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ヒプノシスマイク、略してヒプマイ。多分はてなの皆さんでも名前くらいは知っているでしょう。
キングレコードが大々的に立ち上げ、リリース直後から人気爆発した二次元男性アイドルラッププロジェクトです。アイドルは最初は4グループ×3人で12名、その後2グループ追加されて16名です。
私のヒプマイについての知識は「女性だけが偉くて男性は奴隷兼肉バイブ扱いを受ける恐ろしい世界を打倒する物語だと謳うわりに実際のストーリー展開はそうなってない」と増田に書いてあったのを見て「ライター馬鹿すぎwwww」と思ったのを見て止まっていたのですが、最近ひとつの疑念がわきました。
ダンガンロンパシリーズはご存じでしょうか。シリーズ全体の国内売り上げが数十万程度のゲームで、一応メディアミックスでクソアニメもやっていましたが知名度はヒプマイに遠く及ばないだろうと思います。ヒプマイが出る頃にはもう女性人気は下火でした。
そんなダンガンロンパのキャラクター名をヒプマイが真似しているような気がするのです。
←左がダンロン 右がヒプマイ→
こんな偶然ある??
まあまあ珍しい苗字の入間、人名としてはそこそこレアな兎が偶然揃うとはちょっと思えないです。
ちなみに入間美兎はめちゃ下品な痴女発明家、入間銃兎は悪徳警官で性格も見た目も全然似てません。
単純にぱっと見で似てるというのもありますがもう一つ。
フィクションのキャラクターの名前は、苗字・下の名前・キャラクター性の3つが全て関連付けられていることがあります。セーラームーンの月野うさぎや幽白の浦飯幽助などが有名でしょう。
しかしダンガンロンパはキャラクターの苗字と下の名前、キャラクター性と名前にあまり関連がありません。切札勝利はいかにもカードゲームが強そうですが、小泉真昼がどんな人間なのかは知らなければわからないでしょう。(実は軽音学部の澪田唯吹のようにパロネタでがっつり関連性があるのは多いですがパロ元知らなければわかりません。アナグラムの人もセルフパロと捉えれば然り)
ヒプマイは苗字-キャラ性、名前-キャラ性はあっても3つ揃っているのは1人だけです。
その例外というのがマジシャンの夢野秘密子であり、ホラ吹き小説家の夢野幻太郎です。
性格と見た目は似てません。
(魔法使いサリーちゃんが夢野サリーだったのは知らなかったです)
山田一二三はステレオタイプなアキバ系オタクキャラで、山田三兄弟も全員がアニメ・ゲームのオタク。性格と見た目は似てません。
ちなみにヒプマイには伊弉冉一二三もいます。キャラはたった12名だったのに派手に漢字を被らせるとは珍しい。
ここまでで「たまたまじゃないの」と思った人も多いでしょう。
だいたいヒプマイがダンガンロンパのキャラ名を真似る商業的メリットがないです。
パルワールドがポケモンのキャラデザをパクるのは ”圧倒的知名度と好感度を借りる” & ”アイディア出しを楽に済ませる” の二兎をgetできるからですが、鳴り物入りの巨大プロジェクトが旬を過ぎた露悪厨二ゲームのキャラ名などパクったってどちらも叶いません。それも入間美兎や山田一二三(どちらも下品で気持ち悪く、それとは別に重大な問題点もあって嫌う人がそこそこ多いキャラ)を使って集客なんて気が狂っている。入間美兎、夢野秘密子、山田一二三のファンが名前被りキャラに流れてくることも考えられません。名前しか共通点ないんですから。
以上のことからキングレコードがダンガンロンパのキャラ名を真似る経営判断をするとは思えないので、あるとすれば誰か1人愉快犯がいたのでしょう。
ただ、ダンガンロンパには女性に人気が出たイケメン・美少年キャラもいます。
なによその読み!!
ヒプマイに変わった読みの名前は数あれど、ローマ字ですらない読みを当てているのは有栖川のみ。乱数と書いてらむだと読む人でもRamudaです。
王馬は女性人気の高いキャラで、ヒプマイリリースの頃だと恐らく女性ファン数がダンガンロンパシリーズ内で一番多いでしょう。
そしてこの王馬の設定がこちら→https://static.wikia.nocookie.net/danganronpa/images/4/49/NDRV3_Art_Gallery_Kokichi_Ouma.png/revision/latest?cb=20170927210800
.
https://images.app.goo.gl/E8axXWgbBGvJFgX97 (公式画像うまく貼れないのでこのURLです。申し訳ありません)
白いズボン、ふとももあたりから左右に伸びるベルト(名称がわからない)、紫の長髪、破れ加工の服、人を率いる立場(有栖川は未だ可能性止まりだが) などが王馬と共通しています。性格は似てません。
ちなみに有栖川には、緑のフード付きロングコート、胸元の赤いワンポイント、メタルチェーン、強運という特徴もあります。
…こうなると隣の飴村乱数が実年齢のわりにショタっぽい容姿で緑パーカ着てるのも怪しく思えてk
仮に本当にダンガンロンパから取っていたとしても怒りは少しだろうと感じています。なぜなら似ているのは名前やちょっとした特徴などキャラの魅力と直接関係ない部分ばかりだからです。言い方を変えると、ダンガンロンパから客を奪おうとする意志を感じません。性格くらい似せてもよかったのに似てないんですから。
ダンガンロンパは欧米ではなぜか日本国内の比でない人気があるのでもしや欧米人気を狙ったのかと少し思ったのですが、英語版表記だと苗字しか被ってないんですよね。海外の人はIrumaやYumenoという苗字は日本ではレアだから被りづらいということも知らないでしょうし。
全然関係ないですが王馬は公式でOmaというスペルなのにもかかわらず英語圏ファンコミュニティでは7割くらいOuma表記です。なんでや
ヤングジャンプで連載してる。
かなり楽しんで読んでる。
森山未來とは似ても似つかない善良な少年たるイチロー君の精神が崩壊していく物語がじっくり丹念に描かれてる。
その様子はあまりにも不憫で、そうなった根本の原因は彼の父緑川弘博士で「お前何考えてんねん」と噴飯すること受け合いである。
またオーグ達の「映画であんなんになる前の姿」も見れて面白い。
「政府の男」はまだ登場してない。
「最強陰陽師の異世界転生記」と「異世界陰陽師と十二天将の式神」を読んだ(陰陽師が好きだから)
ストーリーは似てるんだけども後者の主人公の自己顕示欲にびっくりしてしまった
前者は主人公がなるべく目立たないように陰でこそこそやるというコンセプトで
後者は堂々目立って俺TUEEE無双やりますというコンセプトだから
主人公の自己顕示欲強いのはしょうがないんだけど、1巻読んだ限りじゃ主人公の精神的成長が感じられなくて、ここからどうやって面白くしていくんだろう。ひたすら強敵を倒して俺TUEEE!!っていくのかな。タイトルからして主人公とそのしもべたちが無双して、気持ちよくなるっていう物語っぽいからな
前者は主人公の精神的成長もあって、仲間との絆も丁寧に描かれててストーリーも面白いのでおすすめ
俺TUEEEが人気なのはわかるけど、俺TUEEEだけじゃ私にはダメだ
ギャグが面白いとか主人公が成長するとかストーリーが面白くて驚かされるとか
俺TUEEE!!は好きなんだけど物語に深みがほしい
chatGPTに要約してもらった
3行まとめ
主人公の寅子は、特権的な環境で育ち、弁護士として性差別を克服する物語。
余計なセックスとかフラグ立てとか全部すっ飛ばしてトントン拍子にヒロインが救われるわけだよ。
泣きゲーなら50時間かかった話が10時間ぐらいで終わっていく。
余計な要素が少ないから気持ちの濃度が高いまま最後までいられるっていうかさ。
圧倒的に強いよ。
まあ、もともとセックス出来ることだけが強みだったのかも知れないんだけどさ。
いつからかその強みを自分から投げ捨てていったんだからさ、存在意義を失って当然なんだろうね。
エロゲはさ、セックスや凌辱と物語を丁寧に絡めないと駄目だな。
なんでそれを辞めちゃったんだろうね。
なんでそれをあんなに持ち上げたんだろうね。
全財産が50万しかない人から50万円盗んだら、命の価値は50万円になると思うよ。
物語のようにひとかけらのパンが命の価値になる場合だってある。
額面にはさほど意味はない
熱く語っているけど、今回に限らず、フェミニズム云々以前に日本のドラマは本当に苦手。
とにかく台詞回しがオーバーで嘘くさい。すぐ泣き喚いたり怒鳴ったりする人間が出てくる。40年生きているけど、ブラック企業の社長を除いて、記憶がない。
何か人生の決断をするときに、就活面接でもないのに、急にみんなの前で決意表明のような「演説」をはじめることも多いが、そんなの聞いたこともない。本当に見てられない。
1. 「ロード・オブ・ザ・リング」 - 一つの指輪
性能
持ち主を透明にし、他者の心を操る力を持つ。
その代償として、持ち主の精神を蝕み、闇の力に引き寄せる。
この指輪は絶対的な権力の象徴であり、権力が人を堕落させるというテーマを体現している。
持ち主の心の弱さや欲望を増幅させ、最終的には自己崩壊へと導く。
性能
未来や過去を映し出すことができるが、その映像は持ち主の心の状態に大きく左右される。
この鏡は、記憶や時間の流れを象徴し、持ち主の内面の真実を映し出す。
正しく使えば未来の選択肢を見定める助けになるが、心が乱れていると誤った映像を見せてしまうため、持ち主の精神的な安定が重要となる。
性能
持ち主の魔力を増幅し、自然界のエネルギーを操ることができる。
自然との調和を大切にし、力を乱用せず、知恵と慎重さを持って扱うことが求められる。
持ち主の心の成熟度が、杖の真の力を引き出す鍵となる。
性能
氷と雪を自在に操り、瞬時に人を石に変えることができる。
この杖は、冷酷さと権力の象徴であり、持ち主の心の冷たさや無情さを増幅させる。
その力を使うたびに持ち主の心も冷え、最終的には完全に孤立した存在となるリスクを伴う。
性能
時間を巻き戻したり、一時停止したりする力を持つが、その使用には高い代償が必要。
力を行使するたびに持ち主の寿命が縮むため、安易な使用は禁物。
過去への執着や未来への不安を乗り越えるための試練が含まれている。
6. 「エルリック・サーガ」 - ストームブリンガー(黒い剣)
性能
持ち主の体力と戦闘能力を極限まで引き上げ、敵の魂を吸収する。
この剣は、力と破壊の究極的な象徴であり、持ち主の精神を徐々に蝕む。
剣を振るうたびに魂を奪われ、次第に持ち主は自己を失い、剣そのものに支配される運命を背負う。
性能
持ち主に瞬間移動の能力を与えるが、その過度の使用は精神的・肉体的に大きな負担となる。
この短剣は、自由と逃避の象徴であり、持ち主に無限の選択肢を提供する。
しかし、逃げることの代償として精神と体力が削られ、最終的には逃避できない現実に直面する必要がある。
これらのアイテムは、持ち主の内面の葛藤や成長、試練を象徴する存在であり、それぞれの物語に深いテーマを提供する重要な要素となっている。
なぜなら主人公は「ひたすら恵まれている」ハイポジションリベラル女子」だから。日頃から女はズルいと怒り呆れがちな人たちが真っ先に鼻で笑うタイプの恵まれた女だから。
ドラマの主人公の寅子は、投資銀行に勤める父と良妻賢母の母という大正~昭和初期のアッパークラスの、それもリベラル色の強い理解あるご家庭に生まれて、その潤沢な社会資本を余すことなく享受して弁護士の道を自由に邁進している。そして勉強大好きで周囲が態度を変えるほど頭が良く生まれついてもいる。そして子供のころから正義感がある。家柄が良くまっすぐ育った明るい優等生。
大学に行っても目立つタイプ、拗らせミソジニーを発動する拗らせエリートの同級生男子が、いつの間にかそのまっすぐな人柄にやられて好意を抱いたりする程度にはモテる。
寅子の家には、父が面倒を見ている司法試験合格を目指す書生がいて(アッパークラスのご家庭ならでは)この書生とも「私たち同じ道を進む仲間よね」という異性友達ムーブをぶちかましているが、書生は寅子に片思いである。そしてこの書生よりも寅子の方が圧倒的学力がある。要するに立場的にも、恋愛的にも経済的にも非対称性が生じている年上の男性を寅子は「異性の友人」として遇している。中々のタマである。
寅子は、前述した好意を抱かれていた拗らせエリートに「彼女に結婚してくれとはいえない、彼女の夢を奪うことになるから」と思われて振られてしまうのだが、それまでどっちつかずの態度だったくせにいざ振られるとショックを受けたりするし、せっかく弁護士になったのに依頼が来ないのは私が結婚していない(社会的信用がない)からだ、と思いつき慌てて縁談を探してもらうがうまく行かない。そりゃそうだ。
ところが助け舟で、寅子に片思いしていた家の書生から結婚をしたいと言われる。渡りに船と逃げ恥のような「条件偽結婚」だと思い込みスピード結婚を承諾するが、前述のとおり書生は寅子に片思いしていたわけで、初夜にぬいペニ状態となる。かわいそうな仲野太賀…。
と、寅子の痛さを中心に4月にドラマが始まって今日までの1カ月半を振り返った。フェミニスト嫌いの諸氏や、女はずるいと常々思っている諸氏が叩き放題の「豊かさという下駄を履いて産まれた恵まれた女様」それが寅子である。伊藤沙莉が演じていなかったら大変なことになっていたと思う。
「虎と翼」は、現代の問題を昭和初期の物語に練り込んでいる疑似歴史感が臭うドラマだが、一方でモデルになっている三淵嘉子は実在の人で、ドラマにおける寅子のキャリアや背景はモデルのそれをなぞっている。恵まれたリベラルな家に生まれて弁護士になり、戦争の時代に突入し、色々あって戦後は日本初の裁判官になるスーパーウーマンである。
ドラマの寅子も恵まれた家に生まれ、厳然とした性差別がある世界を、明るく、元気に、強気に突き進んでいく。そして突き進む中で彼女は、自分が周囲と比べ恵まれていること、「自由に選択ができるという」下駄を履いて生まれてきたことを徐々に自覚していく。
寅子が持って生まれた豊かな資源は、裏返せば、女に人権がなかった時代には、ここまで特権的に恵まれてなければ法曹界で働く道を切り拓くことができなかった、ということの証左だ。そしてこれを現在に照らせば、形式上は男女平等になった現在の女は寅子に比べれば矜持や頑張りが足りない、という振り返りもできるし、現在でもまだまだ形式的にしか男女の機会平等は達成されていないよなと振り返ることもできる(医大の入試における性差別不正はつい最近の出来事だが、あの時は差別だと批判する意見と、女はズルいから消耗が強い診療科を選ばないため合理的配慮だという意見に二分されていた)。
これは、女性に人権がなかった頃を引き摺って今も残る男性優位の古い価値観を、改めてマーカーでなぞっていく作業であり、同時に現代の女が抱える特権性の問題も照らし出す作業でもある。
そしてドラマの中では、現代にもしっかり残っている、個人の幸福を削るような価値観を改めて再発見することになる。
「結婚しなければ社会的信用が得られない」、「エリート男が生きていくには従順に従う女が必要」、「女の弁護士なんて信用できない」、「自分より優秀な女は生意気で目障りだ」、「適齢期を過ぎると縁談がない」、「人は生まれた国や家や身分に縛られる」、「平等を求める声は不平等の利益を享受する側には届かない」、「上品な批判は下品な妬みには勝てない」、「お金がないと社会的意義の高い仕事につけない」などなど。昨日どこかのSNSでだれかがぼやいていそうな内容である。
これらは女だけではなく、男も同様に削られる呪いの価値観である。学友たちはこの呪いの価値観によって法曹界で働くという夢を立たれていき、寅子は弱い立場に置かれた人を助けたいという正義の実践に加えて、諦めなくてはならなかった仲間への思いを「使命」として背負う人生を選ぶことになる。
不平等と戦うに十分な恵まれた武器を持って生まれて、更に先駆者の使命を背負った寅子は、おそらく来週からの戦争ターンではどんどん「恵まれていたもの」を奪われていくことになるのだと思う。世紀の愚戦・負け戦の太平洋戦争ってそういうものだったから。男は戦争に行くし残った老人や女子供は空爆にさらされる。男も女も人がたくさん死に経済活動は退潮する。
その時でも寅子は「正義」と「使命」をもって生きていくのだろうと思う。モデルの三淵さんは生き残ったし、何しろドラマの主人公なので正義や使命は捨てないだろう笑。
たくさんのものを奪われてなお「正義」と「使命」を失わない女がどんな生き方をするのかのドラマを私はとても楽しみにしている。
そして、形式上の機会が平等になった世界で、これまでずっと恵まれていたはずのものをどんどん奪われ不満が溜まっている人たち、「女は狡い」、「現代の女は特権階級だ」と思っている人こそ、奪われても正義と使命を捨てなかった人のドラマを見てほしいと思う。
フェミニズムドラマくっさー、と思う人も多かろうが、お勧めしたいのには、単純にドラマとして良くできているのもある。
寅子は「戦う女戦士」みたいな感じではまったくなく、前述通りそこそこの空気読めないわがままな、脇の甘い生き方をしていて、いちいちナレーションに突っ込まれている。ナレーションは尾野真千子で、芝居がかったナレーションだがコメディの良い味付けになっている。
寅子の両親や兄夫婦は明治の家族観(男が働き女は家を守る)できわめて円満な夫婦関係に描かれている。一方で嫁姑のちょっとしたストレスも描かれたり。父は帝人事件(疑獄事件)の当事者になり、リベラルなエリートの父親が会社での立場に縛られる姿をシリアスに描いてもいる。
また、法曹界への女性の進出を後押しする立場であるリベラル派の教授や弁護士がしっかりと性差別をしていてフェミニズムにおける父権の問題を提示していたりもして、本当に痒い所にまで手に届く配慮がされている。セリフやシーンの伏線もとても豊かでドラマとして見ていて普通に面白い。出演者はみな手練れの俳優だらけで演技へのストレスはほぼない。
フェミニズムドラマとしての側面については、あまりブコメが集まっていなかったがこの記事の分析がとても分かり易かったhttps://bunshun.jp/articles/-/70764 これ読むと「女のためだけのドラマ」じゃないことがよくわかると思う。
ところで最後に全然話は変わるのだが、昭和初期というのは実はWWIIをジャンプして戦後と地続きになっていたかなり民主的かつ退廃的な時代だったらしい。「富国強兵」を叫んで強国を目指していた大日本帝国から現代にいたるGDPの推計推移をみると「戦争が無かったらこのグラフの線が素直に上がっていたのではないだろうか」と感じさせるラインが描かれる(https://www.nippon.com/ja/in-depth/a04003/ 中ほどのグラフ)。まあ実際は戦争しないと色々糞づまっていたわけで後付けの皮算用でしかないが。
ともかく、人が自由を求めそして退廃を享受できる程度の十分な豊かさが生まれていたのが大正末期から昭和初期の時代。ちょうど朝ドラで描かれているこの時代は、結構現代に近い時代だったりもする。
しかし、このニッポンドットコムは笹川財団由来のかなり右寄りの情報サイトなのだが、それでも「高度成長期のストックは90年代で尽きてその後の策がねえぞ」という分析になっているのが、ちょっとだけ面白いですね。
ゲームの話しかも今ハマっているスプラトゥーン3のログインボーナスも忘れてしまうほど夢中な
あれ結局誰が誰に怒っているお話なの?って考察しまくっていたんだけど
なんだ!あれ全部ゲーム内のメニューで見られるキャラクター情報に全部書いてあるじゃん!
アダムおまえか!って
良い意味で白けちゃったわ。
良い意味でよ。
それ書いて欲しくなかったなぁって思うのが正直なところでもあるし、
謎が解けてスッキリとしたというか。
思わず東洋新聞デスクの田良島さんにこれどういうことなんですか!?って問い詰めたいぐらいよ。
まあ『ステラーブレイド』やってないひとからみたらお尻のことしか話題になってないから、
中身のストーリーのことなんて一体何のことを言っているのか?って申し訳ないんだけど、
謎が謎を呼ぶままでもよかったのに。
でも結果的にそうであっただけであって、
もちろん本編ではそれを匂わせる会話やそう言うのはいっぱいあるから、
気付くっちゃー気付くと思うんだけど。
あまりにストレートにゲーム画面メニュー開いてのデータバンクのキャラクター図鑑に載っていたのが潔すぎるわ。
つーかさ!
じゃ逆にこのキャラクター図鑑って誰目線のそのステージから言ってる言葉なの?って
いわゆる天の声的に、
物語のナレーターみたいなゲーム中には登場ありえないそんな人物が
そうねストーリーテーラーと言ってもいいぐらいなタモリさん的な。
私が『ステラーブレイド』を1周目クリアしてぜんぜん整合性のない物語についていろいろと考察しまくりまくりまくりすてぃーの時間を返して!って言わないけれど絶対にそれなんて槇原敬之さん?って言わないけど、
イヴのお尻だけじゃなかったわ。
ちぐはぐなのよね謎をまとうようにストーリーは。
とは言え、
私は絶賛いま2周目周回中の楽しくゲームを繰り広げているんだけど。
ストーリーのその壮絶なデータバンク内キャラクター図鑑での中でのネタバレはよそに
どんどんカッコよく待って戦うイヴがカッコいいのには変わりないので、
お尻に釣られてそのゲーム買っても充分良いと思うのよね。
でも、
でも!
そんで次のステージに行ってしまってストーリーを進めてしまうと
平場のサブクエストとかできるフィールドには戻れなくなるからなおのさら次に進めたくないのよね。
そんで進めてサクッともうクリアして
早くも3周目!ってそこで遊べば!とも思うけど、
遊ぶ上で贅沢な悩みよね。
ただ私は楽しかった整合性のないストーリーの考察が楽しめないつーかそのゲーム内メニューでたどって見られるデータバンクのキャラクターのアダムの項目のところで全部謎が解き明かされていたので、
どうせ有耶無耶なら最後まで有耶無耶のままにでもよかったかもね。
かもねかもねそうかもね!そう思う次第よ。
でもこのストーリーの考察にはある程度のピリオドは打てたと思うので、
いやさらにこのストーリーの話のツッコミどころを探すべくピリオドの向こうへまだ行ける余地はあるので、
そこの深掘りっぷりを楽しむしかないわね!って思うわ。
あと地味に釣り!
これ釣りゲー?って思うぐらい釣りも一所懸命やんなくちゃいけないサブクエストもあるから
ゲーム内の釣りの魚図鑑を完成させるのも私の新たなるゲーム内の目的なのよ。
ポケモンには一切興味なくやる気も湧かなく結局「ポケモンアルセウス」の楽しみ方がゲットしても何が面白いのかよく私にとっては響かなかったけれど、
釣りで釣ったことのない魚を釣り上げて早く魚図鑑を完成させたいものよ!
もーこんな魚釣る?ってぐらい魚なのよ。
うふふ。
そのまま商店街、
みかんの花咲く丘公園前駅の商店街の喫茶店だけど和食モーニングもやっているところで朝食よ。
鯖でした。
鯖多くね?って感じのここんところずーっと鯖率高しなのよ。
鯖大杉漣!って感じ。
美味しいから良いんだけれどね!
激安炭酸水よりも、
あれ?こっちの方が美味しいのかも?って気付いた
そんなことに分かり始めたマイレボシューションね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
『ヴィンランド・サガ』のアシェラッド。これからクヌート王子の国盗り物語が始まるかとおもったらそれをバッサリ捨てちゃった。まあ「トルフィンがヴィンランドを目指す物語」なんだから仕方ないのだが…
好きなジャンルは不倫温泉旅行なんだけど、素人モノだとしてもやっぱりそういう物語として作られたもの
自分がやってしまったこと(例えそれがわずかなものでも)が確実に原因で起きてしまった不幸と、まったく自分に原因のない不幸とではどちらがより耐えがたいものだろうか。
前者は「あのとき自分がこうしていなかったら…」というような激しい後悔に苛まれるだろうし、後者は そのことの理不尽さの前でおのれの無力さをおもいしることだろう。
さて、その選択はとりあえず個人の手に委ねることにして、最初の問いの「不幸」を「恐怖」と置き換えてみよう。
[A]その人自身に起こるべくして起きた恐怖
と
[B]全く原因不明の恐怖
どちらがより怖いか。まあケースバイケースというか結局はその状況に立たされなければ答えは出ないだろうが話を続ける。
[A]の原因というのを、過去にはたらいた明らかに人道に反する行為、とより狭義のものとし、 それ以外を後者にいれるとすれば、一般的に「ホラー映画」と呼ばれているものはほぼ全てが後者を扱ったものだといえよう。
原因が呪いのヴィデオテープを見たということにしろ遺伝子操作に失敗して前代未聞のウィルスに感染してしまったことにしろそれらはとくに人道に反するというほどものではなく、せいぜい無根拠な禁忌を犯したという程度だ。
そして観客はその恐怖を、襲われている者に 感情移入/同化してともに味わい、それから逃れるとホッとして、それからまたそいつに襲われて……、 で最終的には原因が解き明かされるなり逃げ切るなりで幕は下りる。作る側も、いかに観客を引き込ませるかを意図して作っているし、そこで描かれる恐怖というのはあくまで襲われる側から見たものだ。
ところで、[A]の恐怖を描いた映画がいまやほとんどないのは、非のある者がこうむる恐怖を因果応報・当然のものとしてみなし逆に追いつめていく方が主人公として描かれているからである。
すなわち正当な復讐をする勧善懲悪の物語となってしまう。当然それは「恐怖= 襲われる側への感情移入により抱くもの」の図式が成り立たないのは言うまでもない。
では[A]の恐怖が恐怖映画として成立する場合とはどのようなものであるか。
それは、執行される復讐方法が観客に感情移入など到底させないほどおぞましいものであるときである。
観客を思考停止に陥れさせるほどの残酷なもの。このとき、その恐怖はまさに恐怖そのものとしてスクリーンに映し出される。
黒沢清監督作品『蛇の道』(1998年)はこのような映画である。
いや、これだけではこの作品を ひどく矮小化していることになる。
この作品の恐怖は、あるひとつの極点に立ってしまった人間がとってしまう行為の目をそむけずにはいられないような醜悪さが、これでもかこれでもかと露呈されていくことにある。
かといってそれは単に悪趣味とかたづけられるような類いのものでは断じてない。
それが、紛れもなく人間の性質によるので、恐怖を通り越してとにかく正視しがたいのだ。
それでもひとはこの映画を見るというほとんど拷問のような行為をやめようとしないのは、その恐怖の果てにも救いがあるはずだと信じているからにほかならないのだが……。
この映画での哀川はほぼ、人間の醜悪さを次々と 引き出す媒体として存在している。またその媒体としての仕事ぶりの的確さは、この世界の物理学的法則を解明していく学習塾でのもうひとつの姿とも重なり、存在論的に否定しがたいものとなるのだ。 あえて例えるならばこの作品での哀川の存在は、ルー・リードの声の響きのようだ。優しさ/慈悲深さと、 その奥にある圧倒的強度をほこる底無しの得体の知れなさ、そしてかなり強引なのにもかかわらず 抗いきれない魅惑にも似た正しさ(のようなもの)を備えている。
いや、やはりできるだけ見ないほうがよい。レンタルビデオ屋のやくざものコーナーに、絶対的「大凶」としてなにげなく陳列されているのが、 この作品の存在としてしごくふさわしいものだとおもわれる。
(2024年5月付記:リメイク版公開の報に触れ、四半世紀前にこのような文章をひっそり公開していたのを思い出したのでまたひっそりと匿名公開させていただきました。ニュアンスを変えない程度に改行等いじりましたが、死語である「ヴィデオ」」」云々の最終2行は削れませんでした。)
純朴で優しそうな、見た感じ20歳前後の少年がパチンコ(リゼロ)を打っていた。
強い演出が来るたびにスマホを構えて動画を撮っているので、きっと初心者だろう。
しばらくして当たって、3000発を取ったが駆け抜けしそうになった。
残り5回転で3000発が当たって、少年は胸に手を当てて鼓動を抑えるほどびっくりしていた。
その気持ちよさはきっと、これから一生、少なくともあと数年はパチンコにハマらせるのに十分な刺激だろう。
20代前半の時間をそれに使えば、あとは暗闇に向かって進むだけだ。
外れても当たるまでやる、当たっても外れるまでやる。そのサイクルで得た金はそのサイクルでしか使わないだろう。
ただ失った時間は戻ってこない。けど、20歳そこそこの人間にとって、大金はたいて欲しいものなんてそんなにない。
親に恩返しをする幸せ、
やりたいことを見つけて、それを通して多くの人を助ける幸せ、
この趣味とは言えない行為を続ける限り、自分は知らず知らずのうちに多くの幸せを失うことになる。
それでもこの世界はゲームじゃないから、クリア目標はないし、あるべきものもないべきものもない。
自分らしい、まぁこんなもんでしょ、これでいいでしょ、などいくらでも言える。
いくらでも落ちることができる。
この世界にゲームやアニメは溢れていて、やり直しが効いたり、強制的にハッピーエンドになったり、
主人公である自分が最終的に誰よりも優れた存在になるような物語がたくさんある。
今からでもいい。というか、今しかない。みんな平等に今からしかできない。
自分の全てを受け入れて、認めて、自分が幸せになるために行動していく。
がんばれ自分
ここって本当にすごいよな
自分の人生をここまできちんと語れて、物語性もあって、読ませる文章
みんなイベント多くて羨ましい
そこまで起伏のある人生送ってないのが悲しい
私の両親は放任主義であったので、私は色んな物語の背中を追って成長した。家にある本を対象年齢などお構いなしに片っ端から読んでいたので早いうちからどうやら人間は必ず死ぬらしいということを知った。事故、病、それらに気をつけたところで寿命というので死ぬらしい。幼い私の狭い世界の中では老人といえば父方の祖母と母方の祖父母であった。当時の私は血縁関係など知らず、やたら会う回数が多くて、やたら親しげに話しかけてくる親ではない人間、その程度の認識だったが、それでもこの人たちはもう間もなく死ぬのだと思うと堪らなく悲しくて、祖父母宅に泊まり眠る時の「おやすみ」や、帰宅する際の「さよなら」で別れを強く意識してしまい泣くことがよくあった。
しかしその三名の間というのは私が思ったよりも用意されており、私が初めに対面した死は保育園の友人のものだった。友人と言っても同い年ではなく、私がそう認識しているだけだった給食調理員の女性で、友人と思っていたために意識していなかったが彼女も今考えれば当時の祖母たちとそう変わらない年齢だったように思う。
礼儀作法を知らないので何度も何度も棺の中を覗きに行っては泣いた。いくら泣いたところで目を閉じた彼女が横たわっているだけで何も変わらなかった。
二度目は小学校の2〜3年生の頃、またもや勝手に友人扱いしていた女性の教頭先生だった。
学校の体育館で行われたお別れの会で大きな額縁に入った彼女の写真を見た。遺体があるわけではないので前のように泣きはしなかった。ただ、急だなと思った。
三度目は飼っていた猫だった。私が生まれるより前から家にいた猫の女の子ししまる。
母が譲り受けて、初めは家の中で放し飼いされていたらしいが兄が生まれた時にケージに入れられるようになり、それからは基本ケージの中がししまるの全てになった。
私は私たちのせいで自由を奪われることになったししまるへの罪悪感からあまり積極的に関わろうとはしなかった。
高校の帰り道、同級生数人の本当に心底どうでもいい話に付き合っている最中に母からメールでししまるの危篤が知らされた。どうしてか、私はどうでも良い話を切り上げず最後まで聞いて家に帰った。ししまるは冷たくなっていた。21〜2歳だったと思う。
なぜすぐに帰るという選択をしなかったのか、あんな会話よりもずっと大切な存在だったのに。
私よりも悲しんでいるに違いない母の前で泣くのは躊躇われて、やり場のない怒りと悲しみを階段に座ってやり過ごした。
数年後、くだらない話をしていた内の一人が飼っている猫がもう亡くなるかもしれないというLINEがきた。たしかに写真や映像でうんざりするほど見せられていたが、私はいつも適当に聞き流していたのでどんな猫だったかはこれっぽっちも覚えていなかった。そんな猫が死ぬかもしれないと聞かされたところで正直どうしたものか反応に困ったが、眼前に迫った愛猫の死に動揺して私という藁にまですがる様子に「本当に大切ならこうなるはずだ、お前はどうだった」と問われているような感じがして口の中が苦くなった。
四度目は父方の祖母が亡くなった。同じ家に住んではいたものの特に交流はなく、幼い頃から苦手な祖母だった。
祖母の部屋はニ階にあり、私の部屋は一階にある。あの日、夜、二階の台所で飲み物を手に入れて自室に帰るという時、祖母の部屋からガタッと物音がして「部屋から出てくるかも」と思い微かに開いた扉を横目に逃げるように階段を降りた。少し経ってから帰宅した兄が「婆ちゃんが倒れている」と家中に知らせて、部屋の中で固まる父、父の代わりに各所へ連絡を取る母、救急車やパトカーの音、集まってくる従姉妹たち、その全てを私は凪いだ目で見ていた。
父方の祖母は以前に一度死にかけたことがあり、救ったのは家の鍵を忘れた中学生の頃の私だった。
私は幼い頃から忘れ物常習犯であり、家の周りに民家がないのをいい事に家の前で欲しいものを大声で伝えて家の中にいる人間に取ってもらうというのをよくやっていた。
その日も帰宅したら玄関には鍵がかかっており、また、私は鍵を持っていなかったため外から「鍵開けて」と何度も繰り返し叫んだ。かなり長い間何も反応がなく、どこかに出かけているのかもしれない、帰ってくるまで玄関先で座って待っていようかと思い始めた頃、ようやく階段を降りる音が聞こえてきた。玄関の扉が開いて真っ先に伝えられたのが「病院に連絡して」だった。
諸々が終わった後で聞くには、どうやら意識を失っており、私の声で戻ってきたとの事だった。
以降、祖母はこの話を何度も繰り返しては私に感謝した。「綺麗な真っ赤な空間にいたらあんたの声が聞こえた、だから私は助かった、ありがとう」と。顔を合わせるたびに話されるので話すのをやめるようお願いしたほどだった。
死にかけた祖母はその後何もなかったように生き続け、恐らくボケて、兄と揉めることが多くなった。兄が言うには包丁を持ち出してくることもあったらしいが、 真偽は分からない。
そんな揉め事が起こるたびに私は「あの日、私の帰りがもっと遅ければ」「私が早々に呼びかけを諦めていたら」などと思ったのだ。
ガタッと物音がした時に私が様子を確かめていたら、祖母はまた帰ってきたのだろうか。祖母はあの日のように真っ赤な空間で私の声を待っていたんじゃないだろうか。あんなに嫌っていた祖母である。「あの時死んでいればこんな問題起きなかったな」とさえ思ったことがある祖母である。
そんな祖母の葬式で私は涙をなかなか止められなかった。悲しむ資格も道理もないのにどうして涙が止まらないのか不思議で自分に腹が立ってしょうがなかった。
祖母が亡くなってから父はよく兄妹たちを家に呼び、兄妹たちも呼びかけに応じて気軽に集まる。父も兄妹たちも祖母が生きていた時はそんなことしなかったのに。
五度目はまだ起きていない。
母方の祖母は癌治療中で、祖父はボケが始まっているがまだまだ元気にやっている。出来る限り健康で長く生きてほしい。
いつか絶対に五度目がくる。
何度経験しても慣れない死を悲しんだり、悲しんだふりをしていることに気づけないでいたりを繰り返しながら自分の番を待つ。
みんな死んでほしくないな、死にたくないな。