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はてなキーワード: 客観的とは

2024-05-18

反出生主義よりも出生主義の方がクソバカだと思う

反出生主義はどこかで「それなら俺も今すぐ死ぬべきなのか?」でハムレットループを起こして自浄作用というか客観的冷静さをそれなりに回復できるけど、出生主義にはそういうブレーキが内蔵されてないから「出生最高!出生最強!出生は絶対正義!」で無限メーター上げていってしまうから

anond:20240518165922

本社があるということはそれなりに大きい会社で、事務ないし法務部があってとっくに相談済みだとは思うけど

から大量のクレーム入るし事務作業もままならないとなれば、育成から解雇に持って行く段階かもしれない

能力不足による解雇には客観的に見た細かな業務リスト作成と、1年程はリスト内容を本人と共に出来てるかを1つ1つ確認していく必要があるから、それはそれですんごく大変らしいけど

2024-05-17

暇空茜さん、住民監査請求また棄却される

請求人の当該主張を裏付け根拠は明らかではなく」

請求人の主張は、請求人の見解又は推論を述べるものであると言わざるを得ない」

違法性または不当性について具体的かつ客観的摘示しているものとは認められない」

要するに「根拠もなく妄想で騒いでんじゃねーよバーカ糖分足りてねえのか?」という結論

こどおじ陰謀論

こどおじ界隈では賃貸業者ステマという事になっているみたいだけど

そこまでしてこどおじを正当化する必要ある?

客観的に観てこどおじは身の回りのことがまったくできない証拠なんだよなあ

部屋の模様替えどころか掃除すらしてなさそうだし

2024-05-16

恋愛なしでいいか子どもだけ欲しいのは私だけかな

恋愛結婚もしなくて良くて、ただ子どもだけ産めればいいと思ってる。

必要十分な子育て支援があれば十分で、それ以上は望まなくて。

子どもにとって親が2人必要って話も聞かないし。

ワンオペ育児でも回していけるサポート緊急時カバーがあれば、パートナーはいいかなって思っちゃってる。

結婚も憧れない。

一応、性欲ある異性愛者だけど普通に思う。なんか別に子どもだけでよくない?

独り身の男性だって客観的にみて充分幸せだと思うし、恋愛って人生必要なのかな。

   行政事件訴訟法は、 行政処分の取り消しと、都道府県知事の裁決決定の取り消しなどに関する法律であり、 前者は行政庁処分(Vermaltungsact)の取り消しと裁決の取り消し

     は、客観的併合によって追加的併合される。 この場合、 同法律は民事訴訟法ほとんどの規定を準用することによって構成されているが、民事訴訟法は、事件の簡易迅速な解決

   というなまなましい目的と、法律の設定という一見矛盾するものの間に関係を見出さんとする専門的な知見が必要であり、そのためにいかなる概念を措定しなければならないか問題になる

     さらにそれを技術的にやって論理的相互規定破綻しないように調整して条文案を官僚が考えてから、 国会に提出する

  よって、 令和5年行510号、 本年行146号にあたり、  行政事件訴訟法立法過程立法技術いかなる内容であるかを検討し、 行政事件訴訟法7条、民事訴訟法333

    本件では、 自立更生免除が、生活保護法63条の規定とどのような技術的助言は、 厚生労働省課長通知によってなされているもので、

   会計検査院地検査のために、地区担当員の、ぽち脇が確認したところ、令和元年12月25日に、精神障害加算を12万円余計に支払っていたので、63条の類推適用により

  令和2年2月10日に正式処分をしたがその後に取り消した。 自立更生免除は、 昭和35年厚生労働課長通知により設定されたもので、 受給者の支弁中で、極めて限定的範囲

   で生活有益な支弁がある場合は、免除を認める。 2017年生活保護運用事例集、運用マニュアルであって、 令和4年に、地区担当員の、小股が面倒くさそうに引いていて横に、

  藤原貴久子がいたときにあった電話帳のような本に細かい説明書が書いてあり、

陰茎が生えている人は客観的に見て男性である

陰茎が生えている人は陰茎が生えていてそこにあることを知っている、そう自分認識している

まり主観的にも客観的にも陰茎は生えている

キモさを自認させる

キモい男に本人はキモい男だというアイデンティティを与える

客観的キモいは正しいキモ

キモいという言葉に敏感な人向けにはオブラート

漫画主人公キャラセリフを用いてほのめかしをさせる

万が一言う通りのことを達成しても多数決によりキモいの範疇

こういう部活動クラスほとんどの生徒で構成されておりOBOGは人事部である

2024-05-15

父親になるってことが何なのかわかっていなかった

最近になって、妻といる時間が苦しく思うことが増えた。私はまだ30代だけど、妻とは人生の半分以上を一緒に過ごしてきたので相応に理解しているつもりだった。

もちろん、相手のことが手に取るようにわかるわけではなく、積み上げた経験によって、どんな入力がきたらどんな出力を返すのか、相手の振る舞いを推測できる精度が高いだけにすぎないのだが。

転機はやはり子供ができたことだと思う。お互いに、それによって心境の変化があったわけではないけれど、過ごす時間の大部分を子供に取られるようにはなった。

断っておくと、それ自体苦痛な訳ではない。私は分類としての子供というものが好きではないけれど、自分の子供まで苦手、というわけではないのは自分安心したところだ。

全く言葉も何も通じたものではないし、言うことも聞いちゃくれないんだけど、よく懐いてくれているし、可愛らしさもある。

私はこの居心地の悪さのような苦痛がどこから来るものなのか、最初はよくわからなかった。

機嫌の悪そうにみえる妻が怖いのか、子育て領域にそこまでの貢献ができていないことへの申し訳なさがそうさせているのか。

結論からいうと、妻の私への対応が変わってきたことにあるんだと感じている。

そしてそれは、きっとどうしようもないことで、彼女の余裕を育児が奪ってしまっているんだろう。

まだ赤ちゃんの子供と2人で過ごしてみたらわかることだが、本当に手間がかかる。寝ている時間のなんと穏やかなことか。

離乳食のためのスプーンは弾き飛ばすし、危険なところに自ら向かって行くし、まだ立てないのに両手をいきなり離して転がるし、風呂で泳ごうと試みて沈みそうになるし、突然吐くし、理解できない。こんなのを相手にしていればそれはもう疲弊するに違いないのだ。

余裕のない人間コミュニケーションは、可能な限り効率化される。

無駄なことは言わないし、議論は直接的だし、表情は硬い。

視野が狭まるので、相手の悪いところばかり目に入るし、いいところは見えなくなって行く。

普段の会話はなくなるし、味気ないものになって行く。

今の私は率直に言って妻が苦手になってしまった。その日の機嫌によって対応がころころと変わり、最悪なときは何を話しかけてもろくな返答は帰ってこない。

仕方のないことだ、余裕がなく、疲れているのであれば仕方がない。それがわかっていても心は疲労する。

育児というタスクに対して、私の貢献度は限定的だ。なので妻もそれほど私に期待はしていない。

保育園に送ることを除けば、他の育児に参加できるかは業務状況に左右されるため、妻は最初からほとんどの育児自分タスクとして捉えてしまっているんだろう。

そこに分けるという発想はもうない。コミュニケーションを取って分けるより、足りないところを教えるより、自分でやった方が早いからだ。

そこに下手に歩み寄っても断られるだけだし、何か落ち度があったらため息も出てくる。私はその度にすり減っていく。

自覚していたことだが、私は妻に強く依存していたし、妻は私に強く依存していた。いわゆる共依存

健全関係かと言われると疑問ではあるが、そうして生きてきた。

ここにきて、妻は私への精神的な依存から脱却し、母親として自立しようとしているのかもしれない。

私にはそれはとても寂しいことだけれど、やはり母親になるということは特別ものなのだと感じる。

元来、私自身妻のために生きてきた。(ここからすでに妻に依存している)

自分には経営やら営業の才能はなかったので、一点に振り切りつつも、その分野の勉強を続けたことで、幸いにも年収だけはそれなりに高く、同年代平均年収の倍以上はある。

でもそれは、資本主義のこの日本で暮らすには、ある程度の資金があった方が良いと思った結果に過ぎず、結局のところ妻が幸せになったらいいなという動機しかない。

ほとんどのことを妻のためになるか、喜んでくれるだろうか、と生きてきた自分にはほとんど自己欲求というものが欠如していた。

求められて、応えていれば上手く生きられている気がしていた。

人間というのは現金もので、無報酬な行動を繰り返せるほど高尚にはできてない。

相手が喜ぶなりのリアクションを返してくれるからそそういった行動をとれるわけで、そこが塩対応になってくると苦痛になってくるのは当たり前のことだった。

結果的に、われながら極端な話だと思うが、私はもう生きていることが辛くなってきている。

私が父親として自立しなければならないのだと思う。子どものためを思えば当たり前のことだ。

けれども、子供のために生きられるかというと自分はどうやらそこまでの熱量がないらしい。

生命保険がいくつかかかっているので、何かしらいい感じに死ねたら楽なのだが、と思うけれど、なかなかそんなことにはならない。

車でバカ単独事故死をしたら生命保険っておりるものなのかと考えた。

客観的に見ると、完全にメンヘラヤンデレ対応で笑うしかないのだが、これが精神依存真骨頂と言えるだろう。自分の不調を改善するために、自らを盾にして相手コントロールしようとするのはとても良くない。

けれども、自分が死んだとき、妻に悲しく思ってもらえなかったらと思うとゾッとするので、今のうちに死んでしまいたい気持ちがあるのは事実だ。

私はそれを冷たく理性で抑えつつ、次の環境の変化を期待して生きて行くのしかないのかもしれない。

いずれにせよ、核家族共働き子供ができるというのは大変なことだったということだ。

子供は出来合いの離乳食もよく食べてくれるし、病気がちでもないし、人見知りも少ないのにたくさん時間を持って行く。まぁ甘えん坊ではあると思うけど、恋人という関係で過ごす時間を根こそぎもっていく。

そういう期間が数年はあることは覚悟しなければならないことだった。

最後

こうして、何かしらの形で出力しないと自分気持ちに整理がつかなかった。

端的に言えば私は子供と妻の取り合いをしているのかもしれない。

今までよく理解していなかった、シャア・アズナブル迷言が頭をよぎる。

たとえ妻の一番が子供になったとしても、私にとっての一番はずっと妻のままだ。

その気持ちに嘘はないし、ちょっと辛さがあるにしても、毎日一緒にいられる。

一分一秒でも一緒にいる時間が欲しかった頃からしたら考えられないことだ。

から、、どうしたらいいかはわからないが、めげずに頑張ろう…。

本人的には「マウント取って痛めつけてやった」とか思ってるんだろうけど、客観的に見たら積極的に自供してるだけという

馬鹿自分馬鹿であることに気づかず、賢いとすら思う実例

漫画家フリーランスアーティスト業の収益構造を維持するために中小企業経営のような自転車操業を続ける必要がある二重構造である」という話をしたら(https://anond.hatelabo.jp/20240515193304)、それを読解することの出来ない馬鹿が、フリーランスアーティスト業なら何にでも当てはまることを漫画家特有事情かのように偉そうに講義してくる(https://anond.hatelabo.jp/20240515194535)という目に遭った。

 

 これがほんと、無知の知がないってことだよなあと思う。

 馬鹿が何故馬鹿なのかって言うと、自分が知らないこと、理解してないことが何かを理解することも出来ないから、自分視点が足りてないことが、何故か相手よりものがよく見えてる証拠になると本気で思ってるんだよな。

 

 まあただ、こんな抽象的なことを言うだけでは「自分客観的に見れないことはみんな同じだから誰も馬鹿かわからないことになる」とかって屁理屈言い訳に使われるので、もう一歩踏み込んだ話をしよう。

 

客観性のない馬鹿判別できる

 これを高精度で見分ける方法普通にあって、それはこういう風に「他人へのリアクションしか言いたいことを言えない」奴は大抵馬鹿ってこと。

 本当に他人より上の目線ものを考えてる奴なら、それを語るのには一次発信をする必要が出てくる。

 その必要を覚えず、他人へのリアクションコメントブコメトラバSNSリプライばかりして賢ぶってる奴は、ほぼ間違いなく100%自分を賢いと思い込んでる馬鹿

 反論されないところから相手の揚げ足を取ることばっかりやってて、本当に批判的思考力がつくことなんてないのよ。だって批判的思考力って、自分の気づいてないことを気づこうとする努力とか、それで磨かれたセンスことなんだから

 でもそれを、逆に考えてしまうのが真の馬鹿なんだよね。批判されないところから他人の揚げ足ばっかりとってるのが、成功体験から賢くて偉い証拠だと本気で思い込んじゃう。

 今のネットが駄目なのは、こういう馬鹿を増やすシステムからだね。

anond:20240515155932

「お前が犯罪ニュースが気になるようになった」だけではないことを示すために、客観的データを挙げてくれ

良くない体制はずっと治らない

組織体制を変えるのは難しいことなんだなと思った。

IT業界で、昔はSESで働いていて、大手によく客先常駐していた。どこも大手ばかりでノウハウはしっかり蓄積され、設計書なども充実していた。

SESを脱退し、そこそこ大手IT企業正社員になれた。しかし、そこはこれまでのSES客先常駐していたような企業とは違い、あまり体制的には良くはなかった。

工数管理

工数管理は基本中の基本であり、やらないIT企業はなかなかないだろう。しかし、当社は違った。

工数管理をしなかったのである

1日に何をしたのか、報告の義務はなく、ただ作業していればよかった。

工数管理とは、案件ごとに工数管理のための番号(工数番号)を振り、さらにその工数番号ごとに要件定義、基本設計、詳細設計実装/単体テスト結合テスト総合テスト、などのサブ番号に分割して、工数登録することである

さらセキュリティ教育などは個々の案件無関係なことが多いので、維持管理用の工数番号が振られていることもある。

リリース後のトラブル対応なども工数を消費するので、それ専用の工数番号などもあったりする。

さらに、日々の工数を詳細に記載する日報のようなものも導入しているところが多く、どの作業に何時間作業たかを15分単位などで記載する。

工数管理のいいところは、作業サボりにくくなることだ。作業効率客観的に見えてしまうため、現実を突きつけられ、もっと頑張らなきゃ、と思う。

工数管理のだめなところは、とにかく面倒くさいことだ。当然だが、工数管理を行うための工数、は工数管理には入力できる枠はない。が、確実に無視できないレベル工数を消費する。あとトイレなどにつける工数などもない。

当社の工数管理

工数管理はないと言ったが、実はある。

しかし、活用されておらず、形式上だけ数字さえ入っていればそれでいい、というものだ。

その形式上すら煩わしいらしく、若手の意見バリバリ言う人から

工数管理は全く意味がない。適当工数入力していても誰もチェックしていないのか、何も言ってこない。

工数管理をしっかりすれば、1日に働いた時間がわかるのだから、勤怠システム不要である工数管理システムと勤怠システムを一本化すべきだ。

などの意見が出ていた。

月末にテキトー工数入力することすら煩わしいらしい。

そりゃあ工数管理根付いてない企業工数管理を行えばそうなるでしょう。

工数管理業務に結びつくものではなく導入メリットは明確には測れない。しかし、めんどくささは圧倒的だ。

結果、工数管理システムは完全に廃れ、入力すらしなくても誰も何も言わなくなった。

まり、当社はよく言えば従業員意見が通りやすい、悪く言えば従業員わがままが通ってしま企業なのだ

従業員意見尊重し、押し付けをせず、それぞれのルールを重んじる。良いことであるが、それでは業務改善できない。

これまでもそこそこやれてるのだから、それを無視して新ルールを導入しても、組織が壊滅する可能性が出てくるだけだ。

工数管理は基本中の基本だ。どこもやっている。それすらも当社は従業員わがままが通ってしまうのだ。

(まあ当社の工数管理はテキトーからダメだったのであって、もっと厳密に管理して、日報なども義務化すれば、これまでサボってた社員もサボれなくなり、結果的業務改善していたと思うが。)

当社はPDCAを回さな

PDCAはPlan, Do, Check, Action頭文字を連ねたもので、つまり、まずは予定(Plan)ありき。予定がないと実行(Do)はしてはいけない。

実行した後は必ず振り返り(Check)を行いなさい。

それらをした上で次の作業を行いなさい(Action)。

という意味である

当社もPDCA概念はあるし、週報という形でそれを実現している。

しかしその概念根付いておらず、週報以外ではPDCA無視している。

まり当社は、まずは実行があり、計画は立てることは必須ではない。多くの人は計画を立てない。

振り返りも当然実施しない。実行のみがある。Do, Do, Doである

これは作業レベルでそうであるし、案件レベルでもそうだ。案件はたしか最後には振り返りの資料作成する必要がある。しかし、これは単に作成しなきゃいけないか作成してるだけで、綺麗事をまとめた振り返りである

本来は、まずは理想を語り、次に現実を語る。しかし当社は、過去グダグダ言っても仕方ない、と理想を一切語らず、現実のみを語る。しかし振り返り資料には上司受けするような荒唐無稽対策記載される。

当社は、作業の前には計画ありき、などの文化は全く根付いていない。優秀な人間でも根付いていない。

私はただの平社員なので、それらについて指摘はできない。指摘したところで「じゃあどうするの?」と詰められて終わりだ。指摘するなら十分な資料作成と具体的な対応策の準備、そして責任人を動かすカリスマ性が必要だ。私にはそれらを準備してまで無駄に頑張る気はない。

当社はマニュアルを作らない。

驚いたのが部の方針説明会の時だ。

業務改善必要だ。

個々のチームで業務改善に取り組んでほしい。」

と書かれていた。

本来は、業務改善は個々のチームだけの問題ではないので、上層部マニュアル化してルール化すべきではないのか?

アイデアは個々のチームから出してもらっても良いだろうが、それを取りまとめて全体で取り組ませるのは上層部の役目ではないのか?

それをなぜ、個々のチームに依頼する?

業務改善といえばマニュアル作成設計フォーマット作成だ。

マニュアルがなぜ必要か?

それは能力の低い人でもマニュアル通りに作業することで能力の高い人と同等の仕事をできるようにするためである

それすなわち業務改善である

しかし、当社はマニュアルを作る習慣はない。自分用のメモは作るが、維持管理に使えるマニュアルは誰も作らない。

また、当社には設計書のフォーマットはない。

フォーマットがあるだけで記載漏れがかなり減る。考慮漏れも減る。作業が具体化されるからタスクも細分化して記載できる。

当社には推奨するプログラミング言語はなく、推奨のフレームワークもない。

これらが共通化されていれば、開発者がいろいろなチームに参加しやすくなるし、別のチームの有識者相談やすくもなる。

こういった業務改善本来上層部が率先して枠組みを作るべきだ。しかしやらない。

上層部知識がなく、やるとしたら雑な仕事しかしないから、やられると逆に困るのだが。

まとめ

当社はとにかく従業員の声が大きい。強い。

業務改善などの施策を出しても、従業員が納得しないと続かない。

そういう組織文化なのだと思う。

そういう文化を変えるのは並大抵のことでは出来ない。

環境が変われば人は変わるだろうが、そもそも環境を変えるには人を変えないといけない。だから変わらない。

仕事が回らなくなり死にかければ変わるかと思ったが、たぶん変わらない。

仕事の仕方を変えるくらいならきっと死を選ぶだろう。それくらい変わらない。

追記

2024/05/15 10:48

工数管理の是非について:

実装者は成果物作成する側だからサボりにくいのよね。

工数管理すべきなのは成果物ではなくサービス提供する人なのかもしれない。例えばPMなど。

当社の開発チームは、開発者PM以外にも、君必要なの?何やってる人なの?打ち合わせには参加してるけど、ただの工数食い虫じゃね?みたいな人もいるのです。

あと外注さんにも何の工数管理しないのはやばいと思う。外注さんリモートワークだから案件掛け持ちされてる疑惑も出てたし。

ミッキーマウスが同時に一人しか発生しないルールについて

ちょっとググっただけでも、諸説あって実際のところが分からん

1. 世界に一人説(東京に出現してる間はフロリダはいない)

2. 国ごとに一人説(ランドにいる間はシーにはいない)

3. 園ごとに一人説(ランドとシーに一人ずつ出る。実際、朝は両方の入り口でウェルカムしてるらしい?)

4. ゲストの視界ごとに一人説(一人の客が同時に2ミッキーを目にすることがなければOK。窓の無い室内なら部屋ごとに一人いける)

客観的には4だけど我々の心の中では1、あたりが正解かなー

    メゾンときわ台203号室内っていうかそもそも室内にカメラがあって客観的監視していたら問題であるが、俺が様々な問題をしているために、抽象的な監視、すなわち、

    何らかの無線による監視は明らかに存在するものと解されるが、室内にカメラがないため、なぜ、室内において、 その形状をしていることを、カーテンを閉め切って外部から

    認識できないようにしているのに把握できるのかが分からない。万人が一番最初に思うのは、 室内にカメラがなく、カーテン遮断しているのに、なぜ電波が到達しているのか

    であろう。または、室内を視認できないのに、なぜ室内における形態が見えるのか、その点もおかしい。 室内で寝ているのか何をしているのかが推認できないのに、なぜ寝ている間

    における睡眠映像リモコンスイッチを押すことで流すことができるのか、それも理由がない。おそらく、ときわ台メリーガーデンの運営本部スイッチを押してからやっているのだが、もしこの後に

    ずっと起きていれば、スイッチが入っても流れないわけだから、 流すときには、交番巡査が車でスイッチを押しに来ると思うが、自動車内の分かりにくいところからリモコンスイッチを押している

     ので、全員の一斉放映の可能性もあるが、その全員が寝ている間にそれを見ているときに、ひとりだけ起きていれば、放映中の映像をみないのではないかと思う。これは私の見解である

    実際にはどうやってやっているのか分からない。

   少し今、前野町1丁目43-6付近を調べたが、メゾンときわ台202号室にアメリカ人自動自転車でどこかに行っていた。その出て来方はいかにもうれしそうであったが、

   この自転車は、このアメリカ人ではなく、令和5年10月頃に、別の老人が乗っていたため、なぜその老人からアメリカ人に変更されているのか理解できない。

   ときわ台メリーガーデンの14階の女も、2月6日に安倍洋子死去後に、うれしそうに出てきたが、その時の顔と非常に似ていた。前野町交番パトロール中だが、奥の部屋に

   何が座っている。午前4時まで、ときわ台メリーガーデンと通信のある埼玉県戸田市川岸周辺で一発あったにもかかわらず、その2時間30分後の、ときわ台メリーガーデン付近

   この状況というのはいかにおかしいような気がする。現在公園に、いかつい顔の男がベンチに座っている。スーパーライフは、入り口半開きで閑散とした様子。いかつい顔の男が

   通行している。本日は平日15日で学校もあるため、運営の方がこれから本気を出すのではないかと予見される割には何の動きもない。午前4時から4時44分までの間、荒川河川敷

   堤防警察運営リモコン昭和風情にしてあったが、代わりにババアが目を光らせていて、こっちはババアから出来ねえんだよ、という全国協同組合の老齢版郁子が堤防に立ち何かを

   訴えていたが、堤防風景昭和にしてあった。自演協同組合仕事は酷過ぎる。4時44分、自宅着、様々な装置が動いている感じがあるが、それを認識していてこの付近に住んでいる者

   はなぜ抵抗しないのかが客観的な状況から理解できない。少なくとも、荒川堤防では、警察強制による郁子が堤防に立っていてババアから出来ないと主張していた。帰りしなに、書記官

   よこたもぐらが、死にました、という電波送信し、午前0時から午前4時までのものを削除するために、午前5時以降に全力で別の装置作動させている。川岸の対岸には、巡査部長

   ざちゃんも立ち会っていた。直接言えばいいのに、要するに、生命危険であるから止めろ、と言っているものと解されるが、そうであるとすれば、別の代替策をなにも用意していないのだから

   何をしてほしいのか理解できない。診断書には自閉症スペクトラムとか不眠症ということで健康管理小島が記録をしているので、次に何をしているかは容易に想像できる。

2024-05-14

   品田幸男の判断    令和5年12月頃に事件確認し、  行510号として民事2部に事件配転したが放置

              令和6年2月1日に原告が民2部にきて強制するので、原告東京存在しない間に、2月15日、疎明書類を送付

              3月25日に申し立て却下

      横田もぐらにウソを言わせる  4月22日に即時抗告を受け付けたが、気分によって、  訴えを客観的併合  これからどうするかまだ不明

   ※  まり恵は、年度末移動で民事2部におらず、かわりに育子とかになっている

少子化が解消されない理由

男尊女卑だとか差別だとかじゃなくて、客観的にみてそーなんじゃないの?って話。

少子化が進むのは女性社会進出が増えたのが最大の原因なんじゃないの?

いや、それが悪いってわけじゃなく原因がそれじゃね?って話。別に女性が働くことに異議はない。

以前までは男が働いて女性専業主婦ってのが多かった。

そこで女性が働き出すとその分男性の働き口が減るわけですよ。そりゃそーだ。

待遇が良い会社から埋まっていくので、働き口が減った男性待遇の悪い会社で働くことになる。

そうなると年収も少なく結婚すら選択肢から外される可能性が増える。

すると女性結婚できる可能性が減る。

結婚できなきゃ子供も作れない。

もし結婚したとしても旦那給料が低いか奥さんも働く。共働き昔の男性1人分の年収を稼ぐわけ。すげー非効率

そして奥さんが働くからまたもや男性の働き口が減る。

そんなスパイラルなんじゃないの?

女性が働くのは全く問題ないしむしろ良いことでしょう。

ただ、少子化の原因としてはそれが1番の理由なのかなと。

女性専業主婦ならその分男性が働いて稼げるわけだし、逆に男性主夫になって奥さんが働くでもいいけど、一般的にはまだまだ男性は働くものだと考えられてるだろうし。

要は男女で分業しなくなったか経済効率が悪くなったんじゃないかなと感じてる。

2024-05-13

われ3年目SES

単価62万らしい

給与、控除込みで毎月30万弱ぐらい。ナスは気まぐれ、去年は年間で1.5ヶ月分もらった

われもうちょっともらってもよいのではと思うのだけど、客観的にはどうなのか教えてくだしあ

anond:20240513013111

こういうところが文系理論の頭の悪さを開陳してるよね

そもそも経済というのは数理理論説明がつく部分が多く、客観的にこうだと言えなければならない

それを、政局争いの観点で話すから政治厨は脳障害と言われる

2024-05-12

内言、意識が本当に自分なのか?と疑問に感じたときの恐怖

普段、生きているとほとんどの時間で私の頭の中では、私が言葉を喋っている。

それを内言というらしい。

その内言という自己との対話を通して私は思考というものをしているようだ。

この内言、意識が=自分、ということになるかどうかは議論余地があるらしい。

かいうことは哲学心理学領域ちょっと難しすぎる話で素人には理解が及ばない。

それはともかく絶えずといってもいいほど、頭の中で喋っている自分を、本当にこれは自分なのだろうか?

と疑ったことはありますか?

この「本当」にというところがポイントなんですけど。

こうね、意識が喋ってるじゃないですか?

それをね普段は当然のこととして「自分」と思ってるんですけど、

瞑想とかあるじゃないですか?

あれって自分の中の内言を黙らせることとかが第一歩になるみたいなんですけど、

そういう作業、内言を客観的視点で眺める視座みたいなのを手に入れた瞬間に

あれ?このずっと喋ってる奴、

こいつって本当に俺なのかな?

ってことを「言葉になってない、言語化していない感覚として感じたとき」に

意識・内言が

「ちぇ、バレたか

って言葉を発するんですよ。

これが本当にゾッとする瞬間です。

なんかね「私」という存在が実は「意識という私のふりをしている誰か」に乗っ取られている、という発見みたいなのがあって

ギョッとなるんですよね。

そしてね、一旦分離した「私」と「私のふりをした意識」というのは、

その次の瞬間には再び「私」と結合して私のふりをして私をコントロールしようとしてくるから

その「私のふりをした意識」を分離しようとするんですけど、

その分離しようとしている「私」はすでに「私のふりをしている意識」に乗っ取られた私であり、

その私こそを、私は私のふりをした意識から分離しなければならないのだが、

みたいな調子で合せ鏡のように延々と私の中の私みたいなものが一気に溢れ出してしまます

なんか全然、うまく説明できていませんが

とにかく「意識」というものが本当に自分なのか?

という疑問をいだいたときに抱く恐怖というのはこういうことです。

禅とかだと、こういう体験にも名前がついていそうですね。

あんまり勉強は得意ではないので禅を学ぶ気なんてありませんが簡単説明できるのなら聞いてみたいですね。

anond:20240510163027

私も旧帝工学部修士卒です。正社員として現在まで10年以上働いています (IT系職種です)。中小企業にもメーカーにも在籍経験がありますし、結婚出産もしています配偶者フルタイムで働いています。偉そうにみえたら大変申し訳ありませんが、あなたの書いた内容に、個人的には違和感のある点がいくつかあり、コメントさせてください。

あなた大学入学後に感じたことに共感します。実は私も講義に出づらくなり、専攻推薦を受ける自信を最初からなくし、新卒では自由応募で中小企業就職しました。ただその後転職し、メーカーなどを経験しています。その上で、やはり一般大企業の方が労働時間面も給与面も条件がよいとは思います特にメーカーというかいわゆる日系大手企業には、扶養手当や住宅手当が手厚く、家庭をもつ社員が多い企業も多くあると思います (手当については、夫婦のうち収入が大きい方という支給条件が多いことに留意)。手当の他に育児のための特別休暇を設ける企業もありますが、いくら休めても自分だけ休んだら落ちこぼれるだけなので、個人的にはそもそも有給日数の方が重要だと思います中小企業については、色々な企業ありすぎて何ともいえません。行政書士はわかりません。家庭と両立しやすかったら教えてください。

大切だと思うのは、推薦にせよ自由応募にせよ、面接で「御社で何をしたい」と語れるくらいには、各企業が何をしているのかを調べ、そこで自分が何をしたいのか考え、その根拠自分経験に照らして説得力があるように言えるようにして選考に臨むことだと思います。私は新卒とき志望度が高い企業に悉く不採用になったのですが、旧帝大であることに慢心していたのか、業界企業比較調査が甘かったと思います。想定していた業界内定が出ないこともあるかもしれないので、理系院卒カードを捨てるとか捨てないとかいう以前に、広く検討した方がよいとは思います (現在リーマンショック当時より売り手市場ではあるでしょうが……)。信頼をおいて就職活動相談ができる同期や先輩の女性があまりに少ない/いないという点では、理工系女性が苦しいということに大いに同意します。

ただ、あなたの「理工系女性は苦しみを味わう」という主張については、家庭をもつことを前提にしているのもさておき、男性に対しても理工系でない女性に対しても理工系女性に対しても決めつけが大きいので、もっともらしいのか判断できません (私は学力が低い学生が混ざることで現場教員負担が増えるなら女子枠に反対ではあります)。

ニンテンドースイッチゲームまた50本遊んで感想書いたのでまとめ

1年前に50本遊んで感想を書いた記事を書いたのですが、

あれからまた50本遊んで感想を書いたのでまとめ記事です。

前回のブコメオススメしてくださったゲームは遊んでいるものもあれば、遊んでいないものもありますが、どれも参考にしていますし、いつか遊ぶと思います

なので、また何かオススメがあれば書いてくださると嬉しいです。


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好き好き大好き超愛してる

ニューダンガンロンパV3 みんなのコロシアイ新学期

ダンガンロンパシリーズ完結作で、突然集められた超高校級の才能を持つ面々が殺し合いゲーム強要されるデスゲームものにして、その殺し合いの加害者クロを見つける学級裁判で謎を解くミステリゲーム

テキスト主体としたゲームとしては3作目とマンネリし始めるナンバリングだが、全くもってそんなことはなく「嘘」テーマにした幾つかの事件を今まで以上の絶望さで描いている。

特に超高校級総督王馬小吉にまつわるエピソードは圧巻で、歴代作品を踏まえて「絶望希望」は「嘘対真実」の言い換えだと無邪気に信じていた気持ちを粉砕させられた。

ダンガンロンパシリーズはこの作品以降はファンディスクのようなものしかリリースされていないが、なるほど確かにこの後に単純な4やV4をリリースするのは難しさがわかるのもシリーズファンには賛否がわかれる内容だった。

このシリーズアニメ版の「3」で絶望して少し身を引いていたのだが、改めてこのV3を遊んで、やっぱりダンガンロンパは最高だなと思いを改めた。


SeaBed

公称ジャンル百合要素を含むミステリーで、物静かで落ち着いた女性のサチと、元気で朗らかなタカコのカップル関係値の変遷を追うノベルゲーム

日常動作食事自然の豊かさ、季節感などなどの風景や情景の描写に文量が大きく割かれているのが特徴的で、淡々と進む中で彼女たちが何を感じたのかを、咀嚼するように読み解いていく。

そんな平和楽しい内容が、あるタイミングで突然ガラッと風景を変え、死と向き合うことの難しさ、生き続けることの意味などを問いかける哲学的幻想的なストーリーに変化していく。

ものすごく大好きで愛してる作品だけど、面白いというよりは、考えさせられるというか、このキャラ達のことをずっと延々に頭の隅で思い続けることになっているような、それぐらい大きな作品だった。


アーキタイプ・アーカディア

文明崩壊した世界で何故か稼働中のVRMMORPGアーキタイプ・アーカディア」を遊ぶ人達思想がぶつかり合う、火傷しそうな熱意が伝わってくる熱血ノベルゲーム

ゲームは遊んでおらず食糧も水も希少な世界必死暮らしているルストと、その妹でラスモス・ゾティーラ・トゥーラッカという独自挨拶ゲーム内で仲間を増そうと頑張っている妹のクリスティンの二人で始まった旅がどんどんと広がっていく壮大さが魅力的。

テーマの「ゲーム楽しい」を伝えるために様々なプレイヤーと対決していくのが、まさに楽しいゲームで、ゲームを遊ぶゲームというメタ構造になっている云々と言った小賢しい理屈を跳ね除ける沸る激情が最高に楽しいゲーム

可愛いヒロインも沢山登場するのでそういう方面でも面白く、特に僕はコロネちゃんダントツに大好きで、専用ルートのその先を妄想して悦に入ることがある。


魔法使いの夜

1980年代後半近代化が進み発展する街「三咲町」を舞台に、電話すら知らないほど田舎から引っ越してきた静希草十郎が、魔法使い自称する二人の少女出会うボーイ・ミーツ・ガールものノベルゲーム

まず目を引くのが非常に作り込まれルックで、立ち絵と背景絵、その上にかぶさるテキストウィンドウという一般的ノベルゲームでありながら、表現の幅がとても広い。

ストーリー田舎に住んでいた主人公が、街に慣れることを通じて、近代的な社会とそうでなかった時代を浮き彫りにしていき、当たり前に享受している一般的水道電気貨幣すらも、近代化恩恵であり当たり前ではないエピソードが手を変え品を変え繰り返し語られるのが、情緒的な染みるように楽しい

この情緒的ながら近代日本では当たり前のストーリーと、新伝奇ものらしい魔術を使った異能バトルのストーリーとが、静希草十郎にとっては同じだけ異質なものなのが、面白かった。

(なお、ちょうどまさに今このときスマートフォンで遊べるガチャ形式運営ゲームFGOで、彼女たちのアフタストーリーが読めるそうなのだが「ガチャ我慢する」という脳の回路が焼け切れ、貯金や手を付けてはいけないお金をあっさり使い込んでしまった過去があるので、僕は遊べないのがモドカシイ


AMBITIOUS MISSION

怪盗、探偵警察、盗人、泥棒正義と悪が入り交じる登場人物たちの中、ハートとため息を盗む怪盗ミスアルテ共に盗みを行っていくクライムサスペンス

フィクションらしい痛快さに振ったリアリティラインながら、この世界観の中でも丁寧に盗みを行う段取りを立てるパートがあるのが非常に好印象。

自分たち犯罪者であることを認めながら、法では救えない大切な人のために死力を尽くす怪盗たちの生き様が格好よくて滾る最高に面白い作品

そんな怪盗たちですら挽回不可能に思えた最後の盗みの仕掛けは、まさにハートとため息を盗まれた爽快さで、思わずコントローラを握る力が強くなりすぎて、スティックを壊してしまうほどだった。


○大好き

Dear My Abyss

陽気なミスカと陰気なスバル対照的な二人の友人関係が、無垢人形のようなルウが転校してきたこから大きく変化することになるノベルゲーム

学校熟成される閉鎖的な人間関係と、思春期らしい堂々巡りを続ける自己言及を、丁寧な心理描写と情景が伝わってくる幻想的な精神世界の問答で文章を魅せるタイプ作品

女の子同士の三角関係のように見えて、早々にミスカの好意は豪快に空回っており、スバルミスカのことを全く好きではないと、二人の視点シーン毎に同じエピソードを描くことでそれがわかる構成が読んでいて辛い。

楽しいとか面白いような前向きな感情で読める作品ではなく、思春期女子高生自己問答の末に得られた後ろ向きで退廃的な選択が、三人の関係値を歪めていく悲劇を読ませる作品だった。


アカイイト

父親実家がある田舎帰省した羽藤佳が、その田舎にまつわる伝説とそれを取り巻く異能のものたちと交流していく、和風伝奇ジャンル女の子同士の恋愛表現するノベルゲーム

まず伝奇ものとしては、歴史にまつわる蘊蓄衒学趣向的なやり取りが多いが、それが少しづつ大きな設定の開示に繋がっていくのがワクワクする。

主人公の羽藤佳は異能こそあるものの直接的な戦闘能力はないため、ヒロインたちに頼ることになる恋愛の導入が、アカイイトらしさだ。

バッドエンドの豊富さも面白く、バッドと言いながらメインルートとは異なる選択を魅力的に描いており、最初から最後まで飽きずに楽しめた。


夜、灯す

琴を演奏する筝曲部の熱血部活ものパートと、数十年前の女生徒同士の心中事件を追うサスペンスパートが混ざりあったノベルゲーム

仲間との和を大切にする鈴と、演奏技術に重きを置く有華の二人の女性対立しながらも関係値を育てていくのだが、こちらのパートは琴の演奏に関するやり取りが多く、甘い恋愛の要素は少なめ。

対して、数十年前の心中事件の方は、終わりが心中からこそ、はっきりと恋愛の要素があり、そこに至るまでの過程は辛いシーンもあれば、甘いシーンもある。

主人公保護者であり老齢の尼、十六夜妙蓮さんの大活躍はすごく印象に残り、もう一人の主役といっても過言ではないだろう。


帰ってきた名探偵ピカチュウ

ポケットモンスター世界観をテキスト主体アドベンチャーゲームに仕立てるシリーズで、2018年名探偵ピカチュウから5年ぶりの続編にして、完結作品

バトル以外の生活の場におけるポケモンの生息が魅力的で、それを映像でなく文章で楽しめるのは唯一無二だ。

これはもう他の作品と違って客観的評価は完全に捨てるしかなく、ポケモン実在する、ポケモン生活したいなどと、ポケモンへの思い入れがあるからこそ楽しめる作品

肝心のストーリーについては、実写映画版が先取りしていたせいで、サプライズ展開がサプライズになっていないのが気になるし、これほど間が空いてしまうと期待度も相応にあがってしまう、可能なら短編を定期的にリリースしてほしいが、難しいかなあ。


ATRI -My Dear Moments-

海面上昇が止まらず住む場所を失った人が多くいる近未来日本離島舞台に、超エリート校に通っていたが夢破れて戻って来た斑鳩夏生が、アンドロイド少女アトリと交流する恋愛ノベルゲーム

主人公斑鳩夏生はめちゃくちゃ優秀で頭の良いカシコなのだが、とある事情により左足がなく、精神的にも不安定なので、生きづらい描写が開幕からは続く。

しかし、美少女アンドロイドのアトリによりそこが一変し、彼女が左足を補い、精神的な不安定さも補いとサポートすることで、どんどんと前向きになり、社会基盤が大きく変化した田舎町でその頭脳を活かしていくのがワクワクする展開。

この頭脳で手の届く範囲の人たちを救っていくシーンは非常に前向きかつ地に足がついた展開で、大好きな丁寧さだった。


死噛~シビトマギレ~

ダンジョンRPGの老舗エクスペリエンスが送るホラーアドベンチャーシリーズ第三弾で、怪異の噂を横スクロールのような探索パートで調べてからRPGボス戦のような怪異との対決パートに挑む構成で、テキスト主体アドベンチャーゲームらしくない画面構成になっている。

死印の直接的な続編で、主人公や他の登場人物共通しており、ストーリー的にもそれを踏まえての悩みや成長が描かれるので、必ずそちらを遊んでから遊びたい。

前々作では怪異に振り回されてばかりの主人公だったが、今作では一転して、怪異と立ち向かうことに強い哲学的な回答を持つことになる。

ホラーの恐ろしさや恐怖を煽る部分に着目しがちだったが、ストーリー的に感動するポイントが多くあり、とてもおもしろかった。


NG

ダンジョンRPGの老舗エクスペリエンスが送るホラーアドベンチャーシリーズ第二弾で、怪異の噂をDRPGのような探索パートで調べてからRPGボス戦のような怪異との対決パートに挑む構成で、テキスト主体アドベンチャーゲームらしくない画面構成になっている。

前作とは同じ世界ではあるが、登場人物は異なっているので、設定を飲み込めるなら今作から遊んでも問題ない。

アウトロー自称する鬼島空良とその仲間たちが怪異と戦うストーリーだが、単純な腕力では倒せないので、現場操作証拠品を集めて、知恵を絞って敵と対峙するシリーズの骨子は共通している。

前作よりもブロマンスな傾向が強調されており、主人公の鬼島空良と、親友にして反社勢力の天生目聖司との持ちつ持たれつの関係値が面白かった。


マヨナカ・ガラン

キャラポリゴンが常にステンドグラスが透けて見える、特徴的なルックが目を引く、キャラクタの演技主体アドベンチャーゲーム

閉鎖的な隠れキリシタンの村の中で、正道とは大きく変化した異質なキリスト教テーマにした、宗教にフィーチャーした作品

前半こそ村人との楽しい交流名産品に舌鼓を打つ展開などコメディ要素も多いが、中盤から宗教を信じることの覚悟を問うような重苦しい展開が続く。

タイトル意味がわかる、とあるキャラ慟哭シーンは、思い出すだけでも気が重たくなる悲しい作品だった。


ワールズエンドクラブ

全国の小学校から落ちこぼれだけを集めたガンバレ組の面々がデスゲームに巻き込まれることから始まる、アクションゲームテキストを読むパートが融合したアドベンチャーゲーム

息をつかせぬ展開が魅力で、一転二転、七転八倒、とにかく次から次へと設定の根底をひっくり返すような、サプライズ展開が目白押し最後まで遊べる。

そんな中でもガンバレ組の絆の深さ、彼らが分かつ事ができない強い関係であることを信じれるようになってからは、痛快なストーリーが続くのも楽しい

アクションゲームは若干とってつけた感があるとも思うが、ガンバレ組の得意な能力ゲームっぽく表現できているとも言える、かも。


ワールドエンド・シンドローム

転校生主人公複数美少女たちと恋愛しつつ、100年に一度死から蘇る謎の現象を追う伝奇サスペンスの要素もある、ノベルゲーム

恋愛部分は正直前フリ感が強く、伝奇パート関係が薄いヒロインたちのエピソードは薄めで、関係が濃いヒロインは濃いと、濃艶がはっきりしているのは好みが分かれそう。

から蘇った人間は周りの人間記憶整合性操作しながら生きながらえるため、どうやってその蘇った人間を見つけるのかのフーダニット段取りが、ミステリしていて面白い

設定こそ新本格作家アニメ化もした某作と似通っているが、ゲームならでは仕掛けやミスリードがあり、しっかりとノベルゲーム翻案できている良作。


詩とか俳句短歌について思うことメモ

もう人生の折り返し点をすぎて久しい。目を通す文字は、仕事書類ばかりとなった昨今。

でも小学校高学年から中学生にかけての頃に、文学少女に憧れた時期があった。

書店の奥のほうにいっては新潮文庫コーナーで、適当に数冊手に取っては解説に目を通したりしていた。

まれて初めて自分で買った詩集は、井上靖詩集だった。小学校5年生か6年生の頃だと思う。

頁を開いたとき、これは詩なの?というのが最初感想だった。普通に文章だったからだ。

調べてみると、井上靖の詩は、散文詩という形式らしい。なにが自分の知っている詩と違うのだろうというところで

「韻」という言葉もその時初めて知った。

井上靖詩集を手に取ったのは、国語教科書に載っている著者の本でなるべく読みやすそうなものを探したからだった。

というわけで、あすなろ物語のついでに手にしたのが、人生最初詩集だった。

小中学生の頃、国語の授業で、詩や短歌に少し関心をもった私は、韻を踏む、という作法が苦手だった。

季語などルールがあったり、韻で楽しめなければならない、みたいなもの短歌俳句だとすると、ちょっと縁がないなと。

特に覚えているのは、中学校の時習った在原業平短歌に、かきつばたを詠みこんだものがあるが、韻だけでなく、言葉ニュアンスにいろいろな仕掛けを作らないと詩として成立しないのかと思うと到底自分には向いてないジャンルだった。しかし、そうはいっても、短い言葉で何かを表現してみたいという思いは消えず、ひそかに詩集をつくって引き出しの奥底にいれていた。


井上靖の詩のなかに

幼少の頃、川辺の石段の下で手を洗っているとき不意に石鹸が手元を離れ、深みに落ちていったという情景の詩があった。その喪失感をその後の人生でも刻まれているという内容だった。これなら自分でも書けるかもしれない、と思った。

自分世界表現の仕方や詩の味わい方を学べたのも井上靖の詩の影響が大きかった。

例えば、雪という詩がある。


 ―― 雪が降って来た。

 ―― 鉛筆の字が濃くなった。

 こういう二行の少年の詩を読んだことがある。

 十何年も昔のこと、『キリン』という童詩雑誌

 みつけた詩だ。雪が降って来ると、

 私はいつもこの詩のことを思い出す。

 ああ、いま、小学校教室という教室で、

 子供たちの書く鉛筆の字が濃くなりつつあるのだ、と。

 この思いはちょっと類のないほど豊饒で冷厳だ。

 勤勉、真摯調和

 そんなものともどこかで関係を持っている。

井上靖詩集運河」より

中学生の私は、なるほどと思った。

詩というのは、雪が降って鉛筆の字が濃くなったという描写やその言葉なかにあるのではなくて、物語は書かれてない背景のなかにあるのだなと。

鉛筆の字という描写だけだったら、だから何?という感想しかない。しかし、鉛筆を持つ誰かの表情を想像し、その背景を想像して足してあげることで一枚の絵になる。

井上靖の次に手に取った詩集もよく覚えている。

武者小路実篤だった。やぱり散文詩だった。

当時、大好きだった先輩が「友情」を読んで感動したといっていたので、友情ともう一冊詩集を手に取った。その後しばらくして、私の失言が原因で先輩は私からフェイドアウトしていった(つまりフラれた)ので文学をダシに先輩と仲良くなろうという作戦は失敗した。しかし、武者小路実篤の詩はそんな私をなぐさめる言葉にあふれていた。

いじけて 他人にすかれるよりは 欠伸(あくび)して他人に嫌われる也 夏の日。 嫌う奴には嫌われて わかる人にはわかってもらえる 気らくさ。


ほどなくして、種田山頭火という自由律俳句というジャンルを知った。

山頭火面白い普通俳句じゃないところがいい。規律から解放されるってすばらしいことだと。

定型詩嫌いな私にとっては、ある意味で、俳句短歌エントリーポイントとなって、

新聞の俳壇や短歌欄に時々目をやるようになった。

いわばお勝手からこっそり入門したような形だ。

しか俳句は、季語の煩わしさにどうしてもなじめず、自分には遠い世界のままだった。

いつしか手にしていたのは、興津要解説する江戸川柳 誹風柳多留だった。古典落語にはまり始めた時期だった。

剣菱という酒を飲むことを江戸時代の人が剣菱る(けんびる)と言っていた、など、現代言語感覚と近い、興味深いことがいろいろと書かれていた。

エロい川柳結構好きだった。今でいうサブカルチャーだ。

その後は巴毎晩組み敷かれ

木曽義仲の元を離れ、和田義盛に見初められ身柄を預けられた巴御前、ネトラレ系の元祖ともいうべき味わい。思春期の私はこうした江戸時代川柳妄想たくましく想像し、手が動いた。五七五だったら、こっちの世界のほうが楽しい

一方、短歌のほうは、というと、当時の朝日歌壇は毎週とても楽しみにしていた。

俵万智サラダ記念日ベストセラーになったからというのとは全く関係なく、プロではなく、市井のいろいろな人が短歌を詠んでいるということが興味深かった。

例えば、こんな一首。

わが胸にリンチに死にし友らいて雪折れの枝叫び居るなり

あさま山荘事件を起こした連合赤軍幹部坂口弘収監中の東京拘置所から毎週のように短歌朝日歌壇投稿していた頃だ。

朝日歌壇では他にも穂村弘がいた。短歌表現する世界の幅広さを朝日歌壇で知った。

そして渡辺松男太田美和が常連投稿者として名を連ねていた。

風花って知っています

さよならも言わず別れた陸橋の上

渡辺松男太田美和は実社会で互いに関係があるわけではなく、それぞれの思いを歌に込めていたのだと思うけど、なぜか不思議と互いに呼応し合うものがあった。これは当時の歌壇リアルにみていた人にしかからないことだけど。雨の森や樹々など独特の世界観を表現する渡辺松男に対して、雨の日に部屋にこもれば憂鬱発酵すると詠んだりする太田美和。

生活で恋をしていた私は太田美和の言葉自分を重ね合わせた。


でもこのころが私の文学少女期のおわりだった。

大学卒業したものの、就職できずに苦しむ時期がやってきた。就職氷河期というやつだ。

生活が一変した。

書店で立ち寄るのは、奥の文庫コーナーではなく、店の前の新刊コーナーであり、資格取得のコーナーだった。

購読紙も朝日新聞から日経新聞に代わり、東洋経済となった。

世の中からどんどんと取り残されてゆく焦りでいっぱりになっていた。

山頭火武者小路実篤もへったくりもない、そんなことより面接資格だ!という日々。

就職が決まってからは、病気になったら人生終わりだし、干されたら終わり。もう一歩先に、もう一歩とただひたすら走り、走らされる人生が始まった。

たまに思い出しては、現代短歌最近の潮流を知りたくなって、枡野浩一の本を手に取ってみたりはしたものの、ピンとこなかった。

若い頃あれほど好きだった渡辺松男も改めて著作をみると作風が変わったのかと思うほど、何一つ言葉にくすぐられることなく、不感症になっていた。変わったのは自分のほうだ。


それから数十年、あるとき気が付くと、新しい家族が増え、家が建ち、旅行などしている。

そういえば何十年も詩や短歌を目にしていない。寺山修司の本は引っ越しのどさくさでどこかにいってしまっていた。

思春期のことを遠く思い出すようになった。実家の部屋の引き出しにはまだヘンな自作ポエム集が眠ってるはずだ・・。自分死ぬ前にはなんとしても奪取してこないといけない。

中年になっていいかげん自分限界を悟って、ふっと一息いれた、という形だ。

ふと思い出すのが、最初に買った井上靖詩集

 ―― 雪が降って来た。

 ―― 鉛筆の字が濃くなった。

この二行の子供の詩を、何十年も経って思い出す井上靖感覚がとてもよくわかるようになった。


これは人生の楽しみを食に見出して、ワインをたしなむようになってから思ったことでもある。

詩を楽しむということとワインを楽しむことには、ひとつ共通点がある。

どちらもウンチク語ってめんどくさい奴がいる、という意味じゃない。

鉛筆の字が濃くなる、という情景として、勤勉で真摯子供の姿を思い浮かべる、という

文として書かれていることと、書かれていない想像の背景の補完的な関係は、ワイン食事、一緒に食事するひととの関係によく似ている。

ワインの味や香りは、それだけで勿論、それぞれのワインに特徴があるし、品種ビンテージ気候土壌などさまざまな情報がある。

しかワインのおいしさを決めるのはそれだけではない。過去に飲んだ記憶とか、一緒に食べているもの、そしてそのとき話題、体調などに大きく左右される。

だって同じことで、喉が渇いているときの一杯と会議中にやり込められているときの一杯は全然違うはずだ。

マリアージュという言葉があるように、ワイン一種調味料として機能するため、食べ合わせ重要だ。

またワインプロファイル情報あるかないかも味を左右する。

ブラインドで呑むワインはどんな高級ワインだろうが、初見ワインしかない。ワインの特徴まではわかってもそこまでだ。

逆に偽の情報表現かに補完してしまえば、コンビニ販売しているワインを高級ワインと偽って出してもたいていの者には気が付かれないだろう。

ワインを色やら香り、余韻など物理的に因数分解した表現ができても、美味しさは客観的規律として表現することはできない。

詩も同じだと思う。規律ばかりを語るひとがあまりにも多い。本居宣長には悪いけれど、歌をつくるのは道だとしても楽しむのは道じゃないと思うんだよね。

井上靖が「小学校教室という教室で、子供たちの書く鉛筆の字が濃くなりつつあるのだ、と。この思いはちょっと類のないほど豊饒で冷厳だ。」というとき井上靖にとってその詩に初めて出会ってからの何十年間が効いてくる。井上靖は詩は規律ではなく、詩との出会い方だと教えてくれた人だ。

その情景を自分のなかでセットできるかどうかは、鑑賞眼の問題ではない。

どちらかというと、そのような情景がセットされてしまう、長年の思いの蓄積、その詩と出会ったときメンタル、いわば偶然の力だと思う。

渡辺松男太田美和が並んで歌壇掲載されていたあの空気感にしても、あのとき限りのものだったのだろう。

失恋をして武者小路実篤の詩に慰めれられた思い出もそう。まさに一期一会

先ほど、卒業してから詩どころではなくなったと書いた。

そのとき自分が置かれれる状況やそれまでの経験によっては、詩に対して、鈍感になることだってあるのだ。


ところで、先日、Yahoo芸能ニュースをみていたら、TBSプレバトというバラエティー番組で、俳句を競う企画があって、ある芸人俳句先生から5点と酷評されたと報じていた。

お題は「文房具」で彼女が読んだのは

消しゴムが 白き水面に ボウフラを

というもの。作者は「頑張って勉強して、消しゴムを何回も消すと、消しカスがたくさん出る。それが白いノートにたくさん積もっていると、ボウフラのように見えるという句です」と意味説明したものの、腹が立つ、とまで評者先生にののしられている。

ちょっと間抜けた感じはするものの、正直、なんでそこまで素人俳句酷評されなければならないか理解できなかった。だが、番組演出脚本としてはそれがオチなのだろう。

演出もさることながら、これは、他の出演者俳句が以下のようなものだったことも影響しているように思えた。

迎え梅雨 紙端に滲む 友の文字

虹の下 クレヨンの箱 踊り出す

天王山 黒ずむ袖に 薄暑光

薫風や 隣の君と 教科書

こんなふうに優等生を気取った俳句がずらりと来たら、それは「お約束」として、こき下ろすしかないのかもしれない。

バラエティー番組のなかで俳句を味わうということはつまり、こういうことなのだ。その芸人に対するイメージ作品クオリティが補完されてしまうのだ。

しかし、この句が仮にお笑い芸人ではなく、どこかの学校児童生徒が作ったものであったとしたらどうだろう。

消しゴムをかける姿は、情景としては授業中であることを示唆している。5月番組文房具からまだ気持ちフレッシュだ。だけどがんばろうという気持ちは長続きしない時期でもある。

ぼうふらにみえるほど消しゴムをかけるくらいだから、授業中、何度も消していて、その間、ノートをとる手が止まることになっただろう。

それでも授業はお構いなしに進んでいく。溜まってゆく消しごむのカスからは、授業についていく焦りとともに、生徒のひたむきさ、間違って消すことが多い生徒のどんくささも垣間見られる。

いかげん疲れたかもしれない。めんどくさいと思ったかもしれない。

一方で白い水面(ノート隠喩)は、清潔さや純粋さを象徴している。

ふと手を止めた瞬間に、そこにボウフラがいるようにみえた、というのは、一瞬立ち止まってボウフラ?などとくだらないことを想像してしまった自分の不純さや切れた集中力で抜けてしまった気力(投げ槍感)との鋭い対比となっている。

と、このように解釈すれば、俳句としてむしろ「ボウフラを」で間抜けた形で止めた意味が出てくる。そこから先は、苦笑いなのだ

ボウフラを季語と認めるかどうかはわからない。しかし、純粋に詩としてみれば、消しゴムとボウフラという組み合わせは非常にユニークだ。

また、どんくさいもの弱者がボウフラというノート上のより小さい存在視線フォーカスする、という手法小林一茶方法とも通じるところがある。

番組の評者は、この芸人俳句酷評したうえ、次のような添削をしたという。

しかすはボウフラみたい夏休み

夏休みかよ。口論の途中で勝手に話の前提を変えられたときのような不快感を覚える添削だった。消しかすって文房具じゃないし。

しかし、誰しも詩に対して鈍感になる、そういうことはある。端的にあれバラエティ番組からね。

ただ、私の場合、やっぱり俳句には縁遠いのだろうと思った。俳句がメインのカルチャーであろうとする、優等生を選ぼうとする、そのいやらしさも嫌だ。上品そうな季語を競うかのような世界一種ルッキズムだ。夏休みかいって勝手おめかしさせようとするんじゃねーよ。

そういうところがまさに、かつて私が川柳などのサブカルに引き寄せられるひとつ動機だった。ボウフラにシンパシーを感じる感受性は恐らくはかつて親しんでいた落語川柳で身につけたものだろうからゆりやん一句を悪くないと思うのは邪心かもしれない。そもそも番組ADがテキトーにつくりましたってオチかもしれないんだけどね。

300円でおいしく飲めるワインもあれば、駄作でも楽しめる作品もある。そういうことだと思う。

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