はてなキーワード: 旅行とは
道路の脇にペンキを塗っただけの自転車専用レーンでさ、自転車で走ってる時に路上駐車があると
というプロセスを踏むのだけど、車がよく通る道路だと車が来ないタイミングが来ないんだわ
来ないってことはないけど、発進速度とか考慮するとタイミングが来るのに、運が悪いと5分とか10分とかかかる
マジでかかる
しょうがないから歩道に上がって、自転車を持ち上げて歩道を歩いて転がし、再び車道に降りて走行を再開する
疲れる、マジで疲れる
交通状況をみてダメそうなら歩道を走ればいいじゃんと言われるかも知らんが、まかり間違って弁解させられる事態になったら自分の状況判断なんてアテにならんのですよ
思うにさ、路上駐車取締員(通称:緑のおっさん)とか眠たいことやってないで、今はみんなカメラの付いたスマホを持ってるんだからナンバープレートを写真に撮って送ってもらえばいいんだよな
車のメリットは駅からのルートを気にしないでいいとか概ね天候に左右されないで移動できるとか色々あるけど、俺が思うに、自家用車の最大のメリットは「移動式プライベートスペース」であることなんだよ。
体温調節のための上着やら読みかけのマンガやら折り畳みじゃない傘やら防災グッズやらベビーカーやら、ちょっとしたものからもしものときの備えまで入れておくロッカーになる。
イヤホンせずにYoutubeを観ようがデカい声で通話しようが誰も咎めない。
赤ん坊が金切り声上げて泣いてても肩身の狭い思いをせずにすむ。ヤニカスなら移動式喫煙所にもなるな。
この魅力が都会の人たちになぜ刺さらないのかがわかんないんだよな。若い頃から電車にギュウギュウ詰めになって移動するのがもはや当たり前だからなのか?
逆に車移動に慣れてる俺からすると通勤電車なんて正気の沙汰じゃねえと思ってしまう。自分の半径2m以内に知らん人がいることにストレス感じない?
そりゃはてなーは都会人が多そうだから渋滞やら駐車場代やらで自家用車の利便性が活かしきれないんだろうなってのは想像つくよ。
よく「車は維持費が高い」って聞くが、中古屋で5,60万も出せばそれなりにまともなのが見つかる(逆に軽のほうが中古車は高いんだよな)。
高速とか使ってガンガン遠出する奴は知らんが、通勤や買物の足として使うだけで、コンパクトカーなら駐車場代差っ引いた年間維持費20~40万くらいだろ。
まあガチの都心だと駐車場代が頭おかしい金額になるからそうもいかないとは思うが……。この増田じゃないが俺が住んでるのも月5万あれば2LDKに余裕で住める地方都市だからな。駐車場代はタダ笑
仰ることは尤もだとも思うんだが、人間死ぬときゃ死ぬんだから気にしすぎてもしゃーない。
なるべく事故を起こさない、巻き込まれないように安全運転して、あとは天命に任せようぜ。
まあこれは高校卒業した18歳の女の子から80過ぎの爺さんまでみんなハンドル握ってる町で暮らしてる人間の価値観なんだろうな。
つっても俺は車の機械的魅力は一切興味ないからどの車種がかっこいいとかパーツ交換しようとかは全然興味ないんだ。ただただ移動の足として好きなだけ。
通勤電車なんて正気の沙汰じゃねえとか書いといてなんだが、別に都会VS田舎で対立煽りがしたいわけじゃないんだ。いやマジで。
ただ「地方転勤になったけど東京と違いすぎる!周りになんにもない!」みたいなのたまに見て、そりゃ車移動が前提なんだから当たり前だよな~って思うんだ。
よっぽどの山奥じゃなきゃまあそれなりに小洒落た居酒屋も商業施設も銀行も病院もどっかにあるよ。徒歩じゃいけない距離にあるだけで。
でもたとえば東京で電車乗ったり歩いたりするのと車移動とじゃ総移動時間はたいして変わんないと思うんだよなあ。
これは俺だけかもしれんけど、車移動って小旅行でもなきゃだいたい10~20分くらいで30分以上だとそこそこ大移動って感覚だよ。
なにが言いたいのかとっ散らかってしまってあれだが、まあなんだ、車も結構良いもんだよってこと。
所有するのも手放すのももっと気軽に考えようぜ。
好きなジャンルは不倫温泉旅行なんだけど、素人モノだとしてもやっぱりそういう物語として作られたもの
これから夫婦ふたりで旅行とかしながらゆっくり年を取っていきたい。
で、子育てで気づいたんだけど、やっぱり生まれ持ったものって親はどうしようもない。
長男には期待して私立中学に行かせたんだけど、結局大学行かずに就職してしまった。
三男は中間といったところだ。
次男は放置してしまったことも多いのだけど、勝手に勉強して勝手に国立大学に入った。
三男が一番手がかかってない。けど結果的に健康的でバランスが良く育ったのは三男。
親がどれだけ「こうなってほしい」といってもそうはならない。
3人育ててようやく分かったよ。
月収35万〜50万
社保完備
土日祝休み
未経験歓迎
追記-----
年1回昇給あり
年2回賞与あり
やで
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自動化・省力化って
現状人が増えれば現場が増えてそれだけ儲かる
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最近は(少なくともうちは)
怒鳴ったり殴ったりする先輩はいないし、
追記ここまで-----
ほとんど応募が無い
鳶職。
やっぱり危険、汚い、怖いのか。
https://www.jprime.jp/articles/-/31948?display=b
売春の取り締まりが厳しくなったアメリカでは、売春を疑われた20代から30代の単身旅行の日本人女性が、空港内で足止めをされることが増えている。
こういう頭も股も緩いバカ女のせいでまともな女性が割を食っているのに、日本はまともな女性が旅行ができるように助けることもせず、むしろバカ女の方を「困難女性」と称して保護しようとしている。何でだよ。
マッチングアプリやってるとめちゃくちゃ普通の男の人をちらほら見かけてこっちが落ち込むときがある
いかにも彼女探してます!的なちょっとチャラい感じの人たちの中に、
見た目も趣味も性格も本当に普通の、そのへんに歩いてそうな人がいる
機会があれば普通に恋人できそうなのに、タイミングがないんだろうな 本人がちょっとだけ奥手なのかもしれない
いい年して大学生みたいな写真載せてる軽薄そうな男が何千件もいいねされてるのに真面目に働いててスポーツ結構好きです☺旅行とかゲームも好きです☺みたいな普通の男の人があんまりいいねされてないの納得いかない
私が女だから女性側のプロフィール見れないんだけど、これって性別逆でもそうなのかな
ああ!はあ!ああ!はあ!ああ!はあ!ああ!はあ!ああ!はあ!ああ!はあ!ああ!はあ!
80年経っても銅像が残ってる⁈⁈⁈⁈⁈
はぁっ!!!あっ!!!はぁっ!!!あっ!!!はぁっ!!!あっ!!!はぁっ!!!あっ!!!はぁっ!!!あっ!!!はぁっ!!!あっ!!!はぁっ!!!あっ!!!はぁっ!!!あっ!!!はぁっ!!!あっ!!!はぁっ!!!あっ!!!はぁっ!!!あっ!!!はぁっ!!!あっ!!!はぁっ!!!あっ!!!はぁっ!!!あっ!!!はぁっ!!!あっ!!!はぁっ!!!あっ!!!
今から同期で一番早く課長になって部長や区長になって局長になって!!!!!
定年後も市政に影響するような男になれたとしても!!!!!!!!!!!
俺の親父だって俺と同じ顔で背も低い高卒郵便局員!!!!!!!
現代に生まれていたら結婚も不可能だったに決まっている!!!!!!!!
現代の結婚には性格や学歴や収入と同様に顔や身長が不可欠だから!!!!!!!!
子供がいなくともその名が残るニュートンのように!!!!!!!!!!!!!!!!
大学生の時に社会に出られず何も成し遂げられず白血病で死んだ従兄のように!!!!!!
郵便局を定年退職した後に毎日ボケっと刑事ドラマ観て病気でポックリ死んだ親父のように!!!!!
ぼく「どうしたら今死んでも後悔しないような偉業を成し遂げて、後世に名前を残し人生の生きた証を残せますか?」
大馬鹿クソボケ発達「良い焼肉を食べて旅行に行って良い温泉につかりな。幸せになれるから」
友人と良い焼肉食って旅行行って温泉浸かったら!!!!!!!!!
今末期癌を宣告されても!!!!!
「我が生涯にいっぺんの悔いなし!」って言って!!!!
その場で自害できるような人生のモニュメントを築けるか!!!!!!
消えたくない!!!!
残れ!!!!!
ヒンメル!!!!
立派な像が立つ!!!!!
なりたくない!!!!!
消えたくない!!!!!
人生は虚しい。
写真を整理していた。
夫の顔が見たくなると写真の整理のつもりでカメラロールをぼんやり眺めたりしている。スマホとは別に昔使っていたコンデジがあって、そっちの画像はそういえばしばらく見ていなかったなと思って開いてみた。
夫の調子が良かった頃はよく旅行に行っていたので、旅行先の写真が多い。ふたりとも働いていて子どももいなかったので国内外いろんなところに行った。記念写真風に撮ってる写真や風景の写真の中に、必ず私が撮った夫の後ろ姿の写真がある。後ろ姿も好きだった。小さな頭に、細身な割には大きな背中、長い手足、何を着ていても画になる人だった。こんなにかっこいい人が私といっしょにいるのだ、と確かめるように後ろ姿を写真に収めていたんだと思う。
旅行写真の合間に、家の居間で私と夫が写っている写真があった。テーブルに膝をついてカメラの方を見る私と、隣で大笑顔の夫。テーブルにはビール。ふたりとも部屋着のなんてことない写真。撮影者はおそらく義母。コンデジを貸す時に、使い方を教えて練習で撮った写真だと思う。ピントも甘いし少しブレてる。
俺は田舎暮らしでお金もたいして持ってなくて非正規な高齢童貞おぢだからハマる環境にはなくて助かってるけど、条件がそろえばきっと大金を貢ぐおぢになってたと思う
給料は他に使う予定もないので家に入れるのと、ある程度溜まったら親と一緒に年に1回は旅行してる
親はもう母親しかいないし唯一の身内でもあるので俺は完全なテイカーに意識的に振る舞ってる
りりちゃんが動いてる様子はユーチューブにあるので前に見たことがあってそん時は所作言動が全部嫌悪感しかなかったけどマニュアルを見ると多分僕向けに最適化された行動をしてくるだろうから多分完全に100パー速攻で落ちると思った
でも結局そういうことなんよね
電車で15分や30分で国立の博物館や科学館や美術館に行けて、本物を見る機会に恵まれて、休みの日は旅行してスポーツして、そういう刺激の種類が多い子供時代を過ごすことが後々有利になるんだよな。
行ったこともない九州を聞きかじった知識で未開の地扱いして死んでも行きたくないとゴネるような気の狂った都心育ちしか観測されんあたり
最近まさに九州の西部を旅行してきて、感じたことがあって、それまでは地方の自民党支持ってなんか野蛮だなって感じてたけど、自分は全然見えてなかったんだなって思った。
道路が綺麗とかでこぼこで汚いとか場所ごとにはっきりと分かれていて、綺麗なトンネルを走ったら安心するとか真っ暗で古いトンネルだと心配だなっていう感覚に「あ、これはハードを求めるな」って思ってしまった。
今までソフトの面で人間が洗練されなくては良い暮らしができないって信じていたけど、毎日そういうハードの不平等さを目の当たりにしていたり、人口が減って若い人もいなくなって、という地域だったら、ソフトがどうとか、格差をどうとか言ってる場合じゃないというか、そういう気にならないだろうなって思った。
新しくてデカくて綺麗な建物があったら、観光客も「おっ」って思ってしまうし、地元の人だったら尚更そういうものを作って活気づけたいって思うんだろうなって感じた。
だから一番良いのは、東京も地方も整備に不平等や不均衡がなくなって、なおかつ東京一極集中が解消されたらいいとは思うけど、「暮らしたい」なおかつ「より良い暮らしをしたい」となんとなく考えている人たちの方が圧倒的な資本主義社会では実現が難しそうだなって考えた。
寂しいね
身内の顔ですら覚えられず、相手から声を掛けて貰えないと二度と相手を見つけることができない深刻なものから、
身内の顔はなんとなく覚えられて、気合いを入れたら短時間なら同僚の顔を覚えていられるものまで、様々である
生まれつき以外にも、脳卒中や事故なので、後天的に相貌失認になることもある模様
自分は比較的軽度の相貌失認で、家族の顔をだいたいなら認識出来てるし、気合い入れれば短時間なら同僚の顔を覚えていられる
けど近年は在宅勤務だから、顔合わせることないから忘れるんだよね、完全に
mtgは必ずカメラONな某外資みたいな文化ならなんとかなったかもだが、なんかOFFが多いのよな・・・帯域食うから
同僚だけでなく、親戚の顔も覚えていられないし、親族の顔すら覚えていられない・家族もだいたいなので、一緒に旅行に行った友人くらいじゃあ覚えていられるわけがない
と言うか自分の顔も覚えていない。つくべきところに目鼻口がつき、顔に傷がないことに感謝すべきだと思っているし、感謝しているが、あんまり興味がない
こんな感じなので、生まれてこのかた、芸能人にも、身近な人にも、推しはいない。だってみんな見分けつかないから
あと、誰かと一緒にいないと孤独がどうのこうのとか言うのもない
セクシャルマイノリティって少数派だからマイノリティーなのに、なぜかネットにゴロゴロ、特に同人界隈にゴロゴロいる
2.5次元とか声優とかその他芸能人の推し活はしたいからなんですかね?あるいはブス不細工なあたち!をやりたいからなんだろうか?
旅行先の街で窃盗犯見たら通報する 物を盗まれた人が困るだろうし、盗みを働く犯罪者は罰せられるべきだから
それと同じことだと思っているが、まあ良心とかないタイプなんだろうな増田は
部屋から出ずに引きこもって働いたり人と交流したりせずに、生活保護もらって部屋で漫画だけ読むだけして生きてて欲しい 世界のために
もう人生の折り返し点をすぎて久しい。目を通す文字は、仕事の書類ばかりとなった昨今。
でも小学校高学年から中学生にかけての頃に、文学少女に憧れた時期があった。
書店の奥のほうにいっては新潮文庫コーナーで、適当に数冊手に取っては解説に目を通したりしていた。
生まれて初めて自分で買った詩集は、井上靖の詩集だった。小学校5年生か6年生の頃だと思う。
頁を開いたとき、これは詩なの?というのが最初の感想だった。普通に文章だったからだ。
調べてみると、井上靖の詩は、散文詩という形式らしい。なにが自分の知っている詩と違うのだろうというところで
「韻」という言葉もその時初めて知った。
井上靖の詩集を手に取ったのは、国語の教科書に載っている著者の本でなるべく読みやすそうなものを探したからだった。
というわけで、あすなろ物語のついでに手にしたのが、人生最初の詩集だった。
小中学生の頃、国語の授業で、詩や短歌に少し関心をもった私は、韻を踏む、という作法が苦手だった。
季語などルールがあったり、韻で楽しめなければならない、みたいなものが短歌や俳句だとすると、ちょっと縁がないなと。
特に覚えているのは、中学校の時習った在原業平の短歌に、かきつばたを詠みこんだものがあるが、韻だけでなく、言葉のニュアンスにいろいろな仕掛けを作らないと詩として成立しないのかと思うと到底自分には向いてないジャンルだった。しかし、そうはいっても、短い言葉で何かを表現してみたいという思いは消えず、ひそかに詩集をつくって引き出しの奥底にいれていた。
幼少の頃、川辺の石段の下で手を洗っているとき不意に石鹸が手元を離れ、深みに落ちていったという情景の詩があった。その喪失感をその後の人生でも刻まれているという内容だった。これなら自分でも書けるかもしれない、と思った。
自分の世界の表現の仕方や詩の味わい方を学べたのも井上靖の詩の影響が大きかった。
例えば、雪という詩がある。
雪
―― 雪が降って来た。
―― 鉛筆の字が濃くなった。
こういう二行の少年の詩を読んだことがある。
みつけた詩だ。雪が降って来ると、
私はいつもこの詩のことを思い出す。
中学生の私は、なるほどと思った。
詩というのは、雪が降って鉛筆の字が濃くなったという描写やその言葉のなかにあるのではなくて、物語は書かれてない背景のなかにあるのだなと。
鉛筆の字という描写だけだったら、だから何?という感想しかない。しかし、鉛筆を持つ誰かの表情を想像し、その背景を想像して足してあげることで一枚の絵になる。
当時、大好きだった先輩が「友情」を読んで感動したといっていたので、友情ともう一冊詩集を手に取った。その後しばらくして、私の失言が原因で先輩は私からフェイドアウトしていった(つまりフラれた)ので文学をダシに先輩と仲良くなろうという作戦は失敗した。しかし、武者小路実篤の詩はそんな私をなぐさめる言葉にあふれていた。
いじけて 他人にすかれるよりは 欠伸(あくび)して他人に嫌われる也 夏の日。 嫌う奴には嫌われて わかる人にはわかってもらえる 気らくさ。
ほどなくして、種田山頭火という自由律俳句というジャンルを知った。
山頭火は面白い。普通の俳句じゃないところがいい。規律から解放されるってすばらしいことだと。
定型詩嫌いな私にとっては、ある意味で、俳句短歌のエントリーポイントとなって、
しかし俳句は、季語の煩わしさにどうしてもなじめず、自分には遠い世界のままだった。
いつしか手にしていたのは、興津要の解説する江戸川柳 誹風柳多留だった。古典落語にはまり始めた時期だった。
剣菱という酒を飲むことを江戸時代の人が剣菱る(けんびる)と言っていた、など、現代の言語感覚と近い、興味深いことがいろいろと書かれていた。
その後は巴毎晩組み敷かれ
木曽義仲の元を離れ、和田義盛に見初められ身柄を預けられた巴御前、ネトラレ系の元祖ともいうべき味わい。思春期の私はこうした江戸時代の川柳で妄想たくましく想像し、手が動いた。五七五だったら、こっちの世界のほうが楽しい。
一方、短歌のほうは、というと、当時の朝日歌壇は毎週とても楽しみにしていた。
俵万智のサラダ記念日がベストセラーになったからというのとは全く関係なく、プロではなく、市井のいろいろな人が短歌を詠んでいるということが興味深かった。
例えば、こんな一首。
あさま山荘事件を起こした連合赤軍の幹部、坂口弘が収監中の東京拘置所から毎週のように短歌を朝日歌壇に投稿していた頃だ。
朝日歌壇では他にも穂村弘がいた。短歌の表現する世界の幅広さを朝日歌壇で知った。
風花って知っていますか
渡辺松男と太田美和は実社会で互いに関係があるわけではなく、それぞれの思いを歌に込めていたのだと思うけど、なぜか不思議と互いに呼応し合うものがあった。これは当時の歌壇をリアルにみていた人にしかわからないことだけど。雨の森や樹々など独特の世界観を表現する渡辺松男に対して、雨の日に部屋にこもれば憂鬱が発酵すると詠んだりする太田美和。
実生活で恋をしていた私は太田美和の言葉に自分を重ね合わせた。
でもこのころが私の文学少女期のおわりだった。
大学を卒業したものの、就職できずに苦しむ時期がやってきた。就職氷河期というやつだ。
生活が一変した。
書店で立ち寄るのは、奥の文庫コーナーではなく、店の前の新刊コーナーであり、資格取得のコーナーだった。
世の中からどんどんと取り残されてゆく焦りでいっぱりになっていた。
山頭火も武者小路実篤もへったくりもない、そんなことより面接と資格だ!という日々。
就職が決まってからは、病気になったら人生終わりだし、干されたら終わり。もう一歩先に、もう一歩とただひたすら走り、走らされる人生が始まった。
たまに思い出しては、現代短歌の最近の潮流を知りたくなって、枡野浩一の本を手に取ってみたりはしたものの、ピンとこなかった。
若い頃あれほど好きだった渡辺松男も改めて著作をみると作風が変わったのかと思うほど、何一つ言葉にくすぐられることなく、不感症になっていた。変わったのは自分のほうだ。
それから数十年、あるとき気が付くと、新しい家族が増え、家が建ち、旅行などしている。
そういえば何十年も詩や短歌を目にしていない。寺山修司の本は引っ越しのどさくさでどこかにいってしまっていた。
思春期のことを遠く思い出すようになった。実家の部屋の引き出しにはまだヘンな自作ポエム集が眠ってるはずだ・・。自分が死ぬ前にはなんとしても奪取してこないといけない。
中年になっていいかげん自分の限界を悟って、ふっと一息いれた、という形だ。
―― 雪が降って来た。
―― 鉛筆の字が濃くなった。
この二行の子供の詩を、何十年も経って思い出す井上靖の感覚がとてもよくわかるようになった。
これは人生の楽しみを食に見出して、ワインをたしなむようになってから思ったことでもある。
詩を楽しむということとワインを楽しむことには、ひとつ共通点がある。
どちらもウンチク語ってめんどくさい奴がいる、という意味じゃない。
鉛筆の字が濃くなる、という情景として、勤勉で真摯な子供の姿を思い浮かべる、という
文として書かれていることと、書かれていない想像の背景の補完的な関係は、ワインと食事、一緒に食事するひととの関係によく似ている。
ワインの味や香りは、それだけで勿論、それぞれのワインに特徴があるし、品種やビンテージ、気候土壌などさまざまな情報がある。
しかしワインのおいしさを決めるのはそれだけではない。過去に飲んだ記憶とか、一緒に食べているもの、そしてそのときの話題、体調などに大きく左右される。
水だって同じことで、喉が渇いているときの一杯と会議中にやり込められているときの一杯は全然違うはずだ。
マリアージュという言葉があるように、ワインは一種の調味料として機能するため、食べ合わせは重要だ。
ブラインドで呑むワインはどんな高級ワインだろうが、初見のワインでしかない。ワインの特徴まではわかってもそこまでだ。
逆に偽の情報を表現豊かに補完してしまえば、コンビニで販売しているワインを高級ワインと偽って出してもたいていの者には気が付かれないだろう。
ワインを色やら香り、余韻など物理的に因数分解した表現ができても、美味しさは客観的な規律として表現することはできない。
詩も同じだと思う。規律ばかりを語るひとがあまりにも多い。本居宣長には悪いけれど、歌をつくるのは道だとしても楽しむのは道じゃないと思うんだよね。
井上靖が「小学校の教室という教室で、子供たちの書く鉛筆の字が濃くなりつつあるのだ、と。この思いはちょっと類のないほど豊饒で冷厳だ。」というとき、井上靖にとってその詩に初めて出会ってからの何十年間が効いてくる。井上靖は詩は規律ではなく、詩との出会い方だと教えてくれた人だ。
その情景を自分のなかでセットできるかどうかは、鑑賞眼の問題ではない。
どちらかというと、そのような情景がセットされてしまう、長年の思いの蓄積、その詩と出会ったときのメンタル、いわば偶然の力だと思う。
渡辺松男と太田美和が並んで歌壇に掲載されていたあの空気感にしても、あのとき限りのものだったのだろう。
失恋をして武者小路実篤の詩に慰めれられた思い出もそう。まさに一期一会。
そのときに自分が置かれれる状況やそれまでの経験によっては、詩に対して、鈍感になることだってあるのだ。
ところで、先日、Yahooの芸能ニュースをみていたら、TBSのプレバトというバラエティー番組で、俳句を競う企画があって、ある芸人が俳句の先生から5点と酷評されたと報じていた。
消しゴムが 白き水面に ボウフラを
というもの。作者は「頑張って勉強して、消しゴムを何回も消すと、消しカスがたくさん出る。それが白いノートにたくさん積もっていると、ボウフラのように見えるという句です」と意味を説明したものの、腹が立つ、とまで評者先生にののしられている。
ちょっと間抜けた感じはするものの、正直、なんでそこまで素人の俳句が酷評されなければならないか理解できなかった。だが、番組の演出・脚本としてはそれがオチなのだろう。
演出もさることながら、これは、他の出演者の俳句が以下のようなものだったことも影響しているように思えた。
虹の下 クレヨンの箱 踊り出す
天王山 黒ずむ袖に 薄暑光
薫風や 隣の君と 教科書を
こんなふうに優等生を気取った俳句がずらりと来たら、それは「お約束」として、こき下ろすしかないのかもしれない。
バラエティー番組のなかで俳句を味わうということはつまり、こういうことなのだ。その芸人に対するイメージで作品のクオリティが補完されてしまうのだ。
しかし、この句が仮にお笑い芸人ではなく、どこかの学校の児童生徒が作ったものであったとしたらどうだろう。
消しゴムをかける姿は、情景としては授業中であることを示唆している。5月の番組で文房具だからまだ気持ちはフレッシュだ。だけどがんばろうという気持ちは長続きしない時期でもある。
ぼうふらにみえるほど消しゴムをかけるくらいだから、授業中、何度も消していて、その間、ノートをとる手が止まることになっただろう。
それでも授業はお構いなしに進んでいく。溜まってゆく消しごむのカスからは、授業についていく焦りとともに、生徒のひたむきさ、間違って消すことが多い生徒のどんくささも垣間見られる。
いいかげん疲れたかもしれない。めんどくさいと思ったかもしれない。
一方で白い水面(ノートの隠喩)は、清潔さや純粋さを象徴している。
ふと手を止めた瞬間に、そこにボウフラがいるようにみえた、というのは、一瞬立ち止まってボウフラ?などとくだらないことを想像してしまった自分の不純さや切れた集中力で抜けてしまった気力(投げ槍感)との鋭い対比となっている。
と、このように解釈すれば、俳句としてむしろ「ボウフラを」で間抜けた形で止めた意味が出てくる。そこから先は、苦笑いなのだ。
ボウフラを季語と認めるかどうかはわからない。しかし、純粋に詩としてみれば、消しゴムとボウフラという組み合わせは非常にユニークだ。
また、どんくさいもの、弱者がボウフラというノート上のより小さい存在に視線をフォーカスする、という手法は小林一茶の方法とも通じるところがある。
番組の評者は、この芸人の俳句を酷評したうえ、次のような添削をしたという。
夏休みかよ。口論の途中で勝手に話の前提を変えられたときのような不快感を覚える添削だった。消しかすって文房具じゃないし。
しかし、誰しも詩に対して鈍感になる、そういうことはある。端的にあれバラエティ番組だからね。
ただ、私の場合、やっぱり俳句には縁遠いのだろうと思った。俳句がメインのカルチャーであろうとする、優等生を選ぼうとする、そのいやらしさも嫌だ。上品そうな季語を競うかのような世界は一種のルッキズムだ。夏休みとかいって勝手におめかしさせようとするんじゃねーよ。
そういうところがまさに、かつて私が川柳などのサブカルに引き寄せられるひとつの動機だった。ボウフラにシンパシーを感じる感受性は恐らくはかつて親しんでいた落語や川柳で身につけたものだろうから、ゆりやんの一句を悪くないと思うのは邪心かもしれない。そもそも番組ADがテキトーにつくりましたってオチかもしれないんだけどね。