言葉が埋もれていく。同じ分別ラインで処理されていく。

紋切り型ツイートにならされた脳は、運動をしなくなった身体のように、柔軟性を失い、運動性能を落としていく。認識単純化とともに、目に見える世界もまた色を失い、記号化されたデジタル情報としてしか理解できなくなっていく。

事態改善には、これを考慮して考えると、まず自らのなかにある文脈意識的になることだ。

大きな文脈とは何かを忘れた状態で、大きな文脈を読み取ろうと努力だけしてもなかなかうまくはいかないものだ。

タイムライン支配から抜け出す。画一的に切り取られた140文字の枠を忘れる。

140文字で書かれた言葉の軽さに気づく。140文字で書かれた言葉の、裏にあるものの重さに目を向ける。

簡単方法は、やはり日記でも書くことだろう。

140文字という制限を忘れて、書けるだけ書く。

からといって長文を気負う必要もない。枠を気にせず書いた結果なら141文字でも良い。なんなら140文字以下でも良い。

字数調整から意識解放し書きたいことを書きたいように書き、書き散らかった内容を字数言い訳せずにうまく落とす。

そうして大きな文脈を見捨てず、見失わずまとめあげる。

多少無駄があっても良い。しょせんこれは日記である自分が思っていることを、どれだけ複雑な文脈ものを考えているのかを、考えるべきなのかを、あらためて認識する。

そのきっかけになれば良い。

自分自身の複雑さに気づくことが出来れば、他者の複雑さを慮る準備もできるだろう。

今日暑い

部屋のなかは蒸す。

コンビニにでも行こう。

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